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番外編
野中ヒトミの初恋3
しおりを挟むその年の9月に楠木さんは昇格し、チーフリーダーになった。先輩と後輩だった関係が上司と部下になってしまい、ただでさえ埋められそうもない溝がより深くなったような気がした。
せっかく大手の会社に就職したのに、やっぱり社会に出ると実力だけではうまくいかないことが多い。
というよりただ、これまでの人生で誇ってきた実力も、横並びの大勢いる社員の中では、頭1つ分飛び抜けるのが難しいと感じるくらい大したものじゃなかったということかもしれない。そういう世の厳しさに、打ちひしがれてもいた。
「楠木さん、昇格おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「せっかく偉くなったんだから、ほかの先輩や上司と同じように、敬語なんて使わないでいいのに……」
「上司なんて、肩書きを与えられて突然なれるものじゃないですからね。徐々に貫禄を身につけていきますよ」
そのさっぱりとした口調と笑顔が、乾いた心に暖かみをもたらした。楠木さんが部下に馴れ馴れしくしたり、くだけた口調で命令したりすることは一生ないだろうな、という気がする。彼はそういう人なのだ。
「あの……今日お昼、外ですか? もしよかったらご一緒させていただけませんか? お祝いしたいんです」
思い切って誘ってみるが、一瞬の間があった。きっと嫌なんだろうな、と、察する。察するが、自分の無力さを嘆いてうずくまったままの女にはなりたくない。砕けるかどうかは当たってみるまでわからないのだ。
なにか言葉を返される前に、力強く付け足した。
「今日だけ、たまにはいいじゃないですか。仕事の相談もあるし。ね、いきましょうよ」
「……そうですね。部下から相談してもらえる上司っていうのは誇るべきことです。ありがたい」
駄目押しの一言で楠木さんは折れた。嫌だったけど仕方なく折れたのだという素ぶりを見せないのは、彼の優しさだ。押し切った私は強引だし、恋する乙女の美しい姿ではないかもしれないけれど、強気に出たら嫌な顔をせず受け入れてくれる、そういうところが好きだ。
◇
とはいえ会社の周りには小洒落た店なんてないので、ごくごく普通の定食屋に入った。私たちは鯖味噌定食を食べながら向かい合っている。
楠木さんと食事をするのはあの歓迎会以来初だった。しかも、ふたりきりだなんて。魚の小骨をきれいに取り出す繊細な箸づかいにすら見とれてしまう。勇気を出してよかったと実感した。
「楠木さんは家で料理とかするんですか?」
「ほとんどしないかな。毎日コンビニとか、外食とか」
「えー、意外です! 私だったらすぐに太っちゃいそうなのに、どうやってスタイル維持してるんですか」
「食べ物には気を使わないけど、運動はしてますからね」
彼は痩身で背が高く、かといって貧弱そうなわけではなかった。スーツと眼鏡がよく似合っていて、すれ違うと思わず振り返りたくなる男性だ。顔は決して派手ではないのに整っている。唯一の特徴といえば涙ぼくろで、それがまた色気になっている。
同期には彼のことを、見た目はまあまあかっこいいけど地味じゃない?と評する子もいた。でも私は彼の内面から溢れ出るなにかを感じ取っていたのだ。
無色透明の、危害を加えず常識的でいつも完璧な笑みを浮かべた爽やかな男の、内面からにじみ出る歪みのオーラを無視できない。
それは例えるなら、体内に底知れぬブラックホールを抱えているみたいだった。なにか噂を聞いたり、本人の行動に違和感があったりしたわけではないのに、不思議とそれは確信に近かった。
アンバランスなのだ。体裁に包まれた核の部分はどうなっているのか、見てみたい。そう願うことこそが、私にとっての恋なのかもしれなかった。
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