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第二部 星の追葬
ラの音が取れない 3
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「やーい、のろまー」
「あっはは、じたばたしてるぅ」
どこからかそんな声が聞こえてきて、ハルアキはふと立ち止まった。見ると、砂浜の向こうに四人の子どもが集まっており、何かを取り囲んでいる。なんとなく気になって近寄ってみると、そこにいたのは大きな海亀だった。甲羅を掴まれて前に進むことができず、その場でせっせと砂を掻いている。
ハルアキが少し離れた場所からいじめの現場を傍観していると、その視線に気付いたのか亀が顔を上げた。恐ろしく澄んだ瞳だった。そして、恐ろしくも妖しく美しい紅色をしていた。きゅっと心臓を鷲掴まれて、ハルアキはそこから目を離せなくなった。
「おい」
声をかけると、子どもたちが一斉に振り向いた。どれも生意気そうな面をしている。一番背の高いのがじろりとハルアキを見上げてきた。
「なんだよ。分けてやんねえぞ」
生きた亀を分けたら死んでしまうということをわかっているのだろうか。
ハルアキは呆れて、そいつをよこせと言った。案の定、子どもたちはぎゃーぎゃーと喚いた。
「ふざけんなよ、最初に見つけたのはこっちだぞ!」
「ばーか。ハルアキばーか」
「ケツ洗って出直して来い!」
「大体、なんでハルアキがこれほしがるんだよ?」
「お前らは食べてみたくないのか、亀汁」
しれっとして答えると、子どもたちの顔から急速に血の気が引き、ハルアキと亀の間に慌てて立ち塞がった。
「鬼! 鬼畜!」
「は?」
「ハルアキなんかあっち行っちゃえ、この外道!」
「ばりあーだ、ばりあー作れ!」
「ばりあー」
「亀汁なんて作らせないぞ!」
どうだとばかりに胸を張る四人。
「……」
ハルアキはなんだか馬鹿馬鹿しくなって、おもむろに端からばりあーなるものを破壊した。子どもたちは悲鳴を上げて今度は亀の甲羅にしがみつき、涙目になって睨んでくる。亀はまだ砂を掻いていた。
「あのさ」
ハルアキはしゃがんで目線を合わせた。
「そんなにいやなら、さっさと海に返してやれよ」
「さ、最初からそのつもりだし!?」
「ハルアキと違って大人なんだよ!」
「ばーか! ハルアキばーか!」
「ばーかばーか!」
「大人ならさっさとやれよ」
笑顔で凄んでみせると、子どもたちはびくりと口を噤み、涙目になって小さくばかばか言いながらも亀を誘導し始めた。
多少時間はかかったが、亀は無事に波打ち際に辿り着き、そこからはするすると波に呑まれるようにいなくなった。子どもたちが歓声を上げた。
行ってしまった。
何故か心にぽっかりと穴が開いたようで、ハルアキは戸惑った。
「……やっぱり、鍋にすればよかったかな」
「ひぃぃぃぇぇえええええええっ!?」
「だめええええええ!」
だが、行ってしまったものはもう戻らない。
なんだか虚しくなって、ハルアキは子どもたちを軽く小突くと踵を返した。呑気なばいばいという声が聞こえた。
翌日もまた釣竿を持って海に出ると、砂浜に黒っぽく濡れた大きな丸い物体が――昨日の亀がいた。何度も見直したが、間違いなく同じ亀だった。
ハルアキが近づくと、亀は首を持ち上げてあの赤い目を向けてきた。
「なにやってんだよ、こんなところで」
なるべくその目を見ないようにしながら、ハルアキは甲羅を掴んで波打ち際へと引っ張る。
「またあいつらに見つかるぞ。それとも、鍋になりたいのか」
「いいえ」
ハルアキは動きを止めた。亀もじっとしている。今の声はなんだったのだろうか。まるで、この亀が答えたかのようだ。辺りを見回したが、今日はまだ一人もおらず、砂浜だから当然隠れる場所もない。訝しみつつ亀に目を戻すと、またあの声がした。
「鍋になりとうございません。わたしは、あなた様をお迎えに参ったのです」
亀が首を回し、ハルアキを見上げてくる。ハルアキは暫し無言になって、ようやく口を開いた。
「……お前か? お前が喋ったのか?」
「左様でございます」
亀は嬉しそうに目を細めた。
