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第十章
第五十二話
しおりを挟む日が登った。
いつもと変わらない休日がやってくる。
普段なら、一希と咲姫ちゃんは勉強。私はその辺りをぶらぶらするだけ。
でも、今日は少し違った。
「ねえ一希」
机と向かう一希に突然言う。
「水原の近くまで行きたい。……一緒に行かない?」
振り向いた一希は、心底驚いたような顔をしていた。
「あー、受験勉強忙しいなら構わなくていいよ。私一人で行くだけだし……」
「別にいいけど。どうせやる気なくしてさぼってたし。けど急だな。どうしたんだよ?」
「…………」
慌てたことが、むしろ不自然さを増してしまった。
「私は、水原しか知らないから」
私が戻りたいところはここじゃなくて。でも、戻りたい場所には行けなくて。
いつも我が儘ばかり言っていたけど、これだけは譲れない。
だからこそ、一希に申し訳なくなった。こいつは心の底から、「あの場所が好きだ」と言えないことを、私は知っているから。
そう。私は戻りたかったんだ。あの、なにもない集落に。
「中まで入る気はないよ。どうせ、中には入れないだろうし」
それに水原と一希は敵対関係にある。だから帰りづらいはずなんだ。
だけどこいつは、嫌な顔ひとつしなかった。
「もう一回試してみたらいいじゃん」
「……ありがとう」
思わず泣きそうになった。
一希は「えっと、時刻表は……」と呟きながら机の中を探している。
そんな後ろ姿を見るのも最後だ。
* * *
雲谷と水原はかなり近い。地図上では。「地図上」っていうのが問題なんだよね。
二つの町を行き来するには、山を一つ越えなきゃいけない。小さい頃は、あの山の奥に町が広がっていて、さらに奥へ行くとコンクリートでできた大きな建物が並んでいるなんて、思ってもみなかった。もちろん、雲谷の存在も知らなかった。
私の世界は水原だけで終わっていた。
だからこそ、水原が好きだった。
でもおかしいよね。私が好きになったこの人は、「外」の人なんだもん。
父親の後ろに隠れて、集落中の白い目から隠れていたこいつと、今は水原に向かっているなんて、変な感じ。
「はぁ……。車掌にめっちゃ嫌な顔された……」
一希は盛大なため息をつく。笑いそうになるのをなんとか堪える。
「仕方ないよ。普段はお客さん誰もいないんだし。人の命乗せて走るとか、私だったら絶対できない」
水原から雲谷に行く人は全くいない。逆も同じ。年末や年度末なら人の往来は度々あるけど、一月の中旬はほとんど誰も電車を使わない。
「もしかして普段は走行してないのかな?」
「その可能性はあるな」
「じゃあ電車、捕まえられてよかったね」
「そうだな」
くだらない話をしながら電車に揺られる。
周りの景色はどんどん変わっていく。家がまばらに建ち、ちょっとした畑や田んぼが広がる雲谷から、昔ながらの木造住宅がぽつりぽつりと建つだけの、自然そのものの形が残る水原。
たった十五分だけで、ここまでも景色が変わってしまう。
「ありがとうございました」
二人で声を揃えて言う。多分相手には、私の声は聞こえていない。わかりきったことなので、そのままスルー。むしろ返事が返ってにきたときの方が怖い。
少し歩くと集落にたどり着く。駅のすぐそばに人はいなかった。
集落のほんの数十メートル手前。私の足は、ここで止まった。
「どうした?」
前を行く一希に話しかけられる。
「……行けないや。足が動かないの」
その一言で全てを理解したらしい一希は、なにか考え始めた。
「うーん……。穂積のときは、そんなことなかったんだけどな……」
そんな話は聞いたことあるけれど、全貌は知らない。皆がどうやって消えていったのかなんて、知りたくなかったから聞かなかったんだ。
今更それを後悔した。もっと話を聞いておけばよかった。聞いてみたかった。
