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番外編「とある狩人を愛した、横暴領主の話」
29 何度でも惹かれる
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待ちに待った三日後。
小川の道端で馬を愛でながら待っていると、背後に視線を感じた。振り返れば、ぼんやりとこちらを見詰めるシタンと目が合った。
「……来ていたのか」
声を掛けると、夢から醒めたように瞬きを数度して「うん。ほら、釣竿は持ってきたから」と、言いながらこちらに近付いてきて竿を手渡してくる。
釣竿は一本だけで、彼自身は釣りをしないのだと知れて残念に思う反面、今から魚を釣り上げて、驚かせてやるのが楽しみで仕方がなくもあった。
こうして小川に二人でいられるだけでも、僥倖なのだ。高望みはすまい。軽く地を蹴って大岩の上に飛び乗り、子供の頃に座っていた定位置にあぐらをかいて座った。
続いて登って来たはいいが座ろうとしないシタンに「貴様も座れ」と、声を掛けるとしかめ面をしながらも隣に座ってくれた。心地よい風が吹き抜けていく小川は、ほどよい涼しさで陽射しもそれほど強くはなく、絶好の釣り日和だ。
――シタンのために、たくさんの魚を釣ってやろう。
逸る気持ちのままに手早く釣り針に餌を付けて、水面に向けて竿を振った。
「釣り、本当にしたことがあるんだな」
「私にとて、そういうことをして過ごしたときがある。お前がそうだったようにな……」
「へぇ……」
……という、ほんの少しの問答の後は沈黙が続いたがラズラウディアの心は満ち足りていた。十年以上もの年月が過ぎていても、ここの景色はあまり変わりがない。なにより隣には愛しいシタンがいる。こうして彼の気配を感じながら釣り糸を垂れていると、昔に戻ったようだ。
魚が針に掛かるのを微動だにせず待っていると、視界の隅で銀色の頭が前後に小さく揺れた。
「ふふ……。居眠りをする癖も変わっていないのだな」
こくり、こくりとシタンが頭を揺らしている。瞼を閉じたその横顔はあの頃の面影を残していて、年相応にまろやかさを失くし頬が少しこけていはいても、可愛いらしいものに見える。
居眠りをするたびに、いつか小川に落ちるのではないのかと心配したものだが、不思議なことに落ちたことは一度もなかった。鈍臭い割には、妙なところで器用な男だ。
「気を許してくれていると、思っていいのか。シタン……」
指の背で、起こさない程度にそっと彼の頬を撫でた。
――それから小一時間も過ぎた頃には、桶の中を魚で溢れ返させることができた。
「シタン」
まだ眠っている彼を、驚かせないように小さな声で名を呼んで起こしにかかる。
「んんっ、ふあっ……」
何度目かにようやく目覚め、大きく欠伸をしてこちらを向いたシタンは、気まずげに目を逸らした。眠ってしまったことを恥じてか、頬が薄赤い。
「これを見ろ」
そんな彼に向けて桶を突き出すと、予想通りに目を丸くして驚愕の表情を浮かべた。
「えっ、これ、アンタが?」
「私以外に、誰がいる。お前が眠っている間に釣れた魚だ」
「これだけ釣れたのだから文句はあるまい」
「え、あ、う、うん。凄いな……」
「久しぶりに釣ったが、思ったよりもよく釣れた」
竿を振って糸を巻き付けて仕舞い、立ち上がる。
素直な驚嘆を得られてこれ以上なく満足感を覚えながら「これで証明はできたな。魚は十分に釣れたのだから。私は城に戻る」と、言えば「あ、うん……」という、なんとも締まりのない動揺しきりな返事をされた。ここまで驚かせることができたことに、酷く気分が良くなった。
「これは、くれてやろう」
「なっ、なんで、俺に? アンタが釣ったんだから別にくれなくてもいいよ」
もとよりシタンのためにと釣った魚なのだ。受け取らないというのは気に入らない。