「昨日のお礼をしたいのです。実は竜宮の乙姫様にあなた様のお話をしたところ、ぜひお会いしたいとのことでございます。ついでに宴会を催してくれるとのことで」
「乙姫が? なんで?」
ただ礼をするにしてはその言い様に違和感を覚え、眉を寄せる。
「はあ……。わたしごときが申し上げてよいのかはわかりませんが、姫様は大変好奇心のお強い方でして……」
「好奇心……」
我儘なお姫様やいけいけ系のちゃらいお姫様が頭に浮かび、ハルアキは少し行く気をなくした。
「ええー……」
ぼりぼりと後頭部を掻く。
「どうしても?」
「無理強いは勿論いたしません。乙姫様がなんとおっしゃろうとも、わたしにとってあなた様が恩人であることに変わりはありませぬから、その時にはわたしの全命を賭して姫様を説得したしましょう」
「えっ、そんなにやばい奴なのかよ!?」
「いやいや、とんでもない! あなた様が気に病むようなことは何もないのです。ただ、この亀めが干し亀となるやもしれぬだけのことです」
「だけじゃないよな? それ、絶対やばいよな?」
「そのようなわけですので、大恩あるあなた様に姫様の我儘にお付き合いいただくのは大変気が引けるのですが、しかし、竜宮の料理は大変美味ですので、是非とも味わっていただきたいのでございます」
それ、礼する側の態度じゃないよなあ、と思いつつも、あまりにも亀が哀れで、そんなに言うんならありがたくご馳走にあずかるのも悪くないという気になってきて、結局ハルアキは亀についていくことにした。一度そう決めたらなにがなんでもそうしなければならないような気もしてきて、そんな自分に首を傾げつつも亀の背に跨った。
「あ」
「どうなされたのですか、ハルアキ様」
いきなり立ち上がったハルアキに亀が不思議そうに訊いてくる。ハルアキはあれだよあれと手を振り、数回口を動かしてから、やっと叫ぶように答えた。
「願掛け!」
「願掛け、でございますか?」
「だって、竜宮で何が起こるかわからないだろ。無事に帰ってこれるようにお願いしなきゃ」
ちょっと待っててと亀に手を振り、ハルアキは駆け出した。だって、相手は竜宮の乙姫だ。ハルアキごときが敵う相手ではない。であれば、同じ神仏にお願いしておかねばなるまい。
どこにお祈りしようか。でもまずは、そうだ、一の宮がいいだろう。
…うたいましょう ユメのように
…おどりましょう ユメのように
いつもの漁師服から旅装に着替え、足にもいっとう頑丈な草鞋を履き、ハルアキは出発した。海をどんどん離れ、山を登り、一の宮咲森神社に到着した。
「は、ハルアキ様ぁ……お待ち、くださいぃぃ……」
何故かついてきた亀がひいひい言いながらやっと階段を上りきり、ぶはあと息を吐き出した。ハルアキはしゃがんで、すっかり乾燥した亀の全身に水をかけてやる。亀は恐縮したように首をひっこめたが、そうすると頭にしか水がかからないのでやめてほしかった。
「申し訳ありません。ハルアキ様。本来ならば、わたしがお助けせねばならないのに」
「いや、亀に助けてもらおうとか思ってないし、無理だろ?」
「そんなことはございません! これでも乙姫様に仕える海の者です。ご安心下さいませ。なにかよからぬ者が現れても、このわたしが必ずや追い払ってみせますとも。ええ」
「じゃあ、どうして浜に打ち上げられてたんだよ」
「あれは少々寝ぼけていて、本調子ではなかったのです」
「あ、そ」
あまり期待できないことだけは分かった。だがまあ、旅は道連れというし、あとでご馳走もいただくのだから、ちょっと面倒を見てやることくらい我慢してやろうとハルアキは思うのだった。
「ほら、あと少しだ。頑張れ頑張れ」
「うううっ」
亀を励ましながらゆっくりと歩く。亀を担いで運んでやりたいのはやまやまなのだが、亀はハルアキが乗れるほどに大きいのだ。それでも一度持ち上げようとしたら、ハルアキの手を煩わせるわけにはいかないとかたくなに拒否された。どちらにしろ迷惑をかけているのだということを、亀は理解していなかった。
それでも、一歩一歩一所懸命に進んでいく姿に、不思議と苛立ちはわいてこなかった。せっせと足を動かす亀を微笑ましく思いながら、ハルアキは亀に声をかけ続けた。
「はい、到着」
