Dreamen

くり

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第一部 罪人の涙

プロローグ

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 ……うたいましょう ユメのように
 ……おどりましょう ユメのように


 上へ上へと目指すコロの体は軽かった。否、どんどん軽くなっていった。身も心も雁字搦めにしていた鎖が一つ一つ砕けていって、コロを巨大な水槽から解き放つ。いつもは両肩に垂らしている三つ編みが後ろへとたなびいて、ちゃんと進んでいることを証明してくれる。眼前に聳えていた壁は雲母のように破れていき、やがてゆらゆらと揺れる光の柱の足許まで到達する。
 振り向いた。
 それまで自分の住んでいたあの王国は、黒々と蟠る闇のようで、その奥には何も見えない。黒い檻の向こうの黒い魔物が今にも手を伸ばしてきそうだ。逃れるように再び上を向く。きらきらと輝く最後の壁が待っていた。
 あともう少し。頭頂部、額、目、鼻、口、顎、顔全部が飛び出した時、思わず歓声を上げていた。上の世界はとても明るく、暖かかった。絶えず全身を包み圧迫していた感覚は失せ、とてつもない解放感がすみずみまで満たしていく。髪の毛が肌にぺたりと張り付いて少し鬱陶しかったが、それこそが解放の証だと思うとどこか誇らしかった。
 すうっ、と寒気が走り、コロは肩を抱くように腕を組んだ。動いてもいないのに髪がふわりと一瞬だけ浮かんで、首筋を何かが撫でる。風だ。これが。また吹いて、乾いた潮の香を運んでいった。きっと、陸には潮の香のない風もあるに違いない。くんくんと鼻を動かすと、甘やかな芳香がした。コロはそちらに向かって泳いでいった。
 どこまでも続く二つの青の境界線上に、やがて、一つの影が現れる。影は急速に大きくなって、すぐにその正体が分かった。船だ。人間の乗り物だ。風を受けて膨らむのは帆だろう。それが三つもあって、ぐいぐいと進んでいた。驚きと興味に引かれてコロは近づいていったが、そのさらに向こう、はるか彼方に湧く灰色の綿に目を奪われた。唐突に世界は暗くなり、風は荒れ狂い、そして大粒の水滴が大量に降り注いでくる。はっとして下を見たが、そこは至極穏やかで相変わらず黒い澱が淀んでいた。
 その時、悲鳴が聞こえた。
 一人の人間が船から投げ出されたのだ。
 慌てて駆け寄る。思った以上に重くて、抱き抱えるようにして引っ張り上げた。口と鼻が出ると、ぜひゅっ、と音が漏れて、気を失ってはいるが確かに生きている。船の人間に呼び掛けようとしたが、強風に煽られてどこかへ消えていったあとだった。半ばパニックになりながらも、それでもコロは一つの灯りを見つけて、その人間を引っ張っていった。
 灯りに近づくにつれて、嵐は止んでいった。陸に着いた時には、辺りはもう静かな夜の海だった。コロが着いたのは広い砂浜だ。少し離れた場所に建っている塔の頂上にあの灯りがあって、ゆっくりと海の方に首を振っている。自分の方を向いた時、思わず傍の岩陰に隠れてしまったが、二度目はじっと我慢して人間をよく観察した。すっきりとしてはいるがどこか凡庸な顔立ち、女のように繊細な漆黒の髪。勿論、男だ。服はなんの飾り気もないシャツとズボンだが、その触り心地は水に濡れてもなおなめらかで優しく、明らかに一級品だった。一体、どんな人なのだろうか。コロは男の頬にかかった髪を払おうと手を伸ばした。


