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55 三本の矢
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――人を傷つけてしまうかもしれないという恐怖を、奥歯を強く噛み締めることで押し潰す。
弓の弦をゆっくりと引き絞る。次第に周囲の音が急に聞こえなくなり、視界が狭まっていくのを感じた。これが始まると、 矢を外すことはない。
「動くなよ……!」
自分が発したとは思えない鋭い声が口から飛び出した。そして、嘲けりを含んだ笑い顔を晒す男を睨み付ける。「――ひっ!」と、怯えた声を聞いた気がしたが、もう止めることなど考えてはいなかった。遠くにあるはずの実が、数歩先あるように見えている。外しはしない。
「ふ……っ!」
微塵のためらいもなく、続けざまに三本の矢を放つ。一本目は実の中央を刺し貫き、二本目で割り砕き、三本目は、割れた実を更に粉砕して男の頭にぶちまけた。
「ひっ、ひぃぃっ!」
刹那の間を空けて、男の口から引きつった悲鳴が上がる。今までにない速さで矢を放ったから、いきなり実が弾けて飛び散ったように感じたのかもしれない。
「おお!」
「凄まじいな!」
なにか驚いたような声が背後から上がったが、それが随分と遠くから聞こえている様な気がした。心臓が痛いくらいに脈打っていて、息も上がっている。頭の上に乗せた実を射るなんて、もう二度としたくない。
瑞々しく熟れた色をした実は、たっぷりと果汁を含んでいたようで、男の髪も顔も果肉と汁で汚れてしまっている。貴族らしい上等な服もこうなると無残なものだ。さっきまでの嘲り笑いはすっかり消え失せていて、顔の色が紙のように白くなっているが、それを気遣う余裕はシタンにはなかった。
「ひ、ひぃ……」と、声を漏らしながら、男はその場にへたり込んでしまった。
「シタン! 凄いよ! さすが私の恩人だ」
そんな男を介抱するでもなく、ハイレリウスは満面の笑みでシタンを抱き締めてくる。彼の腕に抱き締められて、シタンは自分が震えているのに気付いた。すると、じんわりと涙が出そうになる。「こ、怖かったよぉ……」と、気弱な言葉を零すと、抱き締める腕の力が少し強まった。
「……私の落ち度だ。すまないね。無理をしてくれてありがとう」
「あ、あの人、大丈夫かなぁ。絶対、俺より怖かったと思うけど……」
やっと気分が落ち着いてきて、シタンはぐすっと鼻をすすりながらハイレリウスに言った。抱きしめられた肩越しに見える男は、相当に打ちのめされたのか立ち上がる気配がない。
「ああ、彼の心配は無用だよ。まったく、君は人が良いね。貴族たるもの、自分の発言には責任を持たねばならない。あんな風になったのは彼の責任だから気にしなくて良い」
何度か背中と頭を撫でてから、ハイレリウスは抱擁を解いてシタンの顔を覗き込む。
「君は彼に言われて、弓の腕前を披露した。ただそれだけのことなのだから」と、言ってこれ以上なく優しく微笑む。その顔を見ているだけで、不思議と息が整ってきて、安心できた。
「でも、服も汚してしまったし……」
「構うものか。彼はああ見えて図太いから、今日の出来事は良い話のタネにするだろう。明日には立ち直って元気にしているさ」
「……えぇ……。俺、同じことされたらきっと泣くよ」
「いいからいいから。いい仕置きになった。悪い奴ではないけど、ああいう性格だから時々問題を起こすんだ。……才がない訳ではないんだが……」
「し、仕置きって」
それでも心配なものは心配だったが、なにを言ってもハイレリウスは肩を叩いてなだめるばかりだ。他の貴族達も腹を立てたりはしておらず、むしろ笑顔なうえにすっかり興奮した様子で「素晴らしい腕前だった」「今度はぜひ我が屋敷でも……」などと口々に言ってくるのに面食らってしまった。
「え。あ、あの、俺そんな大したもんじゃ……なくて、こ、別の屋敷でもう一度なんて、そ、そんなの無理です……」
わたわたと受け答えするシタンの肩を抱いて、ハイレリウスは「うちの狩人殿は人見知りが激しいのだ。今回のことは私の我儘で催した物ものであるし、あまり無理をさせると彼の負担になってしまう。そこはご配慮願いたい!」
全員に聞こえるように、気持ちいつもよりも声が大きくて口調が硬い。
「弓の披露はこれで仕舞いとしよう。……シタン、疲れただろう。部屋に行って休むと良い。ウェイド! 連れて行ってあげてくれ」
「承知致しました。さ、シタン様、参りましょう」
「う、うん」
確かに疲れた。もう今日は弓を持ちたくない。貴族達に囲まれるのも遠慮したい。なにより上手く返事が返せなくてひやひやする。
「それじゃ、失礼しさせて頂きます……」
あらかじめウェイドから教わっていた貴族風のお辞儀をすると、「楽しかったよ」「有難う狩人殿!」などという声とともに、二度目の拍手が起こった。矢を射ただけなのに、大袈裟な人達だとは思ったが、さっきよりも気分が軽くなった。
怖い思いはしたが、ハイレリウスが悪く言われる流れにならなくて良かった。そのことにだけ満足しながら、「どうも」と、再び小さくお辞儀をして、そそくさとその場を逃げ出した。
……もうこういう催しは、こりごりだ。辺境で狩りをして、細々とでも気ままに暮らしているのが一番、自分の性に合っている。
