セラフィムの羽

瀬楽英津子

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揺らぎ〜優しくされるとおかしくなる

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  「痛み止め。自分で飲めるか?」

  抱き起こそうとする松岡の手を振り払い、亜也人は、痛ッ、と顔を歪めた。

  身体の痛みは亜也人が自分で思っているほど軽くは無かった。手を振り上げた途端、鋭い痛みがお腹の底から背中を突き抜け、亜也人は、振り払おうとした松岡の手に、逆に、しなだれかかるように倒れ込んだ。

  「急に動くからだ。飲ませてやるからそのままじっとしてろ」

  やめろ、と言おうとした言葉が喉の奥に引っかかる。一方、松岡は、痛み止めの錠剤を亜也人の唇の間に挟み込むと、用意したペットボトルの水を口に含み、亜也人の背中を軽くおこして顔を近付けた。

  「ん……」

  唇の隙間から水がトロリと流れ込み、松岡の舌が錠剤を喉の奥へと押し流す。亜也人の喉が波打ちながら飲み込むのを確認すると、松岡は、ふたたび亜也人の身体をそっとベッドに仰向けに寝かせ、唇の端についた水滴を指の腹で拭った。

  「30分くらいで効いてくる筈だから少しの間辛抱してくれな」

  小さな子供を宥めるような、柔らかい穏やかな顔だった。

  なんなんだ。

  亜也人は無意識に目を見開いた。

  なんだこれ。
  なんでそんなふうに笑うんだ。
  なんでそんな目で俺を見るんだ。
  
  「おい、どうした? どっか痛いのか?苦しいのか?」

  逃げ出したいような気持ちが亜也人の喉を押し上げる。松岡を見るのが辛い。松岡に見つめられるのが辛い。松岡の真っ直ぐな瞳が自分に向けられているのが辛い。
  松岡に見つめられていると思うと、胸がざわついて上手く息が出来ない。
  振り払おうにも身体が言うことをきかず、亜也人は、松岡から顔を背ける事しか出来なかった。

  「大丈夫か? 待ってな、今、医者を呼ぶから!…スマホ、どこだ」
  
  慌てる松岡に、顔を背けたままイヤイヤと首を振る。余計な事をするな、という意味だったが、松岡はそうとは受け止めず、ますます亜也人に詰め寄った。

  「なんだ! 苦しいのか! どこが痛ぇんだ!ああ、チクショウ!ちょっと待ってろ。俺が今…。あ、紀伊田か。てめぇ、出るの遅ぇんだよ! 医者だ!今すぐ医者を連れて来い! あぁ? うるせぇ。ごたごた言ってねぇで早くしろっ!」

  勘弁して欲しかった。
  もう、これ以上構わないで欲しい。気持ちを一方的にぶつけられている気がする。押し付けられるのはごめんだった。

  「…ぜぇんだよ…」

  受け止めきれない思いが溢れ、気持ちの抑えが効かなくなった。
  
  「もうやめてくれよ。大の大人がオロオロして、バカじゃねぇのか…こんな…」

  「どうした? なんだ?」

  「うぜぇんだよ…。もう、ほっとけよ」

  「放っとけるわけねぇだろ、こんなに泣いてんのに」

  「泣いてねーよ!」

「泣いてんだろ! こんな、泣くほど痛がってんのに放っとくとか有り得ねぇだろ。今、医者呼んだから。あと少しの辛抱だから」

  「触んな!!」

  頭を撫でる松岡の手を除けようと手を上げ、亜也人はまた顔を顰めた。

  「ほら、動くなって」

  松岡の手が直ぐさま亜也人を支え、ベッドに横たえる。
  抗えない事が悔しい。思うようにならない身体が憎らしかった。
  
  「なんでなんだよ…。なんでこんな余計なことばっか…」

  「お前が苦しんでるんだ。心配して当たり前だろ?」

  「心配?どうしてあんたが心配するんだ。もとはといえばあんたのせいで…」

  そうだ、と、亜也人はふいに思った。

  そうだ。もとはと言えば松岡のせいじゃないか。

  どこからともなく、するすると答えが降りてきて亜也人の心にストンと落ちた。

  松岡に出会わなければこんな事にはならなかった。松岡に出会わなければ、良二を裏切ることも無かった。松岡に出会わなければ良二を怒らせることも無かった。松岡に出会わなければ、山下とセックスする事も無かった。
  何もかも松岡のせいだと思った。
  松岡と出会ったばっかりに、松岡に抱かれたばっかりに。
  怒りが胸の奥に充満し、暴力的な気持ちが湧き起こった。

