形而上の愛

羽衣石ゐお

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茉莉花に名を添えて

一 邂逅

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 ◇
 薄暗闇の山道は朝靄が雪みたく積もっていて、櫛比した梢のぽつりぽつりと色づいた葉が、夜露に鈍く照っている。あたりはずっと冷え込んでいた。ある明け方のことであった。長身痩躯の男はいつもの二時間も早くに目が覚めて、結瀬山へ散歩に来ていた。あと一週間ほどもすれば、ずっとここら一体は明るくなるだろうか、いや、それにしては日の入る隙間が足らないのではないか、と予想を立てていた。
 木々の間隙から覗く小さな空は、まだ藍色の残っているものだったが、その端には薄花色が、その縁には桃色が混じっていた。あたかもパステルで塗ったような、淡い中間色であった。
 ふと、彼は目を伏せた。鼻から大きく空気を取り込んだ。鼻腔でも刺されたようで、涙が滲んだ。青くさい雨のにおいがした。そして目を開けてゆっくり息を吐くと、白くたなびき、靄に紛れた。立ち止まると、全身から熱が奪われていくのがよくわかった。
 すると彼はそれを酷く恐れて、遁走したのだった。
 
 
 走り続けていると、ひらけた場所に出た。ブナの林立に囲われていた。まるでここら一体の木々だけを円柱型に抜き取ったかのようだった。そしてその同心には一軒の四阿が建っていた。以前に男が通い詰めていたものに比べれば酷く簡素なもので、泥に塗れた石畳の上に置かれた腰掛のつくる三角と、その屋根を覆うように生す苔があるばかりであった。
 ――しかし今時は、それに限った話ではなかった。
 きちんと揃えられた一足のオックスフォード・シューズと、ひとつの人の影とがあった。それは腰掛に身を縮めて、横たわっていた。彼は歩み寄ってみると、それは、ベージュのトレンチコートに包まっていて、襟元からは深淵のように黒い髪の毛が飛び出していた。コートは細く丸みを帯びて張り出していた。――すると、ふいにそれが動いた。小さく唸りをあげながら、身を捩らせ、遂に起き上がろうとして――
「――さむっ」
 再び倒れた。女のものであった。先程よりも身を曲げて寒さから逃れようとするも、眠気に負けて、ずり落ちたコートを引き寄せることをしなかったから、ワイシャツを包む紺色のカーディガンの肩口が寒そうだった。いったいどんな顔をして寝ているのだろうという好奇心は、あたら周囲の暗さに隠されてしまっていた。その輪郭は美術品のように美しかった。
「おい、君。こんなところで寝ていては、風邪をひいてしまうよ」
 それに返事はなかった。表情から聞こえているのかも判断することは敵わなかった。だが、なにか言おうとしたのか、口元からは細く息が漏れていた。

 その時だった。
 閃光があった。

 雷でも落ちたのかと男は思った。
 光があたり一面を縁取った。彼は思わず瞼を落とした。

 ――――男が再び瞼を持ち上げた時、目の前は燃えていた。

 男の心臓が飛び跳ねた。死んでしまうとまで思った。
 けれどもそれは杞憂に過ぎなかった。
 あたりの高木を嘗める猛火が、静か過ぎるのだ。己の胸の高鳴りと、小鳥の囀りと、女の欠伸とが良く響いていた。
 男は声のほうへ目を向けた。ベージュのコートからだった。
 女はまた起き上がった。そして大きく伸びをして、ゆっくりと腕を下ろし、腿に手を重ねて置いた。女もまた朱かった、否、朱の光の中に居た。ずっと続く闇のように黒かった髪は、顎の高さまでに切りそろえられていて、茶とも褐色とも取れないぐらいに明るかった。瞼の降りていた瞳は猛火を灯らせ、柔らかな表情を伝えているのは、大きくて黒目がちな奥二重であった。唇は薄かった。鼻も小さくて可愛らしかった。日本人らしい古風な顔立ちであった。そしてふと、彼は胸の内を再び強く締め付けられた。「……おはよう」そう彼女が掠れた声をかけるまで、男は固まっていた。
「お、おはよう。寒くはないかね」
 彼が冷静沈着に言葉を口にすることができた頃、あたりの炎は勢いを崩していた。


 そしてふたりは、たくさんの黄色と、少しの緑の混じるブナ林の中の、その眩しい朝焼けの中に、邂逅したのである。


「う、寒い……」
「ほら、温かい珈琲だ。飲むと良い」
「砂糖あるかな。ぼく苦いの苦手なんだ」
「嫌いなら我慢するしかない、手元にはブラックしかないのだよ」
「……嫌い、じゃない。苦手、なんだ。だから頂戴」
 そして紙容器で暖を取るように両手で受け取り、湯気の立ちのぼるリッドに口をつけた。
 苦い苦い苦い! とでも言うように、顔を顰め、涙を朝日に煌めかせた彼女は、ふふっ、と無理矢理に笑んでみせると、靨が浮かんだ。遠い目をしていた。そして鈴を人差し指でつつきでもしたような声で、

「美味しいよ、ありがとう」
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