月猫

波奈海月

文字の大きさ
16 / 33
真昼のストレンジャー

第三章 1

しおりを挟む
 目が覚めてからどれくらい時間が経っているのか、まったく見当がつかない。空では太陽が柔らかな光を放っていた。
 これから先、どうしたものか。噴水塔の前のベンチの上で庄野は、ぷるると身を震わせると息を吐いた。
 目が覚めたら猫だった。一般的男子の平均身長だった背はみごとに縮み、全身灰色の毛に被われている。尻には当然のように長い尻尾がついていて、指の先には収納可能な爪。その掌、足の裏には肉球。頭の上には突き出した三角の耳、口の横にはぴんとしたヒゲ。
 どこをどう見ても猫。噴水塔を囲む塀に上がって溜め水を覗き込んだとき、映った猫の顔に神様の気まぐれを呪うしかなかった。たとえ自らが猫になりたいと願ったことであっても。
 何で自分ばかりこんな不運に遭うのだろう。仕事でもそうだ。
 上手くいくはずだった商談は、いきなりの白紙。会社の損失は免れず、社長に報告してどうするか今後を考えなければならないのに、今自分はこんなところにいる。
 人間に戻らなければ。戻らなければ、元の生活に。
 庄野の脳裏に、実家の親や兄弟、学生時代の友人に、世話になっている社長や同僚の顔が浮かんで、そして消えていく。このまま自分の行方が分からなくなったら、きっと心配して探すだろう。
 でもどうしたら戻れるんだ? ルイは望みを叶えてやると言ったくせに、人間に戻すことはできないと言う。自分の心からの望みではないからって……。
 人間に戻りたいと思っていないなんて、そんなことあるか。自分は人間なんだぞ。けれど猫のほうが楽なんじゃないかと、悪魔のような囁きが耳の奥で響く。
 猫なら仕事に行かなくてもいい? 無情な取引先に頭を下げることも? 会社が潰れたとしても、猫の自分には関係ない。日々ここでゆったりとすごせばいいのだ。好きな時間に寝て、起きて。気ままな生活?
 何を考えている。自分の気持ちが分からなくなってくる。元の生活に戻らないといけないはずなのに、心のどこかでは戻りたくないと思ってしまっているのか。
 だからルイは、こんな惑いばかりの心を見透かしたのだ。以前から不思議と人の気持ちが分かる猫だった。
 庄野は前足を突き出し、ぐぐっと伸びした。それから折りたたんで胸の下に入れ腹這いになる。何だか急に眠気を感じた。穏やかに降りそそぐ日差しが気持ちいい。季節は今何だったっけ。
「ナーオ」
「うわっ、ル、ルイっ!?」
 どこから来たのか気配もなく、ルイが背に飛び乗ってきた。庄野の心拍数は突然のことに跳ね上がる。
「お前、いきなり何すんだよ」
 体をねじって振り払えば、ルイはしなやかに飛んで庄野の前に座った。そしてにやりとする。
「あんた、猫の仕草が様になってんじゃん。どこからどう見ても猫そのものだな」
「な……、そんなワケあるか。俺は人間だぞ」
 猫そのものだと? 自分がいつ――。
「えー、気づいてなかったのか? その座り方さ、人間が香箱こうばこ座りって呼んでる座り方なんだぜ。咄嗟に身動きできないから周囲に敵がいなくてゆったりできるときにやるんだけどさ」
「うっ」
 言われてみれば。前足を体の下に入れていてはすぐさま立ち上がれない。
「ナオ、オレがいないときにそんなポーズするんじゃねえぞ。ここが安全だっていう保証はねえんだからな」
 ルイは、襲われても知らねえぞ、と物騒なことを言う。
「襲われるって、誰にだよ」
「もちろん猫さ。縄張りに知らないのが入ってきたら警戒して攻撃するヤツもいるからな。つまりあんたみたいなのな。ボスぐらいになれば、何がきても動じないけど」
「よそ者ってことか。つまり俺はストレンジャーって?」
 ここの猫たちから見れば、よそ者以外なかった。もともと温和な気質なのかもしれないが、ミイナがすんなり自分を受け入れたのは、ルイが仲介したからだろう。
「ナオ、ストレンジャーって、ビリー・ジョエル知ってんのか?」
 ルイの反応は意外だった。尻尾を大きくゆっくり振っていた。犬のようにぱたぱたとした動きではないが、どうも機嫌がいいようだった。
「はあ? いきなりだな。名前くらいなら聞いたことあるよ。ああ、そういうタイトルの曲、歌ってたんだっけか?」
 猫のルイからそんな話が出るとは思いもしていなかった。
「いや、おっさんが好きでさ、よく口ずさんでんだよ。元の曲と比べたらずいぶん調子っぱずれてっけど」
 けけっとルイが思い出したように笑った。
「――おっさんって誰?」
 ビリー・ジョエルを口ずさむということは人間だろうか?
「あっと、おっさんのことはいいんだ。それよりもあんたにいろいろ聞かなくちゃいけないことがあんだよ。ナオ、記憶あるか?」
「記憶って、何のだよ。人間だったっていう記憶なら有り余ってるけど?」
「ふーん。やっぱりおっさんのときとは違うな。ここも夜じゃねえし」
 空には明るく太陽が照っている。昼だ。
「だからそのおっさんって誰? それに夜じゃないって?」
「何であんたは猫になりたいって思ったんだ?」
「おい、答えろよ。だから、どうしてそんなことを聞くんだよ」
 ルイは庄野の質問に答える気はないようで、聞いてくるばかりだった。
「ち、面倒だな。原因の究明なんだとよ。猫になりたいっていう気持ちがあんたにあったから、こうなったわけだけど。そもそも、何でだってことで」
 自分には口止めをしたくせに、まるでルイの口振りは他にも人間の庄野が猫になっていることを知っている者がいるみたいだった。
「知るかよ。ただあのとき、猫はいいなあって思ったんだ。いろいろ煩わしいこと考えなくてもいいのかなって」
「猫の生活もそんなにいいもんじゃねえぞ? 日々のメシ得るために必死だ」
「そんなこと言ったって、いいなって思ったんだから仕方ないだろ」
 深く考えて願ったわけでは、きっとない。いきなり見舞われてしまった不運に、すべて投げ出してしまいたかっただけだ。逃げ出してしまいたいと……。
「あのさ、あんたに何かあったんだってことは分かってるんだ。本当にあのときもう人生の終わりって顔してたもんな。いつもさ、会うたびそりゃ疲れた顔はしてたけど、あんなにひどくはなかったからな」
「疲れた顔か――」
『大丈夫か? あんた、人生の終わりって顔してる』
 不意に脳裏によみがえった声。あのとき聞こえた声はルイ?
「ルイの声だったんだ。あれ」
「オレの声? いつ?」
「俺が倒れる前。若い男にお前抱かれてただろ? 『人生の終わりって顔してる』って声が聞こえた」
「うそ。あのとき、あんたまだ人間だったじゃねえか。なのに聞こえた?」
 驚いた顔をしたルイは、ぷるぷると首を振った。
「あんたはとっくに月の魔法にかかってたんだな」
「月の魔法? 何だよ、それ。分かるように話せ」
「ああもう。そう急かすなよ」
 ルイはがしがしと耳の後ろを後ろ足でかいたあと、前足を嘗めて顔を洗い出した。
「何毛づくろいしてんだ、お前」
「猫特有のリラックス行為だ。これすると気分、落ち着くんだよ」
 ふっ、と息を吐いたルイはそれから背筋をぴんと張った。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か

