高度10キロメートルの告白・完全版

赤井ちひろ

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第一章・イージスの盾・

3

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 アランに聞かれた涼はビックリすると、少しばかり空を見上げるように言った。
「今までの俺がこいつを不安にさせていたからさ。だからあいつがいいと思うまで、おれは付き合うと決めたんだ」
「なんで」
「アラン、ほら、さっさと挿れてやれ。痒くてうずいて可哀そうだろう」
 ————何か話している。飛んでいた意識が戻ってくるのを感じた。
涼は俺の穴を左右に押し広げ、第二関節までをゆっくりと挿入すると、入れるための準備をしながら俺の顔を覗き込むように見つめ、鼻の頭にチュッと音がするようにキスをした。
「涼……」
「今からここに、アランのペニス、入れてもらおうな」
 俺はあいつの言う事にノーとは言えないから、ただ黙って頷いた。他の男としたい訳でも、浮気願望がある訳でもない。ただあいつの全てを受け入れたい。どんな非道なことも、全部俺であってほしい。だって、それだけが俺の存在価値だから。俺が望んでいるのではない。涼がそう望んでいるのだと思い込んでいた。
 中からテラテラと精液が流れ出す気持ち悪さに意識が若干覚醒し、周りの光景が目に入る。生温かい涼のものを感じながら、自分の指でそれを掬った。
 それを見て、基本セーフティーセックスしかしないアランは般若かと思うような歪んだ顔をしていた。
「中出ししたのかよ……」
 いつもと違う野太い声が自分に向いて放たれたのを感じると、ああアランがそこに居るのだと、気恥ずかしさに顔を伏せた。
 チッというアランの舌打ちが聞こえる。
「涼……待って、アラン……だめ!」
「大丈夫だ。俺のかわいい天使はヘッドフォンと目隠しでわかってないから」
「そう言う事じゃないよ、ねぇ涼」
「アランの指を四本ここに居れて痛みと快楽に我慢するお前が見たい。必死に俺以外の男で逝かないように頑張る悠が見てぇ」
 涼のバリトンボイスが威圧するように耳元で囁く。
 嫌だと首を振りながら、それでもその表情は恍惚としていて、色気とアンニュイさが漂っていた。虚ろな目が、いやらしさを倍増させる。
  アランは涼の広げた尻の穴に一気に指を四本差し込んだ。
「————————ァァ」
 声にならない息が喉奥から絶え間なくもれていく。
「もういいか? 抜くぞ、俺は浮気はするが、どうもサドにはなりきれん。悠が可哀そうになってしまう」
そう言うとアランは傷つけないようにゆっくりと指を引き抜いた。その瞬間僅かに悠の腰がイヤイヤと蠢くのを感じながら、それには気が付かないふりをした。
「それは残念だ。お前に挿れさせながら、俺のを咥えさせようかと思ったんだがな」
 俺の頭上から最低な一言が聞こえ、震えを押えるように、俺は愛しい男にしがみついた。
「涼お前、もっと他にやりようがあるだろうに」
「こんな愛しかたしかわからんよ、アラン。今までは、失う恐怖なんか考えた事は無かったからな」
「不器用な奴だな」
 それには決して涼は何も言わなかった。
 真っ赤な色をした卑猥な椅子から拘束を解かれたかと思うと、ガラガラと言う音と共にそのまま滑車につり上げられた。
 そして涼は、器用に悠の脚をM字に皮ベルトで折り曲げ、中から流れ出る白い体液を目の前のラファエルに見えるように広げた。
 あと十センチ下に滑車が降りれば、悠の無理矢理開脚させられた穴に、冷たいディルドが刺さっていく事だろう。
 アラン達のいる部屋の明るさとは違い、限界まで絞られたライト。
 大好きなショパンに変えられた音楽までもが、全て悠の為だけの物だという事が痛いほどに良く分かる。
 アランは辺りを見渡すと、悠の指が僅かに涼の皮膚に触れているのが分かった。不安を拭い去ろうとするように、僅かに震えている。どれだけ意地を張っても三枝を好きなのだと、アランは感じていた。
 小さな頃に一人になった、傷ついた悠の心は決して簡単に癒えるものではなく、それなのにそれを悟られまいと懸命に強さの鎧を身にまとう。