  「これ以上俺に構うな!触るな!あっちへ行け!」

  「おいこら、そんな動いたら…」

  力任せに寝返りを打ち、ベッドから転がり落ちてしこたま身体を打った。息が止まりそうな痛みが脳天を突き抜ける。咄嗟に閉じてしまった瞳を再び開くと、すぐ目の前に松岡の瞳があった。

  「離せ、って言ってんだろ…」 

  動かないように、松岡が肩をしっかりと抱きかかえ、真っ直ぐに亜也人を見下ろしている。
  今にも泣き出しそうな顔だった。

  どうしてあんたがそんな顔するんだ。
  詰め寄り、問いただしてやりたかったが、いきなり涙がブワッと溢れ出し、嗚咽が喉を塞いで言葉にする事は出来なかった。

  「あんたなんて大嫌いだ…」

  「いいから、少しじっとしてろ」

  「あんたがあんな事するから俺は…。あんたなんて嫌いだ…。あんたなんて大嫌いだ…」

  思いながらも、松岡から瞳を逸らせない自分が悔しかった。滲んだ視界の先で、松岡の唇が、わかった、と呟いた。
  亜也人は、瞳を閉じて嗚咽を飲み込んだ。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




  紀伊田の人の良さそうな下がり眉が珍しく釣り上がっていた。見慣れない仏頂面に見据えられ、松岡はバツが悪そうに俯いた。

  衝動的に連絡をしてしまったが、落ち着いて時計を見たらまだ朝の7時にもなっていなかった。
  医者を連れて来いと息巻いたのは覚えていたが、紀伊田とどんなやり取りをしたかまでは覚えていない。紀伊田の話によると、クリニックがまだ開いていないことを説明するも、松岡は全く聞く耳持たず、「いいから来い」の一点張りで無理やり紀伊田を呼び付けた。紀伊田が、怒鳴られるのを覚悟で一人で駆け付けると、何のことはない、亜也人はベッドの上で大人しく眠っていて、拍子抜けもいいとこだった、と鼻を膨らませた。

  いくら普段美味しい仕事で儲けさせてやっているからとは言え、これでは紀伊田が仏頂面になるのも無理は無い。
  加えて、亜也人に「大嫌い」と言われた松岡は、亜也人の言葉を引きずり、柄にもなく思い詰めていた。

