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38話
しおりを挟む無表情でこちらに歩いてくるカナタを見て、美琴は胸がぎゅっとなるのを感じた。愛おしさをなかなか忘れることはできない。でも今、この家に来たばかりの時のような恐怖が心の中に芽生えていた。愛したはずの人間が目の前にいるのに、得体の知れない他人に見える。
カナタは常軌を逸している。わかっていたのに、ほんとうはわかっていたのではなく、わかっている気になっていただけだったのだろうか。
カナタはふいにバスタオルを床に投げ捨て、準備していたスウェットの下を着始める。かがんだ時に力が入ったのか、うっすらと割れている腹筋が影になって見えた。彼は細身だが力では絶対に抗えない。それなのに、美琴が逃げようとしていることはおそらくバレてしまった。……どうしたらいいのだろう。
「カナタ」
呼ぶと、カナタは返事もせずにこちらを振り返った。相変わらず無表情のままだ。
「腕、血が出てるよ」
震える声でそれだけ言うと、カナタは黙ってゆっくりと視線を自らの腕に向けた。薄い切り傷がそこにはある。拭い方が乱暴だったのか、しっとりと濡れている肌を伝って水彩絵の具のような赤色が指先目指して筋になっていた。
「……切ったの?」
「剃刀の刃が当たった。間違えて」
そっけなく答えるものの、こちらを見ようとはしない。カナタは手首を口元に持っていくと、伏目のまま舌を伸ばしてそれを舐めとった。
◆
押し黙ったまま、ふたりでベッドを背にしゃがみ込んでいる。濡れた髪の毛はだいぶ乾いたようだ。いつもならすぐにドライヤーを使って乾かしているのに、今日は気力がないのだろうか。それだけではないが、とにかく別人のようで落ち着かない。
……私のせいなのは明白だけれど。
「カナタ、お腹空かない?」
「食欲ない」
「そっか」
「美琴は?」
「うん、私も……」
本音だった。心が落ち着かずおろおろしてばかりなので、空腹など感じる余裕がない。
「美琴、看病してくれてありがとう。嬉しかった」
「……改まってどうしたの?当然のことだよ」
「当然?」
その瞬間、カナタがこちらを向いた。目が合う。酷く久しぶりのような気がした。ほっとしたのも束の間、彼のふたつの目が充血して真っ赤になっているのに気づき、怯んだ。カナタは音も声をこらえて泣いていたのだろうか。それとも、赤い目は別のなんらかの感情を映し出しているのだろうか。そのどちらでもあるような気がした。
……当然なんて、今の私がよく言ったものだ。残酷だ。
唇の両端が釣り上がり、カナタの無表情は、狂ったような笑顔に変わる。鳥肌が立った。
「美琴、俺は、……愛してるんだ」
「わ、わかってるよ」
「なあ。なにもわかっちゃいないだろ?」
冷たい声だ。反論なんてできるわけがなかった。
「……でも、別にそれでいい。最初に戻っただけだもんな。美琴がここに来た夜のことを思い出すよ」
カナタが美琴の細い首に両手をまわした。そのまま、バランスを崩して倒れたところに馬乗りになってくる。どくどくと体内で血液が流れる音がして、遠い耳鳴りが聞こえた。殺される。カナタに殺される。
そう思ったが両手に力が込められることはなく、気がついたら乱暴にいつもの手錠をかけられていた。ふたりで家にいる時に拘束されることはもうほとんどなかったので、恐怖で身体ががくがくと震えてしまう。
「美琴をここに連れてきた日、俺、やっと手に入ったのが嬉しくて、ほんとうはすぐにめちゃくちゃにしてしまいたかった」
あの夜のことを思い出す。たしかにカナタは、誘拐し監禁したばかりの被害者である美琴に向かって、はにかんだような笑顔を浮かべていた。
好きだから、できたら受け入れて欲しいんだ、と言っていた。そのための努力をしたいのだ、と。
「……俺は、美琴にどんなに嫌われても、絶対に手放さない」
カナタがわずかに顔を上げる。その目から、涙が溢れるのが見えた。
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