「私からの施しだ。素直に受け取るが良い」と、わざと見下した言葉をぶつけて受け取らせようとするも、「ほ、施しだとぉ……」などと腹を立てて手を出さない。お前の為に釣ったというに、という気持ちを込めて睨み据えると、僅かに怯えた表情を見せながらも渋々といった様子でやっと受け取ってくれた。
「も、貰っとけば良いんだろ」
ぼそぼそとした不明瞭な声だったが、「ありがと……」と、言われて今度はこちらが驚くことになった。
「礼を言われるとは思わなかった」
「アンタが相手でも誰でも、お礼は言うよ。何も言わないとか、そういうのは……、気分が悪いじゃないか」
無実の罪を着せ、体を暴いた男にさえも、こうして感謝の言葉をくれた。……どうしてこうも人が良いのか。呆れるほどの人の良さだ。だが、それがとてつもなく愛おしい。
シタンが純粋無垢な存在だとは思っていない。
人並みに欲があり、愚かで快楽に弱い只人だ。それであっても、愛おしくてたまらない。打算のない優しさと、朴訥さと、律義さ。彼を形作るもの全て。少年の頃に彼によって癒され、救われた時からずっと、心をつかんで離さない、ラズラウディアにとっての唯一なのだ。
――何度でも、惹かれる。惹かれずにはいられないのだ。
己が『ラズ』だということを気取られまいと、不遜な貴族を演じていたところもあったラズラウディアだが、シタンへの愛情が抑えきれずに溢れ出すのを止められなかった。
唇を綻ばせて心からの笑みを浮かべ、「律儀な男だな、お前は……」と、柔らかな言葉を紡ぐ。
「あっ……」
急変したラズラウディアの態度に、シタンが息を飲む。
「なにをそんなに驚いている」
見る間に顔を赤らめて、黙ったままこちらを凝視してくるばかりだ。その様子を不思議に思いながら「どうした?」と、頬へ触れようと指先を伸ばすが、それは届くことはなかった。
「なっ、なんでも、ないよっ! か、狩りに行くから帰るっ!」
大声で叫んで身を翻した彼は、大岩の上から飛び下りて逃げ出したからだ。その背中が小道の向こうの木立の中へと消えるまで、ラズラウディアは大岩の上に佇んでいたのだった。
小川の道端で馬を愛でながら待っていると、背後に視線を感じた。振り返れば、ぼんやりとこちらを見詰めるシタンと目が合った。
「……来ていたのか」
声を掛けると、夢から醒めたように瞬きを数度して「うん。ほら、釣竿は持ってきたから」と、言いながらこちらに近付いてきて竿を手渡してくる。
釣竿は一本だけで、彼自身は釣りをしないのだと知れて残念に思う反面、今から魚を釣り上げて、驚かせてやるのが楽しみで仕方がなくもあった。
こうして小川に二人でいられるだけでも、僥倖なのだ。高望みはすまい。軽く地を蹴って大岩の上に飛び乗り、子供の頃に座っていた定位置にあぐらをかいて座った。
続いて登って来たはいいが座ろうとしないシタンに「貴様も座れ」と、声を掛けるとしかめ面をしながらも隣に座ってくれた。心地よい風が吹き抜けていく小川は、ほどよい涼しさで陽射しもそれほど強くはなく、絶好の釣り日和だ。
――シタンのために、たくさんの魚を釣ってやろう。
逸る気持ちのままに手早く釣り針に餌を付けて、水面に向けて竿を振った。
「釣り、本当にしたことがあるんだな」
「私にとて、そういうことをして過ごしたときがある。お前がそうだったようにな……」
「へぇ……」
……という、ほんの少しの問答の後は沈黙が続いたがラズラウディアの心は満ち足りていた。十年以上もの年月が過ぎていても、ここの景色はあまり変わりがない。なにより隣には愛しいシタンがいる。こうして彼の気配を感じながら釣り糸を垂れていると、昔に戻ったようだ。
魚が針に掛かるのを微動だにせず待っていると、視界の隅で銀色の頭が前後に小さく揺れた。
「ふふ……。居眠りをする癖も変わっていないのだな」
こくり、こくりとシタンが頭を揺らしている。瞼を閉じたその横顔はあの頃の面影を残していて、年相応にまろやかさを失くし頬が少しこけていはいても、可愛いらしいものに見える。