  「まさかこんなに堪えるとは思ってもみなかった」

  紀伊田は、今回の松岡の傍若無人な振る舞いに怒りを崩さない構えでいたが、松岡の柄にも無く落ち込んだ様子に、怒っているのが馬鹿らしいとばかり表情を緩めた。

  「それは、惚れた相手に言われたからでしょ? 好きな奴に言われたら俺だってヘコみますよ」

  立ち上がり、お茶も出さない松岡に替わり、キッチンに向かい勝手知ったる手付きでお湯を沸かしてコーヒーを入れる。客人用とは明らかに違うマグカップと、若者が好みそうなスナック菓子や甘いおやつ。来るたびに亜也人の物が増えていく様子に紀伊田の頬が優しく緩む。お菓子とはおよそ縁の無い厳つい風貌をした松岡が、どんな顔をしてこれを買うのか想像しただけで顔がにやける。
  亜也人と知り合ってから、松岡は人間らしくなったような気がする。松岡の仕事の依頼を受けるようになったのは三年ほど前だが、紀伊田は、松岡がまだ〝東の殺し屋〟と呼ばれていた頃から松岡の存在を知っていた。その頃から松岡は、誰ともつるまない一匹狼で、必要以上に他人と関わらない、自分の方から敢えて他人を遠ざけているような印象を受けた。もっとも、石破組の先代、島津の懐刀として働いていたという事もあり、他者との接触を意識的に避けていた可能性もある。しかし、仕事で付き合うようになったここ二、三年の間も、松岡は、紀伊田と親交を深めるどころか名前すらまともに覚えようとはしなかった。
  それが、亜也人の件では積極的に紀伊田に意見を求め、こんなにも喜怒哀楽を素直に表現をする。
  そこへ持ってきて今回のこの落ち込みようだ。
  今まで頑なに一人を貫いてきた男がこうまで変わるとは、人の縁とは本当に不思議なものだと紀伊田は思う。
  他人の恋愛など興味は無かったが、松岡の亜也人に対する想いと行動の変化には見ていて驚かされるものがあった。

コーヒー入りのマグカップと棚にあった餡ドーナツをトレーに乗せ、松岡の座るダイニングテーブルに運んだ。紀伊田が餡ドーナツの袋を破ってかぶりつくと、松岡が、あっ、と顔を上げた。

  「まだあと一つ残ってますよ。どうせ寺田の好物なんでしょ?俺、朝飯も食わずに駆け付けたんだからこれぐらい食わせて下さいよ」

  松岡は、「残ってるならいい」と自分の分のマグカップを手に取った。

  「しかしまぁ、松岡さんに恋愛相談される日が来るとは夢にも思わなかったな」

  「誰が恋愛相談だ」

  「まんま恋愛相談じゃないすか。でも、気にすること無いですよ。怪我してるんだし、身体が痛くてムカついてたんでしょ。八つ当たりですよ、八つ当たり」

  「八つ当たり…」

  「痛いところがあるとムカつくじゃないですか。それに、なんだかんだ言って、寺田、松岡さんに懐いてるし」

  「懐いてる? あいつが?」

  「俺、松岡さんの依頼で寺田の尾行とか身辺調査とかしたじゃないですか。その時の寺田と今の寺田と違う、っていうか、他の奴といる時と松岡さんといる時とじゃ、なんか、雰囲気違うんですよ、あいつ」
  
  「俺が年上だからだろ?」

  「それもあるかも知れません、なんて言うか、他の奴といる時の寺田、凄く大人しいんですよ。実際周りに聞いても口を揃えて『大人しい』って言うし。まぁ、あのルックスだから大人しくしてても目立つんだけど。で、積川といる時は 凄く小さく見える。身長がどうとかじゃなくて、女、つったらアレだけど、とにかく女みたいに小さくて弱々しい感じ。でも松岡さんといる時のあいつは、生意気だし、気が強そう、って言うか、正直、普段の大人しいイメージとは真逆なんすよね」

  「それがどうして懐いてる事になるんだ」

  「だって、生意気言う、って事は遠慮が無いって事でしょ?だいたい本当に嫌いな奴に面と向かって嫌いなんて言いませんよ。自分の思い通りにならないのが嫌なんです。『あなたが嫌い』じゃなくて、『僕の思い通りにならないあなたが嫌い』なんですよ。それってつまり、相手に構って欲しい、って事じゃないですか。
  本当のところは寺田本人にしか分かりませんけど、松岡さんといる時の寺田見てると反抗期の子供みたいで可愛いんですよね」

  「反抗期にしちゃ遅いだろ」

  「まぁ、普通はね。でも、あいつの家庭環境を考えると、多分、これまでそういう感情をぶつけられる大人がいなかったと思うんですよ。普通は、そういう時期に母親なり教師なり身近な大人に自分の理不尽な感情ぶつけて、それをちゃんと受け止めてもらって大人になって行くんだけど、あいつの場合、母親はあんなだし、教師っつっても、あいつがされてる事を見て見ぬふりするような奴らばっかだったわけでしょ?
  きっと寺田は、自分を無条件に受け止めてくれる大人の温もりとか安心感とか信頼感とか、そういうものを知らずに育っちゃったような気がするんです。だから、今、松岡さんに生意気言ったり反抗したりするのは、寺田にとっては凄く良い事なんじゃないかと思うんですよ」