「おお、ついに……」
亀が首を伸ばして歓声を漏らした。
「竜王以外の方にまみえるのは初めてでございます」
「やっぱり、神様っているんだ」
「ええ、ええ、おりますとも。咲森の神はずいぶんとお美しいですね」
ハルアキは一歩後ずさり、社全体を眺めてみた。が、ハルアキの目には特に何も映らなかった。
二人は参拝を済ませると、さっさと山を下り始めた。亀は腹の甲羅で滑るようにして下りることを覚え、上りよりもすいすいと進んでいく。それでも、ごとんごとんと音を立てて下りながら、ハルアキ様ハルアキ様と呼んできた。
「ん。どうした」
「わたし、咲森の神からお言葉を賜ったおかげか、なんだか先程よりも体が軽くなったように感じます」
「へえ、そんな効果があるんだ」
「もしかすると、わたしの気持ちの問題なのかもしれませんが」
「おい」
蹴ってやろうかと思ったが、ハルアキはあることを思いついた。
「なあ、亀」
「なんでしょう」
「いっそのこと、もっとたくさんのお社を回ってみないか」
その瞬間、たいして開かない目をかっとひん剥き、亀はごろごろと階段を転がり落ちていった。
「か、亀ーっ!?」
亀は階段の終わりに引っ繰り返っていた。慌てて上下を戻してやると、亀は途端にまくし立ててきた。
「ハルアキ様、それでは一体いつになったら竜宮城に行けるのです! わたしの足では、三社を巡るだけで一年かかってしまいます!」
「だって、海を離れるのなんて久し振りだし。ちょうどいい機会だろうと思って」
「ハルアキ様にとってはそうでしょうが、わたしのことも考えていただきたいものです!」
「あ、東照宮行こう東照宮」
「日光ぉ!? それこそ、行って戻って一年です!」
「大丈夫だよ。亀は知らないかもしれないけどな、この世には便利な交通手段が存在するんだ」
「便利な交通手段……?」
山を下り、ハルアキと亀は宿場町にやってきた。目当てのものはそこで見つかった。
「ほら、あれ」
指差す先には、ねじり鉢巻きを頭に巻いたまだ若い駕籠屋がいた。
「もしや、あれに乗るのですか?」
「そう」
「あんなお粗末なものに……?」
嫌がる亀を無理矢理引きずっていき、ハルアキはさっそく亀同伴でもいいか交渉した。駕籠屋はあっさりと了承して、駕籠にまず亀を、その上にハルアキを乗せてよっこいせと持ち上げた。かつてない重量にみしみしと悲鳴が上がり、亀はびくりと首を竦める。しかし、どんどん流れていく景色に瞬きをして、おずおずと首を伸ばしだした。
「な、速いだろ」
ぺちぺちと甲羅を叩きながら、ハルアキは若干胸を張る。
「はい……」
心ここにあらずというようなぼんやりした声が返ってきた。
「しかし、揺れますね」
「でも、このおかげで日光まであっという間だ」
「お客さん、咲森の次は東照宮か!」
走りながら駕籠屋が言った。
「それじゃあ、その次は宗五郎に行かなきゃな!」
「手毬歌にもあるからな!」
いっちばん はっじめっは いっちのーみやー
弾むような節回しで駕籠屋が歌いだす。二人の息はぴったりだ。朗々とした声が周囲に響き渡る。
にぃはにっこー の とうしょーぐー
さーんは さっくらっの そおごさまー
しーはまーた しーなのーの ぜーんこーうじー
つられてハルアキと亀も歌っていた。ハルアキも亀も駕籠屋の二人より声が低かったから、相性は抜群だった。歌っているのは全て旋律だったが、絶妙な声の差がいい味を出していた。
でも、これじゃない。
唐突にそんな言葉がハルアキの胸に浮かんだ。
いっついっつ いっずもっの おっおやっしやっしろー
いきなり一拍遅れて歌いだしたハルアキに皆が目を瞠ったが、意図を理解した亀がさらにもう一拍遅れて歌いだした。ばらばらになった途端、心細さが湧き上がり、歌は均衡を失いかける。だが、それに抗い、ひたすら拍子通りに自分の音を出し、それに慣れてきたところで、ふっ、と視界を広げるのだ。そうすると、見えてくる。一つ一つの音が。その重なりの調和が。
それらによって表現された、この歌の本質が――
とーうは とーきょー せーんがーくじっ
いった。
同じことを三人も思ったのか、ハルアキたちは一斉に拳を振り上げて叫んでいた。
…いやいや これはユメなのだ
