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39 得体の知れない不安

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「――それにしても、どうして森の奥なんかにいたんですか」

 町へ行く道すがら魔獣に追われていた理由を尋ねると、栗毛馬の手綱を引きシタンと肩を並べて歩いていた青年は肩をすくめた。

「私は、王都の方に住んでいるんだが、あちらだと辺境地の様な森は近くにないからね。珍しくて、楽しくてついあちこちを散策していたんだ」
「はぁ。そうなんですか。ここいらの森は深いから、場所によっては昼間でも魔獣がうろつきますんで、道も調べずに歩き回るのは危ないですよ。近くに住んでいる俺らでも、狩り場以外の知らない場所は行きませんし」

 魔獣と呼ばれる獣は、通常の獣よりも体が大きく獰猛だ。遭遇そのものが命の危険に直結しやすい。怪我ひとつなく助かった青年は運が良かっただけだ。

「今度からは、深入りはしないようにするよ。追いかけっこはもうこりごりだ」

 冗談めかして笑う彼は、先ほど悲鳴混じりに叫んでいたのが嘘のように明るい。

 ……むしろ、懲りてない。シタンはその図太さに少し呆れた。そんな質のせいで危険を冒して魔獣に襲われるのではたまらないし、巻き込まれる他人の身にもなって欲しいところだ。死にかけたのは何も、青年だけではないのだから。

「そうしてください。命がいくつあっても足りないです……」

 他愛のない会話をして歩いているうちに、いつの間にか町に着いていた。

 馴染みの店で買い取りをしてもらう間、青年はきっとどこか表通りの方で時間を潰してくるのだろうと思いきや、裏通りにまで馬を引き連れて付いて来た。

 ……密かに、裏口から逃げてしまいたいと思ったのがばれたのだろうか。

 仕方なく青年を連れて店に入り奥へ向かって声を掛けてから、背嚢から毛皮を取り出していると、髭面の親父がのっそりと姿を現す。

「おお、今日はかなりでかい獲物だったんだな。こいつは飛び切り立派だ」
「うん。魔獣の毛皮だよ」
「ほう! そりゃまた、凄いな!」

 ずっしりと重みのある毛皮は、受付台の上に置かれた木箱に入れると、畳んでいるのに納まりきらずにはみ出していた。いつも狩っている獣の数倍の大きさだ。

「どうやって仕留めたんだ」
「ええと、なんていうか、仕留めるつもりはなかったんだけど、必死だったから……」
「仕留めるつもりはなかったって、なんだそりゃ? 一体何があったんだ」

 最初は毛皮に視線を釘付けにされていた店主だったが、どう説明したものかと悩むシタン背後に立つ青年に気付いて、少し驚いた顔をした。

「シタン、そちらの御方はどなただ? お前さんが連れてるにしちゃ、随分と上品だな」
「え、あ、どなたって……」

 そういえば、名前すら聞いていなかった。

「ちょっと森で知り合って、それで、えっと」

 元来、シタンは口が上手いほうではない。即答できなくて言葉を詰まらせてしまう。すると青年が前へと進み出て来て、シタンの代わりに口を開いた。

「私は名乗るほどの者でもないよ。しがない貴族の端くれだ。実は、学友に会いに来たついでに森を散策していたら魔獣に出くわしてしまってね。逃げている途中で、この腕の良い狩人殿が助けてくれたんだよ。そうでなかったら、今頃は魔獣の腹の中だった」

 シタンの肩を馴れ馴れしく抱きながら、流れるように事の詳細を語られた。それを聞いて店主は目を丸くし、続いて豪快な笑い声を上げた。

「ははは! そいつは、凄いなシタン! お前の腕は大したもんだ! お手柄じゃないか!」
「そ、そう、かな。うん。でも、仕留められて良かったと思ったよ。俺が仕留めた中では一番でかいと思うし。肝は冷えたけどさ」
「本当に大したもんだ。お前さん、まったく運が良いよな。ここに来る狩人の持ってきた中で、一番でかい獲物だぞ」

 こんな風に誰かから褒められたのは久しぶりな気がする。青年も、店主も手放しで褒めてくれた。お世辞ではなくて、本気でそう思って言ってくれているのが伝わってきて、嬉しい。

 子供の頃は『鈍臭い』と、よく言われた。なにをやっても並み以下で、弓が得意なのが唯一の救いだった。ラズにも弓は褒められた。「お前の腕前は辺境で一番だ」なんて、すごい褒め方をされた。照れ臭くも誇らしい気分になったのを覚えている。

「はは。そうなんだぁ。俺が一番かぁ」
「おうよ! 今年は良い年になったなぁ。お前さん」
「ああ、そうかも」

 不意に、領主の鋭くはあるが美しい紫紺の瞳を思い出す。あのラズに似た瞳を持つ男に脅されて強姦され、今もまだ慰み者にされ続けているのだから、とても良い年とは言えない。今、領主との関係を苦痛だとは思わないが、決して真っ当な物ではない自覚はある。

 いつになったら終わるのか。ただ体を弄んでいるだけなら、直ぐにでも終わりにしてくれた方がいい。禁猟期は城に来いと言われたが、城から出られなくされそうで怖い。

「さて、買取りさせてもらうとするかな」
「……あ、うん。頼むよ」

 ……もしも、閉じ込められて、あの男に今まで以上に抱かれ続けたら……、自分は駄目になってしまうかもしれない。そんな考えに行き着いてしまった。途端に手足を絡め取られるような得体の知れない不安が、じわじわと込み上げてくる。

「おい、なに湿気た顔してんだよ。狩りで疲れたのか。色も付けてやるからぱあっと酒でも飲み行け! 絶対美味いぞ!」

 ……たっぷり酒を飲んだら、気が晴れるかもしれない。今日はいつもよりたくさん飲みたい気分だ。

「そうだね」と、シタンは少し無理をして笑いながら、店主の言葉に頷いた。
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