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第三話 菖蒲の香る甘い罠
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翌日の昼下がり、鶴丸は、主君である有馬忠晴の許しを得て、奥御殿へと向かっていた。
正室である菖蒲様が、あろうことか自分のような若輩の小姓を、香木の目利き役としてお呼びだという。にわかには信じがたい話だったが、侍女頭の瀬戸が直々に伝えに来たのだから、間違いはない。
奥御殿に足を踏み入れた瞬間、空気が変わるのを肌で感じた。男たちの汗と武具の匂いが満ちる表の世界とはまるで違う、花の蜜と甘い白粉が溶け合うような、女たちの領域。長い廊下に足を踏み入れただけで、息の詰まるような気持ちになった。そして、その足音が鳴るたびに、見えない視線が幾重にも自分に突き刺さっていくのを感じ、鶴丸は無駄のない動きで進んでいく。
通された菖蒲の私室。
そこは、昨日、庭から垣間見た時とは比べ物にならないほど、静謐で、そして冷たい美しさに満ちていた。
調度品はすべて、京の都から取り寄せた一級品。しかし、それらは生活の温もりを伝えるというより、主の気高い品性を誇示するかのように、厳かに鎮座している。
菖蒲は、多くの大名屋敷がそうであるように、冷たい木の床に置かれた畳の上に腰かけ、一冊の歌集を広げていた。鶴丸の気配に気づくと、彼女はゆっくりと本を閉じ、涼やかな視線を向けた。
「……参りましたか、鶴丸」
「は。お呼びにより、参上つかまつりました。鶴丸にございます」
畳に両手をつき、深く頭を下げる。顔を上げることを許されるまで、心臓の音がうるさくて仕方がなかった。
「面を上げなさい。そう硬くなさいますな。そなたを呼びつけたのは、他でもありません。これのこと」
菖蒲が、細い指先で卓上の小箱を示した。中には、夫から拝領したという伽羅の香木が納められている。
「どうにも、この長雨で湿気てしもうたようです。そなたは香に詳しいと聞いたゆえ、一度、見てもらえぬかと思いまして」
「は、はい。わたくしで、お役に立てるのであれば」
鶴丸は、緊張しながらも箱を手に取り、中から香木を取り出した。鼻を近づけると、確かに、本来の奥深い香りに、わずかな黴の匂いが混じっている。
「……これは少しだけ病んでいます。しかし、風通しの良い日陰で数日乾かせば、それだけで元に戻りましょう。幸い、芯までは傷んでおりませぬゆえ」
「ほう。流石ですね」
菖蒲は、感心したように言いながら、座を立ち、鶴丸のすぐ隣に膝をついた。
ふわり、と彼女の髪から花の香りが漂う。彼女の白い指が伸びて、鶴丸が持つ香木に触れた。
「そなたの手にかかれば、この香木も息を吹き返すと見て、よいのですね?」
その時、彼女の指先が、香木を持つ鶴丸の指に、ふと間違えたように触れた。
柔らかく、そして驚くほど滑らかな感触だった。それも、冬の朝の水のように、ひやりとしている。こんなものに触れたことはない。
鶴丸は、思わずはっと息を呑み、手を引こうとした。だが、それを察した菖蒲の手は力を込めることなく、彼の指の形を確かめるかのように、ゆっくり自身の指を絡ませていく。鶴丸はその動きに目を奪われて、手の力を抜いた。
「……美しい手をしている、鶴丸」
顔と顔の距離が近づいていた。甘やかな、よく通る囁きが、耳朶を打つ。
「このような綺麗な手で、殿の世話をしているのですか」
「……滅相も、ございません」
「謙遜する必要はありません。わたくしは、美しいものが好きです。……お前のその手も、顔も、声も、美しいと思います」
菖蒲は、そこで初めて、くすりと悪戯っぽく笑った。その笑みは、氷の仮面を溶かし、年相応の娘のようなあどけなさを一瞬だけ見せた。
「殿は、お前をよほど信頼しておいでの様子」
「……もったいのうございます。わたくしは、ただ、お役目を果たしているだけで……」
「お役目、と。ふうん、そう言いますのね。わたくしにはわかります。お前は、一個の小姓で終わる器とは思えませぬ。……お城の中は、何かと心細く思っておるのではないですか?」
その言葉は、まるで鶴丸の心の奥底を見透かしているかのようだった。貧しい家の出である自分。主君の寵愛がなければ、明日をも知れぬ身。その不安を、この気高い奥方は、すべてお見通しなのだ。
はい──と言いたい気持ちを、鶴丸はぐっと抑えた。もしそんなことをして、殿の耳にでも入ったら、大変なことになってしまう。鶴丸がその寵愛で受けている知行は失われ、それを生活の糧としている、年老いた両親も弟たちも、たちまちにして困窮してしまう。
鶴丸は、何も答えられなかった。ただ、絡められたままの指先から伝わる、彼女の冷たい肌の感触、その生々しさを受け止めかねていた。
「この香木のこと、礼を言わねばなりません。……また、そなたを呼んでもよろしい? 今度は、香の話ではなく……そう、京の都の話でも、聞かせてあげたい」
「……奥方様のお望みとあらば」
「ふふ。楽しみに待っておりますよ」
菖蒲は、ようやくその手を離すと、満足そうに微笑んだ。
鶴丸は、どうやってその部屋を辞したのか、覚えていない。ただ、奥御殿の長い廊下を早足に歩きながら、まだ自分の指に残る彼女の冷たい感触と、花の香りを、何度も確かめた。
あの氷のような奥方が、自分にだけ見せた、寂しげな表情。そして、男としての自分を肯定するかのような、甘い言葉の数々。
