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新帝即位
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漢帝国の王都・洛陽の中にあって民は安楽に暮らしていたが、朝廷の政治は、混迷を深めていた。
現皇帝・霊帝は、酒と女に溺れて、政治にまったく関心をもとうとしなかった。その霊帝が寵愛した一人の美姫がいる。
洛陽の肉屋の娘で「何(か)」という名前だった。霊帝は彼女に耽溺し、「弁(べん)」という皇子を産ませた。そして肉屋の娘は、何皇后と称されるようになり、何皇后の兄である、何進(かしん)が大将軍として抜擢された。
肉屋の主人が突如として大将軍となったことに洛陽の民は嘆息した。
何進と何皇后の兄妹は貪欲かつ残忍で、盛んに賄賂を集めて蓄財に励み、政敵を殺して国政を壟断した。
霊帝が、新しい愛人として王美人という女性を溺愛した時、何皇后は妬心のため狂乱した。そして王美人が「協(きょう)」という皇子を産んだと知った時、即座に王美人を毒殺した。
その後、協皇子を霊帝の生母である董太后に預けた。董太后は、聡明かつ愛らしい協皇子を溺愛した。
これにより、実子・弁皇子を帝位につけたい何皇后と兄・何進将軍。
協皇子を帝位につけたい董太后の二つの派閥が、出現してしまった。
そこに宦官・十常侍が、この権力闘争に容喙してくることになる。
中平二年・一月。
霊帝は重い病にふせられた。
肥満していた身体は幽鬼のようにやせ細り、寝台から出ることさえできなくなった。
病床の中で、霊帝は十常侍の一人、蹇碩(けんせき)を呼び寄せた。病床の霊帝は、痩せ衰えた顔を蹇碩にむけた。
「蹇碩よ……。予はもう長くないであろう……」
帝が咳き込みながら言うと、蹇碩は咄嗟に悲哀の表情をつくりあげた。
「何を仰せられます。帝の御威光なくば、この国は滅びまする。弱気なことを仰せられますな」
「無用な気休めはいらぬ。自分の身体は自分が一番よく分かる。死するは天命だ。抗えはせぬ。予自身はもはや死を受け入れた。だが一つ気掛かりがなことある。予は、次の帝位を協皇子に譲りたいのだ……」
霊帝の要望に蹇碩は、一瞬、沈黙し、目に強い光を宿らせた。
「ならば、何進将軍を誅殺するしかございません」
「……そうであろうな」
霊帝は呟いた。何進将軍は、妹である何皇后の息子・弁皇子を帝位につけたいと望んでいる。
「予が死した後に、協皇子を帝位につけるためには、何進を除くほかないな……」
霊帝が咳き込んだ。蹇碩は頭を垂れた。そして、この皇帝の意をどのように汲めば、自分の利益となるかを黙考し出した。
何進の私邸に、至急、参内せよとの勅令がとどいた。何進は太い顎をなでだ。何やら嫌な予感がする。密偵に宮中をさぐらせると、なんと十常侍が何進の暗殺を企んでいるとの報告がまいこんだ。
「おのれ!」
何進は肥満した身体を怒りで震わせた。すぐさま配下の文官・武官たちを集めた。
「諸卿らに告ぐ! 十常侍の陰謀が露見した。この私を私欲のために暗殺しようと画策したのだ。すでに十常侍の悪行は天下万民に知れ渡っている。私はこの機会に宦官どもを皆殺しにするつもりだ。卿らの意見はどうだ?」
全員が賛同した。特に袁紹本初という青年が、最も熱心に何進を支持した。袁紹本初は、二八歳。導士で外見は二十才前後に見える。金髪碧眼の美丈夫で、袁家という漢帝国屈指の名門の御曹司だった。
十常侍の不正を弾劾し、その排除を声高にのべる声が満ちる中、一人、銀色の瞳に冷笑をうかべ沈黙する青年がいた。
曹操孟徳である。
(愚かな)
と、曹操は心中で軽侮をあらわにした。このような謀議をなすなど愚劣きわまりない。
(十常侍を誅殺するならば、その機密を保持すべきであろう。それを、わざわざ大勢の諸官を集めて宣言するとは……、この場の発言はすぐさま十常侍が知ることとなろう)
曹操が、白金色の前髪を指でつまんだ時、密偵があわてて室内に駆け込んで来た。
「帝が崩御あそばされました!」
室内に衝撃が走った。誰もが言葉を失う。