…いやいや ここがユメなのだ
…なにをしても ユメだか ら
…なにがあ ても ユメ ら
「あっはは、じたばたしてるぅ」
どこからかそんな声が聞こえてきて、ハルアキはふと立ち止まった。見ると、砂浜の向こうに四人の子どもが集まっており、何かを取り囲んでいる。なんとなく気になって近寄ってみると、そこにいたのは大きな海亀だった。甲羅を掴まれて前に進むことができず、その場でせっせと砂を掻いている。
ハルアキが少し離れた場所からいじめの現場を傍観していると、その視線に気付いたのか亀が顔を上げた。恐ろしく澄んだ瞳だった。そして、恐ろしくも妖しく美しい紅色をしていた。きゅっと心臓を鷲掴まれて、ハルアキはそこから目を離せなくなった。
「おい」
声をかけると、子どもたちが一斉に振り向いた。どれも生意気そうな面をしている。一番背の高いのがじろりとハルアキを見上げてきた。
「なんだよ。分けてやんねえぞ」
生きた亀を分けたら死んでしまうということをわかっているのだろうか。
ハルアキは呆れて、そいつをよこせと言った。案の定、子どもたちはぎゃーぎゃーと喚いた。
「ふざけんなよ、最初に見つけたのはこっちだぞ!」
「ばーか。ハルアキばーか」
「ケツ洗って出直して来い!」
「大体、なんでハルアキがこれほしがるんだよ?」
「お前らは食べてみたくないのか、亀汁」
しれっとして答えると、子どもたちの顔から急速に血の気が引き、ハルアキと亀の間に慌てて立ち塞がった。
「鬼! 鬼畜!」
「は?」
「ハルアキなんかあっち行っちゃえ、この外道!」
「ばりあーだ、ばりあー作れ!」
「ばりあー」
「亀汁なんて作らせないぞ!」
どうだとばかりに胸を張る四人。
「……」
ハルアキはなんだか馬鹿馬鹿しくなって、おもむろに端からばりあーなるものを破壊した。子どもたちは悲鳴を上げて今度は亀の甲羅にしがみつき、涙目になって睨んでくる。亀はまだ砂を掻いていた。
「あのさ」
ハルアキはしゃがんで目線を合わせた。
「そんなにいやなら、さっさと海に返してやれよ」
「さ、最初からそのつもりだし!?」
「ハルアキと違って大人なんだよ!」
「ばーか! ハルアキばーか!」
「ばーかばーか!」
「大人ならさっさとやれよ」
笑顔で凄んでみせると、子どもたちはびくりと口を噤み、涙目になって小さくばかばか言いながらも亀を誘導し始めた。
多少時間はかかったが、亀は無事に波打ち際に辿り着き、そこからはするすると波に呑まれるようにいなくなった。子どもたちが歓声を上げた。
行ってしまった。
何故か心にぽっかりと穴が開いたようで、ハルアキは戸惑った。
「……やっぱり、鍋にすればよかったかな」
「ひぃぃぃぇぇえええええええっ!?」
「だめええええええ!」
だが、行ってしまったものはもう戻らない。
なんだか虚しくなって、ハルアキは子どもたちを軽く小突くと踵を返した。呑気なばいばいという声が聞こえた。
翌日もまた釣竿を持って海に出ると、砂浜に黒っぽく濡れた大きな丸い物体が――昨日の亀がいた。何度も見直したが、間違いなく同じ亀だった。
ハルアキが近づくと、亀は首を持ち上げてあの赤い目を向けてきた。
「なにやってんだよ、こんなところで」
なるべくその目を見ないようにしながら、ハルアキは甲羅を掴んで波打ち際へと引っ張る。
「またあいつらに見つかるぞ。それとも、鍋になりたいのか」
「いいえ」
ハルアキは動きを止めた。亀もじっとしている。今の声はなんだったのだろうか。まるで、この亀が答えたかのようだ。辺りを見回したが、今日はまだ一人もおらず、砂浜だから当然隠れる場所もない。訝しみつつ亀に目を戻すと、またあの声がした。
「鍋になりとうございません。わたしは、あなた様をお迎えに参ったのです」
亀が首を回し、ハルアキを見上げてくる。ハルアキは暫し無言になって、ようやく口を開いた。
「……お前か? お前が喋ったのか?」
「左様でございます」
亀は嬉しそうに目を細めた。
「昨日のお礼をしたいのです。実は竜宮の乙姫様にあなた様のお話をしたところ、ぜひお会いしたいとのことでございます。ついでに宴会を催してくれるとのことで」
「乙姫が? なんで?」