  つまり、俺に亜也人の理不尽な感情を無条件に受け止めろ、という事か。松岡は思いながら、同時に、自分もまた思春期の頃、もやもやした感情を理不尽に親にぶつけていた事を思い出していた。
  言われてみたら松岡の両親は、どんなに激しい喧嘩をしても翌朝にはいつも通り朝食を作り、弁当を持たせてくれた。これまで考えたことも無かったが、松岡は確かに受け止めて貰っていた。ごくごく細やかな日常の中に、信頼と安心感が確かにあった。

  「俺にあいつの父ちゃんになれって言うのかよ」

  紀伊田は、松岡を真っ直ぐに見つめ、唇の両端を軽く上げて笑った。

  「同情かも知んないけど、俺、寺田には幸せになってもらいたいんですよね。恥ずかしい話し、あいつがどんなふうに思春期を過ごしたか想像すると泣けてきちゃうんですよ。だって、普通は、初恋があって、性に目覚めて、快楽を知って、っていう段階を経て進んで行くのに、あいつの場合、そういうのを全部無理矢理すっ飛ばされちゃったわけじゃないですか。多分、他の奴より早くに性欲を感じるようになってただろうし、カウンセラーの話じゃ、先に身体の快感を覚えることで、恋愛感情と性欲の繋がりが解らないまま大人になったり、快感を知ってる自分を嫌悪したりすることもあるらしくて。
  積川に執着するのも、ひょっとしたら好き以外の別の理由があるのかな、なんて考えると何だか堪らなくなっちゃって…。別に、積川のことが本当に好きならそれでいいんですけど、それが性的虐待の影響で、とかだったら、目も当てられない、っていうかすげぇ切ない、っていうか…。
  俺も昔は生意気なガキ制裁してたんで偉そうな事は言えないけど、あいつは生意気な真似なんかしてないし、そんな酷い目にあわされるような事はなんもしてないのに、何であんな目にあうのか俺には理解出来なくて…。済んじまったことは仕方ないけど、だったらその分これからは幸せにならなきゃいくらなんでも不公平だろ、って言うか…。
  ああ、俺、何言ってんだろ。なんかすんません…」

  瞳を赤らませながらマグカップの取っ手をしきりにいじる紀伊田を松岡はじっと伺っていた。
  見かけ通り優しい男だ。優しくて情に脆い。お金に関しては法外な報酬を要求する守銭奴だが、それはあくまで副業での話であって、本業の探偵活動はほとんどボランティアだと言っていた。
  人当たりも良く、正直で、嘘がつけない。根が真面目なのだろう、上手く隠してるつもりでも、後ろめたさから、いつにも増して饒舌になり結局バレてしまう。もっともそれは紀伊田の良いところでもあり、憎めないところでもあった。

  松岡は紀伊田の話を静かに聞き、一呼吸置いてから、おもむろに向き直った。

  「紀伊田。お前、俺に黙ってることあるよな」

  「え…。なんで…」

  「お前見てれば解る。亜也人の調査、本当はもっと解ったことあったんだろ? だからあいつの事、こんなに気に掛けてくれるんだろ? 俺がショックを受けると思って黙ってくれてたんだよな? 怒らないから正直に言ってくれ」

  紀伊田は一瞬ビクッと身体を震わせ、やがて、苦しげに俯いた。

  「実は、寺田が出てる…その…ビデオを見ました。ガキの頃の…」

  「ガキの頃の、って、まさか父親が絡んでる、って言うあの…」

  「ビデオの存在は寺田の父親の逮捕歴から分かったんですが、父親の調書の中に山崎組のフロント企業の名前があったんで、まさかと思ってハッキングしたら辿り着いちゃって…。
  完全会員制のサイトなんですが、そこの有料動画配信の商品ラインナップの中に見つけちゃったんです。
  足がつくと困るんで直ぐに消去して、アカウントも変更したんでもう残ってませんけど、多分、寺田が5、6歳ぐらいの時の。その…父親に…まぁ、父親も、脅されて無理矢理やりって感じでしたけど…、強面の連中に取り囲まれて、本番以外のかなり際どいとこまで強制的にやらされてて…」

