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 ルナーが帰っていった後。ネラの足は、王衛隊の屯所に向かっていた。前回は道の途中でとんでもないトラブルに遭い、辿り着くことさえできなかった。

 手にはもう杖を持っていない。バーを出て数分歩き、乗合馬車に乗る。移り変わる窓の外を眺めながら、のんびりと時間を過ごした。

 街路樹の新緑が眩しい。春が過ぎ去り、初夏が訪れる気配がする。

 王衛隊が駐留している屯所は、質素なモダン調の三階建ての建物だった。敷地が広く、修練場からは剣の稽古をする音が聞こえている。王都には立派な本拠地があるが、地方の派遣先はこんなものだろう。

 背の高い門を潜って建物に入り、王衛隊の隊服を着た若い青年にフレイダとの面会を求めた。応接室で待たされること十分。重厚な扉が開かれ、フレイダが入ってきた。

「こんにちは。急に訪ねて来られるなんて、どうされたんですか?」

 漆黒の髪に、エメラルド色の瞳。
 すっと通った鼻梁に、薄い唇。それから陶器のように滑らかな肌。

 どこか女性的で、甘い顔立ちをした美男子だった。白を基調とした王衛隊の隊服がよく似合う。王衛隊を除き、普通の警察組織は白の服を着ることが認められていない。王に仕えるエリートだけが許された高貴な装いだ。

「はじめまして。フレイダ様」

(ようやくちゃんとお会いできたような気がする)

 最初に出た言葉は、「はじめまして」だった。やっぱり姿を見て話すのと声だけでは全然違う。フレイダは、ネラと視線がかち合っていることに気づいて驚いていた。

「ネラさん、まさか目が、見えて……おられるのですか……?」
「はい」

 そっと頷くと、彼は泣きそうな顔を浮かべてこちらに歩いてきた。ソファに座るネラの前に跪き顔を見上げる。そして、手を胸に当てて社交的な礼を執った。この挨拶は、騎士が仕える主に行うものだ。

「はじめまして、ネラさん。フレイダ・ラインです」

 両手を伸ばして、遠慮がちに彼の頬を包み込んだ。

(……綺麗な人)

 自分のために泣いてくれているフレイダ。その涙を親指の腹で丁寧に拭ってやる。

「もっと……よく見せてください。あなたのお姿を」
「いくらでも」

 顔を近づけて、少しずつ視線を動かして彼の姿を確かめる。宝石のように煌めく瞳も、薄くて形の良い唇も、何もかも彫刻みたいだ。頭の中でイメージしていた姿の何倍も素敵に見えた。取りこぼすことのないように、左目に焼き付ける。

 ルナーに治してもらった経緯を話すと、聖女がいた時代を実際に生きていたフレイダは、すんなり納得してくれた。

「さすがは治癒の聖女というところですね」
「ええ。まさか失った視力も回復させてしまうほどの力だとは」

 フレイダの話によると、全盛期の聖女は、死者を甦らせることもできたとか。

 フレイダの姿を改めて見て、夢で会っていたミハイルを思い出した。今と同じ顔で、今と同じ優しい目をアストレアに向けていた。

「私には……あなたが慕っていたアストレアの記憶はありません。それでも、私でいいのですか?」
「何をおっしゃいますか。俺はネラ・ボワサルという女性として生きるあなたをお慕いしております。何度生まれ変わっても、あなたが好きです。優しくて不器用なあなたを放っておけないんです」

 そう言って甘い笑顔を浮かべる彼。フレイダといると、いつも守ってもらっているような感覚がする。思い出せないだけで、前世からずっと守られていたのだと思う。

 裏切りの聖女の孤独を支えたのは彼で、家族と婚約者に捨てられて傷ついた心を癒してくれたのも彼だ。

「それに……ネラさんにアストレアの記憶がなくてよかったのかもしれません」
「どうしてですか?」
「傷ついた過去まで思い出してしまうことになりますから」

 アストレアは裏切り者として非難され、憎まれた。思い出せば辛くなるかもしれない。それでも、前世のフレイダのことを忘れてしまったのは少し惜しく思う。それを伝えると、彼は「これから沢山、幸せな思い出を作りましょう」と前向きに答えた。

 フレイダはネラの横に並んで腰を下ろした。店に来たときと同じように、たわいもない話をして。けれど、今日は彼の笑顔を見ることができている。なんて幸せな時間なんだろう。

 話が途切れたころ、ネラはおもむろに言った。

「この商都リデューエルから東に行った国境付近の街、ラザムにクリストハルト様は恐らく潜伏しています」
「…………」

 逃亡したクリストハルトの行方。王衛隊は血眼になってその行方を調査していたが、未だに見つかっていない。

 フレイダは一度もネラに占ってほしいと依頼してこなかった。相手が元婚約者だから、差し出させるのは酷だと思い聞いてこなかったのだろう。

「あなたは相変わらず……実直な人だ」

 ネラは、元婚約者を売った自分に対して、自嘲気味に言った。

「薄情な女だと思いますか?」
「いいえ。どのようなところも全部大好きです」

 正直すぎる自分の性格はあまり好きではなかったが、この人が好きだと言ってくれるなら、案外悪くないのかもと思えた。

「ありがとうございます、フレイダ様。前向きな気持ちにさせてくれて、いつも感謝しています」
「……!」

 にこりと微笑みかけると、彼は何かと戦うようななんとも形容しがたい顔を浮かべ、口元を手で隠して「参ったな……」と零した。

「あの……ネラさん」
「なんでしょうか」

 こちらを振り向いた彼が、神妙な面持ちで告げてきた。

「抱き締めても……いいでしょうか」
「いいですよ」
「はいありがとうございま――って、えっ」

 自分からお願いしておいて、びっくりして目を丸めている。ネラはくすっと笑い、両腕を広げた。

「どうぞ」
「…………」

 険しすぎる表情でしばらく逡巡した後、彼はこちらにそっと体を近づけた。

「し、失礼します」

 そんな挨拶をされてから、腕を背中に回され、抱き寄せられる。

「ふわっ……ふ」

 感激のあまり変な声を出すフレイダ。それは聞かなかったことにして、ネラも彼の大きな背中に腕を回して抱擁を堪能した。誰かに抱きしめてもらうのが、こんなにも心地よいものとは知らなかった。

「ネラさんが好きすぎて困る……」 
「知ってます。私も好きです」
「追い打ちかけないでください心臓が持ちません」

 緊張しているのか彼の手が震えているのが目に留まる。二人は抱き合いながら、一緒になって笑った。


 ◇◇◇


 その日の夜。
 またアストレアの夢を見た。いつもなら暗い血の海の中にいて、フレイダの腕の中で絶命するシーンのはずだが、今日は花畑の中にいた。

「アストレア……さん?」

 自分と瓜二つの容姿で、白いローブにサークレットを着けた女に話しかける。

 彼女は頷いた。

「ミハイルにもう一度出会ってくれてありがとう。私の唯一の心残りは、あの人だった」

 アストレアはこちらに光の塊を差し出した。

「これを受け取ってほしいの。私にとってもあなたにとっても、とても大切なものだから」

 ネラは躊躇わずにその光の塊に手を伸ばした。その刹那、眩い光の粒が離散して目を眇める。

 光を受け取った瞬間、全身にびりびりと稲妻が走る気がした。
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