響子の声

羽翼綾人

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第四話:期待する声

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 兼久が大阪から帰った日、響子は完璧な妻として玄関で夫を迎えた。
「お帰りなさいませ、あなた」
 その声も、微笑みも、以前と何ら変わりはない。
 だが、響子の内面は、溶岩のような熱を抱えていた。
 夫の不在を良いことに、彼の寝室で、彼の弟と夜ごと肌を重ねた事実。
 それはもはや罪悪感ではなく、誰にも知られてはならない秘密を共有する、倒錯した優越感に変わっていた。
 日常が戻り、響子と英介の逢瀬はより密やかで、より大胆になった。
 書斎の奥の物置、庭の東屋、時には使用人たちが寝静まった後の湯殿でさえ、二人は互いの体を貪るように求めた。
 響子は、英介に抱かれるたびに、自分が久条家の貞淑な妻から、ただ一人の男を求める「女」へと変貌していくのを感じていた。
 体の変化に気づいたのは、それから一月ほど経った蒸し暑い朝のことだった。
 朝餉の匂いに、胃の腑がせり上がるような吐き気を催したのだ。
「……っ、う……」
 慌てて厠へ駆け込む。夏風邪かしら、と最初は思った。だが、それが数日続き、そして、毎月正確に訪れていた月経が途絶えていることに気づいた時、響子の血の気が引いた。
 ──まさか……。
 夫とは、もう一年以上も肌を合わせていない。
 もし、この体に新しい命が宿っているとすれば、その父親は。
 ──英介くん、あなたの子……。
 その思いは、恐怖よりも先に、熱い歓喜となって響子の胸を満たした。
 この子がいる。この子さえいれば、英介と二人、この息の詰まる家を出て生きていけるかもしれない。
 そんな甘い夢が、彼女の心を支配した。
 数日後、響子は女中に「少し気分が悪いから」とだけ告げ、旧知の産婦人科医を密かに訪ねた。
 小さな港町である高松では、どんな噂もすぐに広まる。
 誰にも見られぬよう、響子は顔を深く隠して病院の待合室で自分の名が呼ばれるのを待った。
 診察台の上で、響子はぎゅっと目を閉じる。
 やがて、初老の医師が穏やかな声で告げた。
「おめでとうございます、奥様。ご懐妊ですよ。二月といったところでしょうな」
 その言葉を聞いた瞬間、響子の目から涙が溢れた。
 女としての喜び、母となる歓喜。
 だが、その喜びは、病院の門を出た途端、冷たい恐怖へと姿を変えた。
 この子の父親は、夫ではない。
 久条家の嫁が、不義の子を宿した。
 その事実が白日の下に晒された時、自分はどうなるのか。勘当、離縁……すべてを失い、この子と二人、路頭に迷うことになるかもしれない。
 喜びと恐怖で心が張り裂けそうになりながら、響子は屋敷に戻ると、真っ直ぐに英介の部屋へと向かった。
「英介さん……!」
 障子を開けると、英介が驚いた顔でこちらを見た。
 響子は彼の腕に縋りつき、震える声で告げた。
「私……あなたの……赤ちゃんが、お腹に……」
 英介が驚き、そして喜んでくれることを響子は期待していた。
 共に悩み、あるいは「一緒に逃げましょう」と、あの夜のような穏やかな声で言ってくれることを。
 だが、英介の反応は、響子の予想を完全に裏切るものだった。
 彼は一瞬目を見開いたが、驚きも、慌てるそぶりも見せず、ただ、すべてを納得したかのように静かに微笑んだ。
「……そうですか。それは、良かった」
 その落ち着き払った声と、安堵したような表情に、響子は凍りついた。
「どうして……驚かないの。あなたの子なのよ……?」
「ええ、存じています。だからこそ、良かったと申し上げているのです」
 英介は響子の肩を抱き、優しく囁いた。
「大丈夫ですよ、響子さん。すべて、私が兄さんにお話しします。何も、心配はいりませんから」
 その言葉は、以前、彼女を安心させた時と同じはずなのに、今はひどく冷たく、空虚に響いた。
 彼の瞳には、恋人の情熱ではなく、何か大きな計画を成し遂げた兵士のような冷徹な達成感が宿っていた。
 響子は、自分が何かとてつもなく大きな、恐ろしい渦の中心にいるような感覚に襲われた。
 いつか英介が漏らした「これで兄さんもお喜びになる」という言葉が、不吉な予言のように脳裏に蘇る。
 この懐妊は、本当に二人の愛の結晶なのだろうか。それとも、何か別の、恐ろしい目的のために……。
 得体の知れない恐怖が、響子の全身を包み込んでいた。
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