わたしの方が好きでした

帆々

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ブーケ

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 晩餐の日。一旦強まった雨足はじき弱まり、霧雨になった。

 リゼはショパン婦人に先立って馬車を降りた。案内を受けてビングリー家の玄関を潜った。廊下を進んでほどなく居間から和やかな笑い声が届く。ブーケには響き過ぎる大人の女性のものだ。

「アグネスね」

 ショパン婦人の囁きにリゼは頷いて返した。開いた扉の向こうではエルが立ち客を出迎えた。リゼの肩の奥に婦人の姿を見つけて驚いている。

 婦人は彼の驚きを置いてリゼと共に居間に入った。長椅子のブーケの横にアグネスがいた。首元のレースが美しい凝ったドレスを着ている。ぱっと目を引く華やかさだった。目にした時、ちくんと胸を刺す痛みが走った。

 アグネスの花のような笑顔は婦人が部屋に入った途端に凍りついたように固まった。

「あら、嬉しいわ。大叔母様もいらして下さったのね。お食事の後で皆んなでゲームをしましょう」

「急でごめんなさいね。リゼから聞いてぜひ混ぜて欲しくてお邪魔したわ」

 アグネスはすぐに顔を伏せ、居心地悪そうにドレスの膝を撫でさすっていた。

「叔母上はいつでも歓迎ですよ。ご紹介します、こちらのご婦人は…」

 エルの紹介をショパン婦人は手をかざしてやんわり遮り「もちろん知っていますとも」と答えた。

「お懐かしいわ、アグネスではない? 以前にお会いしたのは随分前、確か兄の屋敷でね。あなたのお気に入りの玉突き部屋を覚えていて?」

「……ご無沙汰をしております……」

 どうにか聞き取れる程度の小さな声で返した。アグネスに笑みはすっかり消え、居心地悪そうにもじもじと落ち着かない様子だ。それを婦人は冷静に眺めてからエルへ顔を向けた。

「晩餐の前に少しだけ時間をもらえないかしら? 長くはかからないから。そう、アグネス、あなたにも。思い出にちょっとつき合って頂戴な」

 婦人の言葉は何気ない口調だった。しかし、三人だけで話す意図が怪訝なエルは、ちらりとアグネスに視線を流している。叔母の予定のない訪問の目当てが彼女にあるのは察したようだった。

「それは構いませんが……」

 アグネスは椅子に固まったように掛けたままだ。事態の展開に観念したようにも開き直ったようにも見えた。

 リゼはブーケを促してミス・クローバーと共に居間を出た。食堂に入り扉を閉めた。既に食卓は美しく整えられていた。人々が席に着けばすぐにも晩餐が始められるだろう。

「大叔母様のお話って何かしら?」

「わたしも詳しくはわからないわ」

 リゼにもショパン婦人が何を話すつもりなのかは知らされていない。知っているのは彼女が兄夫妻に手紙を書き送り、その返事があったことだけだ。

 長くは待たなかった。十五分ほども経った頃扉が開き、ショパン婦人を伴ってエルが入ってきた。二人きりでアグネスの姿はない。

「ミス・ゼノンはどうなさったの?」

 怪訝そうに眉根を寄せたブーケにエルが答えた。

「急用があってお帰りになった。お前に「済まない」とおっしゃっていたよ」

「……何のお話だったの?」

 勘が鋭くなくとも、アグネスの急な帰宅は先ほどの話し合いが原因だとは気づく。ミス・クローバーもおろおろした様子でエルとショパン婦人を交互に見やっていた。

「ミス・ゼノンがお前に話した事柄と叔母上の記憶が異なっていたんだ。それで叔母上は父上にも問い合わせて下さった。その証拠もある。結果、ミス・ゼノンの方が事実ではなかった。……随分前のことだから、勘違いなさったのだろう」

 エルが嘘で誤魔化すのではなく、詳細をぼかしながらもそのままを伝えたのは、ブーケの聡明さのためだ。子供だましに取り繕っても不可思議が際立つだけだ。しかし、アグネスを貶めることもできない。過去に何があろうとブーケの母親であることは確かなのだから。

「お祖父様たちがミス・ゼノンを追い出したというところでしょう?」

「どうしてそう思う?」

「フィルが亡くなった後で、お祖父様たちがその妻を追い出すなんてしないわ。そんな残酷なこと……」

「そうね。わたしも兄たちがそんなことは決してしなかったと知っているの。だから、その記憶を訂正してもらったのよ。ビングリーの名誉に関わる大事なことだから譲れないわ」

 婦人の声は穏やかだが決然としていた。アグネスがビングリー家を訪れることはもうないだろう。この中の誰もがそう悟った。

 沈黙ができた。それを逃さずエルがベルを振った。この話は打ち切った、という意思表示にも見えた。すぐに使用人が現れ、遅れた晩餐が始まった。

 アグネスの分の空席はショパン婦人が当たり前に埋め、何の違和感もなかった。食事中アグネスの話題は一切なく和やかに終始した。晩餐の後ではブーケの希望でゲームを遊んだ。敢えてか少女は朗らかな様子だった。

 そんな中、リゼはエルの視線を感じることが度々あった。何気なく受け止めつつ後ろめたさがひっそりと残った。アグネスの件を彼に相談なくショパン婦人に告げてしまったことの気まずい罪悪感がだ。彼にも考えはあったはずなのに。

 結果、婦人のおかげでブーケが傷つかないように事は収まった。自分の行動に後悔はない。そこではなく、この顛末にほっとしている自分の心がほんのりやましい。

 ブーケのため。そればかりを思っていたはずが、別な感情も混じるのを感じている。アグネスが消えてくれたことが嬉しかった。

(わたしが嫌だった)

 その思いこそがショパン婦人に打ち明けた原動力になったのかもしれない。ふと、そう思う。エルの視線はそんな彼女のエゴに気づいたしるしではないだろうか。
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