  「もういい、わかった」

  「それに…」

  苦しそうに眉間にシワを作り、紀伊田は申し訳なさそうに言葉を続けた。

  

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



紀伊田の話を要約すると、亜也人のビデオは国内最大勢力である七代目山崎組の息の掛かった企画会社で制作され、同系列の会員制アダルトサイトのVIP会員専用の有料コンテンツとして配信されているようだった。
  サイバーパトロールの目を掻い潜るようにURLを頻繁に変更させて運営されており、タチの悪い事に、ダウンロードと同時にスパイウエアが作動して個人情報を引き出し、詐欺グループに情報提供される仕組みになっている。情報を得た詐欺グループは、児童ポルノ禁止法を引き合いに出して利用者を脅し、利用履歴を消去してやるから手数料をよこせ、と、まんまと金を騙し取っているらしかった。
  しかし今問題なのはそこでは無かった。松岡が気がかりなのは、ビデオ制作に国内最大勢力の七代目山崎組が関わっている事と、10年以上も前の亜也人のビデオが未だに悪質アダルトサイトで取り扱われているという事だった。
  未だに取り扱われているという事は、それだけ需要があるという事だ。
  それに、先程の、松岡のパソコンに送りつけられてきたあの動画。
  カメラが引いて部屋の全体像が映し出された時、ベッドの傍らに映っていた和服の男、あれは七代目山崎組の顧問を務める染谷では無かったか。
  色々なことが仕組まれたように少しづつ絡み合う。亜也人の身体を皆がよってたかっていたぶり倒していたように、亜也人の人生をも、よってたかっていたぶり倒しているような気がする。
  思い出したくない人生の一部分を他人に引きずり出され繰り返し蹂躙されるのはどんな気持ちだろう。
  遠い過去の記憶として忘れ去られる筈の出来事が、今なお現在にとどまり漂うのはどんな気持ちだろう。
  染谷は知っているのだろうか。内藤は、知っていて亜也人を染谷に差し出したのだろうか。

  まさか。

  ふと、嫌な予感が頭をかすめた。

   まさか、奴らは今回の映像も公開する気なんじゃないだろうか。 松岡に送り付けてきたのは、その予告と松岡に対する“大人しくしていろ〟という牽制なんじゃないだろうか。
  
  胸が騒ぎ、嫌な汗が脇の下を伝った。
  
  「紀伊田、その映像企画会社が山崎組のシノギだっていうのは確かなのか」

  「はい。今はもう廃業してますけど、役員の何人かは顧問の染谷の所縁のもんだし、配信してるアダルトサイトも当然カタギじゃ無いでしょう。でも、それより気になるのは…」

  「内藤…か?」

  紀伊田は真剣な顔で松岡を見ると、ゆっくりと頷いた。

  「内藤がモデルプロダクションを経営してるのは知ってますよね。内藤は、自分んとこの所属モデルをAVに出演させてシノギを上げてます。出演だけでなくおそらく制作、配信にも携わってるでしょう。そこで、もし万が一俺が見たアダルトサイトに内藤が絡んでるとしたら、寺田は内藤に過去を握られてることになります。つまり、脅しネタとして十分すぎるものをヤツに握られてる状態にあるわけですよ。松岡さんも知ってる通り、あの界隈はシノギがモノを言う世界です。実際内藤もシノギが評価されてあそこまで上り詰めたようなもんじゃないですか。そんな内藤が寺田を放っておくと思いますか?」