 ……うたいましょう ユメのように
 ……おどりましょう ユメのように


 ぱちっ、と目が開いた。
 コロは固まり、数秒間、男と見つめあう。そして、衝撃に身を震わせた。
 紅玉のように透き通って美しい瞳。
 わたしは知っている。
 この人を、この瞳を知っている。
 それだけじゃない。
 好きだ。
 世界で一番、誰よりも、何よりも好きだ。
 一緒にいたい。
 いつまでもこの人の笑顔を見ていたい。
 どこまでも歩いていきたい。
 わたしはずっと支えるから。
 たとえ、足がなくたって。この手で。全身で。
 でも、足がなければ、一緒にはなれない。
 コロの下肢は美しい魚の尾だ。あの王国から逃れるための、最後の枷だ。その代償は声。声を失ったって、コロの気持ちは変わらない。だが、結末は………。


 ……うたいましょう ユメのように
 ……おどりましょう ユメのように

 ……いやいや これはユメなのだ
 ……いやいや ここがユメなのだ
 ……なにをしても ユメだから
 ……なにがあっても ユメだから


「きみ………どうして何も着てないんだ?」
 あなたはそう言うと、ゆっくりと身を起こし、びしょぬれのシャツを脱いだ。軽く絞ってからコロに掛けてくれる。あなたはコロよりも大きいから、シャツは“太腿”の辺りまですっぽりと覆った。コロは真っ赤になって小さくお礼を言った。
「きみも落ちたんだろ?こっちこそ、ありがとう。助けてくれて」
 立ち上がって、手を差し伸べてくる。おずおずと取ると、力強く引っ張られた。
「城に来なよ。すぐ近くだから。名前は?」
「コロ」
「オレはマオイ」
 マオイ。
 まーくん。


 うたいましょう ユメだから
 おどりましょう ユメだから


 コロは純白のドレスを着て、巨大な船の上にいた。隣にはいつにも増して格好のいいマオイがいた。それはきっと、服のせいではない。二人が揃って甲板に現れると、大勢が拍手して出迎えてくれた。顔がほころぶのを抑えようとしても抑えきれなかった。
 長年の夢が叶う、その寸前。
 灰色の雲が、湧き出す。
 横殴りの風が船を揺らし、コロは転んだ。マオイの伸ばした手の先を掠めて、コロは呆気なく海に落ちた。人間になったコロはもう水の中では息ができず、じたばたと惨めにもがく。底の方で魔物が楽しそうに体を揺らして待っているのを見つけて、悔しさのあまりに叫んでいた。なんでっ。
 あと、もう少しだったのに。
 なんでっ、どうしてっ!?
「夢の中で叶っても」
 魔物がどういう訳か、ひどく落ち着いた声で喋った。
「現実は変わらない」
 そんなことない、と言いたかった。
 まーくんとは幼なじみだった。だが、男子と女子の常として、段々と疎遠になっていった。それでも、まーくんは優しいから、会うと必ず挨拶をしてくれたし、キーホルダーをなくした時は一緒に探してくれた。その優しさは本当に温かくて、でも痛かった。苦しかった。
 気付いてほしかった。
「ひどいよ………」
 この傷を抱えてくれる人は家族にもいない。父とはたまにしか会えなくて、母は過労で倒れてしまった。二人は支えられる側で、支えるのは自分だった。弱音なんて吐けよう筈もなかった。
 だから、だから、ここなら。
「助けて………!」
 誰かが海に飛び込み、真っ直ぐにこちらへと向かってくる。コロは必死に縋りついた。マオイもしっかりと抱き締めてくれた。
 なのに、どこか空々しいのはどうしてなのか。
「夢は希望だ。だから、離しちゃだめだ。でも、頼ることはできない。形が無いから」
 魔物の腕が二人を引き剥がす。マオイが捕まったコロを助けようとするのを、どこか冷めた目で眺めていることをコロは自覚した。自分も抵抗しなければ、と思う。だが、魔物の手付きが随分と優しくて、なんだか拍子抜けしてしまったのだ。
 それどころか、ほっとして。
 ちりりとした痛みは、あの優しさによく似ている。
「夢も現実も、全部ひっくるめて、きみなんだ。だから、離すのも逃げるのもだめ。ちゃんと向き合うのが一番だと、オレは思う」
 泣き声がする。
 暗いそこには、涙が満ちている。
 罪人の涙だ。
 コロの痛みと苦しみと、ささやかな喜びを混ぜた人生だ。
 まーくん、と呟いた。
「どうして、そんなに優しいの?」
 迷ったように少しだけ間を空けてから、魔物は答えた。
「辜露だから」






