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第二部 星の追葬
ラの音が取れない 4
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とうとう、ハルアキと亀は泉岳寺までやって来た。
「これで十! これだけ回れば大丈夫だろ」
「ということは、やっと竜宮城ですね」
門を出ると、ここまでずっと一緒だった駕籠屋の姿がなかった。ハルアキと亀はのんびりと歩くことにした。
「それにしても、運がよかったな。まさか、高僧の説法を聞けるなんて」
「わたしは少々向いておりませんでした。やはり、仏とは住む世界が違うようです」
「正直、俺もよくわからなかった。でもまあ、ありがたいことだよ」
「何故です?」
「なぜって……、そういうものだから」
「……やはり、わたしは平目殿や鯛殿の演奏の方が性に合っております」
平目殿も鯛殿も素晴らしい奏者なのですよ、と竜宮城のことを嬉々として語りだそうとする亀を、ハルアキは止めた。亀はそのつぶらな赤い瞳をしばたかせた。
「どうなされたのですか、ハルアキ様?」
「亀……あのさ……」
「はい」
疑うことなくにこやかに促してくる亀に躊躇と罪悪感を覚える。だが、ハルアキは意を決して頭を下げた。
「ごめん。亀。俺、やっぱり竜宮に行かない」
返事は、なかった。
ハルアキは頭を下げたまま続けて言った。
「もう十分だ。亀と旅ができてよかった。すごく楽しかった。ありがとう。お礼の分以上に、いっぱいもらったよ。――ていうか、もともと、俺、大したことしてないんだし。なのに、亀からいっぱい笑顔をもらった。もうもらえない。十分だ。だから、竜宮には行かない。乙姫には悪いけど、でも、俺、その人には何かした覚えないし。だから、いいよな? 行かなくても。亀、ごめん。そういうわけだから、俺は」
「いいえ」
当然の反応にハルアキはぎゅっと目を瞑る。
「ハルアキ様は、行かなければなりません」
「亀……。そうだったな。行かなきゃ、お前は干されちゃうんだよな。でも、それなら、竜宮なんて帰らないで、俺と一緒にいれば……」
「そうではありません。約束したでしょう。ハルアキ様は、先に進まねばなりません」
「進みたくない」
耳を塞ぐ。
「いやだ。なんで、そんなひどいこと言うんだよ……」
「行かなければなりません」
何も見えない。何も聞こえない。そのはずなのに、亀の声は迫る。
「ハルアキ様は、ご自分の将来の為に、先に進まねばなりません」
「いやだ! 進みたくない!」
身を捩る。叫ぶ。そうでないと。そうでないと、ハルアキは。
否。
そうではないんだ。
「進めない……」
だって、今、ハルアキ“達”が前に進んだら。
残される三人は。
「無理。絶対、無理」
情けないとわかっていても、拒まざるを得なかった。
「あのまま、残してなんか行けない」
気になって気になって仕方がないのだ。
こんな中途半端なままで、残してなんか行けるわけがない。
頭をつんと押され、ハルアキははっと我に返る。いつの間にか往来の真ん中にうずくまっていた。駕籠屋がこちらを見て手を振っている。子どもたちがハルアキのことを笑いながら奇声を上げて走り去っていった。すぐ目の前には、亀の顔があった。
「夢は真実じゃない。でも、少なくとも、あそこの二人は立派に歌っていましたよ。ハルアキ様が認めていなければ、そうはなっていなかった」
「でも……あれは、亀がいたから」
ただ歌っているだけで満足している皆が不安だった。だから、一曲だけでもいいから、ちゃんとした歌を、どこも欠けてなんかいない歌を、皆にも感じてもらいたかった。
そうすれば、うまくいく気がしたから。
一度体験さえすれば、歌への気持ちはもっと強くなるはず。
そして、仲間が一人でもいさえすれば合唱は成り立つのだということを、再認識してほしい。
何も不安に思うことなんかないのだと。
合唱とは、歌を届けることだ。
歌を届けることに、人数なんて関係ない。
「それでしたら、思い切って頼んでみてはどうでしょう」
「え?」
亀は笑うように目を細めた。
「わたしだって、いつまでも姫様の言いなりにはなりませんからね」
目が覚めた時、啓明は自分がどこにいるのか一瞬分からなかった。当然、寝ているのは自分の部屋だ。ぼろい木造の漁師小屋でも、安い宿屋でもない。やけに重たい頭を押さえながら起き上がると、大きな欠伸を一つした。その拍子に口から溢れ出そうになった涎を慌てて飲み込み、机の上のティッシュを一枚とって拭く。そうしたら、机の上に無造作に放り出してあった合格通知が視界に入って、思わず顔を顰めてしまった。
啓明もやはり推薦組だった。受けたのは公募制だ。早い時期からやっている少しレベルの低い大学で、難なく受かった。レベルは低いが有名な教授がいるし、ある合唱のサークルが盛んで、特に行きたくない理由なんてなかった。もちろん、入学するつもりだった。
「なんで、こんなにはまっちゃったんだろうな……」
もともと、音楽は好きではあった。だが、それとこれとは別というもので、合唱部には入りたくて入ったわけではなかった。当時、今より深刻な部員不足に悩んでいた三年生の一人が中学の時の部活の先輩だったのが運の尽きで、その人に半ば強引に連れ込まれたのだった。思えば、幸恵や他の二人も先輩らに拉致されたり、そこからさらに芋蔓式に釣り上げられていた。
あの時どうだったのかは、今となってはあまり思い出せない。だが、今なら啓明は自信を持って言える。
俺たちは合唱が好きだと。
自分から入部しに来た二年と一年なら、それはなおさらのはずだ。
亀の言う通りだ。啓明は勝手に思い込んで、勝手にノイローゼになっていただけだった。
