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048 路拓く者③【エイデン】
しおりを挟む結論から言えば、演奏は素晴らしいものだった。
…いや、『素晴らしい』では言葉があまりに軽い。
歌うように自然に、物語るように滑らかに溢れ出す楽曲の数々が、
舞台上にいるたった一人の青年と、たったひとつのバイオリンから
発せられているという事が、どうにも信じられなかった。
時に重厚に、時に軽やかに、変幻自在にその重みを変えながら、
これほどまでに豊富なイメージを含む音色を、俺は他に知らない。
それまでどこかで聴いた事のあるような有名な曲も、そうでない曲も、
いずれにも自然と目に浮ぶ光景があり、胸を打つ物語があった。
しかもそれらは言葉ではなく、すべてバイオリンだけで語られた。
耳に流れ込む音色に聞き惚れるうちに、様々な光景が脳裏に浮んだ。
行った事もない王都の石畳、大聖堂、夜の港町に浮ぶ東洋の帆船と満月…
そんな景色を眺めていたはずなのに、一曲が終るたびにハッと我に返り、
舞台上には、たった一人の青年の姿しか見えない事を思い出しては
「今まで自分は何を見ていたのだろう」と狐につままれたような気分になる。
そんな体験を何度も味わった。
七曲目の情熱的な舞踊曲を弾き終えたラファエルさんは、
大喝采を浴びつつ優雅な礼を三方の客席に見せ、
登場した時と同じく悠然と舞台袖へと歩み去った。
ホール内の照明が灯り、シャンデリアが輝きを取り戻す。
『これより、二十分間の休憩時間でございます』
周囲の観客がぞろぞろとエントランスやトイレに向かう。
俺は喉の渇きを覚えたが、立ち上がる気力もなく、
アナウンスの声を遠くに聴きながら、しばらく呆然としていた。
ふと隣に座るジュナイを見ると、彼も同じように
ぼうっとした顔で座席にへたり込んでいた。
「…なんか…凄かったね」
「ああ…想像以上だった」
「いや~…俺ナメてたわ、バイオリン」
「俺もだ」
努めて明るく話すジュナイの目元が赤くなっている。
俺はそのことに気づかない振りをして、相槌を打った。
実はラファエルさんの演奏に夢中になりつつも、
ジュナイが溢れる涙を何度もハンカチで拭く様は目の端に視えていた。
とある童謡が演奏されていた時だ。
なぜ泣いていたのかなどと、野暮な質問をする気はない。
以前、店の蓄音機で童謡のレコードを掛けていたら、この童謡が流れた。
その時ジュナイは、懐かしそうに言ったのだ。
『これ、リュウがよく歌ってたよ…病室で、小さな声でさ…』
リュウさんが、夕闇迫る病室でひとり本の頁をめくりながら、
小さな声で呟くように口ずさんでいる…
写真でしかリュウさんを知らない俺にすら、そんな光景が目に見えたのだ。
ジュナイには過ぎし日の思い出が、もっと鮮明に見えていたのだろう。
***
二十分の休憩が終わり、再び照明が暗くなった。
暗い中をごそごそと座席に戻る観客はほとんどおらず、皆早々に席に着いていた。
誰もが今か今かと次の演奏を待っている気迫が伝わって来るようだ。
煌々と光るステージに、再びラファエルさんが戻ってくると開演時よりも
明らかに大きな喝采が彼を出迎えた。いつの間にか舞台中央に備え付けられていた
マイクスタンドの前に立つと、ラファエルさんはやはり優雅に一礼した。
再び湧き上がる喝采が静まる頃を見計らい、彼は静かに口を開いた。
「…ラファエル・ノーザンライトです。今宵はようこそ、僕の演奏会に」
柔らかな声音で口調も丁寧なのに、どこか居丈高な印象があるところは
昔と変わらないのだな…と、内心苦笑した。
「これから演奏するのは、本日最後の一曲となります。
僕にとってはとても特別で…
バイオリニストとして生まれ変わった
とある一日を、思いながら創った曲です。
それでは最後までお楽しみください」
再び湧き上がった拍手は、ラファエルさんがバイオリンを構えると
さざなみが引くように消えた。
マイクスタンドが、音もなく舞台の床に収納される。
その後はただ、咳払いひとつ聞こえない静寂。
満場の観客が努めてそうしたというよりは、
そうせざるを得ない緊張感が、舞台上からホール全体の空気に満ちていた。
ラファエルさんの手がバイオリンのネックに弓を宛がい、それを引いた瞬間、