 目を覚ますと、いつもの薄汚い天井が歪んでいた。ぱちぱちとまばたきをして、ぐいぐいと擦って、それでようやく泣いていたことに気付く。いやな夢だった。奇妙に現実味があって、生々しくて、でも後味はやけにすっきりとした夢だった。大きく伸びをして起き上がる。蒲団を畳んで押入にしまい、卓袱台を出し、朝の準備を始めた。
 まずは朝ご飯とお弁当の用意だ。その合間に昨夜洗濯して干しておいた衣服を取り込む。全て終わると、いつも通り、ぴったり六時半だった。
 深海辜露の小さなおんぼろアパートから学校までは歩いて十五分ほど。収入源が辜露のバイトと生活保護だけの深海家では、そのほとんどが生活費と母親の入院費に変わり、学校も奨学金に頼っていた。家から近いのと、私立だから同じ中学の子が少ないというだけで選んだ学校だったが、今ではかなり気に入っている。
「………さってと」
 今、嘘を吐いた。
 一番の理由は別にある。
 玄関ドアを開けた辜露は、驚きで一瞬固まった。
「おはよう」
「お、おはよう………」
 さらさらとした黒髪に、赤い瞳。夢で見たのと同じ、いや、こちらが本物だ。
 神居宮魔追。同じ学校の三年生で、辜露を咲坂学園に誘ってくれた人。
 室内は別に散らかってなんかいなかったけれども、なんとなく恥ずかしくなって、見えないように急いで鍵を閉めた。改めて挨拶すると、魔追は一緒に行こうと言ってさっさと階段を下り始める。慌てて追いかけ、隣に並んだ。
「まーくん、どうしたの。つーちゃんと喧嘩でもした?」
「してないしてない。たまには辜露と行きたくなっただけ」
 辜露、早くない?いつもこんな時間に出んの?と訊かれ、こくりと頷く。
「夜は時間がないから、朝、学校で勉強するの。家にいても、ちょっと、ね。………弾まなくて」
 沈黙が下りて、辜露はしまったとひそかに下唇を噛んだ。魔追は辜露の事情を知っているから、なんと言ったらよいのか分からなかったのだろう。
 家は近所の目があり、なにより母が倒れた場所だった。どうしても息が詰まってしまい、その分学校は気が楽だった。こんな気持ち、分かる訳がない。
 分かるようになんて、なってほしくない。
「じゃあ、さ」
 変な形になろうとした口角を慌てて押さえて、何事もなかったかのように首を傾げてみせると、魔追は視線をさまよわせながら、しかしはっきりと言った。
「これからは、うちに来なよ。オレも受験勉強で最近早いしさ。迎えに行く」
「えっ?でも」
「これから日が出んの遅くなるから、あんまり一人で出歩かない方がいいって。バイトは仕方がないけど、せめて朝はさ」
 それから、辜露の反応を窺うようにおずおずと覗き込んでくる。
 ただ言葉に詰まった訳ではなかった。あの十数秒間で辜露のために何ができるか考えてくれていたのだ。
 知らず知らずのうちに足が止まっていた。
「辜露?」
 数歩先で振り返った魔追に、あの質問を投げかけていた。
「どうして、そんなに優しいの?」
 魔追は目を丸くして、小さく首を振る。
「優しくなんかないよ。ていうか、人に優しくするのなんて当たり前だろ」
「………当たり前」
 どこか釈然としなくて、無言で歩き出した。
「辜露?どうした?」
 魔追に追いつくと、覗き込んでくる目を見返して試しに言ってみた。
「ねえ、手繋いで」
 また目が丸くなったが、人がいないのを確認するとすぐにそうしてくれた。大きくて、温かくて、力強い手。また、こうして触れられるなんて、夢のようだった。
 なのに、どうしてだろう。
 胸がむかむかしてたまらない。








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