それなら、信じてみてもいいのだろうか。
もう一度、挑戦してみてもいいのだろうか。
昼休み、啓明はDクラスに初めて訪れた。おそるおそる中を覗くと、かなりの人数が勉強をしている。そこに魔追も転校生もいなかった。諦めて出直そうとしたら、廊下側の最前列に座っていた男子生徒と目が合った。
「あ、宏隆」
「はるじゃん。どかした?」
「神居宮探してるんだけど」
「魔追なら食堂じゃね? 最近、岩倉とよく行ってるっぽいぞ」
「本当? ありがと」
急いで階段を下りる。学食なら、急げば昼休みが終わる前に間に合うはずだった。
学食に辿り着くと、ちょうど魔追と転校生が出てきたところだった。
「神居宮!」
「はる」
魔追が驚いて足を止める。その前に滑り込むなり、啓明は息も整わないまま一息に言い切った。
「神居宮いい部活ないっ?」
「へ?」
「ご、ごめん、焦って口がっ」
タンマと手の平を向け、呼吸を落ち着かせる。魔追はその間静かに待ってくれていた。頭の中もよく整理してから、啓明は今度こそ慎重に、だが熱意を込めて言ってみせた。
「神居宮。もしよかったら、文化祭で一緒に歌ってくれないか? 一曲だけ、どうしても全パート揃えて歌いたい曲があるんだ。入部じゃなくて、助っ人でいい。歌うのも、その一曲だけで。どうしても、神居宮がほしいんだ。考えてみてくれないか」
「ぶっふぅ!」
「え、あ、うん? でも、なんでオレ?」
何故か転校生が噴き出し、魔追は豆電球を食らったような顔で首を傾げる。いまだに己の持つ宝に気付いていない魔追の態度と、今まで言いたくても言えなかった積年――実質は三年弱――の思いが募りに募って、啓明は思わず、そんなの決まってると拳を振り上げていた。
「神居宮の声は、最高だから!」
「神居宮のことが、大好きだから!」
「えっ?」
「えっ?」
ふと横を向けば、そこには妙に自信満々な幸恵がいた。
「鈴木?」
「鈴木さん?」
「私も、神居宮くんのことはちょっと気になってたから。だから、そんな私の思いとシャイなはるくんの気持ちを合わせて代弁してみ、ぐふっ」
「何が代弁だっ!! なんでお前はそう、すぐ恋愛っぽく言ってみたくなるんだよ!? どうせなら、もっとましなこと言えよ!? 親指立ててんじゃねえよ!!」
しかし、時既に遅し。幸恵が大声で宣ってくれたおかげで、何本もの好奇と蔑みの視線が啓明に突き刺さってくる。しかも、この食堂を利用するのは高等部だけではないから、その数は尋常ではない。半ば絶望しながらもこれ以上余計な事を言わないように幸恵の口を塞ぎ、一度深呼吸してから魔追に向き直った。
転校生が悶絶しているのが見えて無性に叫びたくなった。
「誤解のないように言っておくけど」
「う、うん」
「俺が好きなのは、女の子だから」
「う、うん」
「神居宮のことも好きだけど、一番は神居宮の声だから」
「う……うん」
なぜ、最後だけ一拍遅れたのだろう。
ひきつった魔追の表情に、幸恵を締め上げながら、ああ、終わったな、とどこか他人事のように思った。
だから、次の日の放課後に魔追が部室に現れた時には、驚きのあまりにむせて喉を痛めてしまったのだった。
「――ということがあったんだよ」
放課後の屋上に、今日もまた魔追とノア、美伽が集まっていた。今日は勉強道具を広げず、直接コンクリートに腰を下ろしてじゃがリンをぼりぼり食べる。
事の顛末を聞き終え、美伽はふうんと鼻を鳴らした。
「だから、あんたたちにゲイ疑惑が浮上したのね」
「ううっ」
あの後、幸恵からも謝罪されたが、それで汚名が消えるわけもなく、魔追は心に小さな傷を負ったのだった。というよりも、辜露に疑われたのが一番辛かった。
「ていうか、どうして一年まで広まってるんだよ……?」
「そりゃ、あんな公衆の面前でやらかしたわけだし? 魔追くん、目立つし?」
「そういうネタが好きな女子同士でネットワークができてるのも大きいわね」
「そ、そういうって……?」
こわごわと尋ねると、美伽は沈黙し、僅かに顔を背けて眼鏡の位置を直した。
「神居宮」
魔追はごくりと唾を飲み込んだ。
「それを知るのは、あんたにはまだ早いわ」
「いや、そんな詳しくまでは知らなくていい! 怖いから!」
全力で手と首を振ると、美伽は何故かほっとしたように眼鏡から手を下ろす。
「それもそうね。あんた、興味ないものね」
「興味って何が!? 何に!?」
つい叫んでしまったものの、聞いたらショックで髪が抜け落ちるような気もする。青褪める魔追を宥めるようにノアがまあまあと肩を叩き、じゃがリンを差し出した。
「ほらほら、お食べ。魔追くんが元気を出せるようにおまじないをかけといたから」
「また、カバンクイオマ教?」
「そうとも言う」
にやりと笑うのにむすりとしつつも、言われた通りにじゃがリンを食べる。噛み砕いた欠片が内頬に刺さって痛かった。
「で、部活の方はどうなの?」
「ん、ああ。思った以上に楽しかったよ。女の子たちの会話が面白くて。追夢とかとは違って、なんかもっと、キャピキャピ系? ていうの? とにかく可笑しかったよ」
「へえ、それはいいね。で、合唱は?」
「あー、そっちはまだよくわかんなくて……」
渡されたのは、『それじゃ』という曲だった。これがなかなか難しく、今はまだ音取りの真っ最中だ。
啓明たちが魔追に一番出してもらいたいのは最後の下のラの音だそうで、そこに行きつくまでの道のりはまだ遠そうだった。
「でもさ、みんなすごかったよ。部室が狭いから大きく聞こえてるだけなのかもしれないけど、一人一人の声量がものすごいんだ。鈴木さんなんか超音波とか呼ばれてたし、はるも大砲みたいだったよ。たった一人で低音を吐き出してたんだ。先生はいろいろ文句言ってたけどさ、でも格別だったよ」