「何進将軍。十常侍どもは、帝が崩御されたことを隠蔽し、偽勅をもって、将軍を宮中によびだして、将軍を暗殺し、何皇后をも謀殺せしめ。協皇子を帝として擁立させんとする陰謀をめぐらしておりました!」
密偵の報告に、何進は肥満した身体を怒りでふるわせた。
「もはや許せん! 即座に宮中に討ち入り、十常侍を皆殺しにしろ!」
何進将軍の命令で、武官たちが動いた。
最も奮起したのは、袁紹だった。
「十常侍という国家の病巣を一掃する好機だ! 十常侍という人の姿をした害虫どもを駆除しろ!」
袁紹が先頭にたち、五千騎の軍勢をひきいて、宮中に突入した。袁紹は宦官を撫で斬りした。
宮中は血と悲鳴で満ちた。
蹇碩は袁紹の配下に見つかって、厠の中で槍で突き殺された。
陰謀の首謀者・蹇碩の屍体は八つ裂きにされた。
続けて、悪名高い十常侍のうち、四人が惨殺された。
十常侍の筆頭たる張譲は、何皇后に泣きついた。弁皇子を帝位につけ、忠誠をつくすと確約して命乞いをした。
何進は、実妹・何皇后が、十常侍の助命を嘆願すると、兵を引き上げてしまった。
袁紹は憤然として、軍靴で地面を蹴った。
「なんという優柔不断な男だ! 十常侍という災厄を除ける絶好の機会を逃すとは!」
宮中での争乱が終わった十日後。
肉屋の娘の息子・弁皇子が、皇帝に即位した。同時に、新帝の異母弟・協皇子は、陳留王に封じられた。
百官が跪いて、新帝に忠誠を誓った。百官の中にいる曹操は、銀の双眸で新帝を冷ややかに眺めた。一三才の新帝、後に少帝と諡号される少年の顔を窺う。
新帝は、痴愚のような笑みを浮かべて、玉座に座していた。
(これが偉大なる漢帝国の新たな皇帝か……)
曹操は冷たい声音を心中で吐きだした。
(せめて、陳留王が新帝として即位し、有能な摂政が補弼すれば、漢王朝の再建は可
能であったやもしれぬが……)
腐敗と混迷の極みにある現状において、暗君が擁立され、摂政となって国を動かすのは、豚殺しの何進。
(もはや、漢王朝の衰亡は止められん)
いずれ中華史上最大の乱世が到来するだろう。その時、覇権を握る者は、血統のみで選ばれた者であってはならない。
この国で最も強く、最も優れた者が玉座に座すべきなのだ。
現皇帝・霊帝は、酒と女に溺れて、政治にまったく関心をもとうとしなかった。その霊帝が寵愛した一人の美姫がいる。
洛陽の肉屋の娘で「何(か)」という名前だった。霊帝は彼女に耽溺し、「弁(べん)」という皇子を産ませた。そして肉屋の娘は、何皇后と称されるようになり、何皇后の兄である、何進(かしん)が大将軍として抜擢された。
肉屋の主人が突如として大将軍となったことに洛陽の民は嘆息した。
何進と何皇后の兄妹は貪欲かつ残忍で、盛んに賄賂を集めて蓄財に励み、政敵を殺して国政を壟断した。
霊帝が、新しい愛人として王美人という女性を溺愛した時、何皇后は妬心のため狂乱した。そして王美人が「協(きょう)」という皇子を産んだと知った時、即座に王美人を毒殺した。
その後、協皇子を霊帝の生母である董太后に預けた。董太后は、聡明かつ愛らしい協皇子を溺愛した。
これにより、実子・弁皇子を帝位につけたい何皇后と兄・何進将軍。
協皇子を帝位につけたい董太后の二つの派閥が、出現してしまった。
そこに宦官・十常侍が、この権力闘争に容喙してくることになる。
中平二年・一月。
霊帝は重い病にふせられた。
肥満していた身体は幽鬼のようにやせ細り、寝台から出ることさえできなくなった。
病床の中で、霊帝は十常侍の一人、蹇碩(けんせき)を呼び寄せた。病床の霊帝は、痩せ衰えた顔を蹇碩にむけた。
「蹇碩よ……。予はもう長くないであろう……」
帝が咳き込みながら言うと、蹇碩は咄嗟に悲哀の表情をつくりあげた。
「何を仰せられます。帝の御威光なくば、この国は滅びまする。弱気なことを仰せられますな」
「無用な気休めはいらぬ。自分の身体は自分が一番よく分かる。死するは天命だ。抗えはせぬ。予自身はもはや死を受け入れた。だが一つ気掛かりがなことある。予は、次の帝位を協皇子に譲りたいのだ……」
霊帝の要望に蹇碩は、一瞬、沈黙し、目に強い光を宿らせた。
「ならば、何進将軍を誅殺するしかございません」