火花のように音が迸る。
それは休憩の前に聴いたものとは、明らかに異質のものだった。
正しく形容するに相応しい言葉が見つからない事がもどかしいが、
『泣き叫ぶ』と言い表すのが一番近いだろう。
先ほどまで小鳥のように、物語の語り部のように、のびのびと
楽しげに歌っていたバイオリンの音色とはまったく違う。
曲調はゆったりとしたテンポで進むが、時折荒々しく乱れ、逆巻く。
悲壮さや不穏さはあれど、優雅さは無い。
重荷を背負い、それによろめきながら荒地を進む苦しげな足取り。
ままならぬ人生を生きる者が、天を呪い、自らを呪い、
それでも歩みを止めない…止める事を自分に許さない悲しみが
音の一つ一つから滴り落ちるようだった。
俺は殆どまばたきする事すら忘れて、その音色に聴き入った。
心臓を動かすこと、最低限の呼吸をすること、鼓膜を震わせること…
それだけを許されて、ただバイオリンの叫び声を聴いた。
いや、これはバイオリンという楽器の声帯を借りた
ラファエルさん自身の叫びであり、あの日が訪れる前の俺の叫びでもあった。
『あの日』…ラファエルさんとカフェで出会い、別れた日。
雪の降る夜、ノースウッドの黒ギルド長・幹部をすべて殺した日。
血まみれの手で、今の人生を掴んだ日…
そのすべての光景を、バイオリンの音の向こうに幻視した。
真綿で首を絞められるように、胸を引き絞られるように
じっとりと奏でられる音色は聴いていて苦しいものではあったが不快ではなかった。
むしろその深く重い闇が、旋律の限りない美しさを惹き立てているかのようだった。
ゆるやかに、しかし徐々に張り詰めていた曲調が高まり、
やがて爆発したかのような凄まじさで一気に転調する。
その瞬間、全身がゾッと粟立つような感覚に襲われた。
演奏によっては楽しく陽気にも聴こえる部分かもしれないが、
ラファエルさんの奏でるそれは、そのようにのどかなものではなかった。
心臓が胸の肉を突き破るかのような、激しい高揚。全身を灼く歓喜。
まるで暴れ馬が崖っぷちを疾走するような狂気そのものが、
ホール全体の空気を震わせ、火花を散らし、嵐となって暴れ狂った。
常日頃、いかにバイオリンの演奏に詳しかろうとも、
今その超絶技巧に感心するような余裕のある者は、おそらくこの場にはいないだろう。
音楽を鑑賞するなどという次元の話ではない。
噴き出る熱い血しぶきを全身に浴び続ける事に似ていた。
弾丸めいた豪雨のように、音が皮膚を叩く。
凄まじいスピードと激しさで最後の小節が過ぎ去る。
血に濡れた刀を払うようにして弓を振り下ろした
ラファエルさんの全身から目に見えぬ力…
『闘気』とでも言えばいいのだろうか。
それが一瞬烈しく白く燃え上がり、消えた。
後に残されたのは、静まり返るホールだけだった。
「水を打ったように」と言うよりは、まるで焼け野原だ。
火竜の襲撃を受け、死に絶えた街のようだった。
誰もが唖然としながら、ステージ上の青年を見つめていた。
まるで今まで自分が何を聴き、何を見たのか理解できないと言うように…。
ステージ上で肩で息をしつつ、俯いていたラファエルさんがようやく顔を上げる。
額から滴り落ちる汗を拭い、深々と観客に向かって一礼する。
次の瞬間、小さなホールを大喝采が揺るがした。
座席から立った聴衆は熱狂し、一人の音楽家に拍手と歓声を送った。
ステージに雨のように花が投げ込まれる。
俺も掌の感覚を失うまで、取り憑かれたように拍手を送った。
ラファエルさんはその怒涛のごとき賛美に、花の咲き綻ぶような笑顔で応えていた。
四方八方の観客に手を振り返すと、再びついとバイオリンを構えた。
拍手が引き潮のように静まる。
次に奏でた曲は軽やかで可愛らしい小品で、
アンコールの一曲としては実に気の利いた、申し分のないものだった。
割れんばかりの拍手に再び軽やかに手を振ると、
ラファエルさんは舞台袖に、やはり悠然と歩き去った。
シャンデリアが輝きホール全体が明るくなっても、
興奮した観客達は席を立とうとしない。
かく言う俺も、
座席に腰が抜けたようにへたり込んで、立つ気にはならなかった。
幸いそれはジュナイも同じようで、二人してしばらく茫然としていた。
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