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第七章 薬草学フィールドワーク

第3話 イルザーク先生的アドバイス

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 バルバディアに入学してから八か月になるが、先生方の研究棟に足を踏み入れるのは初めてだった。
 学院の敷地内の中心部にある『本塔』、その東側に聳える煉瓦造りの三階建て。増改築を繰り返し、渡り廊下で色んな校舎をつなぐバルバディアのデタラメ建築のなかで、この建物は珍しく独立している。研究内容の機密保持のためだ。

 魔法薬学基礎の授業を終えたあとでイルザーク先生に相談があると話しかけると、こちらが何か言う前に「授業が終わったら研究室に来なさい」と返された。
 リディアの「あんたうちの先生に何の用よ」という視線を受け流しながら一日の授業を終え、エウと別れたその足でここまでやってきた。

 木製のドアにはイルザーク先生の名前の彫られた札が下がっている。
 指の背で三度ノックすると、ドアはひとりでに開いた。

「失礼します……」

 ちょっとどきどきしながら足を踏み入れる。
 研究室のなかは、魔法薬学の先生という肩書に相応しい有様だった。天井までの高さの棚に夥しい数の瓶が並んでいる。全て魔法薬、あるいはその原料だ。乾燥させた植物がずらりと天井から吊るされ、まるで一軒の薬屋のような状態となっていた。

 すごい。
 魔法使いの部屋、って感じ。……我ながらひどい語彙だな。

 イルザーク先生は奥に設えた調合スペースで鍋を煮詰めているところだった。

「イルザーク先生。ニコラ・ロウです」
「座っていろ」

 部屋の真ん中にででんと置いてあるテーブルの下から、丸椅子がずりずりと出てきた。テーブルに広がる書籍や書きつけなんかをぼけっと眺めているうちに、作業を済ませたイルザーク先生がやってきて、もう一つの丸椅子に腰かける。

「相談とは」
「はい。魔王の封印について教えてほしくて」
「……何故おれに」

 いつも通り、長い黒髪に漆黒の伏し目、黒いローブ、黒い指先。見た目だけなら多分文句なしで魔王軍の一員なんだけど、リディアとアデルという主人公たちの恩師。
 内通者の目を掻い潜って活動しなければならない俺にとって、一番信用できる大人の魔法使いだ。

「〈暁降あかときくたちの丘〉が襲撃されたとき、現地におられたんですよね。少なくとも何らかの関係者なんだろうなと思いまして」

「……知らぬわけがないだろうが、魔王の封印に関しては第一級箝口令が敷かれている。英雄一行と封印された魔王本人以外は術式の内容も知らぬ」

「はい。ですから先生のお考えをお聞かせください。先日封印魔法について少し勉強したのですが、基本的に古代魔法に含まれる封印魔法では真名まなを利用して魂を縛るそうですね。つまり魔王の真名を知る者が、英雄一行にいたということなのでしょうか」

 イルザーク先生は静かに瞬きをした。
 人間というより獣に近い動きをする人だ。雪深い森の奥で、誰にも見つかることなくひっそりと白く染まりゆく老木のような、しんとした空気をまとっている。
 喋り方は切るようで冷たく、無表情だから怖いという生徒も多いが、この人の冷たさはけっして拒絶ではない。全ての事象を平らかに受け容れるような、そんな底のない気配だ。

 やがて先生は、「であろうな」と短く肯定した。

「封印を解こうと思ったら場所が必要ですよね。魔王封印とはいっても魔法であるからには、封印されたその地で逆回転に魔法をかければ解呪できるものでしょうか」
「……口を慎め。魔王を開放しようとしているように聞こえる」
「う。すみません」

 慎めというわりに諫めるような響きはない。質問の内容によっては確かに、ニコラ自身が内通者と疑われてしまう可能性もあるか。
 ……難しいなぁ~~情報収集って。
 日本で生きてた頃はそういう面倒なとこ全部ツレ任せだったもんなぁ。

「魔法は全て大いなる自然の流れのなかにあるものだ。逆らうことはない。……はずだ」
「……なるほど?」

 つまり封印魔法だろうが何だろうが魔法は魔法。
 魔王封印以前までは史上最強クラスだった〈災禍〉の封印、そしてそれを解いてしまった際の手順と同じく、魔王封印もけっして解けないものではない、と。魔法だからといってなんでもアリの世界ではないのだ。

「封印に際しては当然ですけど莫大な魔力が必要だったはずですよね。当代の魔法使いで、英雄一行当時のゴラーナ大賢者に比肩しうる魔力の持ち主はいるのですか?」
「いる」

 いるのか!
 熟練の魔法使いは基本的に自分の魔力の最大値を隠すものだから、ぱっと見で「この人、魔力の量が多いな」となることはないのだ。立ち居振る舞いである程度判断できる部分もあるが、魔法で容姿を変えられる世界なのであまりあてにならない。イルザーク先生やゴラーナ大賢者などはわかりやすく『賢そうで強そう』なほうである。

 イルザーク先生は勿体ぶった結果、こてり、と首を傾けた。
 さらりと黒い長髪が肩から流れていく。


「エウフェーミア・ベックマン」


 がくっと椅子から滑り落ちるところだった。

「そ……れはまあ確かにそうでしょうね……」
「ベックマンに魔王の封印が解けるとは思わぬ」
「そんな発想もないでしょうよ」

 からかわれたのかとも一瞬疑ったが、イルザーク先生はジョークを言うタイプには見えないし。
 エウの魔力がすごいのは本当のことだから、多分事実なんだろう。最近はすっかり暴走しなくなったからたまに忘れてしまいそうになるけど。

「……封印を解くときって、封印したその地で儀式を行わないと意味がない、ですよね」
「うむ。大抵は」

 つまり魔王の封印を解くなら暁降ちの丘でなければならない。
 リディアたちの物語であるからには彼女も復活に立ち会った可能性が高いだろう。しかし全寮制のバルバディアで一体どうやって暁降ちの丘へ行くというのか。

 それとも前回の襲撃が休暇中だったように、復活自体は学校が終わってからの凍季休暇中なのか。

 また。

「また……暁降ちの丘で戦いになるんでしょうか」

 そうなったとしたら出動するのは当然、ヴェレッダ騎士団。騎士団長の親父殿。先日負傷したばかりのオスカー。顔見知りの騎士団員たち。魔王復活なんて大事になれば、すぐそばのロウ家の屋敷やルフの町だって無事ではいられまい。


 ──止めなければ、最初に死ぬのはロウ家にゆかりのある人びとだ。


 ぞっと全身に鳥肌が立った。
 膝の上でぎゅっと拳を握りしめる。今まで自分の石化フラグ回避だの魔王復活阻止だの大きな目標ばかり考えていた気がするが、そうだ、そもそもロウ家やルフが危険だ。
 イルザーク先生はフと息を吐き、病的に白い手で俺の肩をぽんと叩いた。


「リディアの能天気さを少し分けてもらえ」


「……それは、あの、嫌です……」

 先生はなんともいえない顔で黙り込んだ。
 確かに、と顔に書いてあった。
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