 ラファエルを抱えるように立ち尽くすアランは、目隠しを取っていいものか決めかねていた。
「アイツに駄々を捏ねられたのか?」
「悠が心配らしい。またお前に虐められているのではないかと、そう思っている」
 端的に言えば信用されていないのだろう。ははっと笑うと、ポケットに片手を突っ込み、もう片方の手で悠の臀部を撫でた。
 ピクンと動く白い肌が、仄かに上気してピンクに染まる。
「余計なお世話なのだがな……」
「ねーアラン」
 ラファエルが何かを言いながら、懸命に手を伸ばしアランを探した。
 ラファエルの不安に揺れる気持ちが分かるのか、アランは恋人の手に指を絡めて力一杯握っていた。
 ヘッドホンを外す。今まで何も聞えなかったのが嘘のように、優しい音が耳孔に響く。綺麗な旋律だと耳を澄ます。
 聞こえてきた静かな音は、悠の好きなショパンの調べだった。
 だんだん鮮明に色づいていく悠の気配。
「ほら、ゆっくり目をあけてごらん……」 
 ラファエルは滑車でつり上げられ脚を折り曲げられている悠を見た。
 穴の中から白濁としたものを垂れ流し、それでも恍惚の表情を見せる……。そんな彼を見つめていると、恐らく涼を探しているだろう悠と、目があった。人間とは思えない程の妖艶さに息を呑んだ。
「綺麗……」
 悠は聖母のような微笑で彼等に笑いかけた。
「そうだな。人じゃないみたいに綺麗だ」
 アランは短い言葉でそう答えると、ラファエルの頬に軽いキスを落とした。
 何かがジーっという音とともに動いている。音のする方に意識を向けると、そこには定点カメラが備わっていた。
「あれなぁに、アラン」
 ラファエルは鳥肌が立つのを擦りながら、キュッと股間を絞めた。
 アランが答えるよりも早く、涼がカメラだと割って入った。涼の発するカメラという単語に反応し、悠は足を開き秘部を露わにする。
 その場の誰もが、香りだけで逝けそうなほどの、それは甘い蜜の香りがした。
「お前の所にスクリーンがあっただろう」
 つじつまの合わない涼のセリフに、散々遊んできたアランはまさかという顔で、涼を見返した。決して寒くも暑くもない快適な部屋の気温が、涼と目が絡み合うその一瞬に、なぜか氷河期に来たような凍りつくピリピリした雰囲気にのまれた。
「悠がみんなにイヤらしい自分を見て貰いたいと言うから、来る前に実は申請したんだよ。この映像は他の部屋に流れている」
 アランは自分の部屋の配置を思い出していた。スクリーンはあったがカメラは思い当たらなかった。そもそもそんなものがあれば盗撮を疑って多分壊しているだろう事は、アランのみならず、涼にもラファエルにも分かっていた。アランという男は存外狭量なのだ。
 そこでアランはもう一度カメラに目を向けた。
「これは誰かが仕組んだ事ではないのか?」
「いや」
「でも、大画面に悠が映っているじゃないか。嫌な予感がするんだが」
「さすが、勘は良いんだな」
 諦めるような、寂しそうな声色がそう言って、辺りを更なる静寂に突き落とす。
「この画面……俺の部屋にもあったぞ」
 気が付かないふりをしてポーカーフェイス宜しく、淡々と言い放つ。
「試しにつけてみたらどうだ」
「まさか……冗談だよな」
 アランは慌てて左の部屋に戻りスイッチをオンにする。画面が現れるより先に悠の妖しい声が聞こえ、心がざわついた。
 怒りを隠す様にドスンドスンと大きな足音とともに戻ってきたアランは、涼のそばにより、ほかに方法はないのかと問うた。それには何一つ答えなかった涼の目には、不安が隠されていた。ただのスチール写真じゃない、エロビデオはそれなりに見慣れてはいるものの、知り合いで抜いた事は無い。アランは、浮気は腐るほどする。しかし元来執着心は人一倍強い。恋人を他人と共有する趣味は無い。だからさっきも結局最後まで遊びに執着できなかったのだ。
「なぁ、ラフ」
「なんだよ……」
 そう言うラファエルの顔は、感情の伴わない人形のような表情になっていた。
 拘束されている愛しい恋人に向けて、独り言のように話し始める。
「なぁラフ。俺達二人とあいつらは、ライバルであり同志だ。悠が涼を愛している事は既に知っている。切なすぎる二人を見て、俺の鈍い心臓がキリキリと痛むんだ。悠が望む事を涼は黙って与えているだけ、なぁ、本当にそれでいいんだろうか。何か間違っているんじゃないか。教えてくれよ、ラフ。愛の形は人それぞれだ。確かにそこに愛はあるのだろう。それでもどうにも俺の理解の範疇を超えているのだよ」