  答えるまでも無かった。松岡は答える代わりに、先程送り付けられた映像データの件を紀伊田に話した。
  紀伊田は、さほど驚かず、鼻息を荒げた。

  「やっぱり。そんなことだろうと思ってましたよ。結局、内藤は寺田を金ヅルにするつもりなんです。性接待なのに、わざわざ録画してるのが何よりの証拠ですよ。あとで編集して流すつもりなんでしょう。それにしても、商売ネタにするだけじゃ飽き足らず、松岡さんにまで取引きを持ちかけるなんてとんだゲス野郎だ。金払ったところで、どうせデータなんかよこしゃしませんよ!」

  「取引には応じないと?」

  「応じないでしょ。応じたとしても、べらぼうに高い金を要求してくるに決まってます。
  内藤のことだから寺田がこの先稼ぎ出す金なんてとっくに弾き出してるでしょう。取引に応じるとしたら、それを上回る金額かそれ相応の見返りを得られるものでないと…」

  「それ相応の見返り…」

  「内藤が寺田をどこまで使うかにもよりますけど、AV出演、風俗、性接待フル稼動で10年働かせたとして、寺田だったら軽く一億は稼ぎますよ。それに見あう見返りなんてとてもとても…。昔は腕一本三千万なんて時代もありましたけど、今時そんな需要は無いし、あとはもう手っ取り早く臓器売るかタマ取りぐらいしか…」

  途中まで言って、紀伊田がハッと松岡を見る。

  「まさか…」

  紀伊田の言わんとしていることは、松岡にもすぐに察しがついた。

  どうりで何かと俺を絡めてきたわけだ。
  
  亜也人と知り合うきっかけになった内藤からの仕事の依頼。
  あの時、内藤がどうして自分を巻き込んだのか松岡はずっと気になっていた。それが今の紀伊田とのやり取りで全ての謎が解けた。
  内藤は最初からこれが目的だったのだ。

  「どうやら内藤は、俺を昔の俺に引き戻したいらしいな…」 

  怒りよりもむしろ笑いが込み上げる。今頃気付くなんて、ずいぶんヤキが回ったもんだと、自分でも思った。

  「まさか、引き受けるんですか?」

  松岡は、直ぐには答えず、マグカップに口を付け、静かにコーヒーをひと口飲んだ。

  「なぁ、紀伊田さん」

  「紀伊田さん!?  …あ、すんません。いきなり、さん付けするからビックリした。呼び捨てでいいですよ」

  「じゃあお言葉に甘えて。…紀伊田。お前、亜也人に幸せになって欲しいって言ったよな。もし、俺が内藤と取引することによってあいつに辛い思いをさせることになったとしたらどうする?」

  「辛い思い…ですか? 」

  紀伊田は少しの間、俯いて黙り込み、やがて静かに顔を上げた。

  「辛い思いをしたとしても、内藤や積川のところにいるより松岡さんといたほうがあいつは幸せだと思います」

  「なんでそう思うんだ?」

  「なんで、って。明確な理由は無いけど…。自分のこと大切に思ってくれる人と一緒にいた方が良い、っていうか、それが基本、っていうか、肝心、っていうか。
  たとえ辛いことがあったとしても、自分のことを大切に思ってくれる、思い切り甘えられて、我が儘言えて、全部受け止めてくれる人が側にいたら大丈夫なんじゃないかと思って。とくに寺田の場合は」
  
  「でもあいつが惚れてるのは積川だ…」

  「だとしても、寺田は松岡さんといた方がいいです。だって松岡さん、寺田のことめちゃめちゃ大切に思ってるじゃないですか」

  言いながら、食べかけの餡ドーナツを片手で掴んでひらひらと見せる。
  紀伊田のこの明るさが松岡には救いだった。

  
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
  

  亜也人が目を覚ましたのは、夕飯時を少し過ぎた頃だった。
  朝方の騒動の後、痛み止めと鎮静剤が効き始めると、亜也人はゆっくりと眠りにつき、それから朝食も昼食も摂らずに死んだように眠り続けた 。松岡が様子を見に何度も部屋を訪ねたが一向に起きる気配は無い。それでも、いつ起きても良いように簡単な夕食を準備していると、亜也人の部屋の方から、何かがドスンと落ちる音がした。
  
