セラフィムの羽

瀬楽英津子

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慟哭〜この絶望的な矛盾

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  山下は、内藤の手下に両脇を抱えられながら入ってくると、亜也人のいるベッドの足元に引きずられるようにしてやって来た。

  亜也人は咄嗟に顔を背けた。ベッドの柱に両手を繋がれた状態で、精一杯上体をねじって山下の視界から自分を遠ざけた。
  中途半端にねじれた脇腹と無理に伸ばされて裏返った腕が亜也人のしなやかな身体のラインと腰の細さを際立たせている。ベッドと手首を繋ぐ紐は引き千切れんばかりに張りつめ、手錠の金具が皮膚に食い込み赤い筋を作っていた。

  「内藤さん、本当にもう勘弁して下さい…」

  山下の切迫詰まった声を、亜也人は、顔を反対側のシーツに埋めるように折り曲げ、瞳を硬く閉じて聞いていた。

  「俺の命令が聞けないのか?」

  「俺はもう内藤さんの子分じゃありません。それに亜也人は良二の恋人です。後輩の恋人にこんなこと出来ません…」

   震えながらも気丈に振る舞う山下に、内藤がイライラと踵を踏み鳴らす。山下の恐れと内藤の怒りが混じり合い、部屋の空気を極度に尖らせていた。すぐにでもお互いの急所を突けそうな間合いに、周りが水を打ったように静まり返る。一触即発の危機。それを破ったのは、意外にも染谷の一言だった。

  「おい若いの。この子を誰ぞやの恋人と言ったがそれは違うぞ。この子は今は俺のオモチャだ。普段がどうであれそんなこたぁ関係無ぇ。今この時、俺がオモチャだと言えばオモチャなんだ。解ったか」

  吐く息すらも飲み込ませる、恐ろしく凄みのある声だった。声だけで相手をぐうの音も出ないほど叩きのめす圧倒的な威圧感。
  染谷の声は、一瞬にして周りを黙らせ、内藤の踵の動きを止め、山下の気丈さを呆気なく打ち砕いた。

  「どうした。好きなように抱いてやれ。いつも女にしてやるようにすればいいんだ。緊張してるなら薬をやる」

  ほどなくして、ベッドがぐにゃりと揺れ、冷たい手が亜也人の肩を掴んで仰向けに身体を返した。
  山下の、苦悩に満ちた瞳が目の前に迫っていた。

  「だから、早く良二と別れろっつったんだ…」

  泣いているような怒っているような顔で呻くと、山下は、亜也人の脚の間に自分の脚を割り込ませ、開いた隙間に入り込むように亜也人の身体に覆い被さった。

  「ごめんな、亜也人…」

  亜也人はすぐには事態が飲み込めなかった。
  山下の唇が首すじに吸い付き、頬を上がり唇を舐め回す。火照った舌が唇の内側を割り、中に入ってきたところで、ようやく頭が理解し激しく身をよじった。

  「やめて、山下さんっ!!」

  山下は何も答えず亜也人の口にねじ込んだ舌をさらに長く伸ばし、喉の奥に貼り付いた亜也人の舌を絡め取ってめちゃめちゃに舐め啜った。

  「んっ、やっ…なんで、んっ、やっ、山下さんっ!」

  脚をバタつかせて振りほどこうとするも、太ももの内側を掴まれ、片脚を真横に開かれ押さえ付けられる。そのままグイッと持ち上げられたと思ったら、今度はいきなり後孔に指を入れられた。

  「ああっ!山下さんっ! だっ、だめ!だめだよ!こ、こんなのおかしいよっ!!」

  山下の突然の豹変に亜也人の頭が混乱する。驚き固まる亜也人をよそに、山下は、亜也人の身体を一心不乱に舐め貪り、後孔にねじ込んだ指をぐにぐにと折り曲げ搔き回す。乱暴な手付きに悲鳴が漏れる。ショックと恐怖で息が出来ない。
  身をよじっても凄い力で押さえ付けられ、更に指を増やされた。

  「なかなか雰囲気出てるじゃないか。おい兄ちゃん、後ろの穴はもう十分ほぐれてるから今すぐそれをブチ込んでやりなさい」

  「やだ、やめて! 山下さ…あっ、あぅっ、ああっ、あああぁっ」

  硬く張り詰めたイチモツが、身体の中心を割るように押し入ってくる。

  嘘だ。
  亜也人は何度もかぶりを振った。
  これは何かの間違いだ。
  こんな事があるわけが無い。 
  こんな事があってはならない。
  良二と三人でつるんでいた頃から、いつも気にかけ面倒を見てくれたあの山下が、今、欲望を剥き出しに自分に覆い被さり激しく腰を突き入れている。

