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第四章 アロイシウス棟の秘密部屋

第10話 うちの婚約者は、

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 アロイシウス棟事件から一夜明け、空きコマに行われた事情聴取を済ませた俺は、エウフェーミアの手を引いて事件現場へと向かった。

 相も変わらずちっちゃい手だ。
 出逢った頃に較べるともちろん成長しているが、そのぶんニコラの体もでかくなったので、いつまで経ってもエウはちっちゃいと思ってしまう。

「ねえぇ、ニコ……。この道って、アロイシウス棟に向かってるよね……」

 察しのいい小動物、すでに嫌そうな顔だ。
 新しい秘密基地を発見したんだぜー、という誘い文句で連れ出したが、やっぱさすがに無理があったか。

「んー? なんのことかなー」
「もーヤダ。ニコのその顔、悪巧みしてるときの顔だもの」
「そんな顔あんの、俺」
「あるよぅ。シリウスと二人で内緒話してるとき、大抵こんな顔」

 むっと唇を尖らせて、顔面で不満を訴えつつも、エウは大人しく俺の後ろをついてきた。
 昨日の魔法史ではかなり渋っていたが、手を振り払って逃げるまではいかないらしい。諦めがついたんだろうなぁ。すべらかな額や、ふっくらした頬を見下ろすと、その視線に気づいたエウが顔を上げた。

「……なにかついてる?」
「いーや。アロイシウス棟に向かってるって判っててもついてくるんだなって」

 エウがぎゅっと眉間に皺を寄せる。
 なんだなんだ。

「幽霊が出ようがゴーストが出ようが指一本触れさせない、って言ったのニコだもーん」

 ……ハイ。
 ……なんだよ、ちゃんとアテにされてんじゃん、俺。
 あコレけっこう嬉しいもんだな。

 内心にまにましながらもアロイシウス棟に辿りつくと、エウは気合い十分な手つきで俺の左腕をがっちりホールドした。
 動きにくいことこの上ないが、なにも昨日みたいに隠密行動しないといけないわけじゃないので、そのまま引っ張っていくことにする。

 昨日のホーディー少年との戦闘により大破した四階の廊下は、建物自体に掛けられている保護魔法によって一晩で修復されていた。
 どの教室も授業を終えて、もう誰もいない。
 薄暗い廊下の掛燭に魔法で火を灯し、きぃきぃと軋む床の上を歩いていく。

 ちらっとエウを見てみたら、顔面を俺の腕に押しつけてもはや前も見ていなかった。

 そんなに幽霊って怖いもんかね。
 そりゃ憑りつかれたり呪われたりしたら困るけど、目に視えない存在という点では精霊や神々だって同じだと思うんだが。
 ……まあ、怖いモンも嫌なモンも苦手なモンも、人それぞれだけどさ。

 丁度いいのでそのまま廊下の突き当たりまでやってきて、杖を手に、何もない壁をコンと叩く。

「“夜の女王の息吹”」

 すると、古びた扉が音もなく現れた。
 昨晩と同じ秘密の扉だ。明るい場所で見ると、昨晩の印象よりも古めかしく見える。

 俺の祈詞を聞いたエウが恐る恐る目を開けて、もともと大きな菫色の双眸を、驚きでさらに丸くした。
 ……ちなみにこの表情を見るたびに、目玉が落っこちやしねえかと俺は心配になる。

「これ、もしかして」
「そ。アロイシウス棟四階の、秘密の扉」

 昨日はのんびり中を観察する余裕もなかったからなー。
 事情聴取ついででアキ先生にこの部屋の出現条件を確認したところ、やはり夜の決まった時間に現れるというものらしい。そして悪戯っぽく笑ったイケオジは、夜以外にこの部屋を呼び出す魔法も教えてくれたのだ。

 真鍮のノブを握って扉を開く。
 他の教室よりはいくらか狭いが、俺が普段使っている隠し部屋よりは断然ゆったりしている。部屋のつくりは完全に隣の教室を模倣していた。
 机椅子や黒板がない代わりに、ど真ん中には大きな鏡。怪談話にもあった、呪いに使用されたと噂の鏡だが、今は白い布がかかっていた。