  様子を見に行くと、亜也人の部屋の扉の直ぐ前で、亜也人がへたり込んでいるのが見えた。

  「何やってるんだ」

  亜也人は小声で、「トイレだよ…」と呟いた。

  「言えば迎えに言ったのに」

  「うっせー。一人で行けるよ! 離せっ!」

  振り解こうとする手を逆に掴み上げ、座り込む身体を抱き、膝の下に手を入れひょいと持ち上げた。
  軽い。セックスの途中で膝の上に乗せた時も、重力をあまり感じられず不安になる時があったが、こうしてしっかり抱き上げてみると、改めて存在の頼りなさを思い知らされる。この華奢な身体を思うと、今回、これぐらいの傷で済んだのはむしろ奇跡に近いのかもしれなかった。

  「この、お節介じじいが」

  「そういうこと言うと、ここでチビらすぞ、こら」

  「あんた、それでも大人かよ」

  軽口を叩けるようになったという事は、少しは気持ちが落ち着いたという事だ。
  よいしょ、と亜也人を抱き直し、トイレへ運んで便座の前に下ろし、亜也人が用を足すのを外で待ってから再び抱き上げ部屋へ運んだ。
  起きたついでに夕食を食べさせてしまえと、作りたての雑炊を運び、亜也人をベッドに座らせて、トレーごと膝の上に乗せてやる。亜也人は、膝の上の雑炊をもじもじと見つめていたが、松岡がレンゲを持たせ、早く食えと急かすと、少し躊躇った後、ようやく静かに雑炊をすくい、ゆっくりと口へ運んだ。

  「味、大丈夫だったか?」

  汗に濡れ光った黒髪が、こくん、と小さく頷く。

  「良かった。適当に作ってたら途中でわけ解んなくなっちまったから…」

  え? と、ふいに亜也人が顔を上げた。

  「これ、あんたが作ったのか」

  「当たり前だ。ほかに誰がいる」

  松岡の言葉に、亜也人が雑炊をすくう手を止め黙り込んだ。

  「どうした。食わないのか?」

  「こんなことしてもらっても、俺、今日、できないよ…」

  「は?」

  「だから、セックス…。俺、身体痛いから今日は…」

  「何言ってんだ、お前」

  冗談かと思ったが、亜也人は、どう見ても冗談には見えないひどく不貞腐れた暗い目を松岡に向けている。

  「おいおい、お前まさか雑炊食ったからって、俺と絶対セックスしなきゃいけないとか思ってんのか?」

  「………」

  「勘弁しろよ。俺をどんな鬼畜野郎だと思ってんだよ。んな、怪我して寝込んでる奴襲うほど、ろくでなしじゃねぇよ。バカなこと言ってねぇでさっさと食っちまえよ」

  亜也人はしかし、口を真一文字に結んで黙り込んでいる。泣き出しそうな顔だと思った次の瞬間、亜也人の瞼から涙が伝い落ち、松岡は面食らった。

  「え…お前、なに泣いて…」

  ぽってりとした薄紅色の唇が、震えながら何かを呟いた。

  優しくするな。

  それは言葉にはならなかったが、松岡には確かにそう聞こえた。

  「おい、お前、何言ってんだよ。大丈夫か」

  「……するな」

  なんて静かな泣き方なのだろう、と松岡は思った。
  まるで、泣き声を全て飲み込んでいるかのような泣き方だ。胸の内側から込み上げる悲しみや怒りを、ことごとく自分の胸に押し戻すかのような切ない泣き方。
  抑えられた感情とはうらはらに、涙だけがこんこんと頬を流れ落ち、そのアンバランスさがかえって悲愴さを増していた。