  嘘だ。

  現実として受け入れるのは耐え難かった。

  ひと突きごとに心が壊れて行く気がする。

  嫌。

  涙に眼球が沈んで視界を歪ませる。悲しすぎて呼吸が細くなっていく。気が遠くなりそうな絶望感に襲われる。

  しかし、亜也人の身体はその奥にある快楽を素早く察知し、神経を集中させていた。

  「おお、おお。こんなに涙を流しておきながら、腰から下はすっかり咥え込んでるじゃないか。見てごらん。こんなにぴったり貼り付いて一緒に動きよる。まったく、なんていらやしい子だ。お前みたいないやらしい子は初めて見たよ…」
  
  いやらしい子。

  言われた瞬間、遠くなりかけた意識が瞬時に覚醒した。

  いやらしい…子。

  ああそうだ。確かにその通りだ、と亜也人は思った。

  嫌で嫌で堪らないのに、心とはうらはらに、身体の方が気持ちの良い場所を自ら探し見つけ出す。身体中の皮膚という皮膚がそば耳を立てて感知する。細胞という細胞が見えない触手を張り巡らし、自ら快楽を探し求めて嗅ぎ回る。
  まるで、発情期のケダモノだ。

  『子供のくせに、いらやしい子だね。君がこんなにいやらしい子だと知ったらお母さん、きっと悲しむだろうなぁ』

  遠い過去の言葉が蘇る。

  お母さん。

  お母さん、ごめんね。僕、こんないやらしい子で。

  張り詰めた糸が切れる音がした。拒んでいた快楽が一気に押し寄せた。

  死にたい。

  鳥肌の立つような快楽の中で、亜也人は静かに目を閉じた。

  良二。死にたい。死にたいよ、良二。

  いつものように俺の息の根を止めて。 

  良二。

  殺して。

  俺を殺して。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



「寺田が自分からやると言ったんです。それに、必要とした時は貸す、という約束でしょう?」

  内藤の抑揚の無い声が、松岡の神経を逆撫で、尖らせた。

  内藤の使いを名乗る男から連絡があったのは、松岡が遅めの昼食を済ませた十四時近くの事だった。
  男は、会員制ホテルの名前と部屋番号を告げ、「亜也人を迎えに来い」と言うと、一方的に電話を切った。
  それから松岡は、自分がどうやってホテルに辿り着いたのかよく覚えていない。ただ、聞いた途端、身体が急激に震えだし、猛烈な吐き気に襲われた。人前で嘔吐するなど普段の自分からは想像もつかないような状態に陥り、動揺のあまり、どこをどう走っているのかも解らないまま車を走らせ亜也人の元へ駆け付けた。
  
  亜也人は、石破組がしのぎのための隠れ蓑として経営するモデルプロダクション名義で借りられた部屋にいた。
  ベッドの上に全裸で寝かされていたが、身に付けていた制服がバスルームの脱衣場に畳んで置かれていたことから、亜也人が自分でシャワーを浴びてベッドへ入ったのだと想像がついた。そういう意味では、内藤の言う、亜也人が自分から、というのもまるきり嘘では無いらしい。
  しかし、ベッドの上で気を失った亜也人の身体に残る無数の赤痣から、相手が複数人いたことは素人目にも明らかだった。
  未成年を、こんな白昼堂々、大人数で。
  一瞬、報告書で読んだ過去のレイプ案件が脳裏をよぎった。
  中学一年の大晦日、亜也人は、凍死寸前の状態で発見され、病院へ搬送後、たった1人で警察の事情聴取を受けている。亜也人はそこで、相手は見ず知らずの男、三人ぐらい、と答えたが、亜也人を診察した医師の診断結果によると、亜也人の身体からは十人近い人間の体液が検出されていた。
  報告書を読んだ時、松岡は、亜也人が誰かを庇っているのだと思った。
  口止めされたのか、自ら進んでなのかは解らない。しかし、亜也人は誰かを庇い、事件を事実より小さく申告していた。

  それが堪らなく切なかった。

  今回も、亜也人に聞いたところで本当の事は何も言わないだろう。内藤に連絡したのは、そういう事情もあっての事だった。

  「勘違いされると困るのでもう一度言っときますが、私は、寺田を手放したつもりはありません。あなたに預けただけです。それに、これはあいつが自分の意思でした事だ。あなたにとやかく言われる筋合いは無い」

