魂の封術士

悠奈

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第四章

第二十三話

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  その影には、見覚えがあった。

「一希……。ゴメン、ナ」
  あいつは確かにそう言った。
  なんで……。今さっきまで、普通に話していたのに……。痺れたような頭で必死に考える。
  穂積のより大きく、黒が深い影。それが狭い路地を埋め尽くそうとしていた。
「っ……」
  足元が引っ張られる感覚で我に返った。
  まだ、間に合うかもしれない。助けられるかもしれない。
  胃の底から沸いてくる恐怖心を押し殺し、竹田の前に立つ。
  迫る影を、札で薙いだ。その部分だけ、影が途切れる。同時に札から焦げた匂いが漂ってくる。
  影が、竹田が悲鳴を上げる。人のような、動物のような、そんな声で。

──もう、人間じゃないのか?

  そんな言葉が頭を過る。
  でも、たまに見えるのだ。不定形な影の中に、彼の姿が。
  末端の影を避けつつ、本体に札を押し付ける。そうするしかない。
  不安要素は有り余るほど多い。体力、経験、そして時間──。
  けど、やるしかないんだ。
  自分に無理やり言い聞かせた。

 * * *

  何度目の攻防なのかわからなくなってきた。
  足元や本体から沸いてくる影の数は多く、少しでも判断が遅れると、足ごと持っていかれそうになる。
  向こうもまだ自我が少し残っているようで、なにか唸っている。この狭い場所に留まっているうちに、どうにかしないと。
  攻撃は浅くて単純だ。だからといって、完全に対応できているとは言えない。手足が切り傷だらけだ。あいつには実体がないはずなのに、どうなっているんだろう。
  視界の端に、鞭のようにしなった影が映った。なんとかそれを避けたが、負担をかけすぎた足が機能せず、よろけそうになる。
  穂積とは違う。簡単に懐に入らせてくれない。
  本体の、心臓に近い場所めがけて腕を伸ばした。でも、普通の中学生の身体能力なんてたかがしてれる。人でなくなりつつあるそいつに、かなうはずがない。
  すぐに弾き返された。
  目をやると、半袖のシャツから伸びる腕から血が滴っていた。
  その血に反応したのかもしれない。
「ウ……ウ……」
  影は何度目かの唸り声をあげた。そして──。

  絶叫。

  思わず耳を塞いでしまう。そんな声が、あの身体から出ているとは思えなかった。
「なに?  なんの騒ぎ?」
  それを聞いた人が、狭い裏道に顔を出した。耳を塞いで、迷惑そうな表情をしている。
  人口が少ない雲谷の中でも、さらに人通りが少ない場所、時間。それを差し引いても、今まで誰にも見つからなかったのは奇跡に近い。
  影が、ゆっくりと方向を変えた。
  俺以外の人間を、その目に映す。
「まっ……」
  止める時間はなかった。
  影は、無関係な人の方に向かって足を踏み出した。
  聞こえてきたのは、悲鳴と、なにかが折れる音。
「やめろ!」
  無我夢中で、その人から影を引き剥がした。
「なに考えてんだよ……!」
  その顔を見て驚愕した。
  影は、笑っていた。思わずよろよろと数歩後ろに下がる。
  影に襲われた人は気を失っていた。
「お前……まさか……」
  事前知識は無いに等しい。だけど、直感的にわかった。

──これが、怨霊だ。

  その形に人を思わせるものはなく、その色は夜の暗闇を思わせる。
  虚ろに空いた目が、こちらを向いた。快楽に満ちた目に、自分が映っている。
  普通、人が人を襲うときには、快楽と恐怖が同時に起こるという。そこにあるのは、前者だけだ。
  もう、普通じゃなくなったんだな。
  そんな考えが自分の中にストンと落ちてきた。
  影は悦びに満ちた顔で、腰を低くした。獲物を狙う構えだ。
「もう……いいよ。もう、いいだろ」
  これはあいつに向けた言葉じゃない。決別できない、自分への言葉だ。
  自分の甘さがこの事態を招いた。今覚えば、おかしいところはいくつもあったじゃないか。
  神社の前で初めに会ったときに対応していたら、こんなことにはならなかった。
  影が、今度は俺に向かって足を踏み出した。
  目にも止まらぬ速さで向かってくる。
  凝縮して固くなった影が、俺の肩めがけて降りてきた。
  すぐそばで、自分の肉が裂ける音を聞いた。
  それをかき消すような、悲鳴。
  俺じゃない。あいつの、竹田の声。
「ごめんな……。俺は、お前のことが嫌いだったよ」
  そう呟いて、竹田の胸から手を離した。
  影は苦悶の表情を浮かべて、こちらを見る。目が、「どうして」と訴えている。
  俺を凝視したまま、影は内側から破裂した。声も音も、聞こえなかった。
  実体のない魂は、なにも残さなかった。血も肉も、細胞の一欠片すら。
  肩の傷からだらだらと流れる血は、制服を赤く染め始めていた。痛い、というよりは熱い。なのに、指先は冷たくなり始めていた。だけど、助けを呼ぶ気にはなれない。
  今更のように身体が震え始めた。その場に座り込む。

  自分が、自分がやってしまった。

  泣くことも喚くこともできずに、彼が消えたその場所を見つめ続けた。
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