雪兎
BL
第二性が存在する世界。 Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。 しかし入学初日、彼の前に現れたのは―― 幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。 成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。 だが湊だけが知っている。 彼が異常なほど執着深いことを。 「大丈夫、全部管理してあげる」 「君が困らないようにしてるだけだよ」 座席、時間割、交友関係、体調管理。 いつの間にか整えられていく環境。 逃げ場のない距離。 番を拒みたいΩと、手放す気のないα。 これは保護か、それとも束縛か。 閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

【完結・BL】胃袋と掴まれただけでなく、心も身体も掴まれそうなんだが!?【弁当屋×サラリーマン】

彩華
BL
 俺の名前は水野圭。年は25。 自慢じゃないが、年齢=彼女いない歴。まだ魔法使いになるまでには、余裕がある年。人並の人生を歩んでいるが、これといった楽しみが無い。ただ食べることは好きなので、せめて夕食くらいは……と美味しい弁当を買ったりしているつもりだが!(結局弁当なのかというのは、お愛嬌ということで) だがそんなある日。いつものスーパーで弁当を買えなかった俺はワンチャンいつもと違う店に寄ってみたが……────。 凄い! 美味そうな弁当が並んでいる!  凄い! 店員もイケメン! と、実は穴場? な店を見つけたわけで。 (今度からこの店で弁当を買おう) 浮かれていた俺は、夕飯は美味い弁当を食べれてハッピ~! な日々。店員さんにも顔を覚えられ、名前を聞かれ……? 「胃袋掴みたいなぁ」 その一言が、どんな意味があったなんて、俺は知る由もなかった。 ****** そんな感じの健全なBLを緩く、短く出来ればいいなと思っています お気軽にコメント頂けると嬉しいです ■表紙お借りしました

死ぬほど嫌いな上司と付き合いました【完結】

三宅スズ
BL
社会人3年目の皆川涼介(みながわりょうすけ)25歳。 皆川涼介の上司、瀧本樹(たきもといつき)28歳。 涼介はとにかく樹のことが苦手だし、嫌いだし、話すのも嫌だし、絶対に自分とは釣り合わないと思っていたが‥‥ 上司×部下BL

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

執着

紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。

処理中です...