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形而上の愛
エピローグ2
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〇
「ああ、やっとテスト全部終わったなあ!」
「ね。エアコンがまさか壊れて、三十度の中で物理を受けることになるなんて……」
「加点してもらわないと気が済まないね、これは」
「――うわあ、外あちい。今日は最高気温が三十九度。全国で一番高いらしいぜ」
「新潟のくせに……。昔は夏でも三十度いかなかったらしいよ」
「そうなのかね……。にしたって、暑すぎる」
「……とか言って、お前の服装が暑そうなんだよ。ワイシャツに長ズボンに革靴って……。確かにその焦げ茶の革靴格好いいけ……」
「……暑くない」
「あ?」
「暖かいのだよ」
〇
ある晴天の日、早百合の見舞いへ行く前に、私は四阿へと訪れていた。
新潟で晴天というのは極めて稀なのである。年間で二十五日もないらしい。雲がない、というだけで、新潟県民の私には、この新緑に囲まれた空気が特段澄んでいるように感じられた。
四阿の腰掛から立ち上がり、日向に鬱々として出ると、けたたましい羽音を耳にした。
「熊蜂かね……!」
私は、あたりをホバリングするその熊蜂に怯んで、草むらに倒れ込んだ。
やがて熊蜂は四阿の柱に止まった。顔が黄色い……、オスではないか。雄の熊蜂は刺さない。幼年期はむしはかせになるのが夢であったから、こういうのには異様に詳しいのだった。
そして、その幼年期の姿を懐古すると、ふとひとつの情景が過った。
――大丈夫。大丈夫。じっとしてれば、大丈夫だよ。
そう言いつつも、なにかに震え慄く少女を、あっけらかんとした阿呆面でただ見つめていた。
それは、斜陽に塗られた彼女を、麦わら帽子を目深に被った彼女を、からかわれてムキになる彼女を、アイスコーヒーをちびちび啜る彼女を、私の吐いた虚言に涙を流す彼女を、欠落した私の記憶を取り戻そうと躍起になる彼女を、慣れない下駄で懸命に走る彼女を、そしてなによりも純粋な彼女を見据えるときの、私の阿呆面にとても良く似ていた。
彼女の豊かな感情の起伏を顧みて、たった今脳から全身を蝕みつつあるこの感動は。これは。
「結ちゃんとの……思い出、なのかね」
彼女の長い睫毛は――そうだ、彼女が熊蜂を怖がっていたときに、私が宥めている傍で濡れていた睫毛だ。
彼女の華奢な御身は、そのときに抱きとめた嫋やかな身体だ。
幾度となくその優美さに見惚れた亜麻色の髪は、そのときに怯えていた彼女を慰めるために撫でた艶やかなものだ。
雪でさえもくすませてしまうような白い肌は、緋色のおんぼろ傘に良く映えていた。
宝石のように玲瓏な双眸は、虚言を吐いてばかりの私をいつでも正直にさせた。
そしてあの滂沱の涙に歪めた顔を――私はあの花火大会で最後に見たのだ。
「遊んで、喋って、祭りに行って、花火を見て、たった二日間というあまりにも短すぎる時間で、……君に恋をしたのだね」
「知らなかったのではなく、忘れたのだね。あまりにも、君のことが好きで、好きで、仕方なくて、思い浮かべるだけで苦しかったから。市井野に来ればまた会える、だなんて希望を持ったところで、それが叶わなかったときが酷く怖いから」
「君をずっと、あの四阿で待たせてしまっていたのだね。……すまなかった。私は、本当に、最低だ」
いつもそうだ。
気付いたころには。
もう後の祭りなのだから。
〇
事故から八日が経った日のことである。
テストが全て終わり、教員が急ピッチにテストの採点・返却を済ませ、夏休みに突入してしまった。
土日は本来、オープンキャンパスのガイドを務める筈だったが、辞退させてもらった。
ちょうど世間ではお盆休みと叫ばれている中、私には、ただサービス業が繁盛するだろうな、程度のものにしか思えない。テレビでは各地で渋滞やら、炎天下で二時間待ちのかき氷だとか、そんながやがやした報道が流れている。
「早百合……お前は、本当によく寝るのだね……」
そう力なく笑って、早百合の包帯に巻かれた手に、そっと、触れた。包帯の先から出た爪はアスファルトに削られ、黒い裂傷を残していた。包帯越しの手は酷く冷たい。まるで、あの日と同じ、人形に触れているかのようだった。
私がその手を離すと、しかし、まだその手は離れていなかった。
――早百合の手が、追いかけてきたのだ。
「早百合……!」
早百合の瞼に力が入り、眉が連れて顰まった。その眉が徐々にもとに戻っていくと、瞼が引っ張られるようにして、――開いた。
そして、
「シュウ、くん……」
と名を呼ぶのだった。
「早百合。……お前には本当に、すまないことをした」
「シュウくん、来てくれたんだね。……へへ、嬉しいなあ」
「なにを悠長に言っているのかね! お前は交通事故に遭って――」
「うん。わかってる」
早百合は、屈託ない、無邪気な笑みを浮かべて。
「――こうすればシュウくんは、私のそばに居てくれるって。わかってるよ」
了