部屋に戻ってどっと疲れを感じたシタンは、その後は夕餉も食べずに早々と寝床に潜り込んだ。
弓の弦をゆっくりと引き絞る。次第に周囲の音が急に聞こえなくなり、視界が狭まっていくのを感じた。これが始まると、 矢を外すことはない。
「動くなよ……!」
自分が発したとは思えない鋭い声が口から飛び出した。そして、嘲けりを含んだ笑い顔を晒す男を睨み付ける。「――ひっ!」と、怯えた声を聞いた気がしたが、もう止めることなど考えてはいなかった。遠くにあるはずの実が、数歩先あるように見えている。外しはしない。
「ふ……っ!」
微塵のためらいもなく、続けざまに三本の矢を放つ。一本目は実の中央を刺し貫き、二本目で割り砕き、三本目は、割れた実を更に粉砕して男の頭にぶちまけた。
「ひっ、ひぃぃっ!」
刹那の間を空けて、男の口から引きつった悲鳴が上がる。今までにない速さで矢を放ったから、いきなり実が弾けて飛び散ったように感じたのかもしれない。
「おお!」
「凄まじいな!」
なにか驚いたような声が背後から上がったが、それが随分と遠くから聞こえている様な気がした。心臓が痛いくらいに脈打っていて、息も上がっている。頭の上に乗せた実を射るなんて、もう二度としたくない。
瑞々しく熟れた色をした実は、たっぷりと果汁を含んでいたようで、男の髪も顔も果肉と汁で汚れてしまっている。貴族らしい上等な服もこうなると無残なものだ。さっきまでの嘲り笑いはすっかり消え失せていて、顔の色が紙のように白くなっているが、それを気遣う余裕はシタンにはなかった。
「ひ、ひぃ……」と、声を漏らしながら、男はその場にへたり込んでしまった。
「シタン! 凄いよ! さすが私の恩人だ」
そんな男を介抱するでもなく、ハイレリウスは満面の笑みでシタンを抱き締めてくる。彼の腕に抱き締められて、シタンは自分が震えているのに気付いた。すると、じんわりと涙が出そうになる。「こ、怖かったよぉ……」と、気弱な言葉を零すと、抱き締める腕の力が少し強まった。
「……私の落ち度だ。すまないね。無理をしてくれてありがとう」
「あ、あの人、大丈夫かなぁ。絶対、俺より怖かったと思うけど……」
やっと気分が落ち着いてきて、シタンはぐすっと鼻をすすりながらハイレリウスに言った。抱きしめられた肩越しに見える男は、相当に打ちのめされたのか立ち上がる気配がない。
「ああ、彼の心配は無用だよ。まったく、君は人が良いね。貴族たるもの、自分の発言には責任を持たねばならない。あんな風になったのは彼の責任だから気にしなくて良い」
何度か背中と頭を撫でてから、ハイレリウスは抱擁を解いてシタンの顔を覗き込む。
「君は彼に言われて、弓の腕前を披露した。ただそれだけのことなのだから」と、言ってこれ以上なく優しく微笑む。その顔を見ているだけで、不思議と息が整ってきて、安心できた。
「でも、服も汚してしまったし……」
「構うものか。彼はああ見えて図太いから、今日の出来事は良い話のタネにするだろう。明日には立ち直って元気にしているさ」
「……えぇ……。俺、同じことされたらきっと泣くよ」
「いいからいいから。いい仕置きになった。悪い奴ではないけど、ああいう性格だから時々問題を起こすんだ。……才がない訳ではないんだが……」
「し、仕置きって」
それでも心配なものは心配だったが、なにを言ってもハイレリウスは肩を叩いてなだめるばかりだ。他の貴族達も腹を立てたりはしておらず、むしろ笑顔なうえにすっかり興奮した様子で「素晴らしい腕前だった」「今度はぜひ我が屋敷でも……」などと口々に言ってくるのに面食らってしまった。
「え。あ、あの、俺そんな大したもんじゃ……なくて、こ、別の屋敷でもう一度なんて、そ、そんなの無理です……」
わたわたと受け答えするシタンの肩を抱いて、ハイレリウスは「うちの狩人殿は人見知りが激しいのだ。今回のことは私の我儘で催した物ものであるし、あまり無理をさせると彼の負担になってしまう。そこはご配慮願いたい!」
全員に聞こえるように、気持ちいつもよりも声が大きくて口調が硬い。
「弓の披露はこれで仕舞いとしよう。……シタン、疲れただろう。部屋に行って休むと良い。ウェイド! 連れて行ってあげてくれ」
「承知致しました。さ、シタン様、参りましょう」
「う、うん」
確かに疲れた。もう今日は弓を持ちたくない。貴族達に囲まれるのも遠慮したい。なにより上手く返事が返せなくてひやひやする。
「それじゃ、失礼しさせて頂きます……」
あらかじめウェイドから教わっていた貴族風のお辞儀をすると、「楽しかったよ」「有難う狩人殿!」などという声とともに、二度目の拍手が起こった。矢を射ただけなのに、大袈裟な人達だとは思ったが、さっきよりも気分が軽くなった。
怖い思いはしたが、ハイレリウスが悪く言われる流れにならなくて良かった。そのことにだけ満足しながら、「どうも」と、再び小さくお辞儀をして、そそくさとその場を逃げ出した。
……もうこういう催しは、こりごりだ。辺境で狩りをして、細々とでも気ままに暮らしているのが一番、自分の性に合っている。
部屋に戻ってどっと疲れを感じたシタンは、その後は夕餉も食べずに早々と寝床に潜り込んだ。
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