愛の音楽

ガラスの惑星

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おおらかホルン

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夏の暑い日だった。

少年はプールサイドに座り、己の足をプールに浸していた。青いジャージを膝の上まで捲り上げた少年は、ぼんやりと太陽を眺めていた。太陽にさらされた生ぬるいプールの水と、鼻をつく塩素の匂い、うるさいほどの蝉の鳴き声が夏、という言葉を連想させる。少年は太陽に手をかざしてみた。血管が赤く燃える。生きている、ということを実感させられた少年は、少し虚げだった。別に、人生に疲れたというわけではないのだと思う。ただ彼は面白みのない人生というものに少々参っているのだろう。だからこうして、立ち入り禁止のプールサイドなんかに立ち入るわけだ。少年は虚げな目つきで少年の隣に置いてあるひまわりの花束と、黒い楽器ケースを眺めた。

ひまわりは先ほど、後輩にもらったものだった。後輩からの好意を見事にへし折ったこの少年は先ほどその後輩に泣かれ、面倒くさいと思っていたところである。何せ、少年の思い人…、というのは他にいるのだから。

少年はホルン吹きだった。少年の家は音楽一家だったので、楽器とはとても近い距離にあった。父がトランペッターで母がピアニスト。そんな家に生まれた少年が、なんとなく選んだのがこのホルンという楽器だった。

少年はホルンが大好きだった。普段何事にもあまり興味を示さない彼が、唯一目を輝かせるのがホルンだった。彼の思い人…、というのはこのホルンである。彼にとってはホルンも人間と同じなのだ。

ホルンは世界一難しい金管楽器とも評される楽器で、その難易度は他の管楽器と比べても一目瞭然。息の入れる加減によって、音は全く異なってしまう。ただその難しい楽器から生み出される音は、柔らかく深い音でその音はホルンにしか出すことはできない。唯一無二の楽器である。

少年はプールの水から足を引き上げた。そして楽器ケースに手を伸ばし、それを開けた。

ホルンはキラッと光り、少年を愛らしく見つめた。さっきまで真顔だった少年は、口角をこれ以上上げることができないくらいに上げて、ホルンを見た。少年は嬉しそうだった。

金色でできたカタツムリのような楽器は少年の腕に抱えられた。少年はケースの中からマウスピースを取り出した。金管楽器はこの金属でできたマウスピースというものを振動させて音を鳴らす。楽器によってマウスピースの大きさは異なるが、マウスピースで音が鳴れば、大抵どんな金管楽器も吹くことができる。

少年はマウスピースに息を入れた。マウスピースからはまっすぐな音が飛び出した。少年はしばらくマウスピースで音を鳴らし、その後マウスピースを楽器に取り付けた。

息を深く吸う。そして吐く…

少年のホルンはきらめいていた。明るく、穏やかな音だがどこまでも深い。少年の音は全くブレない。ただ真っ直ぐで美しかった。

少年のそばに佇むひまわりも、何も言わず少年の音に聞き惚れていた。夏の日差しは、少年の音で和らいでいく。先程までうるさかった蝉の鳴き声もぴたりと止んだ。みんな少年の音に釘付けになっていた。

少年はロングトーンを終え、目を瞑った。
瞼を閉じた少年の世界には音楽が広がっていた。吹奏楽部の彼は今、課題曲と自由曲を必死に思い出していた。頭の中がホルンと音楽だらけの少年は、少しの曲を思い出すのも大変なのである。

少年は目を開けた。その瞳には自信や誇り、向上心や情熱、そして紛れもないホルンへの愛があった。

「……」

少年は愛を言葉で伝えることはない。不器用なのだ。

愛は音で伝える。それが彼のモットーだった。

ブレス。

パァーっと清々しい音が辺りを包み込んだ。課題曲Ⅰ「春の喜び」曲の終盤には代表的なホルンのソロがある曲で、ホルン吹きなら必ず知っている名曲中の名曲である。

少年はどのような音で、このソロを吹くのだろう。

曲は終盤になり、いよいよホルンのソロ。

少年が息を入れる。

ーーーーー


輝いていた。


打ち上げ花火のように泳ぎ、そして花が咲き、美しく散る。おおらかで、深く、どこまでも優しい。

それが少年のソロの音だった。

少年は自由曲はどうしても思い出せないようだった。ホルンに目立つようなメロディーなどがあまりなかった所為だろうか。けれど、この少年は自由曲でも人並外れた演奏をすることだろう。

不器用でおおらかで、不思議な少年は笑った。

ホルンと、紛れもない自分自身に向かって。

少年は楽器を構えた。日が沈みかけた空はほんのりオレンジ色で、金色の太陽は橙色に変化していた。その太陽がプールの水をオレンジ色に染めている。

少年はホルンに美しく壮大で、深い深い愛の音を贈った。

少年は空にホルンを掲げた。

ホルンは少年の手の中で微笑んだ。


そんなホルンと少年は橙色の太陽に照らされ、美しく輝いていた。
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