 猿ぐつわを噛まされている悠が発する妖しい声が、部屋中に響き渡る。聞かないように耳をふさいでも、夜明けの光がカーテンの隙間をぬって入るように、塞いだ指の隙間から入ってきて、気が狂いそうだった。
「涼お前、壊れてるよ。でも、これで反応している俺もたいがい壊れているな」
 アーとかウーとか喘ぎ声しか発せない悠のその声は、息が詰まるほどに甘く……重く……美しかった。
 逝けないもどかしさに、身体を揺らすことで快楽を逃がそうとする悠とは裏腹に、ラファエルはその画面から目が放せない。
 その顔は、先ほどの「綺麗」と発した顔の人物と同一とは、とても思えない程、怒りに満ちていた。
「んだよ!」
 ガチャガチャと拘束具を壊そうとする激しい音がする。
 ガシャーン! ガシャーン! けたたましい金属の音が響いた。
 ……アラン涼は音がする方を見た。
「ラファエル、やめなさい。傷がつく。約束しただろう!」
 アランに叱られて、今度は涙を滲ませた。
 猿ぐつわを嵌められ、涎が垂れまくっている悠とは違い、自由に話す権利を持つラファエルは涼に喰ってかかった。
「テメェ、悠になにしてんだよ」
「まだまだ、序の口さ。これから……もっと気持ちよくなってもらう。悠が狂うのを黙ってみていろ」
「待てよ、待てってば」
「アラン口ふざけよ。アイツの声で、折角悠の猿ぐつわをはずしてもアイツの可愛い声が聞こえないだろう……。嫌なら出ていけ」
 アランはゆっくりとラファエルの側までいくと、頭を撫でながら言った。
「だから良い子にしてと言ったのに……」
 涼から猿ぐつわを受けとると、アランはラファエルの口に嵌めた。
 画面には……恥体が映し出される。
 今度は乳首にカメラがズームし、悠が猿ぐつわをはずされた瞬間、涼はスイッチを強にした。
「んああああああああああ」
 カメラが捕えたのは悠の横顔のアップだった。目が虚ろでピンクの舌がちろちろと這い出ている。
「俺のやる事にきちんと反応している。いい子だ。悠」
 釣具で引き上げられた悠の脚は、M字で強制的に開脚されているものだから、中心部分はぱっくりと開き、秘密の蕾はアップで映し出され、そこから流れる白濁とした三枝の精液までいやらしく映し出されていた。
 アップは、どうやら勝手に切り替わるらしい。
「多分、映像を申請した段階でフロアマネージャー達がカメラを操作するんだろう」
「何故そう思うんだ?」
 アランの問いには何も答えず、涼はベルトをガチャガチャと外し、猛り狂ったペニスを左手で支えると右手は悠の腰を掴む。
「凶悪すぎだろう、なんだそのデカさ」
 悠の……縦に割れている三枝の為だけの入り口、そこにデカイカリがあてがわれ、先端をグイっとねじ込んだ。
「欲しきゃ強請れよ」
 涼の命令と共に、悠の口から出た甘美の言葉。
「壊れる程に酷くして……」
「上等!」
 涼のペニスは、精液でヌルネルとしている可愛い恋人の……プックラと膨らんだいやらしい穴の奥めがけて、幾度も抽挿を繰り返す。その度に恍惚の表情の悠は甘い声を漏らし、それに反応されるようにつらそうに顔をしかめながら、幾度かののち、大量の白濁とした精液を放った。
「良い、良いよ……。もっと動いて、もっと出して。俺を孕ませて」
 カメラがあるのは、多分ここだけだ、これは偶然か、それとも必然か。
「俺は涼、お前達がわからんよ」
 そういうアランを無視するように
「分かって貰いたい訳じゃないよなぁ」
 何かを我慢するように唇を噛みしめ、それでも涼は確かにそう言った。
 アランはそもそものスタートから考え直していた。こちらの部屋に誰が入るか、どうやって決めた? 孕ませてと言った悠は、男が孕まないことなんか当然分かっている。あいつは馬鹿でも、夢見る少年でもない。
 現実を誰よりも直視し、そして多分誰よりも————。
 ————リアリストだ。
 だからこそなのか、だから、いつか自分が邪魔になると、そう思っているのか。
 共に歩む今ですら、悠にとっては別れと一歩一歩近づいているのかもしれない。
 嫌な考えに頭を振った。