「行ってみるだけ行ってみようぜ。なにか変わってるかもしれないし」
そう言って差し出された手。
ああ、そんなこと、今まで一度もなかったのに。
私も右手を伸ばす。実体のない私の体が、彼に触れることはない。
嬉しい。けど、どこか複雑な感じがした。
「……あれ」
数歩進んではたと気付く。
「なんか、進めるんだけど?」
一希を置いて走り出す。
「え、ええぇ!? なんでなんで!?」
小学生の男の子、いや、もしかしたらもっと幼い子どもみたいに見えたかもしれない。それくらい、私には不思議なことだった。
ここには何度も来た。何度も試した。こんなこと、一度もなかったのに。
嬉しい。これなら、あそこにも行けるはず。
「ありがとう、一希! 本当、ありがとう……!」
* * *
集落の人達に見つからないように、足を進める。もっとも、この真っ昼間に人なんかいないんだけど……。
一方、一希は微塵も気にしていないようで、私のすぐ後ろを歩くだけだった。
「……あった」
十分くらい進んだところに、私の家がある。古くさくて、雲谷に建つ家々よりもずっと貧相なもの。
それはずっと、私の居場所だったもの。
「最期に一度くらい、見ておきたくて……。変わるはず、ないよね。まだ一年も経ってないのに」
本当にそうなんだろうか? お母さんは? お父さんは?
「……南帆」
「うん。大丈夫」
今確かめるのはやめにしよう。このままだと、きりがない。
「家族は……うまくやってる。大丈夫」
そう、信じることにした。
「それじゃ一希、次は──」
「一希君?」
「え……」
視線が釘付けになった。だって、その人は──。
「おかあ、さん」
私の母親その人だったから。
勿論お母さんは私のことなんか見えない。だから、一希にしか声をかけなかった。
「あ、えっと……」
「久しぶりね。元気?」
誰が一希の置かれている現状を知っていて、誰が知らないのかわからない。スムーズにいかない会話は、一希の戸惑いが前面に現れていた。
たった五分の立ち話。懐かしかった。
「ごめんなさい。下手に呼び止めてしまって」
「いえ、大丈夫です」
お母さんはなにか言おうとしたけどやめた。
そのままどこかへ行ってしまう。
「……いいのか?」
一希は言った。
「いい」
そう答えることしかできなかった。
──さよなら。
心の中でたった一言付け加えた。そうすることしかできなかった。
* * *
「あのね一希」
「なに」
「これだけ言わせて」
「はあ……」
一希は足を止めない。私が止まっても気付かない。足音がしないから。
「樹のときに、一希のこと止めたでしょ?」
「ああ、あれ? 別にあのことはもう気にしてな──」
「ごめんなさい」
思わず叫んだ。これだけは言いたかったから。言わなきゃいけないから。
一希はようやく歩みを止めて振り返る。
「私は、もう一回皆に会いたかったの。樹がいるなら、他の皆だっているんじゃないかって、そう思って……」
嫌だな。最期の最期で嫌われるなんて、そんなの──。
でも、私が選んだ道だ。
「ごめん。ほんとにごめんね。私、自分のことばかり考えて」
彼は、優しかった。私なんかよりも、ずっと。
「だから気にしてないって」
「うん……。ありがと」
ようやく、最期の時間がやってくる。
「じゃあね、ばいばい」
しんみりしたくなかったから、あえてそう言った。
「…………」
一希は無言でお札を取り出す。
お札が光始める。
息を深く吸って吐く。やっぱり、そのときが近付いてくると怖い。
「……じゃあな」
「うん。ありがとう」
まるで、プレゼントのようにお札を渡された。プレゼントなんて、ほとんど貰ったことないのに。
意識がだんだんなくなっていく。指先から、足先から消えていく。
視界が全部白くなった。元々薄かった感覚が全て消える。
最期に映ったのは、彼の泣きそうな笑顔だった。
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