ただ礼をするにしてはその言い様に違和感を覚え、眉を寄せる。
「はあ……。わたしごときが申し上げてよいのかはわかりませんが、姫様は大変好奇心のお強い方でして……」
「好奇心……」
我儘なお姫様やいけいけ系のちゃらいお姫様が頭に浮かび、ハルアキは少し行く気をなくした。
「ええー……」
ぼりぼりと後頭部を掻く。
「どうしても?」
「無理強いは勿論いたしません。乙姫様がなんとおっしゃろうとも、わたしにとってあなた様が恩人であることに変わりはありませぬから、その時にはわたしの全命を賭して姫様を説得したしましょう」
「えっ、そんなにやばい奴なのかよ!?」
「いやいや、とんでもない! あなた様が気に病むようなことは何もないのです。ただ、この亀めが干し亀となるやもしれぬだけのことです」
「だけじゃないよな? それ、絶対やばいよな?」
「そのようなわけですので、大恩あるあなた様に姫様の我儘にお付き合いいただくのは大変気が引けるのですが、しかし、竜宮の料理は大変美味ですので、是非とも味わっていただきたいのでございます」
それ、礼する側の態度じゃないよなあ、と思いつつも、あまりにも亀が哀れで、そんなに言うんならありがたくご馳走にあずかるのも悪くないという気になってきて、結局ハルアキは亀についていくことにした。一度そう決めたらなにがなんでもそうしなければならないような気もしてきて、そんな自分に首を傾げつつも亀の背に跨った。
「あ」
「どうなされたのですか、ハルアキ様」
いきなり立ち上がったハルアキに亀が不思議そうに訊いてくる。ハルアキはあれだよあれと手を振り、数回口を動かしてから、やっと叫ぶように答えた。
「願掛け!」
「願掛け、でございますか?」
「だって、竜宮で何が起こるかわからないだろ。無事に帰ってこれるようにお願いしなきゃ」
ちょっと待っててと亀に手を振り、ハルアキは駆け出した。だって、相手は竜宮の乙姫だ。ハルアキごときが敵う相手ではない。であれば、同じ神仏にお願いしておかねばなるまい。
どこにお祈りしようか。でもまずは、そうだ、一の宮がいいだろう。
…うたいましょう ユメのように
…おどりましょう ユメのように
いつもの漁師服から旅装に着替え、足にもいっとう頑丈な草鞋を履き、ハルアキは出発した。海をどんどん離れ、山を登り、一の宮咲森神社に到着した。
「は、ハルアキ様ぁ……お待ち、くださいぃぃ……」
何故かついてきた亀がひいひい言いながらやっと階段を上りきり、ぶはあと息を吐き出した。ハルアキはしゃがんで、すっかり乾燥した亀の全身に水をかけてやる。亀は恐縮したように首をひっこめたが、そうすると頭にしか水がかからないのでやめてほしかった。
「申し訳ありません。ハルアキ様。本来ならば、わたしがお助けせねばならないのに」
「いや、亀に助けてもらおうとか思ってないし、無理だろ?」
「そんなことはございません! これでも乙姫様に仕える海の者です。ご安心下さいませ。なにかよからぬ者が現れても、このわたしが必ずや追い払ってみせますとも。ええ」
「じゃあ、どうして浜に打ち上げられてたんだよ」
「あれは少々寝ぼけていて、本調子ではなかったのです」
「あ、そ」
あまり期待できないことだけは分かった。だがまあ、旅は道連れというし、あとでご馳走もいただくのだから、ちょっと面倒を見てやることくらい我慢してやろうとハルアキは思うのだった。
「ほら、あと少しだ。頑張れ頑張れ」
「うううっ」
亀を励ましながらゆっくりと歩く。亀を担いで運んでやりたいのはやまやまなのだが、亀はハルアキが乗れるほどに大きいのだ。それでも一度持ち上げようとしたら、ハルアキの手を煩わせるわけにはいかないとかたくなに拒否された。どちらにしろ迷惑をかけているのだということを、亀は理解していなかった。
それでも、一歩一歩一所懸命に進んでいく姿に、不思議と苛立ちはわいてこなかった。せっせと足を動かす亀を微笑ましく思いながら、ハルアキは亀に声をかけ続けた。
「はい、到着」
「おお、ついに……」
亀が首を伸ばして歓声を漏らした。
「竜王以外の方にまみえるのは初めてでございます」
「やっぱり、神様っているんだ」
「ええ、ええ、おりますとも。咲森の神はずいぶんとお美しいですね」