「一人一パートなんだっけ?」
「ソプラノ、アルト、テノールの中でさらに上と下に分かれるんだって。ああ、バスも。はるが上で、オレが下になるらしい」
「え? 魔追くんが?」
「低音は才能なのよ」
美伽がじゃがリンを一本取り、それを教鞭のように振りながら教えてくれる。
「高い声は練習すれば出せるようになるらしいわ。でも、低い声は難しいのだとか」
「美伽ちゃん、よく知ってんなあ」
「ちゃん付けはやめなさい」
「はるも同じこと言ってたよ。最近は高い声ばっかりだって。だから、オレは貴重らしいんだけど、でも、本当にオレにあんな音出せるのかなあ。はるを疑ってるわけじゃないんだけど、なんか、だんだん申し訳なくなってくるというか」
ぽりぽりと頬を掻きながらわずかに俯く。啓明の夢に入り、どれだけ自分が期待されているのかを知ってしまった以上は、到底無視することなんてできなかった。――まさか、歌うことだとは思ってもみなかったが。だが、助っ人として参加したものの、啓明の声を聞いてからどうしても胸がもやもやして仕方がなかった。
オレがいなくてもよかったんじゃないだろうか。
やはり、別の方法を採るべきだったのではないだろうか。
黙り込む魔追に、美伽とノアは目配せする。そして、しょうがないなあという風な苦笑いを同時に浮かべた。
「神居宮」
「あっ。なに?」
「ドの音、分かる?」
「ド? えーと……」
それならば練習で散々出している。しばらく悩んでからハミングをすると、ノアが同じようにドの音を出した。ノアのドは高くて、二つの音ははもった。
「え? ドってそういうこと? 高い方?」
戸惑いながら美伽を見ると、美伽は首を振ってスマホのピアノアプリを起動し、じゃーんと二つの音を鳴らした。
「こっちの低いのが神居宮。高いのが岩倉だった。ちょうど一オクターブ。じゃ、もう一オクターブ下げて」
言われた通りに出すと、ノアも合わせて低くしたが、微妙に違和感を覚えた。美伽がまたスマホを鳴らす。魔追はあっと声を上げていた。
「ドじゃない。シャープだ」
「最初にあんたが出した音が低くて、こいつが下がりきれなかったの。岩倉はまず間違いなくテノールだから、つまりあんたはそれより下。そもそも、バスは他パートと声の出し方が違うらしいわよ」
「そ、そうなの?」
魔追はぽかんと口を開けっぴろげ、二、三回まばたきした。確かに言われてみれば、啓明の声だけ届き方が違った。他の三パートは耳に優しく来るのだが、バスだけは常に鼓膜を通り越してどっしりと支えてくれるような深い響きを持っているのだ。
「つまり、魔追くんはまだ下手くそだから気にしなくていいってこと。それでも気になるんなら、それこそ佐藤にみっちり教えてもらえばいいんだよ。魔追くんの声を保証してスカウトしたのはあっちなんだから」
なっ? とノアが微笑む。まったく、この友人は――友人たちは、侮れない。
「うん。そうだな」
最悪、下手くそでもいいのかもしれない。
聞きたいのは、歌の技量への賛否ではないのだそうだから。
「それにしてもさあ、なんで一番始めはだったの?」
「あー、それ、オレも分かんなくて。美伽ちゃんは何か気付いたことある?」
美伽はじゃがリンを飲み込んでから、口を開いた。
「江戸時代に書かれた式亭三馬の代表作『浮世床』の二編巻之下に似たような文が出てくる。妹ほしさに御立願掛アけて、から始まって、回った寺社の名前が列挙されていくの。――確か、去年の文化祭で歌ってたから、佐藤も知っていたんじゃないかしら」
「なんだ。そのまんまだったんだ」
無事に帰れるようにお願いしなきゃ。
けれども、本当は別のことをお願いしていたのだろう……
「はるって、いい奴だな」
「なんだよ、いきなり」
次の部活の時、魔追は啓明を見ながらしみじみと思った。すると、唐突に背後に気配が出現し、耳の後ろの方から囁いてくる。
「気付いちゃった?」
「うわっ、びっくりした!」
小首を傾げる幸恵の額に啓明がでこぴんし、ピアノの席に押し戻す。
「ほら、音取りするぞ。まだ終わってないんだからな」
「はーい」
「お願いします」
この日も音取りだけで終わり、一同はぞろぞろと部室を出た。男子を先頭にして階段を下り始める。
「魔追、声の出し方上手くなってきたな」
いきなり褒められ、魔追は目を丸くしつつも嬉しさを隠しきれず、本当? と訊き返した。
「前より下の音がよく聞こえてくる。やっぱり、魔追は俺よりも低いな」
「そうなのかな。自分じゃ、あんまり出せてる実感はしないけど」
「響かせられるだけでも違うんだよ。大体、そうじゃなきゃ誘ってない、て――」
不意に啓明が口を噤み、魔追は何があったのかと首を巡らせた。その直後にそれは始まった。
キャンドル吹きけそうとするたびに
高く澄んだ優しい声。
あさっての口笛がきこえるなら
幸恵だった。曲はさっきまで練習していた、それじゃ。他の女子も加わり、音が一気に彩る。
また会おう
また会おう
つまり、別れの言葉。
だから、啓明はこの歌にこだわったのかもしれない。
気付いたら、魔追も一緒になって歌っていた。覚えたてで拙く、歌詞も分からないところばかりだが、それでも遅れないように必死に合わせる。階段特有の響きの中にもう一つの色が加わった時、魔追は初めて、はまった、と思った。
色が増えていく。バスの重厚な土台が、テノールの芯が入り、その上に女声がベールのように乗ってくる。合唱は集中しちゃ駄目なんだ。でないと、他のパートが聞こえないから。ついさっき啓明に言われたばかりの言葉がよみがえってくる。全てを聞く。我を張りつつ、全体の音に溺れる。肉体の内と外を音の奔流が満たしていく。これが合唱だ。歌う者の特権だ。
聴け。
この歌を聴け。
酔い痴れろ。
それじゃ また!