※実際の人物、団体名とは一切関係ございません。本作品はフィクションです。
「ああ、やっとテスト全部終わったなあ!」
「ね。エアコンがまさか壊れて、三十度の中で物理を受けることになるなんて……」
「加点してもらわないと気が済まないね、これは」
「――うわあ、外あちい。今日は最高気温が三十九度。全国で一番高いらしいぜ」
「新潟のくせに……。昔は夏でも三十度いかなかったらしいよ」
「そうなのかね……。にしたって、暑すぎる」
「……とか言って、お前の服装が暑そうなんだよ。ワイシャツに長ズボンに革靴って……。確かにその焦げ茶の革靴格好いいけ……」
「……暑くない」
「あ?」
「暖かいのだよ」
〇
ある晴天の日、早百合の見舞いへ行く前に、私は四阿へと訪れていた。
新潟で晴天というのは極めて稀なのである。年間で二十五日もないらしい。雲がない、というだけで、新潟県民の私には、この新緑に囲まれた空気が特段澄んでいるように感じられた。
四阿の腰掛から立ち上がり、日向に鬱々として出ると、けたたましい羽音を耳にした。
「熊蜂かね……!」
私は、あたりをホバリングするその熊蜂に怯んで、草むらに倒れ込んだ。
やがて熊蜂は四阿の柱に止まった。顔が黄色い……、オスではないか。雄の熊蜂は刺さない。幼年期はむしはかせになるのが夢であったから、こういうのには異様に詳しいのだった。
そして、その幼年期の姿を懐古すると、ふとひとつの情景が過った。
――大丈夫。大丈夫。じっとしてれば、大丈夫だよ。
そう言いつつも、なにかに震え慄く少女を、あっけらかんとした阿呆面でただ見つめていた。
それは、斜陽に塗られた彼女を、麦わら帽子を目深に被った彼女を、からかわれてムキになる彼女を、アイスコーヒーをちびちび啜る彼女を、私の吐いた虚言に涙を流す彼女を、欠落した私の記憶を取り戻そうと躍起になる彼女を、慣れない下駄で懸命に走る彼女を、そしてなによりも純粋な彼女を見据えるときの、私の阿呆面にとても良く似ていた。
彼女の豊かな感情の起伏を顧みて、たった今脳から全身を蝕みつつあるこの感動は。これは。
「結ちゃんとの……思い出、なのかね」
彼女の長い睫毛は――そうだ、彼女が熊蜂を怖がっていたときに、私が宥めている傍で濡れていた睫毛だ。
彼女の華奢な御身は、そのときに抱きとめた嫋やかな身体だ。
幾度となくその優美さに見惚れた亜麻色の髪は、そのときに怯えていた彼女を慰めるために撫でた艶やかなものだ。
雪でさえもくすませてしまうような白い肌は、緋色のおんぼろ傘に良く映えていた。
宝石のように玲瓏な双眸は、虚言を吐いてばかりの私をいつでも正直にさせた。
そしてあの滂沱の涙に歪めた顔を――私はあの花火大会で最後に見たのだ。
「遊んで、喋って、祭りに行って、花火を見て、たった二日間というあまりにも短すぎる時間で、……君に恋をしたのだね」
「知らなかったのではなく、忘れたのだね。あまりにも、君のことが好きで、好きで、仕方なくて、思い浮かべるだけで苦しかったから。市井野に来ればまた会える、だなんて希望を持ったところで、それが叶わなかったときが酷く怖いから」
「君をずっと、あの四阿で待たせてしまっていたのだね。……すまなかった。私は、本当に、最低だ」
いつもそうだ。
気付いたころには。
もう後の祭りなのだから。
〇
事故から八日が経った日のことである。
テストが全て終わり、教員が急ピッチにテストの採点・返却を済ませ、夏休みに突入してしまった。
土日は本来、オープンキャンパスのガイドを務める筈だったが、辞退させてもらった。
ちょうど世間ではお盆休みと叫ばれている中、私には、ただサービス業が繁盛するだろうな、程度のものにしか思えない。テレビでは各地で渋滞やら、炎天下で二時間待ちのかき氷だとか、そんながやがやした報道が流れている。
「早百合……お前は、本当によく寝るのだね……」
そう力なく笑って、早百合の包帯に巻かれた手に、そっと、触れた。包帯の先から出た爪はアスファルトに削られ、黒い裂傷を残していた。包帯越しの手は酷く冷たい。まるで、あの日と同じ、人形に触れているかのようだった。
私がその手を離すと、しかし、まだその手は離れていなかった。
――早百合の手が、追いかけてきたのだ。
「早百合……!」
早百合の瞼に力が入り、眉が連れて顰まった。その眉が徐々にもとに戻っていくと、瞼が引っ張られるようにして、――開いた。
そして、
「シュウ、くん……」
と名を呼ぶのだった。
「早百合。……お前には本当に、すまないことをした」
「シュウくん、来てくれたんだね。……へへ、嬉しいなあ」
「なにを悠長に言っているのかね! お前は交通事故に遭って――」
「うん。わかってる」
早百合は、屈託ない、無邪気な笑みを浮かべて。
「――こうすればシュウくんは、私のそばに居てくれるって。わかってるよ」
了
※実際の人物、団体名とは一切関係ございません。本作品はフィクションです。
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