わたしの方が好きでした

帆々

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エル

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 ビングリー家は大通りを逸れた景観のいい地区にあった。邸には父娘と家庭教師のミス・クローバーが暮らす。住み込みの使用人がいて優雅で快適な住まいだった。

『ハーパー・スクール』を紹介する話が実現し、面談を終えたその帰りだった。エルは娘のブーケとリゼを連れ帰り招き入れると、自身は仕事のために出かけて行った。

 卒業生で主宰と昵懇のリゼの紹介であり、ブーケの入学はその場で決まった。教師の質も校内の雰囲気もビングリー父娘には十分合格点だったようだ。学費について説明があり、その額にエルは驚いてリゼを見た。『アナベル学院』の高額な費用に比べてかなり常識的な額であり、肩透かしだったからだろう。

 ブーケは小さな女主人よろしくお茶の準備をメイドに命じた。テーブルには二人分の用意がされる。

「ミス・クローバーはいらっしゃらないの?」

「今日は午後からわたしたちが留守だから、お出かけすると言っていたわ。そろそろ帰るのではない?」

 ブーケは焼き菓子を頬張ってから、頬杖をついた。新しく始まる学校に興奮しているようだ。昨今の令嬢向けのフィニッシングスクールは入学も家庭によりまちまちだ。ブーケより幼い者もいれば、すっかり大人びてから入って来る者もある。その家庭と本人の求めるものによって学ぶ期間も異なってくるからだ。

「またドレスを作らなくっちゃ。お父様にお願いしないと。在校生に侮られたくないもの」

 ブーケの年頃なら、来年には同じ衣装が着られないことも多い。なるべくあるものを手直して着回すのが普通だが、娘に甘いエルならばおそらく疑問も持たずに買い与えるのだろう。

 リゼが通っていた頃にもおしゃれな少女がいて目立っていた。のち社交界の華になっていい縁談に恵まれたと聞く。注目も自信も育むには材料が要る。ある程度の美貌だけでは寂しくて、それを磨く資金があって初めて輝くのかもしれない。

 その二つもしっかり手に入れて育つブーケは幸せな少女だと思った。そして、エルの甘やかしには母親不在の隙間を埋める意味も強いだろう。

『ハーパー・スクール』の面談の際、期せずして父子家庭の事情をリゼももれ聞くことになった。

「母親はブーケを産んで間もなく亡くなりました。以後、僕の元で育てています」。淡々と告げたエルには何の影も見えなかった。伝えられた主宰が同情を寄せて、喪失があっても明るいブーケの利発さを褒め、その教育のお手伝いをさせていただきたいと熱く答えた。

「良かったわ、あなたにもお父様にもスクールを気に入ってもらえて」

「主宰のおっしゃっていた奉仕の勉強ってなあに? 難しいの?」

「寄付の衣服を縫ったり、お菓子を用意して慰問に行ったりするのよ。割とあるから頑張ったらいい点がもらえるわ」

「どうしよう。お裁縫は全然だめ」

 いやいやと言うように首を振る。こんな仕草は子供らしい。
 
 リゼはその不安に応えてやり励ました。裁縫はどのフィニッシングスクールでも必須の教養で、逃れられない。こればかりはエルが甘やかしてもどうにもならない。リゼだってべそをかきながら課題のシャツを仕上げたことがある。

「みんなでわいわい言いながら作業するの。楽しかったわ」

 いいも思い出を教えるとブーケの表情は晴れた。仲間と共通の目的を持って何かをやり遂げるのは充実した時間だ。

(工房の仕込みと同じだわ)

『ハーパー・スクール』以降変わらず同じことをしていると思う。

 ミス・クローバーの帰宅を待ってリゼはビングリー家を辞した。真っ直ぐに工房へ向かい、秘書のネロリから報告を聞いた。必要な手紙を書き配達を頼んだ。

 工房を出たのはとっぷり暮れた頃だ。新作のお菓子を手に家路についた。階上のミス・ショパンにお裾分けをしようと思いつく。

 早め夕食を終えて寛いでいた婦人は、リゼの来訪を喜んでくれた。彼女も夕食を控えているからすぐに失礼しようとするが、椅子を勧められた。ほんのちょっとのつもりで言葉に従う。