それはつまり、再会を誓う言葉。
静寂。
顔のにやつきを抑えられない魔追に、啓明が満面の笑みを向けた。
「いいだろ? 合唱」
「ああ」
迷いなく頷けば、女子たちがいえーいとハイタッチする。心なしか、テノール二人もまんざらでなさそうだった。それを見守る啓明の目は、とても穏やかで、温かかった。
「あ、追夢さーん!」
顔を上げたら、こちらに向かって猛進してくる馬鹿がいた。
しかし、馬鹿は馬鹿のくせして礼儀はそれなりによく、今度も追夢の目の前でしっかり止まるのだろうと思ったらなんだか腹が立ってきて、追夢は一歩踏み出すと右足を上げた。
「ついむぐぅわっ」
予想通り、馬鹿は自ら右足に突き刺さり、鳩尾を押さえて地面に転がりげーげー呻く。気持ち悪いので、放置して歩きだしたら、馬鹿は待ってくださいよ~と情けない声を上げて追いかけてきた。
「追夢さん、一緒に帰りましょうよー」
「方向が違うだろ」
「いいんです! 追夢さんちまでついてって、それから駅に行きますから!」
さも当然のように馬鹿はストーカー宣言して、満面の笑みでガッツポーズをする。追夢は面倒くさくなって、あっそとだけ言ったが、それをゴーサインと勘違いされてよっしゃあ! と叫ばれた。
馬鹿の名前は番田奏良だ。咲坂学園中等部三年で追夢の一つ下だ。少し前にサッカー部を引退し、今年の夏の大会で咲坂を歴史的な敗北に導いた『優しすぎの君』という汚名で全校に知れ渡っている。学業成績も壊滅的だ。しかし、その愛嬌のあるキャラクターで皆に親しまれている人気者でもあった。
「あ、追夢さん追夢さん。それ、持ちましょうか?」
「ぁあ?」
「す、すいまっせんっした! なんでもないです!」
慌ててぺこぺこと頭を下げる奏良。追夢はふと気になって尋ねた。
「なんで、すいませんっしたなの?」
「ああ謝らない方がよかったですか!? すすすいませっ、あ、だめだ。えと、オレはどうすれば……!?」
「馬鹿。そっちじゃない。語尾の話だ」
ばこんと手提げで引っ叩くと、奏良はぱちくりとし、おおと手を叩いた。
「なーんだ、びっくりしたー……。えっとですね、部活で太一とかみんなが先輩にあざーすとかさーせんしたーとか言ってたんですけど、それってなんか失礼じゃないのかなとか、でもこれが流儀なのかなとかって悩んでいたら、こうなりました」
「ありがとうは普通なのに?」
「……そういえば、そうですね」
今気づいたという顔をする奏良。
「ふうん……」
特に面白くもつまらなくもなく、追夢は舌打ちした。さあっと顔を土気色にして落ち込みだす奏良を尻目に、追夢はずんずん歩く。やがて商店街を抜け住宅街に入ると、そんご、と別の名で彼を呼んだ。
「はいっ! なんでしょうっ!」
ぱあっと顔を輝かせる奏良に呆れつつ、追夢は今日の夜の予定を伝えた。
「今夜、侵入する。対象は駒井マコ。まだ茎だけど、早いうちに摘んどく」
「珍しいですね。なにかあったんですか?」
無邪気にちょこんと首を傾げる奏良を絞め殺してやりたい衝動を抑えながら、追夢は少し黙り込み、悩みながらも口を開いた。
「腐女子ってわかるよな」
「ぁ……う、はぃ」
奏良は顔を赤らめる。
「うちの学校にはそういう趣味の連中の集まりみたいなのがあって。駒井はそのリーダーやってんの」
「は、はあ……。つまり、腐女子さんたちの親玉……」
その意味がだんだんと分かって来たのか、再び奏良の顔から血の気が失せていった。
「もしかして、駒井さんのストレスって、それ関係なんですか……?」
「たぶん」
「それは……花まで待っていたら恐ろしいことになりますね……」
なにも腐女子に限った話ではないが、妄想力の絡んだ夢が恐ろしいものとなりやすいのは過去に実証済みであった。
「やりましょう。早急に解決させましょう」
「で、それでなんだけど」
「ふぇっ?」
がしっと両肩を掴まれ、迫りくる鬼のような形相に奏良はびくりと震えた。
「そ、それでなんですか?」
「今回は二人でやるから」
「え? 二人、ですか? オレと、追夢さん、だけ?」
追夢は頷く。
「それから、このことは絶対にあいつと辜露ちゃんには秘密だ」
「え? 辜露さんにも? どうして……」
「とにかく、そういうことだ。わかったな」
「はっ、はい」
反射的にがくがく頷いてしまった奏良だが、それでもいまいち納得がいかないのか、困惑げに追夢を見てくる。追夢は目を逸らし、ただ繰り返した。
「絶対だ」
「はい……」
この時の奏良は、この先に過去以上の恐怖が待ち構えていることなど知る由もなかったのだった。
「これで十! これだけ回れば大丈夫だろ」
「ということは、やっと竜宮城ですね」
門を出ると、ここまでずっと一緒だった駕籠屋の姿がなかった。ハルアキと亀はのんびりと歩くことにした。
「それにしても、運がよかったな。まさか、高僧の説法を聞けるなんて」
「わたしは少々向いておりませんでした。やはり、仏とは住む世界が違うようです」
「正直、俺もよくわからなかった。でもまあ、ありがたいことだよ」
「何故です?」
「なぜって……、そういうものだから」
「……やはり、わたしは平目殿や鯛殿の演奏の方が性に合っております」
平目殿も鯛殿も素晴らしい奏者なのですよ、と竜宮城のことを嬉々として語りだそうとする亀を、ハルアキは止めた。亀はそのつぶらな赤い瞳をしばたかせた。
「どうなされたのですか、ハルアキ様?」
