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八、ある母親の願い
第三十五話
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連日、玉里さんの夢に入っていた。玉里さんはいつも、可愛らしい子ども部屋に一人でいる。
あまねはなんとかして玉里さんと話そうとしているけど、うまくいかなかった。彼女が母親かもしれないと思うと、緊張してしまうそうだ。あまねが玉里さんに慣れるまでは、俺が玉里さんと話をすることになっている。
玉里さんとの話題は、ほとんどが世間話。玉里さんは藤波さん以上にガードが堅いらしい。世間話のついでに、彼女が玉響大学の食堂で働いているという裏付けはとった。俺達に気づいているかどうかはわからないけど、会いに行こうと思えば、いつでも会いに行ける。
「あの、玉里さんの願望の話、詳しく聞いてもいいですか?」
そう切り出したのは、ようやくあまねが玉里さんと会うのに緊張しなくなった頃だった。今回は悪夢を食べる以外に、玉里さんとあまねの関係性を見つける目的もある。彼女の話を、慎重に聞く必要があった。
玉里さんは、思いのほかあっさり話してくれた。
「じゃあ先に、私と夫の話をしましょうかね。どうせ、娘とはぐれた経緯を話さなくてはならないし。
……私が夫と会ったのは、こぢんまりとした公園。私も夫も、家を失ってさまよっていたときだった。父親の会社が破産してしまって、生活が破綻して、家も土地も、なにもかも売ってしまった。父も母も贅沢しか知らなかったから、歯止めがきかなかったのでしょうね」
事実を淡々と語る彼女は、あまねと同じ話し方をしているような気がした。
「夫は、玉里拓海っていうんだけどね、あの人もある意味被害者よ。あの人は高校生のときに家を追い出されて働きに出たのに、身体を壊してしまって、結局仕事を失ってしまったの。社宅だったから住む場所もなくなって、公園にいた。いわゆるホームレスね」
その話を聞いている間、あまねはピクリともしなかった。
「私達は、なにも知らない子どもだった。今のあなた達と同じくらいの年齢だったけど、精神的に子どもだった。そのときは、できてしまった子どもをどうしたらいいかも知らなかったの。今思えば、無事に生まれてきたのは奇跡だったのね。私達は役所に届け出ないまま、『雨音』を育てていた」
玉里さんは哀しそうに笑う。その姿を、あまねは無表情で見ていた。玉里さんは、その視線に気づいていない。
ついにあまねが口を開いた。
「教えて、ください。その、『雨音』って人の話」
ほとんど黙ってばかりいたあまねの一言に、驚いたような目をする。玉里さんの目には、あまねはこの話に興味を持っていないように映っていたみたいだ。
玉里さんは、あまねによく似た困った笑みを浮かべる。そして、遠い記憶を追いかけるように話し始めた。
「私が娘を産んだのは十九年前。その日は雨が降っていた。公園には私みたいなホームレスしかいなかった。病院に行くお金もない、頼れる人もいない、お腹の中の子どもがどんな状態かもわからない。不安だった。
──そんな不安は、子どもが生まれた瞬間にどこかへ行ってしまった。子どもを産んだ後、どうしたらいいかなんて、まったく知らないのにね」
明るさをとり戻していた玉里さんの顔から、一切の笑みが消えた。
「日雇いの仕事で、なんとかその日しのぎの生活をしていた。娘にも、かなり不自由な思いをさせたわ。……それでも私は、幸せだったの。あの日が来るまでは」
あまねの身体がいよいよ硬くなった。玉里さんが子どもとはぐれたときの状況と、あまねが両親とはぐれたときの状況。この二つがどれだけ似通っているかで、今後の行動が変わる。
「『雨音』が一歳を過ぎたくらいだったかしら。とにかくその日は、雨が降っていたのは覚えてる。娘に、あなたが生まれた日も、こんな天気だったと教えた記憶があるわ。不吉だとは思わなかった。むしろ、幸せを運んでくるのだと思っていた。そんなときに、大きな地震があったの。……知ってる?」
あまねは小さくうなずいた。俺は、地震があったという事実しか知らなかったけど、曖昧に頷く。
十八年前に起きた地震。後からインターネットで知った情報だけど、このあたりでは被害が出たそうだ。数人が亡くなっている。マグニチュードはそんなに大きくなかったから、全国的な被害は小さかった。だから、世間的に知られているわけでもない。俺は元々玉響にいたわけじゃないから、それ以上のことは知らない。
「住宅街の方で火災の危険があったから、広い場所に避難することになって、私達がいた公園にも、たくさんの人が集まってきた。『雨音』があんな数を見たのは初めてだったから、興奮してしまったのでしょうね。気がついたら、私の手からするりと抜けて、どこかへ行ってしまったの。あっという間にどこかに行ってしまった……。
すぐに娘を探そうとはしたんだけど、無知な私達のせいで『雨音』は無戸籍児だったから、探すことすらできなかった。『そんな子、本当に存在するんですか?』って言われたわ。皮肉なことに、そのおかげで私達は公的な支援を受けられるようになって、今では生活も安定しているけど、『雨音』は見つからないまま。あれからもう、十八年が経ってしまった」
玉里さんは、自嘲的に笑った。
「これが、私が知っている『雨音』の話。今となっては、どこでなにをしているのか、生きているかそうかさえわからない」
「…………」
あまねは、言おうか言うまいか迷っているようだった。
長い間考えてから、口を開く。
「私の話も、聞いてくれますか?」
玉里さんは、きょとんと瞬きしてから笑顔になった。