  「お前がそう言うように仕向けたんだろ? おおかた、積川の名前でも出して、積川のため、とでも言ったんだろう?」

  「これはまた人聞きの悪い。確かに積川の名前は出しましたが、何も仕向けちゃいませんよ。あいつが自分から引き受けたんです。大事な大事な良二のためにね」

  嘲笑を含んだ声色で言うと、内藤は、ふいに口調を一転させて語気を強めた。

  「言ったでしょ?あいつは積川のためなら何だってするんです。今日だって、『良二を助けられるのはお前しかいない』って言ったら、二つ返事でオッケーしましたよ。あいつは良二の役に立ちたがってるんです。良二を助けることが嬉しいんです。
  承認欲求の強いガキは褒められてなんぼ、なんですよ。あいつが欲しいのは金でも愛情でも無い、自分の存在価値です。だからこれは、ある意味あいつの願いでもある。俺はあいつの願いを叶えてやってるんだ。
  それにね松岡さん。俺がその気になれば、もっと乱暴な方法で寺田を従わせる事だって出来るんですよ? これでも、一度は兄貴と慕ったあなたに気を使って遠慮してるつもりなんだ。あなたがあまりに聞き分けのない事を言うようならこちらにも考えがありますのでそのつもりで」

  「貴様…」

  松岡はその先の言葉を飲み込んだ。完全に足元を見られている。現実はどうであれ、状況的には、松岡は内藤に亜也人を人質に取られているようなものだった。亜也人に危害が及ぶかも知れないと思うと、些細な行動も躊躇してしまう。自分がどれほど亜也人に囚われているかを改めて思い知らされる。
  大切なものを盾に取られるという事が、こんなにも歯痒いものだという事を松岡は亜也人を通して初めて知った。

  結局、内藤からは何も聞き出せないまま、松岡は、ろくな状況説明もなしに亜也人を医者に診せる事になった。
  亜也人の身体から違法薬物が出た場合を想定して、医者は、紀伊田のつてで、その筋の案件にも対応できる開業医を選んだ。
  医者は、紀伊田と共に部屋に入ると、ベッドで眠る亜也人を見、「あっ」と小さな声を上げた。

  「なんだ、こいつを知ってるのか?」

  「あ、いや。一応守秘義務があるので、それは…」

  「金なら出す」

  「そういう問題では…」

  医者はなかなか口を開かなかったが、松岡が、話せる事だけで良い、と言うと渋々口を開いた。

  「四、五か月ぐらい前だったか、息をしてないとかで急遽呼び出されたんですよ。
  頸部圧迫による意識消失。首絞めプレイの延長線上の事故でしょう」

  「首絞めプレイ?」

  「低酸素症状態での幻覚作用目当てで、興味本位でやる連中が増えてるんです。彼らも常習的にしてたみたいですしね。ただ、彼の場合絞められ方がちょっと異常だったんで気になった、と言うか…」

  「異常?」

  「力の加減が解らなかったんでしょうが、爪が食い込むほど強く絞められてて…。あと、顔の内出血ーー幸い狭い範囲で済んで良かったんですが、顔の毛細血管が切れて頬の下に赤い筋が出てしまいまして。まぁ、ロープとかで絞めたっていうならともかく、いくら行為に夢中になってたからって普通は素手でそこまでしませんから。
  もちろん、相手の男にはちゃんと説教してやりましたよ。生死に関わることなんだから、頸動脈の場所も解らないような素人がイキがってやるんじゃない、ってね」

  「相手の男はどんな奴だった?」

  「え…? あ、なんて言うか、不気味な奴でした」

  「不気味…」

  「表情が読めない、っていうんですかね。若いのに何を考えているのか解らないっていうか、暗いとかじゃなく、凄く静かで、なのに凄く殺気立っている、みたいな…」

  ふいに、内藤の顔が浮かんだ。
  類は友を呼ぶ、というやつか。
  同じ事を思ったのか、離れた位置で様子を見ていた紀伊田が何か言いたげに松岡を見た。

  診察結果によると、亜也人の身体は、腕を無理に引っ張られた事による肩の脱臼と、手錠を掛けられたことによる手首の内側の半月状の擦り傷、脇腹の噛み跡と、太ももの噛み跡、長時間に渡る性交による裂傷だった。
  傷はどれも痛々しかったが、その中でも、今回つけられた傷ではない、先日良二が脇腹に付けた噛み痕を、「これが一番酷い。普通はここまでしない」と医者が言ったのが何とも皮肉だった。
  他の誰よりも自分を傷付ける相手のために自分自身を傷付ける。一番必要としている相手に一番傷付けられている。この絶望的な矛盾に気付かないという悲劇。
  積川良二の何が亜也人をここまで惹きつけるのか松岡には全く理解出来なかった。
  
