算術の秘密

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命題の牢獄

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かずみはまりと理世に向かって言った。
「少し帰省しようと思うんだけど、一緒に来ない?」

三人は小さな電車に揺られ、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。途中、かずみは電車を降りた。

理世は首をかしげる。
「え……?ここじゃないんじゃない?」

かずみは少し俯きながら答えた。
「この町に、数学や算数を悪用している人がいるの。」

まりと理世は、仕方なくかずみの後について町外れの工場へ向かった。工場の中は薄暗く、社員たちはみすぼらしい服に身を包み、まるで影のように働いている。どの顔にも疲労の色が濃い。

「ここの雰囲気……なんかいやだね……」まりが小声でつぶやいた。

かずみは一人の社員に声をかけた。
「どうしたんですか? こんなに貧しい格好で……」

社員はげっそりした顔で微笑み、淡々と答えた。
「いつも通りです。みんな、お金持ちになるために頑張ってます。ボーナスが出たら、たくさんもらえるんですよ。努力が報われるって素晴らしいって……そう教えられてますから」

かずみがさらに給料について尋ねると、社員は肩をすくめ、げっそりした顔で嬉しそうに答えた。
「時給は……1円です。ボーナスは……100円。ボーナスが出れば少し贅沢できます……」

まりは目を見開いた。
「それ……何を食べて暮らしているんですか?」

「10円の駄菓子を少しずつ食べて暮らしています。いつか、努力が報われるといいな……」

かずみは小さく息をつき、静かに察した。ここでは、命題と証明が悪用され、人々の生活が理論によって押さえつけられているのだ、と。

――命題――
時給1円でも、社員として“合法的に”働くことは可能である。

――証明――

1. 労働契約には賃金の最低額の規定はない(形式上の規定に従えば合法)。


2. 時給1円で働くことも契約上問題ない。


3. よって、社員は時給1円でも法的には問題なく働ける。



まりは小さく震えた。
「そんな……酷い……」

その後、三人は社長のいる応接室に案内された。

社長はふと顔を上げ、社員たちを見やりながら声をかける。
「仕事、ちゃんと頑張ってるか?」

社員はげっそりした顔で今にも消え入りそうな声を絞り出す。
「はい……食費を頑張って抑えて、なんとか……」

社長は赤いワインを傾けながら満面の笑みを浮かべた。
「そうかそうか、その努力はきっと報われるぞ!」

彼の目の前には、山のように盛られた豪華な料理が並んでいた。

かずみは静かに立ち上がり、応接室の中央で言った。
「社長、この命題、間違っています。」

社長はワインを傾けながら眉をひそめた。
「何だって?」

かずみは目を真っ直ぐに向ける。
「命題――『時給1円でも、社員として合法的に働くことは可能である』。
数学上は真にできても、現実は……社員が飢え、生活が成り立たない状況では、命題上は“合法”でも、倫理的には完全に破綻しています。この命題は“偽”です」

社員たちの表情が少しずつ変わる。げっそりと俯いていた顔に、わずかな疑問の光が差し込む。

かずみは続けた。
「あなたは数学や算数を悪用して、自分の利益だけを最大化している。社員たちの苦しみを、理論で押さえつけているのです。」

その瞬間、社員の一人が小さく声を上げた。
「……私たち、ずっと騙されてたんですか……?」

別の社員も、ようやく口を開いた。
「時給1円で、駄菓子しか食べられない……それが普通だと思わされていた……」

怒りが静かに、だが確実に、工場内に広がっていく。
社員たちは次々に立ち上がり、手を握り合った。
「もう黙っていられない!」

社長は驚き、ワインをこぼしそうになった。
「お、おい……何を……」

かずみは冷静に言った。
「数学は真実を証明するために使うものです。あなたのように、理不尽を正当化するために使ってはいけない。」

工場内に怒号と足音が響き渡る。
社員たちは道具を置き、門の前に集まり、ついに声を上げた。
「不公平を終わらせる! 私たちは、私たちの生活を取り戻す!」

応接室にいた社長は、目の前の光景に言葉を失った。
かずみ、まり、理世は、お互いに視線を交わす。
かずみは小さく呟いた。「良かった」


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