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2 思い出の小川で
しおりを挟む――その日の朝。
シタンは森の中にある小川を訪れていた。
澄んだ清流の中を、魚達が生き生きと泳ぎ回っている。川面を渡り吹き抜けていく風が心地良く木漏れ日の躍る岩場は、釣り糸を垂らすには絶好の場所だ。
シタンが子供の頃に一番の親友とよく釣りをした場所だ。「もう会えなくなる」と、別れを告げられた場所でもある。その時の悲しさは、思い出すと今でも胸が苦しくなるほどだ。
いつか、また親友が戻ってきてくれるかもしれない。
そんな期待を抱きながら一人でする釣りは寂しいばかりで、その辛さに耐えられずに小川から次第に足が遠のいていった。だが、時が過ぎて気持ちに折り合いが付けられるようになってからは、時々昔を懐かしんで親友と二人で座っていた岩の上で釣りをして過ごすようになったのだ。
子供の頃に座っていた位置に胡坐をかき、釣竿の針に餌を付けずに適当に放り込む。陽の光を反射してきらきらと輝く小川の中を、自由に泳ぐ魚をしばらくの間ぼんやりと眺めていた。
「――貴様、そこで何をしている」
「うぉっ!」
不意に背後から響いた低い声に驚いて、釣竿を落としそうになった。釣竿の糸を竿に巻き付けてから立ち上がってびくつきながら振り返ると、つば広の黒い帽子を深く被った色白の男だった。
「もう一度聞く。そこで何をしていた」
帽子と揃いの黒で立派な外套を、胸元だけ留めて広い肩に羽織っている。風に緩やかにはためく外套は男の長身をより大きく見せて、鋭い目つきと相まって近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
「いや、その、ちょっと釣りをしていただけです」
「釣りか」
男の声には若者特有の柔らかさがあり、顔立ちもそれに見合った若さだ。もしかしなくともシタンより年下だろうか。よくよく見れば今までに見たこともない凛々しい美形で、外套の下に着ている衣は質が良く腰に細身の剣まで下げていた。出で立ちからして平民であるはずがない。力のある商家か貴族の人間だろう。
「……私と会った覚えは無いか」
「い、いえ。……ひ、人違いでは……」
一体、どこで会ったというのか。貴族の知り合いなどいない。奇妙な問いに戸惑いながらも正直に答えて返すと、男の目つきは更に鋭くなって強い視線が突き刺さってくる。
「ううっ……」
火に炙られる様な恐ろしさに、喉の奥から呻き声が漏れて手の平に嫌な汗がにじむ。シタンはこの場から今すぐ逃げ出したい衝動に駆られた。
「あ、あの、人違いで……」
「黙れ」
「ひっ!」
更に言葉を重ねようとしたが、低い声できつく命令され竦み上がるはめになった。
「もう良い。それより、貴様は誰に許しを得てこの川で釣りをしている」
「誰にって、ここいらの一帯は、領主様のお許しが出ているので」
ここ辺境の地を治める領主は、禁猟期を除き狩りや採取を民に許していた。シタンにとって辺境地の広大な森は、生きる糧を得るための大切な狩場だ。
「それは昨日までの話だ。許しなど出ていない」
「えっ、どういう事で……」
「今日から私が領主になったからだ。この私が許していないことをした者には、罰を与えねばならん」
「そんな、急に……っ!」
「騒ぐな」
男は鞘走りの音を立てて剣を抜き放ち、驚き焦るシタンの右腕へと刃先を向けた。
「うわぁっ!」
「……腕を斬り落とされるか、それとも別の対価を払うか……選べ」
木漏れ日が当たって剣がてらてらと不気味に光っている。日射しは暖かいというのに酷い寒気が背筋に走った。
「さあ、答えろ」
「う……っ」
冷徹な声に心臓が締め付けられて、呼吸を一瞬だけ忘れた。答えなければ、機嫌を損ねて斬り付けられそうだ。恐怖と緊張で乾いた唇を舌で湿らせて唾を飲み込み、意を決して口を開く。
「腕を失くしたら狩りが出来ない、ので、それは勘弁して、くださいませんか」
「ならば、対価を払うのだな」
「……対価というのは、何をすれば良いんで?」
「少なくとも、痛い思いはせずに済む簡単なことだ。付いて来い」
「は、はぁ……」
――こんなやり取りを経て、シタンは男に連れられて小川を後にした。
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