 外に面した窓の向こうでは、西の空に沈みゆく太陽がバルバディアの尖塔群を赤く染めている。

「わ、夕陽、すごいね」
「本当は夜にしか出現しない部屋なんだと」
「だから肝試しの生徒には見つけられなかったのかぁ……」

 エウはするりと俺の腕から離れて、窓際に駆け寄った。
 白い手が窓を開け放つと、西風がそっと吹き込んだ。

 光を透かしたシルバーブロンドが夕陽の色に輝く。
 天海の水面で微かに歪み、揺らぐ赤い陽光が、すこしずつ表情を変えながらエウの輪郭をなぞっていた。

「〈精霊の眼〉の生徒が言うには、バルバディアみたいな歴史のある場所には、人の残した思念みたいなものはうじゃうじゃしてるんだってさ」
「えっ……」
「エウの言ってる幽霊が、無念を残して死んだ人の魂って意味なら、そういうのはあんまいねぇって」

 本日、一緒に事情聴取を受けたアデルに聞いたことだ。
 やつがアロイシウス棟に近づきたくないと言っていたのは、思念や記憶がゴチャゴチャしていて人の話し声と聞き間違いそうになるから、というのが理由らしい。

「ただ、色んな人の色んな思い出とか強い感情ってのは、魔素の記憶に残るんだそうだ。バルバディアの怪談話は大体がそういう類いで、本当の意味でのゴーストは珍しいってさ」

 魔素が記憶を堆積する、というのは常識のうち。
 だからこちらの世界では、魔素の記憶に影響されて、人々が過去の夢を見ることも多いとか。

 俺が物語知識を思い出すのに利用しているのはそのへんのシステムだ。だって俺、日本人だった頃、都合よく過去の記憶の再現なんて夢に見たことねーし。

「そうなんだ……」
「そ。だからそんなに怖がらなくていい。何十年かしたら、俺とエウがこうやって秘密部屋にいた記憶も、将来の生徒たちに目撃されて怪談話になってるかもな」

 そっかぁ、と心ここにあらずのエウの生返事。

 視線はすっかり夕焼け空に釘付けだ。
 光の粒を載せた睫毛が、きらきらとひかる。

 その隣で窓の桟に手をつくと、彼女はこちらを見ないまま「ね」と吐息を洩らした。

「昨日、ここで何してたの」
「……なんでだよ」
「消灯時間を過ぎても、ニコの魔力がお部屋に戻らなかったから」

 ……お嬢さんの魔力感知の精密さをナメてたー。
 一応あんま心配させんのもなーと思って昨日のことは黙ってたんだが、筒抜けだったみたいだな。

「もしかして、寮出たとこからバレてたり?」
「うん」
「……エウってどんくらい魔力感知できんの。そのあとにブチ切れた兄貴の魔力は?」

 エウは俺のほうを見ないまま首を横に振った。

 え、この子なんでこっち見ねえの? もしかして怒ってんのか?

「バルバディアには色んな人の魔力や魔法があって、ごちゃ混ぜになってるから、今までは上手に感知できなかったけど……。ニコが隠し部屋に閉じ込められた事件のあと、こっそり練習したの」
「すげぇな……」
「でも、判るのはニコだけ。他はまだ意識して探さないと」

 魔力を感知する、と聞くと簡単に思えるかもしれないが、実はこれも立派な高位魔法の一つだ。
 俺だって訓練したからできないこともない。が、精度や範囲はエウに較べれば石ころ程度。

 ようやくこちらを向いたエウの双眸が、夕陽に赤く燃える。


「ニコの魔力なら、どこにいてもわかるよ」


 どきりとした。

 ちっちゃくて可愛かった『エウフェーミア』の白い額も、薔薇色の頬も、宝石のような双眸も、いつの間にか一人の女の子を形作るパーツとしてそこにあった。

 囁くような声も、風に揺れる髪も、何もかも計算し尽くした映画のワンシーンみたいに。

「どれだけ遠くにあっても、どんなにたくさんの人の中にいても、ニコの魔力はずっと感じてる」

 口元をほんのちょっと微笑ませて、エウは小首を傾げた。
 言葉も視線も奪われて身じろぎもできずにいると、指先をきゅっと握られる。


「だから、あんまり離れてかないでね」


 ……ああ、夕方でよかった。
 俺、柄にもなく赤面してる自信が、あるわ。
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