ハルアキは一歩後ずさり、社全体を眺めてみた。が、ハルアキの目には特に何も映らなかった。
二人は参拝を済ませると、さっさと山を下り始めた。亀は腹の甲羅で滑るようにして下りることを覚え、上りよりもすいすいと進んでいく。それでも、ごとんごとんと音を立てて下りながら、ハルアキ様ハルアキ様と呼んできた。
「ん。どうした」
「わたし、咲森の神からお言葉を賜ったおかげか、なんだか先程よりも体が軽くなったように感じます」
「へえ、そんな効果があるんだ」
「もしかすると、わたしの気持ちの問題なのかもしれませんが」
「おい」
蹴ってやろうかと思ったが、ハルアキはあることを思いついた。
「なあ、亀」
「なんでしょう」
「いっそのこと、もっとたくさんのお社を回ってみないか」
その瞬間、たいして開かない目をかっとひん剥き、亀はごろごろと階段を転がり落ちていった。
「か、亀ーっ!?」
亀は階段の終わりに引っ繰り返っていた。慌てて上下を戻してやると、亀は途端にまくし立ててきた。
「ハルアキ様、それでは一体いつになったら竜宮城に行けるのです! わたしの足では、三社を巡るだけで一年かかってしまいます!」
「だって、海を離れるのなんて久し振りだし。ちょうどいい機会だろうと思って」
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「あ、東照宮行こう東照宮」
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「便利な交通手段……?」
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「ほら、あれ」
指差す先には、ねじり鉢巻きを頭に巻いたまだ若い駕籠屋がいた。
「もしや、あれに乗るのですか?」
「そう」
「あんなお粗末なものに……?」
嫌がる亀を無理矢理引きずっていき、ハルアキはさっそく亀同伴でもいいか交渉した。駕籠屋はあっさりと了承して、駕籠にまず亀を、その上にハルアキを乗せてよっこいせと持ち上げた。かつてない重量にみしみしと悲鳴が上がり、亀はびくりと首を竦める。しかし、どんどん流れていく景色に瞬きをして、おずおずと首を伸ばしだした。
「な、速いだろ」
ぺちぺちと甲羅を叩きながら、ハルアキは若干胸を張る。
「はい……」
心ここにあらずというようなぼんやりした声が返ってきた。
「しかし、揺れますね」
「でも、このおかげで日光まであっという間だ」
「お客さん、咲森の次は東照宮か!」
走りながら駕籠屋が言った。
「それじゃあ、その次は宗五郎に行かなきゃな!」
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いっちばん はっじめっは いっちのーみやー
弾むような節回しで駕籠屋が歌いだす。二人の息はぴったりだ。朗々とした声が周囲に響き渡る。
にぃはにっこー の とうしょーぐー
さーんは さっくらっの そおごさまー
しーはまーた しーなのーの ぜーんこーうじー
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でも、これじゃない。
唐突にそんな言葉がハルアキの胸に浮かんだ。
いっついっつ いっずもっの おっおやっしやっしろー
いきなり一拍遅れて歌いだしたハルアキに皆が目を瞠ったが、意図を理解した亀がさらにもう一拍遅れて歌いだした。ばらばらになった途端、心細さが湧き上がり、歌は均衡を失いかける。だが、それに抗い、ひたすら拍子通りに自分の音を出し、それに慣れてきたところで、ふっ、と視界を広げるのだ。そうすると、見えてくる。一つ一つの音が。その重なりの調和が。
それらによって表現された、この歌の本質が――
とーうは とーきょー せーんがーくじっ
いった。
同じことを三人も思ったのか、ハルアキたちは一斉に拳を振り上げて叫んでいた。
…いやいや これはユメなのだ
…いやいや ここがユメなのだ
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