  診断結果を告げると、医者は、慣れた手つきで肩の関節をはめ、傷ついた患部をテキパキと消毒した。鎮静剤の点滴か効いているらしく、処置の間、亜也人はずっと眠っていた。最後に抗生剤を点滴し、痛み止めを処方する。性病検査の結果は後日、紀伊田がクリニックまで取りに行く事になった。

  こうして亜也人の診察は終わり、紀伊田が医者を送りがてら帰宅するためにマンションを出ると、松岡はようやく亜也人と二人きりになった。

  時刻は午後6時になろうとしていた。10月に入ったばかりの緋色の太陽が、リビングの一枚ガラスの窓の向こうで、夕刻の景色を茜色に染め上げている。
  一瞬立ち止まって眩さに目を細め、気を取り直してミネラルウォーターを取りにキッチンへ向かった。
  冷蔵庫の扉を開けペットボトルを取り出すと、対面式のシステムキッチンのカウンターの端に置きっぱなしになっていた仕事用のノートパソコンにメール受信のメッセージが光っているのが見えた。
  いつもなら無視するが、何故か妙に気になった。 

  差出人不明。件名なし。メッセージらしいメッセージも無く、容量の大きな添付ファイルが貼り付けられている。

  恐る恐る、松岡は、添付ファイルをクリックした。
  
  現れたのは亜也人だった。
  クリックした途端、亜也人の苦悶に歪む顔が画面一杯に広がった。そこから徐々にカメラが引いて全体像を映し出す。両脚を大きく開かれ、抱え上げられた亜也人の真ん中で男の背中が激しく揺れている。
  カメラは再び亜也人の顔に焦点を当て、亜也人の喘ぎ苦しむ顔を舐めるように画面に映し出す。
  カメラのアングルが切り替わり、部屋全体を映し出した時だった。目の奥がギィンと痺れるような感覚に襲われ、松岡はノートパソコンをテーブルの下に払い落とした。

  久しぶりの感覚に心がざわつく。熱くて重い塊がみぞおちの辺りで渦を巻く。怒りが喉を突き上げこめかみを登って行くのが解る。

  亜也人。

  叫ばずにはいられないほどの衝動に駆られ、松岡は何度も亜也人の名前を呼んだ。

  亜也人。亜也人。

  自分を傷付ける相手のためにどうしてここまでしなければいけないのか。
  自分がされたわけでもないのに、自分の事のように身体が震える。

  また、目の奥がギィンと痺れ出す。 

  抑えなければならない。
  怒りに飲み込まれるわけにはいかない。 

  気を逸らそうと、テーブルに頭を何度も打ち付けた。    
  反動で、ペットボトルが床に落ちて足元に転がる。床がぐらぐらと揺れているようだった。

  再び、目の奥がギィンと痺れ出す。

  松岡はもう堪えることが出来なかった。


  ーーー全員ぶっ殺してやる。

  
  始まったが最後。もう止まらない。
  抹殺した筈の感覚が呼び戻される。
  もう二度と呼び起こしてはいけないと誓った感情がふたたび起き上がる。
  頭の中で、松岡は、亜也人を蹂躙する男たちを一人残らず始末した。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



  誰かにに呼ばれたような気がして、亜也人はぼんやりと目を開けた。

  どこだろう。

  良二の部屋だろうか。

  背中にスプリングの当たる痛んだベッド。黄ばんだ壁紙。無造作に貼られたポスター。インスタントカメラでふざけて撮った寝顔の写真はまだ窓枠に挟んであるのだろうか。だとしたら、恥ずかしいから早く捨ててもらいたい。