   ◆◆

 ガチャリ。カツ カツ カツ、良い靴独特の、木のフロアに響くソールの音がする。さっきまで大画面には悠の恥体が映し出されていた。羞恥の限りを晒しまくって、嬌声と絶叫の限りを尽くした雨宮悠が、今まさにフロントフロアまで戻ってくるのだ。
 立派なM奴隷として、三枝という主人にかしずきながら、尻尾を穴に突っ込まれ……とろけそうな顔をして歩く。
 四つん這いになって歩く時ですら……甘い匂いをばら撒くその姿はライラックや沈丁花を思わせる花の様であり……そしてだれも手折る事の出来ない棘に覆われた大輪の薔薇であった。
 三枝の所の極上のM奴隷が戻る。と噂が回り、一目でも見たいと、そこかしこで繰り広げられていた羞恥の数々は鳴りを潜め、こんなに居たのかという程の人数がこのフロントフロアに集まった。
 周囲の者たちは今か今かと待っている。
 彼の存在が三枝の格を三つも四つも押し上げる。

 この世界はMはSの所有物だ。
人格権が行使されづらい世界の中でも、ここは更に狭い世界。
 全裸で……、
 四つん這いになって……、
 自分に番号が付き……、
 尻の穴には凌辱の証の尻尾を深々と埋め込まれ……、
 頭上からあり得ない屈辱的な命令が下される。
それなのにこの男はかくも何故……ここまで美しいのだろうか。

 悠にとって自分が最高であり続けるという存在価値は、三枝涼が最高であり続けると言う事と同義だった。
「悠、嬉しいか? 沢山のお客様がお前のひくひくしている尻の穴に興味をお持ちだ。誰に抜いて貰いたいんだ?」
 ピクンと反応するそれは、明らかに意志が感じられた。ふわりと香る今迄の甘ったるい匂いに、さらにはじけるようなパッションフルーツの香りがまじりあい、なんとも言えない妖艶な香りに、皆、一様に喉が鳴った。
「涼、貴方以外なら誰でも同じさ」
 七十七番の鍵を抜くために最後に高く尻を観客に見せ、そして悠は綺麗な声で言った。
「どなたでもどうぞ……」
 誰が出るのか……と皆はお互いを見渡した。
 さっきの悠のセリフは、三枝のみを唯一絶対とすると言う事だ。
 それ以外は彼にとっては、ここのM奴隷も他の主人も一緒だという、あまりにも大胆な発言。
 仮にそれに腹を立てた別の主人に鞭をいれられても仕方がない愚行。
眉を寄せた者もいた。こぶしを握り締めたものも、誰もが腹を立て、ふざけるなと思い……そして誰もが……彼を認めた瞬間だった。
 静寂を切り裂いたのは彼に庇われたM奴隷を持つ詩音(しおん)だった。
「君が外してあげたまえ。三枝君。彼にとっては君だけが唯一無二のものなのだ。画面を見ていて、今の彼の話を聞いて良く分かったよ」
 西園寺は悠の高く掲げた腰を掴み、三枝の方に尻尾を見せた。
 悠はチラリと横を見る。自身の顔と対して違わない位置に西園寺の顔があった。
「あんたが引っ張って俺を泣かせてくれても良いんだぜ?」
 悠は意思のある目を西園寺に向けた。
「君は誰に何をされても傷ついたりはしないだろう? 私や他の主人にどんな辱しめをうけても、君は決して傷つかない。物理的な涙を流させる事は出来ても、我々は決して君を哀願させる事も屈服させることも出来ない。気がついてしまったよ。君の覚悟と愛を。大画面は三枝君が自身の最高傑作を我々に誇示する為の道具として君を聴衆の前に晒したと思っていた。それすら、君の意思だった。
三枝君はただ、常に君の望むがままに動いていたんだ。そして気がついていているかい?」
 悠は西園寺が何を言うのかという顔をした。
「あれは、愛だ」
「愛————?」
 悠は嬉しそうに笑った。まるで、そう。破顔一笑というのだろうか。
 それはこの世のものとは思えない様な、天使のような可愛い顔をしていた。