  濡れた頬を手のひらで拭い、松岡は、亜也人の傍に身を屈めた。

  「お前、そうやってすぐ突っぱねるけど何でなんだ? お前に優しくしちゃダメなのか?それとも俺だからダメなのか?」

  「…………」

  「黙ってても無駄だぜ? 答えるまでここを動かないから…」

  亜也人はそれでも黙り込んでいたが、松岡が再び頬を拭うと、突然しゃくり上げ始めた。

  「わかんねーよ」

  「解らない?」

  「頭、おかしくなるんだよ。あんたに優しくされると。…優しくされる意味が解らない。こんなことしなくても言う事きくのに、何でわざわざこんなこと…」

  「好きだからに決まってるだろう。確かに俺はお前を無理矢理ここへ連れて来たが、だからって、お前を身体目当てで囲ってるわけでも、言いなりにさせたいわけでも無ぇ。お前と一緒にいたいだけだ。
  だから、そりゃまぁ、出て行かれちゃ困るが、お前の言うことは極力聞いてやりたいし、助けてやりたいと思ってる。でもそれは俺にとっては当たり前の事で、別に優しくしてるとかじゃ無ぇ。
  お前がそれを優しさと取るならそうなんだろうが、少なくとも俺は、優しくしてるつもりは無ぇ。俺は俺のやりたいことをやりたいようにしてるだけだ」

  「なんだよそれ…」

  「まぁ、余計な気使いは要らないって意味だよ。だから、雑炊食ったところで代わりにお返しとか考える必要は無ぇ。雑炊だけじゃなく、俺がすること全てにおいて、余計な気使いは無用だ」

  手のひらで亜也人の頭をポンポンと叩き、わかったなら食え、と笑いかけた。
  これで一件落着。しかし、松岡の予測は見事に覆された。

  「わかんねぇよ…」

  事態が落ち着くと思っていた松岡は、亜也人のますます混乱した様子に唖然とした。

  「気を使うな、とか何言ってんだ。なんでそんなこと言うんだ。そんなのダメに決まってるだろう!」

  「亜也人…?」

  「おかしなこと言わないでくれよ、頼むから! 俺は良二が好きなんだ!」

  「なんでいきなり積川が出てくる。積川は関係ないだろう」

  「関係あるよ! あんたがそんなんだから俺…」

  「俺…?」

  瞬間、亜也人の瞳に、微かな揺らぎが生じたのを松岡は見逃さなかった。

  「お前、まさか俺のこと…」

  亜也人はただ長い睫毛を震わせて涙を流し続けた。
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 漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。 漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。  漁師の仕事は多岐にわたる。 例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。  陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、 多彩だ。  漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。  漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。  養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。  陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。  漁業の種類と言われる仕事がある。 漁師の仕事だ。  仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。  沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。  日本の漁師の多くがこの形態なのだ。  沖合(近海)漁業という仕事もある。 沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。  遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。  内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。  漁師の働き方は、さまざま。 漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。  出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。  休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。  個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。  漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。  専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。  資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。  漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。  食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。  地域との連携も必要である。 沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。  この物語の主人公は極楽翔太。18歳。 翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。  もう一人の主人公は木下英二。28歳。 地元で料理旅館を経営するオーナー。  翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。 この物語の始まりである。  この物語はフィクションです。 この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。

真・身体検査

RIKUTO
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とある男子高校生の身体検査。 特別に選出されたS君は保健室でどんな検査を受けるのだろうか?

【短編集】こども病院の日常

moa
キャラ文芸
ここの病院は、こども病院です。 18歳以下の子供が通う病院、 診療科はたくさんあります。 内科、外科、耳鼻科、歯科、皮膚科etc… ただただ医者目線で色々な病気を治療していくだけの小説です。 恋愛要素などは一切ありません。 密着病院24時!的な感じです。 人物像などは表記していない為、読者様のご想像にお任せします。 ※泣く表現、痛い表現など嫌いな方は読むのをお控えください。 歯科以外の医療知識はそこまで詳しくないのですみませんがご了承ください。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
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タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

身体検査その後

RIKUTO
BL
「身体検査」のその後、結果が公開された。彼はどう感じたのか?

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