【完結】赤痣の闘士は、好きになった彼が王弟殿下だと知らなかった

ゆらり

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本編

54 切ないため息

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 試合前の控室。

「……はぁ」

 物憂げな顔で小さく溜息をつきながら、リィは主候補の名簿に目を通していた。シアもとい、イグルシアスに口付けられてから、ほとんど毎日この調子だ。

 醜い異相持ちの自分を、イグルシアスは好きだと言ってくれた。あれからしばらく日が過ぎても、今だにそれが信じられない。恋を自覚したときとはまた違う、甘ったるい胸の苦しさが悩ましい。

 頭の中が溶けてしまいそうなほど優しく気持ちの良い口付けを思い出して、恥ずかしいことに自身を何度も慰めてしまった夜もあった。普段はあまりする気にならない上に、しても一度で治まっていた淡泊さだったというのに。

 ……会える日が待ち遠し過ぎて、胸が切なくなる。

 月に一度か二度しか会えないというのが、これほど辛いと感じるようになるとは。会えないもどかしさに悶々としながらも、ここ数日の間に顔合わせを終わらせた。

 月が変わる頃には主を決めなければならないが、絞り切れず時間だけが過ぎていく。少し前まではイグルシアスに名簿を見せて誰が良いのか聞こうかと考えていたが、正直なところ彼に勧められた相手でも仕える気になれないだろう。

 誰からも欲しがられ無かった頃を思えば随分と贅沢な悩みなのだが、高望みなどせずに誰か一人を選ぼうとする度に甘く微笑むイグルシアスの顔が脳裏に浮かんでなにも考えたくなくなるのだ。

 やはり仕えるのなら、彼がいい。ほかの誰も、いらない。

「――主がまだ決められないのか」

 延々と物思いに耽っていたリィの前に、好敵手がぬっと現れて声を掛けてくる。

「……テメェに関係ねぇし」
「まあそう言うな。相談くらいなら乗るぞ」
「間にあってる。……用がねぇなら寄って来るな」
「いや、お前に少し聞きたいことがある。ここではまずい。こっちへ出てくれ」

 神妙な面持ちで出入り口の方へ向けて、軽く顎をしゃくった好敵手の後ろ続いて廊下に出る。

 周囲に人が居ないことを見計らってから、好敵手は声を潜めて「――お前、あのことを訴えたのか? うちのお嬢様が闘技場から出入り禁止にされたぞ」と、予想もしなかったことを聞いてきた。

「はぁっ? 俺はなにも言ってねぇぞ!」

 イグルシアスとのことが強烈すぎて、ほぼ忘れていただけに思わず目を剥いた。娘に打たれた頬の傷は既に治ってしまって、痛むこともなければ痕も残っていない。

「てっきりお前がやったのかと思ったが違うのか。……まあ、当分は静かになるぞ。出禁にされて相当堪えたらしくてな、魂の抜けたようになってしまわれて屋敷で静養していらっしゃるからな……」

 辛酸を味あわされたリィとしては娘の傲慢さには思うところがあり過ぎる訳だが、清々した顔で話す好敵手も大概のような気もした。

 ……まさか、イグルシアスが管理に訴えたのか。時期的にそれ以外には考えられないだろう。

 しかも出入り禁止にした上に、悪い意味で肝が据わったあの娘を療養させるほど追い詰めたのか。

 ……下手になにかしたのかなどと、聞いてはいけない気がする。平屋で傷について問い質してきたときの静かに怒気を放つ無表情を思い出して、身体が勝手に震えてしまう。

「どうした?」
「――なんでもねぇよ」

 心配気に聞いてくる好敵手に、震えをごまかすようにして左右に首を振る。

 なににしても、あの娘が闘技場に来られなくなったのは、いいことだと深く考えないようにした。
 
「ところでリィ、あの男とはまだ会ってるのか」
「あぁ? シアに会ってたとして、なんだってんだよ……」
「前にも言ったが、好きだからって、どうこうなれる相手じゃないだろう」

 考えたくもない現実を突きつける言葉に、思わず手に持っていた名簿を音を立てて握り潰してしまう。

 どうしてこの野郎は関係ないクセにしつこく口を出してきやがるのかと、殺意に近い苛立ちを覚えた。

「毎日でも顔を見られる相手の方が、寂しい想いをしなくて済むぞ。……俺にしておけよ」

 顔を寄せて深みのある甘い声で囁かれた口説き文句に、全身にぞわっと悪寒が走る。

「うぜぇ!」
 
 調度良い位置にきていた額に頭突きを食らわせる。ゴツ! という鈍い音が廊下に響いた。

「ああクソ! 痛ぇなこんの石頭っ!」

 額を両手で覆って「ぐううっ」と、呻く好敵手の足を何度か踏みつけてやった後、リィは憤然とした顔で握り潰してしまった名簿を丁寧に伸ばしながら控室に戻ったのだった。
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