 涼の手で抜かれる尻尾。
 ガチャリとあくロッカー。
 中からはなにやら不穏な香り……。
 微妙な臭いの服が目の前に出てきた。
「なっっ、いつの間に……」
 涼は怒りで我を忘れそうだった。
「白くて、汚いなぁ。スペルマか……」
 悠は可愛らしく笑いながら、うわぁと他人事の様に言う。
 精液にまみれた服は、全てのM奴隷の服につけられていた……。
 ラファエルもアランも苦虫を噛み潰したような顔をした。
「服は全て捨ててくれ!」
 三枝がきっぱりと言った。
「いいのですか? 乾けば着れますよ」 
「誰に口を聞いている!」
「服……捨てたら、何を着れば良いんだよ」
ラファエルは泣きそうになりながら、悠に訴えた。
「あれ着たいの?」
 その話し方が
「それはイヤだけど」
「大丈夫だよ、きっと」
 小さな声でそう言うと、そのままニコリと微笑んで、ぺたりと床にしゃがみ込み三枝の足に寄りかかる。アンニュイな雰囲気が更に色気を増した。
「棄てて良いらしいぞ」
 早く棄てろと、聴衆が口々に勝手なことを宣った。
「まぁまぁ、そう急(せ)くなよ。こんな時間に服なんか売っていないぞ。裸は可哀想だろう。謝って俺のチンコでもしゃぶれば、一度はいらないといったその服、着せてやらないこともない。大画面は最高のショーだったよ。そんなオッサンより俺のが若くていいじゃないか」
 チッ、舌打ちしたアランは言い捨てた。
「このフロアマネージャーぐるか!」
 フロアマネージャーがニヤニヤしながら服をゴミ箱に棄てようとしたその瞬間、今日一度も動いているのを見なかった奥の重厚な鉄の箱が、ギーという音を引き連れて動き出した。
 顔面蒼白になる新参者の男と、さっきまで我が物顔だったフロアマネージャーは、固くなった自分の頬や腕をぎゅっと守ると中央を開けるように道を開けた。
その鉄の箱は綺麗な黒光りするアンティーク調の洒落た作りで、アールヌーボーを感じさせた。
 中から仕立てのいいカジュアルスーツを身にまとい、チロリアンハットを被った男が鉄の箱から悠々と歩いていた。
「あっ、テメェ、あん時の重松か」
 涼が言うと、四つん這いになったままの悠がため息を漏らした。
「松重さんだよ。涼って人の名前、本当に覚えないよね。だけどやっぱり居たんじゃないか」
 繰り広げられている現状。
服についた白い物体。
それを見て憎悪のような表情をマネージャーに向けた。
「ほう。あなたが新しいフロアマネージャーさんかい?」
 タクシーの運ちゃんは、マネージャーを名乗っていた男に声をかけた。
「いや、あの……ゼネラルマネージャー。今日はお休みの予定じゃ」
 ————ゼネラルマネージャー?
 四人は顔を見合わせた。
「私が来たら困ることでもあるのかね?」
 タクシーに乗っている時には気がつかなかったけれど、この人思ったよりも年上だ。
 涼はからかい交じりに松重に声をかけた。
「テメェ、定年間近のタクシーの運ちゃんじゃないのかよ」
「ちょっと涼、言い方だよ。それに松重さんは、もっと若く見えたでしょ」
「お前に色目を使うイヤらしいヒヒジジィにしか見えてねぇ」
 吐き捨てるように言った。
「言い方だよ、涼。お前は少しばかり、私情が入り過ぎだ」
 アランは笑いを堪えられず、子供の様に不貞腐れているライバルを見つめた。
「ある時はタクシーの運転手。ある時は黒蝶のバーテンダー。そしてその実態は? なんとここのゼネラルってましたぁ」
「ある時は黒蝶のバーテンダーなんだ」
 笑いが抑えられず、目を細めて悠が面白そうに言った。
「タクシー降りる時、関係者っぽい言い方だったのに、見渡しても居なかったから。聞き間違いかと思ったよ。でも何でわざわざ出てきたの?」