「……そうであろうな」
霊帝は呟いた。何進将軍は、妹である何皇后の息子・弁皇子を帝位につけたいと望んでいる。
「予が死した後に、協皇子を帝位につけるためには、何進を除くほかないな……」
霊帝が咳き込んだ。蹇碩は頭を垂れた。そして、この皇帝の意をどのように汲めば、自分の利益となるかを黙考し出した。
何進の私邸に、至急、参内せよとの勅令がとどいた。何進は太い顎をなでだ。何やら嫌な予感がする。密偵に宮中をさぐらせると、なんと十常侍が何進の暗殺を企んでいるとの報告がまいこんだ。
「おのれ!」
何進は肥満した身体を怒りで震わせた。すぐさま配下の文官・武官たちを集めた。
「諸卿らに告ぐ! 十常侍の陰謀が露見した。この私を私欲のために暗殺しようと画策したのだ。すでに十常侍の悪行は天下万民に知れ渡っている。私はこの機会に宦官どもを皆殺しにするつもりだ。卿らの意見はどうだ?」
全員が賛同した。特に袁紹本初という青年が、最も熱心に何進を支持した。袁紹本初は、二八歳。導士で外見は二十才前後に見える。金髪碧眼の美丈夫で、袁家という漢帝国屈指の名門の御曹司だった。
十常侍の不正を弾劾し、その排除を声高にのべる声が満ちる中、一人、銀色の瞳に冷笑をうかべ沈黙する青年がいた。
曹操孟徳である。
(愚かな)
と、曹操は心中で軽侮をあらわにした。このような謀議をなすなど愚劣きわまりない。
(十常侍を誅殺するならば、その機密を保持すべきであろう。それを、わざわざ大勢の諸官を集めて宣言するとは……、この場の発言はすぐさま十常侍が知ることとなろう)
曹操が、白金色の前髪を指でつまんだ時、密偵があわてて室内に駆け込んで来た。
「帝が崩御あそばされました!」
室内に衝撃が走った。誰もが言葉を失う。
「何進将軍。十常侍どもは、帝が崩御されたことを隠蔽し、偽勅をもって、将軍を宮中によびだして、将軍を暗殺し、何皇后をも謀殺せしめ。協皇子を帝として擁立させんとする陰謀をめぐらしておりました!」
密偵の報告に、何進は肥満した身体を怒りでふるわせた。
「もはや許せん! 即座に宮中に討ち入り、十常侍を皆殺しにしろ!」
何進将軍の命令で、武官たちが動いた。
最も奮起したのは、袁紹だった。
「十常侍という国家の病巣を一掃する好機だ! 十常侍という人の姿をした害虫どもを駆除しろ!」
袁紹が先頭にたち、五千騎の軍勢をひきいて、宮中に突入した。袁紹は宦官を撫で斬りした。
宮中は血と悲鳴で満ちた。
蹇碩は袁紹の配下に見つかって、厠の中で槍で突き殺された。
陰謀の首謀者・蹇碩の屍体は八つ裂きにされた。
続けて、悪名高い十常侍のうち、四人が惨殺された。
十常侍の筆頭たる張譲は、何皇后に泣きついた。弁皇子を帝位につけ、忠誠をつくすと確約して命乞いをした。
何進は、実妹・何皇后が、十常侍の助命を嘆願すると、兵を引き上げてしまった。
袁紹は憤然として、軍靴で地面を蹴った。
「なんという優柔不断な男だ! 十常侍という災厄を除ける絶好の機会を逃すとは!」
宮中での争乱が終わった十日後。
肉屋の娘の息子・弁皇子が、皇帝に即位した。同時に、新帝の異母弟・協皇子は、陳留王に封じられた。
百官が跪いて、新帝に忠誠を誓った。百官の中にいる曹操は、銀の双眸で新帝を冷ややかに眺めた。一三才の新帝、後に少帝と諡号される少年の顔を窺う。
新帝は、痴愚のような笑みを浮かべて、玉座に座していた。
(これが偉大なる漢帝国の新たな皇帝か……)
曹操は冷たい声音を心中で吐きだした。
(せめて、陳留王が新帝として即位し、有能な摂政が補弼すれば、漢王朝の再建は可
能であったやもしれぬが……)
腐敗と混迷の極みにある現状において、暗君が擁立され、摂政となって国を動かすのは、豚殺しの何進。
(もはや、漢王朝の衰亡は止められん)
いずれ中華史上最大の乱世が到来するだろう。その時、覇権を握る者は、血統のみで選ばれた者であってはならない。
この国で最も強く、最も優れた者が玉座に座すべきなのだ。
応援ありがとうございます!
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