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第二話 萩焼と文車恋煩い

12.

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(キヨさん……?)

 驚き目を丸くする私に、キヨさんはもう一度ぐすっと鼻を鳴らしてから首を振った。

「ありがとう、スズ。これで十分、本当に十分じゃ。わらわはもう、抱えきれないほどの幸せをもらったぞ」

「水無瀬さん、どうかしましたか? ……そこに、何かいるのですか?」

 私がさっきから頻繁に後ろに視線をやるのが気になったのだろう。私にならって壁に目を向けた有栖川教授が、訝しげに目を細める。

 誰も座っていない椅子とテーブル、そして壁しか移さない教授の視線の先で、キヨさんは涙を拭いながら笑った。

「いつも、わらわばかりが一方的に読まれていたからな。リョーコの気持ちを聞けて嬉しかったわ」

「待って、キヨさん! 私はまだ……」

「よい。ソータの術なら、どうせ効かぬとわかっているからな」

 ついついキヨさんに答えてしまった私を、有栖川教授が不思議そうな目で見る。けれども、これ以上見えないふりはしていられなかった。キヨさんは、本当に満足して帰ってしまいそうだったから。

 ふっと笑みを漏らしたキヨさんが、亜麻色の髪をさらりと揺らして扉に体を向ける。店を出ていこうとするキヨさんに私が立ち上がりかけたとき、狐月さんがをコトリとカウンターの上に置いた。

「――お待たせいたしました。当店からの贈り物、抹茶フロートです」

「え?」

 思わずといった様子で、キヨさんが立ち止まる。振り返ったキヨさんと同じくらい、有栖川教授もきょとんと抹茶フロートを見つめていた。

「あら? 私、こちらを頼んでいませんよ?」

「いいんです。これは、僕から教授へのプレゼントですので」

「あなたからの?」

 ますます不思議そうな顔をして、有栖川教授はカップにそろりと手を添える。そろそろと教授の横に近づいて手元を覗き込んだキヨさんは「ん?」と首を傾げた。

「ソータ。そのカップはわらわの……」

「有栖川教授。ひとの想いは、道具にも宿ると僕は知っています」

 柔らかな笑みを口元にたたえたまま、狐月さんはまっすぐに有栖川教授に語り掛ける。

「5年や10年、あるいはもっと長い月日。茶が僅かなヒビから染み入り、器に模様が浮き出すように。同じ道具を使い続けるうちに、強い思いが道具に染み入り、それ自体が目的を叶えるための呪具となる。――僕のでは基本の考え方なのに、当たり前に目の前にあるものすぎて、すっかりその視点が抜け落ちていました。気付かせてくれた水無瀬さんには、何度頭を下げても足りないくらいです」

「それって、どういう……」

「有栖川涼子さん」

 パン!と狐月さんが手を合わせる。私は再び、狐月さんの背後に赤い鳥居を見た。

「あなたと、あなたを慕う人ならざるモノとのえにしを、ここに映します」

 ぶわりと店内に風が舞った。私が初めて縁結びカフェに来た時と一緒だ。

(やっぱり狐月さん、ただ者じゃないーーー!)

 こちらもあの日と同じ、きつねのシルエットに似た青白い炎に包まれる狐月さんに、私は文字通り舌を巻いた。やがて風が収まると同時に、狐月さんはもとに姿に戻った。

「ふ、ふう。ひさしぶりに見たが、相変わらずお主の妖力はすごいな……」

 キヨさんも驚きあきれつつ、乱れた髪をちょいちょいと直している。

 ――その時、奇跡が起きた。

「あなたは?」

「え?」

 有栖川教授が、彼女の澄んだ灰色の瞳が、まっすぐにキヨさんに向けられている。焦点を結ぶ眼差しは、間違いなくキヨさんを映していた。

 やった。成功したのだ。

 キヨさんは信じられないといった表情で有栖川教授を見つめ返していた。

「リョーコ? お主、わらわが見えるのか? 本当に……?」

「不思議だわ。さっきまでお店の中には私たちしかしなかった。あなた、いつの間に私の後ろに。――いいえ、そんなことより」

 キヨさんが息を呑んだ。

 有栖川教授の綺麗な瞳から、一筋の涙が頬を滑り落ちたからだ。

 溢れた涙を拭うことはせず、有栖川教授は心底不思議そうにキヨさんを見つめていた。

「どうしてかしら。私、ずっとあなたに会いたかった気がするわ」

 ――ああ、と。私はそのとき、キヨさんが心の中で漏らした感嘆が聞こえた気がした。
 
「わらわもじゃ」

 答えたキヨさんの体が淡い光に包まれた。いや、普段からちょっと発光しているけど。柔らかな黄金色の光に、彼女の小さな体が包まれたのだ。

 瞬きをした次の瞬間、あっ!と思った。

 キヨさんトレードマークの亜麻色の髪が、艶やかな黒髪へと変わる。もともと腰ほどだった長さも、地面に溢れるほどの長髪となり、極彩色の華やかな唐衣にさらりと揺れた。

 それはおそらく、1000年の時を越えてこの世界に蘇った、とある女性の姿で。

「ずっとずっと、わらわもお主に会いたかった」

 目を瞠る有栖川教授の手を、キヨさんがそっと取る。

 ひとりの少女のような老婦人と、ひとりの美しい着物を着た小さな女性。一手を取り合う二人の姿は一見チグハグで、そのくせ、まるで長年連れ添った友達のように見えた。

「お主に会えてよかった。お主に見つけてもらえてよかった。リョーコ。――ためしに1000年、生きてみるものじゃな」

 そう言って、キヨさんは爛漫に咲き誇る春の花のように、晴れやかに笑ったのだった。

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