響子の声

羽翼綾人

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第五話:恥知らずの声

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 響子は、英介の部屋で呆然と立ち尽くしていた。
 彼の落ち着き払った声、冷たいほどの静けさを湛えた瞳。目の前にいるのは、閨で自分を貪るように求めた情熱的な男ではなく、まるで知らない誰かのようだった。
「さあ、参りましょう、響子さん」
 英介は、響子の返事を待たず、その手を取った。有無を言わさぬ力強さだった。
「どこへ……?」
「兄さんのところです。すべてを、お話しする時が来ました」
 引きずられるようにして、響子は長い廊下を歩いた。目指す先は、夫である兼久の書斎。この屋敷の心臓部であり、そして、彼女が初めて英介に体を許した、始まりの場所だった。
 重厚な扉を開けると、兼久は椅子に深く腰掛け、静かに二人を迎えた。彼の前には、洋酒のグラスが一つだけ置かれている。その表情からは、怒りも、驚きも、何一つ読み取ることはできなかった。
「……兄さん」
 英介は響子を伴って部屋の中ほどまで進み出ると、まるで部下が上官に報告するかのような、事務的な口調で言った。
「ご報告いたします。響子さんが、ご懐妊されました」
 その言葉に、兼久はただ静かに頷いた。そして、響子ではなく、弟の英介に向かって、労うように呟く。
「それは、ご苦労だったね……英介」
 その光景が、響子には信じられなかった。
 妻の不貞を、その相手である弟から報告され、なぜ夫は怒らないのか。なぜ、弟を労うのか。
「どういう、ことですか……?」
 響子は、震える声で夫に問いただした。
「あなた……! 聞いておいででしたか! 私が、英介さんと……! なぜ、怒らないのですか……!」
 兼久は初めて響子に視線を向けた。その瞳は、凪いだ海のように、何の感情も映していなかった。
「私が、命じたのだ」
「……え……?」
「すべては、私が英介に命じたことだ」
 兼久は、静かに、そして冷徹に、すべての真実を語り始めた。
 彼は海外外遊中の事故の後遺症で、自分が跡継ぎを作れぬ体になったことを隠していた。まずは世間に、そしてそのためにも身内にすら秘匿していた。
 しかし、名族・久条家の血を、自分の代で絶やすわけにはいかないこと。
「……故に、英介に頼んだのだ。私の代わりに、お前を抱き、久条家の子を成してくれ、とね」
 その言葉は、まるで重い鉄槌のように響子の頭を打ちのめした。
 自分がただの「跡継ぎを産むための器」であったことを、悟った。
 英介への恋心も、夫への罪悪感も、すべてはこの兄弟の掌の上で弄ばれていたに過ぎなかった。
 彼の優しさも、愛の言葉も、あの夜の熱も、すべては自分を妊娠させるための、計算され尽くした「演技」だったのだ。
「そんな……。嘘でしょう……?」
 響子は最後の望みをかけ、英介の顔を見た。
「あなたも……あなたも、私を騙していたの……? 私はあなたの……!」
 英介は、冷ややかな笑顔で答えた。
「だって……こんなこと、そのまま伝えて納得してくれましたか? すべては久条家のためですよ」
 絶望と羞恥に、響子の膝が震える。
 それを一顧だにしない兼久の声が、これまでになく親しげな響きで、書斎に響いた。
「何はともあれ、良かった。まずは、その腹の子を無事に産んでくれ。だが、この家を盤石にするには、男子がもう一人……いや、二人は欲しいところだな。これからも頼むぞ、二人とも」
 その言葉を合図にしたかのように、英介が響子の隣に進み出て、彼女の震える肩を後ろから強く抱きしめた。
「よかったです、響子さん」
 耳元で囁く声は、逢瀬の時と同じ甘い響き。しかし、その腕の力強さは、もはや彼女に逃げることを許さない檻だった。
 目の前で抱き合う二人を見て、兼久は嫉妬の色も見せず、むしろ楽しむように口元を緩ませた。
「おいおい、英介。私の目の前で睦み合うのは、よしてくれんか」
「兄さん、公認の関係にしておいて、若い僕に我慢しろなんて殺生ですよ」
 英介は響子の胸元に手を、深く差し入れていく。
「……んんっ」
 苦悶に顔を歪めながら、響子は悟った。
 夫に命じられ、その弟に抱かれる。それは、地獄だ。
 しかし、夫に顧みられることのなかった孤独な日々は、もう終わったんだ。
 これからは、この家の血を繋ぐという目的のためだけに、二人の男に「必要」とされる日々が始まる。
 英介の腕の中で響子の唇に、かすかな笑みが浮かんだ。
「あ、あなた……。私──もう……自分の声を隠しませんからね」
 久条兼久の顔は涙で見えない。
 久条響子は、久条英介の手に導かれ、自分のものではないような女の声を上げ、その髪を振り乱した。
【終】
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