「わかったわ。でも、今日はおしまい。もう朝よ。起きないと」
「はい。……明日も、来ます」
それを最後に、夢が終わった。
あまねはなんとかして玉里さんと話そうとしているけど、うまくいかなかった。彼女が母親かもしれないと思うと、緊張してしまうそうだ。あまねが玉里さんに慣れるまでは、俺が玉里さんと話をすることになっている。
玉里さんとの話題は、ほとんどが世間話。玉里さんは藤波さん以上にガードが堅いらしい。世間話のついでに、彼女が玉響大学の食堂で働いているという裏付けはとった。俺達に気づいているかどうかはわからないけど、会いに行こうと思えば、いつでも会いに行ける。
「あの、玉里さんの願望の話、詳しく聞いてもいいですか?」
そう切り出したのは、ようやくあまねが玉里さんと会うのに緊張しなくなった頃だった。今回は悪夢を食べる以外に、玉里さんとあまねの関係性を見つける目的もある。彼女の話を、慎重に聞く必要があった。
玉里さんは、思いのほかあっさり話してくれた。
「じゃあ先に、私と夫の話をしましょうかね。どうせ、娘とはぐれた経緯を話さなくてはならないし。
……私が夫と会ったのは、こぢんまりとした公園。私も夫も、家を失ってさまよっていたときだった。父親の会社が破産してしまって、生活が破綻して、家も土地も、なにもかも売ってしまった。父も母も贅沢しか知らなかったから、歯止めがきかなかったのでしょうね」
事実を淡々と語る彼女は、あまねと同じ話し方をしているような気がした。
「夫は、玉里拓海っていうんだけどね、あの人もある意味被害者よ。あの人は高校生のときに家を追い出されて働きに出たのに、身体を壊してしまって、結局仕事を失ってしまったの。社宅だったから住む場所もなくなって、公園にいた。いわゆるホームレスね」
その話を聞いている間、あまねはピクリともしなかった。
「私達は、なにも知らない子どもだった。今のあなた達と同じくらいの年齢だったけど、精神的に子どもだった。そのときは、できてしまった子どもをどうしたらいいかも知らなかったの。今思えば、無事に生まれてきたのは奇跡だったのね。私達は役所に届け出ないまま、『雨音』を育てていた」
玉里さんは哀しそうに笑う。その姿を、あまねは無表情で見ていた。玉里さんは、その視線に気づいていない。
ついにあまねが口を開いた。
「教えて、ください。その、『雨音』って人の話」
ほとんど黙ってばかりいたあまねの一言に、驚いたような目をする。玉里さんの目には、あまねはこの話に興味を持っていないように映っていたみたいだ。
玉里さんは、あまねによく似た困った笑みを浮かべる。そして、遠い記憶を追いかけるように話し始めた。
「私が娘を産んだのは十九年前。その日は雨が降っていた。公園には私みたいなホームレスしかいなかった。病院に行くお金もない、頼れる人もいない、お腹の中の子どもがどんな状態かもわからない。不安だった。
──そんな不安は、子どもが生まれた瞬間にどこかへ行ってしまった。子どもを産んだ後、どうしたらいいかなんて、まったく知らないのにね」
明るさをとり戻していた玉里さんの顔から、一切の笑みが消えた。
「日雇いの仕事で、なんとかその日しのぎの生活をしていた。娘にも、かなり不自由な思いをさせたわ。……それでも私は、幸せだったの。あの日が来るまでは」
あまねの身体がいよいよ硬くなった。玉里さんが子どもとはぐれたときの状況と、あまねが両親とはぐれたときの状況。この二つがどれだけ似通っているかで、今後の行動が変わる。
「『雨音』が一歳を過ぎたくらいだったかしら。とにかくその日は、雨が降っていたのは覚えてる。娘に、あなたが生まれた日も、こんな天気だったと教えた記憶があるわ。不吉だとは思わなかった。むしろ、幸せを運んでくるのだと思っていた。そんなときに、大きな地震があったの。……知ってる?」
あまねは小さくうなずいた。俺は、地震があったという事実しか知らなかったけど、曖昧に頷く。
十八年前に起きた地震。後からインターネットで知った情報だけど、このあたりでは被害が出たそうだ。数人が亡くなっている。マグニチュードはそんなに大きくなかったから、全国的な被害は小さかった。だから、世間的に知られているわけでもない。俺は元々玉響にいたわけじゃないから、それ以上のことは知らない。
「住宅街の方で火災の危険があったから、広い場所に避難することになって、私達がいた公園にも、たくさんの人が集まってきた。『雨音』があんな数を見たのは初めてだったから、興奮してしまったのでしょうね。気がついたら、私の手からするりと抜けて、どこかへ行ってしまったの。あっという間にどこかに行ってしまった……。
すぐに娘を探そうとはしたんだけど、無知な私達のせいで『雨音』は無戸籍児だったから、探すことすらできなかった。『そんな子、本当に存在するんですか?』って言われたわ。皮肉なことに、そのおかげで私達は公的な支援を受けられるようになって、今では生活も安定しているけど、『雨音』は見つからないまま。あれからもう、十八年が経ってしまった」
玉里さんは、自嘲的に笑った。
「これが、私が知っている『雨音』の話。今となっては、どこでなにをしているのか、生きているかそうかさえわからない」
「…………」
あまねは、言おうか言うまいか迷っているようだった。
長い間考えてから、口を開く。
「私の話も、聞いてくれますか?」
玉里さんは、きょとんと瞬きしてから笑顔になった。
「わかったわ。でも、今日はおしまい。もう朝よ。起きないと」
「はい。……明日も、来ます」
それを最後に、夢が終わった。
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