「亀……あのさ……」
「はい」
疑うことなくにこやかに促してくる亀に躊躇と罪悪感を覚える。だが、ハルアキは意を決して頭を下げた。
「ごめん。亀。俺、やっぱり竜宮に行かない」
返事は、なかった。
ハルアキは頭を下げたまま続けて言った。
「もう十分だ。亀と旅ができてよかった。すごく楽しかった。ありがとう。お礼の分以上に、いっぱいもらったよ。――ていうか、もともと、俺、大したことしてないんだし。なのに、亀からいっぱい笑顔をもらった。もうもらえない。十分だ。だから、竜宮には行かない。乙姫には悪いけど、でも、俺、その人には何かした覚えないし。だから、いいよな? 行かなくても。亀、ごめん。そういうわけだから、俺は」
「いいえ」
当然の反応にハルアキはぎゅっと目を瞑る。
「ハルアキ様は、行かなければなりません」
「亀……。そうだったな。行かなきゃ、お前は干されちゃうんだよな。でも、それなら、竜宮なんて帰らないで、俺と一緒にいれば……」
「そうではありません。約束したでしょう。ハルアキ様は、先に進まねばなりません」
「進みたくない」
耳を塞ぐ。
「いやだ。なんで、そんなひどいこと言うんだよ……」
「行かなければなりません」
何も見えない。何も聞こえない。そのはずなのに、亀の声は迫る。
「ハルアキ様は、ご自分の将来の為に、先に進まねばなりません」
「いやだ! 進みたくない!」
身を捩る。叫ぶ。そうでないと。そうでないと、ハルアキは。
否。
そうではないんだ。
「進めない……」
だって、今、ハルアキ“達”が前に進んだら。
残される三人は。
「無理。絶対、無理」
情けないとわかっていても、拒まざるを得なかった。
「あのまま、残してなんか行けない」
気になって気になって仕方がないのだ。
こんな中途半端なままで、残してなんか行けるわけがない。
頭をつんと押され、ハルアキははっと我に返る。いつの間にか往来の真ん中にうずくまっていた。駕籠屋がこちらを見て手を振っている。子どもたちがハルアキのことを笑いながら奇声を上げて走り去っていった。すぐ目の前には、亀の顔があった。
「夢は真実じゃない。でも、少なくとも、あそこの二人は立派に歌っていましたよ。ハルアキ様が認めていなければ、そうはなっていなかった」
「でも……あれは、亀がいたから」
ただ歌っているだけで満足している皆が不安だった。だから、一曲だけでもいいから、ちゃんとした歌を、どこも欠けてなんかいない歌を、皆にも感じてもらいたかった。
そうすれば、うまくいく気がしたから。
一度体験さえすれば、歌への気持ちはもっと強くなるはず。
そして、仲間が一人でもいさえすれば合唱は成り立つのだということを、再認識してほしい。
何も不安に思うことなんかないのだと。
合唱とは、歌を届けることだ。
歌を届けることに、人数なんて関係ない。
「それでしたら、思い切って頼んでみてはどうでしょう」
「え?」
亀は笑うように目を細めた。
「わたしだって、いつまでも姫様の言いなりにはなりませんからね」
目が覚めた時、啓明は自分がどこにいるのか一瞬分からなかった。当然、寝ているのは自分の部屋だ。ぼろい木造の漁師小屋でも、安い宿屋でもない。やけに重たい頭を押さえながら起き上がると、大きな欠伸を一つした。その拍子に口から溢れ出そうになった涎を慌てて飲み込み、机の上のティッシュを一枚とって拭く。そうしたら、机の上に無造作に放り出してあった合格通知が視界に入って、思わず顔を顰めてしまった。
啓明もやはり推薦組だった。受けたのは公募制だ。早い時期からやっている少しレベルの低い大学で、難なく受かった。レベルは低いが有名な教授がいるし、ある合唱のサークルが盛んで、特に行きたくない理由なんてなかった。もちろん、入学するつもりだった。
「なんで、こんなにはまっちゃったんだろうな……」
もともと、音楽は好きではあった。だが、それとこれとは別というもので、合唱部には入りたくて入ったわけではなかった。当時、今より深刻な部員不足に悩んでいた三年生の一人が中学の時の部活の先輩だったのが運の尽きで、その人に半ば強引に連れ込まれたのだった。思えば、幸恵や他の二人も先輩らに拉致されたり、そこからさらに芋蔓式に釣り上げられていた。
あの時どうだったのかは、今となってはあまり思い出せない。だが、今なら啓明は自信を持って言える。
俺たちは合唱が好きだと。
自分から入部しに来た二年と一年なら、それはなおさらのはずだ。
亀の言う通りだ。啓明は勝手に思い込んで、勝手にノイローゼになっていただけだった。
それなら、信じてみてもいいのだろうか。
もう一度、挑戦してみてもいいのだろうか。
昼休み、啓明はDクラスに初めて訪れた。おそるおそる中を覗くと、かなりの人数が勉強をしている。そこに魔追も転校生もいなかった。諦めて出直そうとしたら、廊下側の最前列に座っていた男子生徒と目が合った。
「あ、宏隆」
「はるじゃん。どかした?」
「神居宮探してるんだけど」
「魔追なら食堂じゃね? 最近、岩倉とよく行ってるっぽいぞ」
「本当? ありがと」
急いで階段を下りる。学食なら、急げば昼休みが終わる前に間に合うはずだった。
学食に辿り着くと、ちょうど魔追と転校生が出てきたところだった。
「神居宮!」
「はる」
魔追が驚いて足を止める。その前に滑り込むなり、啓明は息も整わないまま一息に言い切った。
