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第二話 萩焼と文車恋煩い

11.

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「あなたみたいな一年生に興味を持ってもらえて嬉しいわ。お友達さん、なにをきっかけに私の研究に触れてくれたのかしら」

(おうふ)

 ダメ元で狐月さんをちらりと見るけれど、狐月さんもにっこりと微笑んだまま口を開かない。

――いや、「有栖川教授の研究の中に、キヨさんの元となる文献が含まれていた」って運命的なきっかけがある。だけど妖怪の知識が皆無の有栖川教授にそう伝えてもで意味がわからないだろうし、下手すれば頭がおかしい子と不審がられる危険もある。

 ここは知らない、聞いたことがないで通すべきか。だけど、「先生の大ファンの友達がいるから会って欲しい」なんて言って有栖川教授をここまで連れてきたのだ。それほど熱心に誘っておきながら、友人の事情に詳しくないというのも不自然だろう……。

 困った私が口をぱくぱくさせて「あー」だの「うー」だの唸っていると、背後からため息が聞こえた。

「『平安・宮廷女房の世界』じゃ」

(え?)

「偶然、図書館で見つけてな。それで興味を持った」

 私が振り返ると、腕を組んでぷいとそっぽを向いたまま、キヨさんが助け舟を出してくれる。

 これはつまり、とりあえず事態を静観してくれるということだろうか。そのことに勇気づけられつつ、不意に背後を振り返った私に首を傾げる教授に、私は何度も頷いた。

「あ、ああ! 思い出しました、思い出しましたとも! 先生の著作『宮廷女房の世界』を読んだのが始まりだと、友達は話していました!」

「誤魔化すの下手か!」

「あらっ。やっぱりあの本なのですね」

 キヨさんに即座に突っ込まれるが、幸い有栖川教授はさらっと受け入れてくれた。優雅に両手を合わせ、教授は笑顔で小首を傾げた。

「あの本は、私が映画の時代考証のひとりとして参加したのと同じ時期に出版したものです」

「『曙に燃ゆ』ですよね。私も観ました」
 
 知っている話題になって、私は身を乗り出した。

 その映画は3年前に公開された。平安時代の宮廷を舞台に、たくましく生きる女性たちを描いた作品だった。

 主人公および語り部に選ばれたのは枕草子で知られるかの有名な清少納言。中宮定子に仕えた女房だ。映画では策謀渦巻く宮廷にありながら、明るく聡く痛快に生きる清少納言の姿が多くの共感を呼び、軽い社会現象となった。

「たしかに映画が公開された頃は、宮廷文化に興味を持って、私の本を手に取ってくださる方も多かったですけれど。なるほど。ご友人さんも、その一人だったのですね」

 懐かしむように喜ぶ有栖川教授を見ていたら、ふと、前に教授が言っていた言葉が頭に蘇ってきた。

「1000年の時を超えて著者が語りかけてくる瞬間がある。前に先生は、授業でそう話していましたよね」

「ええ、ええ。よく覚えていますね」

「それって映画を監修していたときも――枕草子でも、同じ瞬間があったんですか?」

 なぜそんな質問をしたのか、自分でもよくわからない。だけども私がそう問いかけた途端、キヨさんが弾かれたように教授に顔を向けたのがわかった。

 有栖川教授は澄んだ目に私を映し、ゆっくり瞬きをする。そして、少女のように微笑んだ。

「むしろ枕草子は、私に書物を通じて過去の人々と繋がる喜びを教えてくれた作品ですよ」

「え?」

「なっ……」

 言葉を失ったのはキヨさんだ。長いまつげに縁取られた目をまん丸に見開くキヨさんの視線の先で、有栖川教授は優しく微笑んだ。

「枕草子は高い教養を感じさせる表現が有名ですけど、記された内容はシンプルです。美しいものを美しいと褒め、嫌いなものを嫌だと断じ。時に雅で、時に痛快。宮廷の女たちの有り様が浮かぶような、生き生きとした文学です」

 けれども作者である清少納言や、主である中宮定子のことを知れば、違った側面が見えてくるのだと。愛おしそうに、有栖川教授は話した。

「清少納言が仕えた中宮定子は、不遇の女性でした。後ろ盾である藤原道隆が病に倒れた後、彼女は権力闘争に破れ、没落をしてしまいます。最期は24歳という若さでこの世を去ってしまいます。――ですが、枕草子にそうした暗い面は出てきません。手記に残されているのは、定子が没落する前の華やかで楽しかった時期のことばかりです」

 それは映画でも触れられていたことだ。

敬愛する定子が亡くなり、悲しみのうちに宮廷を退いたあとも、清少納言は数年にわたり枕草子の執筆を続けた。

 残された彼女はひとり、幸せな思い出だけを綴る。まるで追憶のように、追想のように。大切な主との輝ける日々を、思い出というガラス玉に閉じ込めるように。

 そうして生まれた枕草子に乗って、『彼女』の思い出は現代へと流れ着いた。

「深く背景を探るほど、詳細にその時代を思い描くほど、枕草子は新たな意味を持って私に語り掛けてくる。そうして潜り込んだ先に、私は作者の息吹を感じました。――あの時の驚きが、喜びが、私をいまでも突き動かす。それが、私の研究の原点です」

 ぐすりと。湿った音がして、ちらりと視線を向けた私は驚いた。

 キヨさんは泣いていた。小さな鼻の頭を赤くして、ぐすぐすと滲んだ涙を拭っていた。
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