会いたいが情、見たいが病

雪華

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◆最終幕 依依恋恋◆

嫉妬くらいさせてよ②

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「どうしたの、その顔の傷」

 今日、出社してからこの質問は何度目だろうと、陸はデータを打ち込む手を止めて、こっそり溜め息を吐いた。その度に「自転車に乗ってたら転んじゃって」と笑ってごまかしていたのだが、デスクの横に立ち陸を見下ろす深澤には通じなさそうだ。

「転んだだけです」
「どんな転び方したの。顔から行ったワケ? そんな派手な転び方なのに、傷は口元だけなんて、どう考えても不自然でしょ」

 案の定、言い訳を一蹴されてしまった。
 頬に貼ったガーゼの隙間から痣を見て、深澤は露骨に不機嫌そうな顔をする。

「誰に殴られたの。まさか、哲治くん?」
「殴られてません、転んだんです」

 そう言い切って再びパソコンに向き直った陸は、深澤の存在を無視して作業を再開させた。出来ればこれ以上追及されたくない。
 ところが深澤は、全くめげずに陸の顔を覗き込んだ。

「佐伯くん、昼休憩これからだろ? ちょっと一緒に外で食おう」
「俺、昼めし持ってきてるんで大丈夫です」
「昼めしって、どうせ栄養補助食品だろ。そんなんばっか食ってたら、ぶっ倒れるぞ。今作ってるその資料、うちの班のやつだよな。急ぎじゃないから、ちゃんと休憩取れよ。ほら、行くよ」

 いつもより強めの口調で腕を掴まれ、陸は仕方なく従った。仏頂面の陸の背中を叩いて、深澤は笑う。

「そんな顔しないでよ。何食べたい? 何でも良いよ。ご馳走する」
「今日は俺が払います。いつも奢られてばかりじゃ申し訳ないし」
「そこは素直に先輩に奢られておきなって」
 
 外に出た深澤は、社用車の鍵をポケットから取り出した。

「え。わざわざ車に乗って行くんですか」
「せっかくだから、市場調査も兼ねて。それに、ちょっとゆっくり話したいと思ってさ。この辺りの店だと会社の人間に会っちゃうだろ」

 深澤が先に運転席に乗り込んだので、陸も渋々助手席に座る。会社の人間に会わずにゆっくりしたい話など、哲治の件かルームシェアの件以外に思い付かない。
 そわそわしながら車窓を眺めていたが、車を十分ほど走らせたところで深澤はコインパーキングに車を停めた。

「どこに行くんですか」
「この直ぐ近く。鰻って好き?」
「好きですけど……市場調査も兼ねるって言ってませんでした? うなぎ屋にうちの商品の販路あります?」

 陸は困惑気味に返答したが、深澤は余裕の笑みを浮かべる。

「鰻のメニューが充実した居酒屋なんだよね。デザートも置いてるから販路はあるよ。ホラ、あの角の店。古民家を改造してるんだ。雰囲気あるでしょ」

 深澤の示す先に、確かに年季の入った趣ある建物が見えた。提灯で飾り立てられた外観は、夜にはきっと映えるだろう。
 昼時のピークを少し過ぎていたおかげで、待つこともなく直ぐに案内された。老舗のような店構えだったが、内装は意外にも和モダンで、現代デザインと日本の伝統的なデザインが程よく融合されている。メニューを開くより先に、つい凝った内装に目が行ってしまった。

「洒落てますね」
「いい雰囲気だよな、落ち着いてるし。夜はカップルにも人気らしいよ」
「ああ、確かに。デート向きかも」

 手頃な価格帯のメニューにもかかわらず、洗練された大人の空間に、高級感もある。人気と言うのも頷けた。
 注文を済ませてから暫くは、当たり障りのない話をするだけだった。身構えていた陸は、少々拍子抜けする。
 運ばれてきたうな重を頬張り、思わず陸は「うまっ」と声に出した。よく考えたら、昨日の夜は酒を飲んだだけなので、まともな食事は十二時間ぶりだ。

「佐伯くんさぁ、いつもあんまり血の気の無い顔してるけど、ちゃんと飯食ってんの? 実家暮らしだったら食生活は充実してそうなのに」
「平日はほとんど家で食わないので」
「へぇ。昨日は日曜だけど、家で食わなかったの?」
「あー。食うタイミングが無かったと言うか」
「今朝は?」
「今朝も……」

 何だか誘導尋問されているような気がして、陸は口をつぐんだ。深澤は大袈裟に肩をすくめる。

「そんなに警戒しないでよ。貧血で倒れたりしないか心配なだけ。ところで、その傷は誰にやられたの? 零?」
「違います」
「じゃあ、やっぱり哲治くんか」

 グッと言葉に詰まる。本当に聞きたかったのはこちらの方だったのかと気づいたが、もう遅い。答えられないことが答えになってしまった。
 陸は無言のまま鰻を口へ放り込んだ。咀嚼しながら深澤をチラリと見る。深澤の表情からは笑顔が消えていた。

「いつ殴られたの」

 陸は誤魔化すことを諦め、「土曜日です」と短く答える。何だか叱られているような気分になってきた。

「傷は顔だけ? 他に酷いことはされなかった?」
「きよ……零が助けてくれたんで、大丈夫でした。それに、哲治も今は凄く反省してるんです。だから、もう解決済みと言うか。すみません、深澤さんにまで心配かけてしまって」

 陸は箸を置いて頭を下げる。向かいの席で、深澤がため息を吐く気配がした。

「なるほど、零か……」

 独り言のような呟きを聞き、陸は顔を上げる。深澤は頬杖をついて、考え込むように唸った。

「金曜の時点では、佐伯くんと零にはかなり距離があるように感じたんだけどな。そう。零が助けてくれたんだ」

 参ったなぁと頭を掻いた深澤は、どこか苛立っているように見えた。陸は深澤の顔色を伺いながら、黙って次の言葉を待つ。

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