「神居宮いい部活ないっ?」
「へ?」
「ご、ごめん、焦って口がっ」
タンマと手の平を向け、呼吸を落ち着かせる。魔追はその間静かに待ってくれていた。頭の中もよく整理してから、啓明は今度こそ慎重に、だが熱意を込めて言ってみせた。
「神居宮。もしよかったら、文化祭で一緒に歌ってくれないか? 一曲だけ、どうしても全パート揃えて歌いたい曲があるんだ。入部じゃなくて、助っ人でいい。歌うのも、その一曲だけで。どうしても、神居宮がほしいんだ。考えてみてくれないか」
「ぶっふぅ!」
「え、あ、うん? でも、なんでオレ?」
何故か転校生が噴き出し、魔追は豆電球を食らったような顔で首を傾げる。いまだに己の持つ宝に気付いていない魔追の態度と、今まで言いたくても言えなかった積年――実質は三年弱――の思いが募りに募って、啓明は思わず、そんなの決まってると拳を振り上げていた。
「神居宮の声は、最高だから!」
「神居宮のことが、大好きだから!」
「えっ?」
「えっ?」
ふと横を向けば、そこには妙に自信満々な幸恵がいた。
「鈴木?」
「鈴木さん?」
「私も、神居宮くんのことはちょっと気になってたから。だから、そんな私の思いとシャイなはるくんの気持ちを合わせて代弁してみ、ぐふっ」
「何が代弁だっ!! なんでお前はそう、すぐ恋愛っぽく言ってみたくなるんだよ!? どうせなら、もっとましなこと言えよ!? 親指立ててんじゃねえよ!!」
しかし、時既に遅し。幸恵が大声で宣ってくれたおかげで、何本もの好奇と蔑みの視線が啓明に突き刺さってくる。しかも、この食堂を利用するのは高等部だけではないから、その数は尋常ではない。半ば絶望しながらもこれ以上余計な事を言わないように幸恵の口を塞ぎ、一度深呼吸してから魔追に向き直った。
転校生が悶絶しているのが見えて無性に叫びたくなった。
「誤解のないように言っておくけど」
「う、うん」
「俺が好きなのは、女の子だから」
「う、うん」
「神居宮のことも好きだけど、一番は神居宮の声だから」
「う……うん」
なぜ、最後だけ一拍遅れたのだろう。
ひきつった魔追の表情に、幸恵を締め上げながら、ああ、終わったな、とどこか他人事のように思った。
だから、次の日の放課後に魔追が部室に現れた時には、驚きのあまりにむせて喉を痛めてしまったのだった。
「――ということがあったんだよ」
放課後の屋上に、今日もまた魔追とノア、美伽が集まっていた。今日は勉強道具を広げず、直接コンクリートに腰を下ろしてじゃがリンをぼりぼり食べる。
事の顛末を聞き終え、美伽はふうんと鼻を鳴らした。
「だから、あんたたちにゲイ疑惑が浮上したのね」
「ううっ」
あの後、幸恵からも謝罪されたが、それで汚名が消えるわけもなく、魔追は心に小さな傷を負ったのだった。というよりも、辜露に疑われたのが一番辛かった。
「ていうか、どうして一年まで広まってるんだよ……?」
「そりゃ、あんな公衆の面前でやらかしたわけだし? 魔追くん、目立つし?」
「そういうネタが好きな女子同士でネットワークができてるのも大きいわね」
「そ、そういうって……?」
こわごわと尋ねると、美伽は沈黙し、僅かに顔を背けて眼鏡の位置を直した。
「神居宮」
魔追はごくりと唾を飲み込んだ。
「それを知るのは、あんたにはまだ早いわ」
「いや、そんな詳しくまでは知らなくていい! 怖いから!」
全力で手と首を振ると、美伽は何故かほっとしたように眼鏡から手を下ろす。
「それもそうね。あんた、興味ないものね」
「興味って何が!? 何に!?」
つい叫んでしまったものの、聞いたらショックで髪が抜け落ちるような気もする。青褪める魔追を宥めるようにノアがまあまあと肩を叩き、じゃがリンを差し出した。
「ほらほら、お食べ。魔追くんが元気を出せるようにおまじないをかけといたから」
「また、カバンクイオマ教?」
「そうとも言う」
にやりと笑うのにむすりとしつつも、言われた通りにじゃがリンを食べる。噛み砕いた欠片が内頬に刺さって痛かった。
「で、部活の方はどうなの?」
「ん、ああ。思った以上に楽しかったよ。女の子たちの会話が面白くて。追夢とかとは違って、なんかもっと、キャピキャピ系? ていうの? とにかく可笑しかったよ」
「へえ、それはいいね。で、合唱は?」
「あー、そっちはまだよくわかんなくて……」
渡されたのは、『それじゃ』という曲だった。これがなかなか難しく、今はまだ音取りの真っ最中だ。
啓明たちが魔追に一番出してもらいたいのは最後の下のラの音だそうで、そこに行きつくまでの道のりはまだ遠そうだった。
「でもさ、みんなすごかったよ。部室が狭いから大きく聞こえてるだけなのかもしれないけど、一人一人の声量がものすごいんだ。鈴木さんなんか超音波とか呼ばれてたし、はるも大砲みたいだったよ。たった一人で低音を吐き出してたんだ。先生はいろいろ文句言ってたけどさ、でも格別だったよ」
「一人一パートなんだっけ?」
「ソプラノ、アルト、テノールの中でさらに上と下に分かれるんだって。ああ、バスも。はるが上で、オレが下になるらしい」
「え? 魔追くんが?」
「低音は才能なのよ」
美伽がじゃがリンを一本取り、それを教鞭のように振りながら教えてくれる。
「高い声は練習すれば出せるようになるらしいわ。でも、低い声は難しいのだとか」