それが、巧妙に仕掛けられた罠の、最初の一滴の毒であることに、まだ彼は気づいていなかった。
ただ、これまで感じたことのない胸の高鳴りと、男性的な身体の反応に戸惑うばかりであった。
正室である菖蒲様が、あろうことか自分のような若輩の小姓を、香木の目利き役としてお呼びだという。にわかには信じがたい話だったが、侍女頭の瀬戸が直々に伝えに来たのだから、間違いはない。
奥御殿に足を踏み入れた瞬間、空気が変わるのを肌で感じた。男たちの汗と武具の匂いが満ちる表の世界とはまるで違う、花の蜜と甘い白粉が溶け合うような、女たちの領域。長い廊下に足を踏み入れただけで、息の詰まるような気持ちになった。そして、その足音が鳴るたびに、見えない視線が幾重にも自分に突き刺さっていくのを感じ、鶴丸は無駄のない動きで進んでいく。
通された菖蒲の私室。
そこは、昨日、庭から垣間見た時とは比べ物にならないほど、静謐で、そして冷たい美しさに満ちていた。
調度品はすべて、京の都から取り寄せた一級品。しかし、それらは生活の温もりを伝えるというより、主の気高い品性を誇示するかのように、厳かに鎮座している。
菖蒲は、多くの大名屋敷がそうであるように、冷たい木の床に置かれた畳の上に腰かけ、一冊の歌集を広げていた。鶴丸の気配に気づくと、彼女はゆっくりと本を閉じ、涼やかな視線を向けた。
「……参りましたか、鶴丸」
「は。お呼びにより、参上つかまつりました。鶴丸にございます」
畳に両手をつき、深く頭を下げる。顔を上げることを許されるまで、心臓の音がうるさくて仕方がなかった。
「面を上げなさい。そう硬くなさいますな。そなたを呼びつけたのは、他でもありません。これのこと」
菖蒲が、細い指先で卓上の小箱を示した。中には、夫から拝領したという伽羅の香木が納められている。
「どうにも、この長雨で湿気てしもうたようです。そなたは香に詳しいと聞いたゆえ、一度、見てもらえぬかと思いまして」
「は、はい。わたくしで、お役に立てるのであれば」
鶴丸は、緊張しながらも箱を手に取り、中から香木を取り出した。鼻を近づけると、確かに、本来の奥深い香りに、わずかな黴の匂いが混じっている。
「……これは少しだけ病んでいます。しかし、風通しの良い日陰で数日乾かせば、それだけで元に戻りましょう。幸い、芯までは傷んでおりませぬゆえ」
「ほう。流石ですね」
菖蒲は、感心したように言いながら、座を立ち、鶴丸のすぐ隣に膝をついた。
ふわり、と彼女の髪から花の香りが漂う。彼女の白い指が伸びて、鶴丸が持つ香木に触れた。
「そなたの手にかかれば、この香木も息を吹き返すと見て、よいのですね?」
その時、彼女の指先が、香木を持つ鶴丸の指に、ふと間違えたように触れた。
柔らかく、そして驚くほど滑らかな感触だった。それも、冬の朝の水のように、ひやりとしている。こんなものに触れたことはない。
鶴丸は、思わずはっと息を呑み、手を引こうとした。だが、それを察した菖蒲の手は力を込めることなく、彼の指の形を確かめるかのように、ゆっくり自身の指を絡ませていく。鶴丸はその動きに目を奪われて、手の力を抜いた。
「……美しい手をしている、鶴丸」
顔と顔の距離が近づいていた。甘やかな、よく通る囁きが、耳朶を打つ。
「このような綺麗な手で、殿の世話をしているのですか」
「……滅相も、ございません」
「謙遜する必要はありません。わたくしは、美しいものが好きです。……お前のその手も、顔も、声も、美しいと思います」
菖蒲は、そこで初めて、くすりと悪戯っぽく笑った。その笑みは、氷の仮面を溶かし、年相応の娘のようなあどけなさを一瞬だけ見せた。
「殿は、お前をよほど信頼しておいでの様子」
「……もったいのうございます。わたくしは、ただ、お役目を果たしているだけで……」
「お役目、と。ふうん、そう言いますのね。わたくしにはわかります。お前は、一個の小姓で終わる器とは思えませぬ。……お城の中は、何かと心細く思っておるのではないですか?」
その言葉は、まるで鶴丸の心の奥底を見透かしているかのようだった。貧しい家の出である自分。主君の寵愛がなければ、明日をも知れぬ身。その不安を、この気高い奥方は、すべてお見通しなのだ。
はい──と言いたい気持ちを、鶴丸はぐっと抑えた。もしそんなことをして、殿の耳にでも入ったら、大変なことになってしまう。鶴丸がその寵愛で受けている知行は失われ、それを生活の糧としている、年老いた両親も弟たちも、たちまちにして困窮してしまう。
鶴丸は、何も答えられなかった。ただ、絡められたままの指先から伝わる、彼女の冷たい肌の感触、その生々しさを受け止めかねていた。
「この香木のこと、礼を言わねばなりません。……また、そなたを呼んでもよろしい? 今度は、香の話ではなく……そう、京の都の話でも、聞かせてあげたい」
「……奥方様のお望みとあらば」
「ふふ。楽しみに待っておりますよ」
菖蒲は、ようやくその手を離すと、満足そうに微笑んだ。
鶴丸は、どうやってその部屋を辞したのか、覚えていない。ただ、奥御殿の長い廊下を早足に歩きながら、まだ自分の指に残る彼女の冷たい感触と、花の香りを、何度も確かめた。
あの氷のような奥方が、自分にだけ見せた、寂しげな表情。そして、男としての自分を肯定するかのような、甘い言葉の数々。
それが、巧妙に仕掛けられた罠の、最初の一滴の毒であることに、まだ彼は気づいていなかった。
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