「これは楽しみにして明日いただくわ。ねえ、その後どう?」

 促されてリゼははっとなる。婦人はエルとは親しい。その娘に学校を紹介することを伝えていなかった。頭越しになって失礼だったかとも思う。

「お知らせが遅れてごめんなさい。ブーケちゃんの学校をお世話することになったのをお伝えしそびれていて……」

「あら、そんなこと…」

 婦人はふふっと笑った。別の何かを意図していたようだ。

「あの子達が面倒をかけて悪かったわ。でも、確かブーケは『アナベル学院』に行くのだって言っていたと思うのだけれど」

 リゼは事情を話すと婦人は頷いて、

「あそこは寄付金がものすごいでしょう。実際的なエルは好かないはずよ。だからわたしは勧めないでいたの。でもどうせブーケにせがまれて折れるのだろうと思っていたわ」

「お嬢さんにお優しいもの」

「大甘よ。母親のいない負い目もあるから、しょうがないのかもしれないわ」

 初めて婦人からエルの家庭の話が出た。父娘と親交ができたリゼだからこそ打ち明けるのだろうと感じた。妻を亡くした事実はむやみに吹聴すべきではない。

「ちゃんとした家庭教師も付いているわ。そもそもブーケは母親を知らないのだから勝手に不憫がるのもどうかと思うの」

「……奥様を亡くされたのは、まだブーケちゃんが産まれて間もない頃だとうかがったわ。お辛かったでしょうね。そんなエルのお気持ちが娘さんに向かうのかも」

 そこで婦人はまじまじとリゼを見た。長く見つめるから、身内の事情に不用意なことを言ったのかと彼女はやや不安になる。

「あの……、わたし何か、失礼なこと…」

「違うわ。そうじゃないの。母親は死んでなどいませんよ。まだ赤ん坊のブーケを置いて出て行ったの。それに、実のところ父親もエルではないわ」

 婦人の口調は苦々しいものだった。リゼの元夫キッドのことに触れる時もこうだった、と場違いに思い出した。そして、のまれたように口も開けないでいた。

「ブーケの実父はエルの兄のフィルなの。可哀そうに船の事故でね、まだ二十八だった。両親であるわたしの兄夫妻が残った母子ごと引き取って暮らすことになったの。なのに、一月も経たないうちに母親は家を出てしまったわ」

「それは、どうして?」

「街暮らしを夫婦だけで気楽に楽しんでいた人よ。義両親の保護下で窮屈な一生を過ごすのは耐えられなかったのでしょうね。兄夫妻は引退して田舎に居を移してしまったから、なおのことね。兄達に「やり直したい」と直談判したそうよ。ブーケを渡す代わりに言い値を支払って欲しいと。義姉が言うには随分な額を渡したらしいわ。「添い遂げられなかったのはフィルのせいだから」って」

 婦人はため息を一つ、その後をつないだ。
 
「その頃エルは遠方の大学の寮に入っていたの。自分からブーケの父親になると言ったわ。両親そろって失くすのは残酷過ぎるからと。卒業するまで兄達が面倒を見て、エルは長期休暇で帰省のたびに相手をしていたわ。その後、フィルが継いでいた事業をあの子が引き継いで、ブーケも引き取って今の暮らしになったのよ」

「ブーケちゃんはそのことは?」

「知らないわ。実の父親だと信じている。母親はお産の不幸で亡くなったということにして、周囲もそのように振る舞ってきたの」

「わたしは決してもらしたりしませんから」

 リゼが強く首を振ると婦人は小さく笑った。

「今回、ブーケの学校であなたの紹介を頼んだでしょう。エルがブーケのことで他人を頼るのは珍しいと思ったの。特に女性をね。きっとあなたを信用しているのよ。もしかしたら今後、リゼの助言が必要なことがあるかもしれない。男親には女の子の難しい時期は手に負えないかもしれないじゃない。ぜひ親身になってあげてほしいのよ」

 婦人の言葉はリゼが父子家庭を経験しているからだと思われた。ブーケもじき思春期を迎える。父親には放っておいて欲しい反面、甘えた気持ちはそっくり残る当人にも焦ったいような季節だ。リゼにも過ぎたそんな思い出はある。
 
「エルがドレスを買ってやれば解決することばかりじゃないでしょうからね」

「わたしでよければ」

 そんなことがもしあれば、という軽い気持ちで頷いた。彼らは二人で完結した家族を作っている。足りないように見えても二人で完成している、とリゼは思う。母を亡くした後の自分たち父娘がそうであったように。

「ねえ、ところで男爵との進展はないの? お似合いのあなた達のそれを聞けると思って楽しみにしていたのに」

「嫌だ、おばさま。ないわ」

 リゼははにかんで答えた。そのまま席を立ち辞去を告げた。

 階下へ降りながら、婦人の話を振り返る。いつかエル自身が「僕も兄を亡くした時に……」と口にしていたこととつながる。リゼが過去のショックで具合を悪くした時に彼が気遣ってくれた時のものだ。

(お兄様を亡くされた時、とても辛かったのだわ。身体が苦しむほど……)

 その想像にリゼ自身の痛みも蘇るようで急いで目をつむり頭を振った。
 
 婦人の表情にも言葉にも、身勝手な母親に対する往時の心情がにじんでいた。ブーケの身内が母親を良くは思えないのは自然だ。父を亡くしたばかりの娘を今度が母が置いて去ってしまった。家族が裏切られたように感じるのはよくわかる。

 しかし、環境ががらりと変化し、若い母親も戸惑い混乱したのは違いない。望んでいた道とは違う道を強引に選ばされる。一生それが続く……。愛する夫も消え絶望した思いを味わったのかもしれない。逃げ出したくなる衝動は強く責められない気もした。確かに無責任ではあるが。

 夕食を済ませ、キッチンで後片付けをする。ふとのぞいた窓から、木々と道を隔てたテリアのバルコニーが見えた。彼がよくそこでぶらりとタバコを吸っている。この日は無人でちょっと肩透かしな気分だった。

 ふと、婦人の興味津々な声音も耳に蘇る。

(わたしが男爵夫人? まさか……、ないわ)

 心で否定しつつも頰のあたりがくすぐったい。
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