「美伽ちゃん、よく知ってんなあ」
「ちゃん付けはやめなさい」
「はるも同じこと言ってたよ。最近は高い声ばっかりだって。だから、オレは貴重らしいんだけど、でも、本当にオレにあんな音出せるのかなあ。はるを疑ってるわけじゃないんだけど、なんか、だんだん申し訳なくなってくるというか」
ぽりぽりと頬を掻きながらわずかに俯く。啓明の夢に入り、どれだけ自分が期待されているのかを知ってしまった以上は、到底無視することなんてできなかった。――まさか、歌うことだとは思ってもみなかったが。だが、助っ人として参加したものの、啓明の声を聞いてからどうしても胸がもやもやして仕方がなかった。
オレがいなくてもよかったんじゃないだろうか。
やはり、別の方法を採るべきだったのではないだろうか。
黙り込む魔追に、美伽とノアは目配せする。そして、しょうがないなあという風な苦笑いを同時に浮かべた。
「神居宮」
「あっ。なに?」
「ドの音、分かる?」
「ド? えーと……」
それならば練習で散々出している。しばらく悩んでからハミングをすると、ノアが同じようにドの音を出した。ノアのドは高くて、二つの音ははもった。
「え? ドってそういうこと? 高い方?」
戸惑いながら美伽を見ると、美伽は首を振ってスマホのピアノアプリを起動し、じゃーんと二つの音を鳴らした。
「こっちの低いのが神居宮。高いのが岩倉だった。ちょうど一オクターブ。じゃ、もう一オクターブ下げて」
言われた通りに出すと、ノアも合わせて低くしたが、微妙に違和感を覚えた。美伽がまたスマホを鳴らす。魔追はあっと声を上げていた。
「ドじゃない。シャープだ」
「最初にあんたが出した音が低くて、こいつが下がりきれなかったの。岩倉はまず間違いなくテノールだから、つまりあんたはそれより下。そもそも、バスは他パートと声の出し方が違うらしいわよ」
「そ、そうなの?」
魔追はぽかんと口を開けっぴろげ、二、三回まばたきした。確かに言われてみれば、啓明の声だけ届き方が違った。他の三パートは耳に優しく来るのだが、バスだけは常に鼓膜を通り越してどっしりと支えてくれるような深い響きを持っているのだ。
「つまり、魔追くんはまだ下手くそだから気にしなくていいってこと。それでも気になるんなら、それこそ佐藤にみっちり教えてもらえばいいんだよ。魔追くんの声を保証してスカウトしたのはあっちなんだから」
なっ? とノアが微笑む。まったく、この友人は――友人たちは、侮れない。
「うん。そうだな」
最悪、下手くそでもいいのかもしれない。
聞きたいのは、歌の技量への賛否ではないのだそうだから。
「それにしてもさあ、なんで一番始めはだったの?」
「あー、それ、オレも分かんなくて。美伽ちゃんは何か気付いたことある?」
美伽はじゃがリンを飲み込んでから、口を開いた。
「江戸時代に書かれた式亭三馬の代表作『浮世床』の二編巻之下に似たような文が出てくる。妹ほしさに御立願掛アけて、から始まって、回った寺社の名前が列挙されていくの。――確か、去年の文化祭で歌ってたから、佐藤も知っていたんじゃないかしら」
「なんだ。そのまんまだったんだ」
無事に帰れるようにお願いしなきゃ。
けれども、本当は別のことをお願いしていたのだろう……
「はるって、いい奴だな」
「なんだよ、いきなり」
次の部活の時、魔追は啓明を見ながらしみじみと思った。すると、唐突に背後に気配が出現し、耳の後ろの方から囁いてくる。
「気付いちゃった?」
「うわっ、びっくりした!」
小首を傾げる幸恵の額に啓明がでこぴんし、ピアノの席に押し戻す。
「ほら、音取りするぞ。まだ終わってないんだからな」
「はーい」
「お願いします」
この日も音取りだけで終わり、一同はぞろぞろと部室を出た。男子を先頭にして階段を下り始める。
「魔追、声の出し方上手くなってきたな」
いきなり褒められ、魔追は目を丸くしつつも嬉しさを隠しきれず、本当? と訊き返した。
「前より下の音がよく聞こえてくる。やっぱり、魔追は俺よりも低いな」
「そうなのかな。自分じゃ、あんまり出せてる実感はしないけど」
「響かせられるだけでも違うんだよ。大体、そうじゃなきゃ誘ってない、て――」
不意に啓明が口を噤み、魔追は何があったのかと首を巡らせた。その直後にそれは始まった。
キャンドル吹きけそうとするたびに
高く澄んだ優しい声。
あさっての口笛がきこえるなら
幸恵だった。曲はさっきまで練習していた、それじゃ。他の女子も加わり、音が一気に彩る。
また会おう
また会おう
つまり、別れの言葉。
だから、啓明はこの歌にこだわったのかもしれない。
気付いたら、魔追も一緒になって歌っていた。覚えたてで拙く、歌詞も分からないところばかりだが、それでも遅れないように必死に合わせる。階段特有の響きの中にもう一つの色が加わった時、魔追は初めて、はまった、と思った。
色が増えていく。バスの重厚な土台が、テノールの芯が入り、その上に女声がベールのように乗ってくる。合唱は集中しちゃ駄目なんだ。でないと、他のパートが聞こえないから。ついさっき啓明に言われたばかりの言葉がよみがえってくる。全てを聞く。我を張りつつ、全体の音に溺れる。肉体の内と外を音の奔流が満たしていく。これが合唱だ。歌う者の特権だ。
聴け。
この歌を聴け。
酔い痴れろ。
それじゃ また!