「大人しくモニターで見ていたのだが、ロッカーに入っていたはずの服にスペルマなんて、合鍵を持っている店の人間しかいないからな」
 松重さんは頭を下げる。
「夜間飛行は崇高なSM俱楽部だ。こんな腐った新参者とフロアマネージャーが居たとなっては、よそ様に顔向け出来んよ」
 松重は膝をつくと、「申し訳なかった」そう言ってそのまま額を床につけた。
 涼が声をかけようとした時、横から悠がスッと動き、土下座をする松重に屈むように近付くと、松重さんの天然パーマに指を絡めた。
「気にしてないよ……顔を上げて」
「え? 声————」
「声?」
「いや、こちらの話です。とにかく、そうはいかないでしょう。こんな時間では、良い服なんか何処にも売っていませんから。安い服で申し訳ないが、こちらで用意させていただきたい」
 部屋の空調は快適でも、流石に若干冷えてくる。
「少し肌寒くなってきたね。ラフ、寒くない?」
「ちょっとだけ……寒いかも」
 悠はラファエルの側に行き自分の太股の上に引き寄せた。
 申し訳なさから顔があげられない松重に、悠はチュっとキスをすると耳元で囁いた。
「ラファエルが風邪ひいちゃうから……ブランケットないかなあ」
「あぁ、すぐに用意する」
 悠にキスされた頬が嬉しいのか何度も頬を撫でていた。
 涼は悠の唇を摘まみ、軽く嚙み……武器であるバリトンボイスを耳元に近づけると、鈴口に指を立てながら言った。
「他の男にキスなんかしやがって。お前、今日は寝かさねーからな。覚えとけ」
「嫉妬かよ、そんなことより……俺は、服、何でもいいよ? 裸で出たら流石に捕まるよ」
「ああそれか、それなら気にするな」
 涼がそう言った矢先【夜間飛行】のブザーが鳴った。 
「やっとお出ましか。おせぇんだよ」
 涼は重い声を発した。
「誰が来たのですか? 営業時間外は予約限定でフリーの来訪者は来ないはずなのですが」
 松重は涼の方を振り返りながら、貴方の客かと聞く。
 涼は言われた事は理解しているだろうに無視を決めこんだ。
「君の客なら残念だが、時間外はパスワードを打たないと開かないシステムになっているんだよ」
「詩音さん、詩音さんはパスワードがあるでしょう?」
 下から上目使いで見上げる青年はなんとかならないかとお願いしていた。
「えっと、何くんだっけ。まぁ大丈夫だよ。気にするな……。俺達は運がいいんだ」
 アランはもとより、ラファエルも流石の悠も何が起きているか分からなかったし、涼の根拠のない自信も分からなかった。
 ピ―ポ…ピ——ポピ———ポ 
「パスワード?」
 フロアに沈むように音が吸い込まれていく。
沈黙が重かった。
 外から響く電子音。
 そのまま打ち込まれ続ける電子音に皆、耳を傾けた。
 歌のように流れるそれに何故か松重は聞き覚えがあった。
 記憶をたどりその電子音を反芻する。
「子犬のワルツ?」
 悠とラファエルが声を揃えて言った。
「うん。短いけど確かにあれはショパンだよ」
「たったあれだけだぞ? なんでそんな事が分るんだ?」
 アランは腑に落ちない顔をした。
「涼……俺の懐中時計を貸して」 
 松重は涼の懐から出てくる懐中時計に目を奪われた。
「ガレのランプを思わせる、細やかな造り。あれは……、まさか」
 悠が蓋を開けると、オルゴールが仕込んである懐中時計は静かに動きだした。
「ほら、ここ」
 悠の言うその場所は、確かにさっきの電子音だった。
「まさか……ジュリエッタ様」
 松重は入り口に走り寄った。
 悠は驚いて、そう叫ぶ松重とその扉を見つめた。