  思いながら、起き抜けの視界に焦点を合わせた。
  どうしてだろう。起きた筈なのに、起きた実感が無い。  

  あっ…、と、誰かに抱きしめられていた事を唐突に思い出した。
 
  そうだった。ずっと長い間こうして抱き締められていたのだった。
  
  亜也人は、自分を抱き締める大きな腕に頬をすり寄せた。
  柔らかくて大きな手のひらが優しく頭を撫でている。
  暖かい手のひらだった。まるで母親によしよしされているような感じ。もしも母親に抱き締められて頭を撫でられたなら、こんな感じなのだろうか、とふと思った。
  確信が持てないのは、亜也人の中に母親に頭を撫でられた記憶が無いからだ。
  撫でられたことは愚か、母親の笑顔すらあまり記憶に残っていない。
  物心ついた頃から、亜也人の母親は、いつも何処か悲しげな、困ったような顔で亜也人を見ることが多かった。
  もっともそれは、亜也人が他の子供と比べて怪我が多く、しょっちゅう病院にかかっていたせいもある。きっと疲れていたのだろう。母親はいつも亜也人を見ては溜め息をつき、亜也人が笑い掛けても笑顔を返してくれる事は無かった。そのくせ、亜也人の変化を誰よりも先に気付きたいとばかり、亜也人の顔を四六時中見つめ、様子を伺った。亜也人はそれが息苦しく、母親と視線が合わないよう、わざと意識して目を逸らした。
  亜也人にとって母親は、よく解らない生き物だった。
  笑ったかと思えば直ぐに泣く。亜也人をお風呂場へ連れ込み乱暴に身体を洗ったかと思えば、柔らかいタオルで濡れた身体をやたら優しく丁寧に拭う。
  口汚く罵ったかと思えば、いきなり抱きしめ「愛してる」と言う。「汚い」と吐き捨てたかと思えば、「あなたは綺麗だ」と言う。
  かたや父親は、亜也人にはひどく優しかったらしい。
  らしい、と言うのは、実は、亜也人は父親の事は殆ど覚えていない。亜也人の父親は、亜也人が小学校へ上がってすぐの大型連休中に死んでしまった。父親の死は寺田家ではタブー視されており、当然亜也人にも真実は知らされていない。親戚筋の話では、周りの反対を押し切って起業し、多大な借金をこさえた挙げ句、森の奥深くで命を絶った、との事だった。危ない筋とも関わりがあったらしく、母親はずいぶん怖い思いをしたようだが、幼かった亜也人は幸いその頃のことは殆ど覚えていない。覚えているのは、頬ずりしながら、「可愛い、可愛い」と言う男の人の声と頬を擦るザラザラとしたヒゲの感触。
  そして、それを思い出した時の嫌な感じ。 

  嫌、と言うより、思い出すと気持ちが白ける。
  可愛い、と言う声を思い出すと、気持ちが白けて、見ることも話すことも、息をすることも億劫になる。

  可愛い、なんて言われたくない、と思う。
  可愛い顔なんて嫌いだ。
  こんな顔をした自分が嫌いだ。

  もしもこの顔で生まれてなかったら、もっと別の人生があったのだろうか、と亜也人は思う。
  こんな顔で無かったら、変な奴にイタズラされる事も、不良に目を付けられる事も無かったかも知れない。
  こんな顔で無かったら、母親に嫌われるような事も無かったかも知れない。

  でも。

  問題なのはそれだけではない。


  『いやらしい子』

  問題なのは本質。それは姿形を変えても多分変わらない。

  『本当にいやらしい子だね』

  心臓がドクンと弾けて胸が苦しくなる。

  だれか助けて。

  良二。

  助けて良二。

  身体がじわじわと痛み出す。
  身体中が痛くてたまらない。
  お腹の奥がジンジンと熱を持って痺れる。庇おうと体を丸めると、大きな腕が優しく身体を包んだ。

  「亜也人…」

  大丈夫だ、大丈夫だ、と囁く声が響く。

  温かい吐息がおでこにかかる。顔を上げると、頭の後ろを手のひらで支えられ、子供をあやすようにポンポンと柔らかく撫でられた。

  良二?

  良二だ。俺なんかを抱き締めてくれるのは良二だけ。
  良二だけが俺を理解してくれる。良二だけが俺の心の傷を癒す。

  キスがしたくて、頭をもぞもぞと動かして腕をすり抜けた。
  顔を上げ、ゆっくりと目を開く。

  良二。
  
  尖った顎。薄い唇。一重まぶたの切れ長の目。

  しかし、目を開けて、亜也人は愕然とした。

  良二ではない。

  良二の部屋ではない。

  良二はどこにもいない。


  「痛み止め、飲むか…?」
  
  目の前にあるのは、亜也人を胸の中にすっぽりと包み込みながら、亜也人を愛おしそうに目を細めて見つめる松岡の顔だった。

  「あんたがずっとこうしてたのか…」

  どうして、という言葉が喉に詰まる。

  「邪魔だったか?」

  何が起きているのか理解出来ない。
  どうしてそんなに優しい顔をする。
  どうしてそんなに優しく撫でる。

  「今、鎮痛剤持ってきてやるから待ってな」

  前髪を分け、瞼に溜まった涙を指先で拭いながら、松岡は亜也人を見つめて小さく笑った。

  どうしてこんなに居心地が良い。


  冗談じゃない。

  受け止めきれない気持ちに胸がざわつく。亜也人は、目を閉じて奥歯を噛み締めた。

 
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