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虚像
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しおりを挟むショパン婦人に手を振られ、リゼは階下へ降りてきた。すぐ後ろには婦人の甥に当たる紳士がいる。エル・ビングリーと紹介された。
「あなた、ぜひリゼの困難を救ってあげなくてはいけないわ。そうして頂戴」
叔母の命にエルはリゼを見て驚いていた。泣き腫らした顔をしているかと、彼女は恥ずかしくなった。
見ず知らずの紳士に夫婦間のみっともない内情を知られるのは、いかにも気まずかった。そう断ったが婦人は引かなかった。
「エルに同席させなさい。悪いことは言わないわ。この子、きっとあなたの役に立つから」
当のエルは叔母のお節介に慣れているのか、事態をすんなりと受け入れた。父と親しかった婦人の善意は拒絶しにくい。また、リゼの気づかなかったキッドの一面を突いた幾つかの言葉は、うろたえるのとは別に気持ちを揺さぶっていた。
そんなところにエルが事務的な声で促した。
「事情をうかがわないことには叔母の命に背くことになり、おなたのお役にも立てない」
彼女を一瞥し懐中時計で時間を検めた。その仕草が商談のようでもあり、リゼはなぜか気まずさが削がれてしまった。眼前の仕事と捉えられたのかもしれない。
婦人の居間で打ち合わせを行なった後で、二人で階下に降りてきた。背の高い彼を自宅の居間に招き入れながら、彼女は妙なことになった今の事態に呆れている。
居間には既にキッドがいた。フランはいない。予想より随分と早いリゼの姿と見知らぬ紳士の登場に、彼は明らかに動揺していた。
エルは一人掛けの椅子に掛け室内を眺めている。濃茶の髪に青い目が印象的な端正な人だ。リゼより年上のようだが、キッドより少しばかり若く見える。
「叔母の所と雰囲気が違う」
「何が違います?」
「レースが……」
その答えにリゼはちょっと笑った。ショパン婦人の居間はレースの飾りがふんだんに部屋を彩っている。リゼの居間はキッドの趣味も容れ、上質ではあるがごくシンプルだ。
キッドが咳払いをした。闖入者のエルが不審なのだ。
「上の階のショパン婦人の甥御さんよ。立ち会って下さるの」
エルはキッドに名乗りもせず、ちらりと一瞥しただけだ。一方キッドは目を大きくして責めるようにリゼを見た。部外者を入れることが腹立たしいのだろう。
夫の視線を受けることも不快で、彼女は顔を逸らした。
「妻が何を頼んだか知らないが、お帰り願います。家庭内の話で他人の意見は不要ですから」
「いや、僕は彼女に依頼を受けここにいます。あなたの意図は関係ありません」
やや傲岸にも聞こえる声音でエルが言う。キッドはそれに何も返せず、やはりリゼをにらんだ。彼女はそれをまた避けた。
そこへドアが開きフランが現れた。キッドに微笑みかけてすぐにエルに気づき、表情を硬くする。リゼの座る長椅子の空いた場所に腰を下ろした。結った髪はまだぬれている。その意味がわかるだけに禍々しいほど不快だった。
目の奥が熱くなる。
麻痺したように平らだった気持ちに怒りが生じた。彼ら二人の裏切りは妻であるリゼを完全に踏み躙るものだった。幸せだった過去も未来の豊かな可能性も。
(全部、もうない)
戸惑いながらも幸福にまみれた新婚時代。父を亡くしてからのキッドを支えることに懸命だった日々。それらは思い出すことも辛い心の負債に化けた。そこで怒りは虚しさに取って代わる。
「わたしは……」
そこまでを言い胸が詰まった。こんな思いをするために彼に恋をしたのだろうか。信じたものを失い自分の依って立つ場所も危うくぐらついた。二人で造ってきたはずの世界の崩壊。薄い吐き気を感じた。
「お顔の色が悪いですわ」
リゼの様子をうかがうフランの気遣いが空々しい。
「君から何もないなら僕は…」
キッドが言い切る前にエルの声が遮った。
「リゼは離婚を望んでいます。そちらが直ちに合意するのであれば、彼女には資金の提供の用意もあります。若干ですがね」
その声にキッドが息をのんだ。リゼとエルに視線を向ける。予想外の展開に慌てているのは明らかだった。
エルの言葉は打ち合わせた内容と同じだった。「若干の資金」とはフランのために用意した礼金をそのまま流用することを指す。ショパン婦人はそれすらも反対したが、速やかな解決にはある程度の手切れ金は必要だとエルが説明した。「ごねられては困る」と。リゼもそれに賛成だった。
キッドとフランの視線が交じり合った。以前だったら気づきもしなかっただろう。こんな風に真実への示唆はほろほろとこぼれていたのかもしれない。リゼがそうと見なかっただけで。
キッドを信じていた。
(でも、わたしは見たくないものを見なかっただけなのかも……)
散々、工房の従業員たちには夫の件で皮肉られていたのに。自分の理想を頑なに守って目も耳もふさいでいたようだとも思う。
キッドとフランが微かに頷き合う。リゼからはフランの頷きに遅れて彼が返したように映った。驚きに怯んだキッドをフランが励ましている、そんな光景だ。
「他人で部外者のあなたが同席して下さり、却ってよかったかもしれない。冷静な第三者が話し合いの場にいるのは、誰にとっても損ではないですから」
キッドはつないで、
「僕も離婚を望みます。リゼとは目指す将来の方向性が違う。僕は文学的な創作にこれからを捧げていきたい。彼女はそういった面の教養も理解もなく、妻としての限界を感じていました。厳しい言い方になるが、仕事が第一で家庭も顧みず利己的です。共に歩んでいくには、そういう女性は僕に相応しくないのです」
と結んだ。声は平静で自信も感じられた。リゼが初恋を捧げ愛した彼からの冷たい拒絶だった。心を裂くようなそれを聞いても、リゼに憎しみは浮かななかった。自分がキッドを失った事実を改めて思ったのみだ。
ふふっと、間を開けて座るフランの吐息のような笑みが聞こえた。
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