それはつまり、再会を誓う言葉。
静寂。
顔のにやつきを抑えられない魔追に、啓明が満面の笑みを向けた。
「いいだろ? 合唱」
「ああ」
迷いなく頷けば、女子たちがいえーいとハイタッチする。心なしか、テノール二人もまんざらでなさそうだった。それを見守る啓明の目は、とても穏やかで、温かかった。
「あ、追夢さーん!」
顔を上げたら、こちらに向かって猛進してくる馬鹿がいた。
しかし、馬鹿は馬鹿のくせして礼儀はそれなりによく、今度も追夢の目の前でしっかり止まるのだろうと思ったらなんだか腹が立ってきて、追夢は一歩踏み出すと右足を上げた。
「ついむぐぅわっ」
予想通り、馬鹿は自ら右足に突き刺さり、鳩尾を押さえて地面に転がりげーげー呻く。気持ち悪いので、放置して歩きだしたら、馬鹿は待ってくださいよ~と情けない声を上げて追いかけてきた。
「追夢さん、一緒に帰りましょうよー」
「方向が違うだろ」
「いいんです! 追夢さんちまでついてって、それから駅に行きますから!」
さも当然のように馬鹿はストーカー宣言して、満面の笑みでガッツポーズをする。追夢は面倒くさくなって、あっそとだけ言ったが、それをゴーサインと勘違いされてよっしゃあ! と叫ばれた。
馬鹿の名前は番田奏良だ。咲坂学園中等部三年で追夢の一つ下だ。少し前にサッカー部を引退し、今年の夏の大会で咲坂を歴史的な敗北に導いた『優しすぎの君』という汚名で全校に知れ渡っている。学業成績も壊滅的だ。しかし、その愛嬌のあるキャラクターで皆に親しまれている人気者でもあった。
「あ、追夢さん追夢さん。それ、持ちましょうか?」
「ぁあ?」
「す、すいまっせんっした! なんでもないです!」
慌ててぺこぺこと頭を下げる奏良。追夢はふと気になって尋ねた。
「なんで、すいませんっしたなの?」
「ああ謝らない方がよかったですか!? すすすいませっ、あ、だめだ。えと、オレはどうすれば……!?」
「馬鹿。そっちじゃない。語尾の話だ」
ばこんと手提げで引っ叩くと、奏良はぱちくりとし、おおと手を叩いた。
「なーんだ、びっくりしたー……。えっとですね、部活で太一とかみんなが先輩にあざーすとかさーせんしたーとか言ってたんですけど、それってなんか失礼じゃないのかなとか、でもこれが流儀なのかなとかって悩んでいたら、こうなりました」
「ありがとうは普通なのに?」
「……そういえば、そうですね」
今気づいたという顔をする奏良。
「ふうん……」
特に面白くもつまらなくもなく、追夢は舌打ちした。さあっと顔を土気色にして落ち込みだす奏良を尻目に、追夢はずんずん歩く。やがて商店街を抜け住宅街に入ると、そんご、と別の名で彼を呼んだ。
「はいっ! なんでしょうっ!」
ぱあっと顔を輝かせる奏良に呆れつつ、追夢は今日の夜の予定を伝えた。
「今夜、侵入する。対象は駒井マコ。まだ茎だけど、早いうちに摘んどく」
「珍しいですね。なにかあったんですか?」
無邪気にちょこんと首を傾げる奏良を絞め殺してやりたい衝動を抑えながら、追夢は少し黙り込み、悩みながらも口を開いた。
「腐女子ってわかるよな」
「ぁ……う、はぃ」
奏良は顔を赤らめる。
「うちの学校にはそういう趣味の連中の集まりみたいなのがあって。駒井はそのリーダーやってんの」
「は、はあ……。つまり、腐女子さんたちの親玉……」
その意味がだんだんと分かって来たのか、再び奏良の顔から血の気が失せていった。
「もしかして、駒井さんのストレスって、それ関係なんですか……?」
「たぶん」
「それは……花まで待っていたら恐ろしいことになりますね……」
なにも腐女子に限った話ではないが、妄想力の絡んだ夢が恐ろしいものとなりやすいのは過去に実証済みであった。
「やりましょう。早急に解決させましょう」
「で、それでなんだけど」
「ふぇっ?」
がしっと両肩を掴まれ、迫りくる鬼のような形相に奏良はびくりと震えた。
「そ、それでなんですか?」
「今回は二人でやるから」
「え? 二人、ですか? オレと、追夢さん、だけ?」
追夢は頷く。
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「え? 辜露さんにも? どうして……」
「とにかく、そういうことだ。わかったな」
「はっ、はい」
反射的にがくがく頷いてしまった奏良だが、それでもいまいち納得がいかないのか、困惑げに追夢を見てくる。追夢は目を逸らし、ただ繰り返した。
「絶対だ」
「はい……」
この時の奏良は、この先に過去以上の恐怖が待ち構えていることなど知る由もなかったのだった。
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