  ◆◆

 重い扉が開いた。
 二人がシッティングルームに消えて、アランはやっとの事で口を開いた。
「お久しぶりです。アラン・ロペスです」
 羽柴幸一は悠を見ていた目をこちらに移し、さわやかな笑顔を見せた。
「久しぶりだね、アラン君。とても元気そうだ。それにラファエル君は相変わらずの美人さんだね。悠の男くささとは違って、彼は華奢の一言だからね」
「あれ俺のですから、お手付きしないでくださいよ?」
「おやおや、結構な浮気癖があると聞いているが……? 自分はしても相手がするのはダメとは随分と狭量なんだな」
 羽柴幸一は軽い嫌味でもって答えた。
「ラファエルに言われるならいざ知らず、あんたに言われる筋合いはない」
 これは当に牽制だった。
「牽制とは必死だな。心配しなくても彼は君にぞっこんだよ、アラン君」
 揶揄われただけだと理解したのか、頭をポリポリ掻いてさりげなく話題をそらそうとした。
「しかし涼、お前は何故わかったんだ? あんな糞みたいな悪意ある悪戯、予想なんか出来ないぞ」
 すると意外な答えが返ってきた。
「分かっていた訳ではない。ただ」
「ただ?」
 先を急ぐアランに、まるでミステリーの犯人が気になって先に答えを見てしまう様な勢いだよなぁと笑う。
「ただな、悠が服をロッカーにいれるってわかった時、あの服残念だけどおしまいだなって、俺の耳元で囁いたんだよ」
「残念だけどおしまいだな?」
「ああ、純粋に嫌だったんだろ? 理由なんかないと思うぞ」
「でお前は羽柴幸一さんを使ったわけか……」
 呆れとも尊敬ともとれる三枝の行動に、皆感嘆の声を漏らした。
「いつも飄々と、誰にでも優しく、女神みたいに笑いかけ、めったなことでは声だって荒げない。何だかんだ喧嘩したら同じくらい勝ったり負けたりするくせに、俺の人生にかかわる大切なことは、何一つ譲らない。お前が必要だと幾度言っても、まともに取り合わない。なにも気にしないようでいて、じつは凄い好き嫌いも激しいし、誰より我慢している。アイツはな、プライドは糞程高いんだ。聴衆の目の前でケツ穴を晒すなんか、普通なら舌噛み切って死ぬくらい嫌だと思うだろ? でも俺の為なら、アイツはホントになんでも出来る。俺が自分の気持ちに気付いていなくて、靖二と結婚しようとした時にも、黙って良かったじゃん! って言っちまうし、セフレみたいに抱いていた時も、好きにしろよって感じだった。ホントにさ……小さな頃から、アイツがどれだけ優しく女神みたいだったのかは知っていたのにな。だからもう何一つ聞き逃さねぇって決めてんだ。悠があの服をもう着たくないって思ったのなら、帰りから替えてやるのは俺の務めだろ?」
 垂れ流された蜂蜜みたいな甘さは、濃度を更に増し、絡めとられていく。
 アランは雨宮悠という男をなぜラファエルがあれほど心酔するのか分かった気がした。
「お前も一緒だからか……ラフ」

   ◆◆

 二人がシッティングルームに入ってかれこれ二十分。身体を綺麗に拭き取りスーツを着るには、適当な時間だ。
「あの」
 松重が三枝に声を掛けた。
「何だ」
 ぶっきらぼうに短めに答えた三枝は、悠がフランクに対応する事をまだ松重を快く思っていないのだろう。
「お二人はお知り合いですか」
「以前アマルフィで行われた食の世界大会で、彼は審査員だったんだ。俺はその時の優勝、でこいつは二位だった。そういう間柄だ」
「ビジネスというわけですか」
「ああ」
「ではあの————懐中時計は————」
 聞き取れないほどの小さな声だった。
「あれは俺のじゃない」
「綺麗だよな」
 アランも初めて見たと横から顔を出した。
「小さなころから悠が大切にしているものだ。ロッカーに入れたくなくて、たまたま俺が預かっていただけだ。聞きたいことは本人に直接聞け」
「悠君のか、それなら納得。日本ではそういうのを牛に真珠? とかいうんだろ」
「豚だバカ」
 呆れたように涼が切り捨てた。
「ん? 何が」
「アラン君、牛に真珠ではなく豚に真珠というんだよ」
「あれ、間違えた。まぁいいや。で結構古いよな」
「あれはもともと私のものだったからね」

 ーーーー今なんて言った?
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✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

【創作BL】溺愛攻め短編集

めめもっち
BL
基本名無し。多くがクール受け。各章独立した世界観です。単発投稿まとめ。

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