居眠りをするたびに、いつか小川に落ちるのではないのかと心配したものだが、不思議なことに落ちたことは一度もなかった。鈍臭い割には、妙なところで器用な男だ。
「気を許してくれていると、思っていいのか。シタン……」
指の背で、起こさない程度にそっと彼の頬を撫でた。
――それから小一時間も過ぎた頃には、桶の中を魚で溢れ返させることができた。
「シタン」
まだ眠っている彼を、驚かせないように小さな声で名を呼んで起こしにかかる。
「んんっ、ふあっ……」
何度目かにようやく目覚め、大きく欠伸をしてこちらを向いたシタンは、気まずげに目を逸らした。眠ってしまったことを恥じてか、頬が薄赤い。
「これを見ろ」
そんな彼に向けて桶を突き出すと、予想通りに目を丸くして驚愕の表情を浮かべた。
「えっ、これ、アンタが?」
「私以外に、誰がいる。お前が眠っている間に釣れた魚だ」
「これだけ釣れたのだから文句はあるまい」
「え、あ、う、うん。凄いな……」
「久しぶりに釣ったが、思ったよりもよく釣れた」
竿を振って糸を巻き付けて仕舞い、立ち上がる。
素直な驚嘆を得られてこれ以上なく満足感を覚えながら「これで証明はできたな。魚は十分に釣れたのだから。私は城に戻る」と、言えば「あ、うん……」という、なんとも締まりのない動揺しきりな返事をされた。ここまで驚かせることができたことに、酷く気分が良くなった。
「これは、くれてやろう」
「なっ、なんで、俺に? アンタが釣ったんだから別にくれなくてもいいよ」
もとよりシタンのためにと釣った魚なのだ。受け取らないというのは気に入らない。
「私からの施しだ。素直に受け取るが良い」と、わざと見下した言葉をぶつけて受け取らせようとするも、「ほ、施しだとぉ……」などと腹を立てて手を出さない。お前の為に釣ったというに、という気持ちを込めて睨み据えると、僅かに怯えた表情を見せながらも渋々といった様子でやっと受け取ってくれた。
「も、貰っとけば良いんだろ」
ぼそぼそとした不明瞭な声だったが、「ありがと……」と、言われて今度はこちらが驚くことになった。
「礼を言われるとは思わなかった」
「アンタが相手でも誰でも、お礼は言うよ。何も言わないとか、そういうのは……、気分が悪いじゃないか」
無実の罪を着せ、体を暴いた男にさえも、こうして感謝の言葉をくれた。……どうしてこうも人が良いのか。呆れるほどの人の良さだ。だが、それがとてつもなく愛おしい。
シタンが純粋無垢な存在だとは思っていない。
人並みに欲があり、愚かで快楽に弱い只人だ。それであっても、愛おしくてたまらない。打算のない優しさと、朴訥さと、律義さ。彼を形作るもの全て。少年の頃に彼によって癒され、救われた時からずっと、心をつかんで離さない、ラズラウディアにとっての唯一なのだ。
――何度でも、惹かれる。惹かれずにはいられないのだ。
己が『ラズ』だということを気取られまいと、不遜な貴族を演じていたところもあったラズラウディアだが、シタンへの愛情が抑えきれずに溢れ出すのを止められなかった。
唇を綻ばせて心からの笑みを浮かべ、「律儀な男だな、お前は……」と、柔らかな言葉を紡ぐ。
「あっ……」
急変したラズラウディアの態度に、シタンが息を飲む。
「なにをそんなに驚いている」
見る間に顔を赤らめて、黙ったままこちらを凝視してくるばかりだ。その様子を不思議に思いながら「どうした?」と、頬へ触れようと指先を伸ばすが、それは届くことはなかった。
「なっ、なんでも、ないよっ! か、狩りに行くから帰るっ!」
大声で叫んで身を翻した彼は、大岩の上から飛び下りて逃げ出したからだ。その背中が小道の向こうの木立の中へと消えるまで、ラズラウディアは大岩の上に佇んでいたのだった。
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