セラフィムの羽

瀬楽英津子

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溶解〜絵に描いたように不幸な奴

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  「なんでいきなり積川が出てくる。積川は関係ないだろう」

  「関係あるよ! あんたがそんなだから俺…」

  亜也人の、戸惑い揺れる瞳が松岡を真っ直ぐに見つめ返していた。
  辻褄の合わない視線に胸を掴まれる。
  拒絶する言葉とはうらはらに、亜也人の瞳は物怖じするように不安げな、それでいて追いすがるような視線を松岡に向けている。
  心細そうに顰めた眉。噛み締めた唇。普段は、泣いても気丈さを失わない大きな瞳が、涙にしぼんで小さく見える。
  まるで捨てられた子猫のようだった。
  松岡は、ベッドの傍らにしゃがみ込んでいた腰を上げ、亜也人の方へ身を乗り出した。
  
  「お前、まさか俺のこと…好きなのか?」

  亜也人は一瞬、身体を硬直させ、しかしすぐに大きくかぶりを振った。
  
  「違う! そんな筈ない!」

  「だったらなんで目を逸らす!俺の目をちゃんと見ろよ、ほら」

  両肩を掴んで向き直らせ、逃げようとする横顔を、顎をつまんで正面に向ける。無理に視線を合わせると、涙に潤んだ瞳が不自然に泳いで下を向いた。

  「そらみろ。俺の顔が見れないんだろ? 俺を意識してる証拠だ」

  「意識なんかしてないっ!」

  「なら、こっち見ろよ」

  子供じみた自惚れを抑え、はやる気持ちを落ち着かせる。感情的になったらお終いだと言い聞かせ、つとめて冷静に亜也人の両頬を手のひらで包んで上を向かせた。

  「 俺のこと、好きなんだろ?」

  「誰があんたなんか…」

  亜也人は責めるように松岡を睨み、しかし次の瞬間、瞳にみるみる涙を溜め、何かを訴えるような、哀願するような目で松岡を見上げた。
  隠し切れない気持ちが噛み合わない態度となって外へ漏れ出る。否定する言葉を使えば使うほど、亜也人の眉間は切なく歪み、瞼は涙に滲んで引き攣った。

  「お前、全然、説得力ねぇんだよ。こんな図星丸出しな顔して、どの口がそんなこと言ってんだ」

  「勝手に決めんな」

  「お前がハッキリしないから俺が教えてやってるんだ。強がるのもたいがいにしろ」

  「強がってない!あんたなんか好きじゃない!」

  「なら、なんでそんな目で俺を見るんだよ」

  「俺がどんな目で見てるって…」

  「助けてくれ、っていう目だよ…」

  言葉と態度がようやく噛み合う。一瞬にして顔を強張らせ、亜也人は、驚き蒼ざめた表情で、「嘘だ」と呟いた。

  「嘘じゃない」

  亜也人は怯え、狼狽えていた。

  「嘘だ…。そんなことあるわけない。そんなこと…」 

  ただでさえ弱々しい白い顔が、より一層青白く弱々しく見える。
  受け止めてやらなければと思った。何か言いたそうに開く亜也人の唇を見つめながら、松岡は吸い寄せられるように抱き寄せ、唇を重ねた。

  「んんんっ…」

  堂々巡りはもうやめよう。言葉の代わりに松岡の唇が亜也人の唇を塞いで反論を止め、込み上げる思いを舌先を絡めて舐めほぐす。まるで、亜也人の喉の奥に詰まった不安や戸惑いを、全部受け止め、柔らかく解きほぐしていくかのような優しいキスだった。
  腕の中で震える亜也人が可愛らしく、年甲斐もなく胸が震える。大切にしたい気持ちが湧き上がり、松岡はいつになく柔らかく丁寧に舌を絡ませ、壊れ物に触れるように繊細に亜也人を抱き締めた。

  「離せっ…。こんなことするな。頼むから…。あんたなんか好きじゃない…」

  「俺にはそうは聞こえないが」

  「なんでそんなこと言うんだよ。頼むよ。俺には良二がいるんだ。俺には良二が…。なのに…俺、どうしよう。どうすれば…」

  解っている、とでも言うように、松岡は、亜也人の頭を優しく撫で、額にこぼれた前髪を指先で分けておでこに口付けた。閉じた瞼がキュッと締り、伏せられた長い睫毛が震える。
  こんなにも愛おしい存在があることを、松岡は生まれて初めて知った。
  自分の手の中で震える亜也人がただただ愛おしい。守ってやりたい、触れたい、浮き立つような泣きたいような気持ちが湧き上がり、身体の奥にムズムズとした甘い疼きが沁み広がる。
  おでこに口付け、涙に滲む瞼、鼻、左右の頬を順番に口付け、顎を持ち上げ再び唇に口付けた。
  亜也人はもう抵抗しなかった。諦めではなく、落ち着きを取り戻して行くかのように、松岡にそっと寄り添い、優しく柔らかなキスに身を任せた。




☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



内藤の事務所を訪ねたのは、翌日、亜也人の往診が終わった後だった。
  亜也人が寝入ったのを見届けてから、松岡は一人で石破組の組事務所へ向かった。

  街中の一等地から二本中筋に入った比較的閑静なオフィス街の一角に、石破組の組事務所はある。グレーの三階建ての古ぼけたビル。一見、普通のオフィスビルと何ら変わりは無いが、入り口に付けられた監視カメラの数とやたら重厚な扉が、普通のビルで無いことを暗に物語る。
  インターホンの向こうから返ってくる脅しめいた声も、客人を迎える素人のそれでは無かった。
  ロックが外れると、内側からドアが開き、若衆が二人出てきて松岡の両サイドに立ち、中へ案内する。
  昼中の組事務所は若衆もまばらで、雑談する声も少ない。活気づいていた頃は、麻雀牌を切る音や競馬中継のラジオでずいぶん賑やかだったが、先代の島津が死んで三代目の菊地の代になってから組の様子はガラリと変わった。
  代替わりにより、松岡をはじめ先代に可愛いがられていた構成員が辞めた事も理由の一つだが、組の様子が変わったのは、当時26歳だった内藤の経済活動の成功による影響が大きい。もともと人を損得でしか判断しない、その人の内面や性格よりも、使えるか使えないかだけで判断し、使えない者は容赦無く切り捨てる薄情な性格に加え、人とつるむ事や騒ぐことが嫌いな内藤が頭角を現し始めてから、組内はどこか戦々恐々とした空気が漂うようになった。
  若頭に抜擢された三年前からその傾向はさらに強まり、加えて、三代目組長の菊地が体調を崩し入退院を繰り返すようになったことでナンバー2である内藤が事実上のトップになると、それは当たり前の日常として定着した。実際、仕事でここを訪れるたび、松岡は、以前とは違う若衆の厳しい顔付きについ目を止める。上が変われば下も変わる。松岡がいた頃の、大家族のような面影はもう無かった。

  「真昼間からお出ましとは珍しい。そうだ、寺田の身体の具合はどうです? 」

  内藤の白々しい言葉に、松岡は奥歯をギリギリと噛み締めた。
  人払いを済ませた室内で、松岡は内藤と向き合っていた。外部からの来客に、お付きの若衆まで席を外させるのは珍しい。内藤はその理由を、「かつては兄貴と慕った」とバカの一つ覚えのように言ったが、松岡本人は、内藤に慕われた記憶は無かった。
  内藤の問い掛けに、松岡は、「お陰様で命だけは助かったよ」と皮肉たっぷりに答えた。

  「そうですか。それは良かった。で、こんなに慌てて来た要件は何ですか?」

  「しらばっくれるな。亜也人の映像データを寄こせ。マスターテープをだ」

  「マスターテープとはこれまたずいぶん大きく出ましたねぇ。渡すのは構いませんが、それなりの要求はしますよ? なんてったって、寺田はうちのドル箱モデルなんですから…」

  「モデル? どういう事だ…」

  「契約したんですよ、ついこの間」

  「あいつはまだ17だぞ!」

  「もうあと10ヶ月もすれば18歳です。もちろん、親の承諾ももらってますよ。寺田の母親、寺田に似て美人ですよね。あ、寺田が母親に似たのか…。そんな事はどうでも良いですね」

  相変わらず感じの悪い、詮索するようなねちっこい視線で言うと、内藤は、リクライニングチェアーからゆっくり立ち上がり、松岡の座る応接用のソファーの向かいに座り直した。

  「心配しなくても、18歳になるまでは一般には流通させませんよ。あれはあくまで個人の鑑賞用。寺田も合意の上でのプレイです。セックス動画を撮るなんざ、今時の高校生なら普通にやってることでしょう」

  「貴様…」

  「ああでも、うっかり流出しちゃったら済みません。なんせ無修正ですから洒落になりませんよね。とくに寺田の場合、本名でデビューさせる予定だから、一発で身バレしますし。
  俺もこの商売長いことやってますが、ああいうのは一旦世の中に流通したら終わりなんですよ。真っ当に生きようとやっとの思いで就職したのに、職場に過去の出演作送りつけてられて辞めざるを得なくなったなんて話、ザラですから」

  「そんなことはさせない!」

  「させない、って、人聞き悪いこと言わないで下さいよ。もしもの話ですよ。もっとも18歳になるまでの間ですけどね。18歳になったら大々的にデビューさせます。そのためのモデル契約ですから。まさか、それも止めろとおっしゃるなら、それなりの違約金を払っていただかないと…」

  「違約金…」 

  「契約解除の違約金ですよ」

  片側の頬だけに蔑むような笑みを浮かべて松岡を一暼すると、内藤は、ふいに表情を一変させ、ソファーの背もたれに踏ん反り返って、見下すように言った。

  「2億…」

  深く、目の奥を突き刺すような視線が瞬きもせず松岡を見据える。冗談などではない事は、内藤の一切笑っていない目元からも明らかだった。

  「2億だと?正気で言ってんのか?」

  「もちろん正気です。むしろ安いくらいですよ。寺田は将来有望なうちの大型新人なんですよ? あれだけの容姿に、あの身体、仮にビデオがヒットしなくても、あいつだったら他でいくらでも稼げます。実際、染谷顧問にも愛人契約を打診されてるぐらいですしね。
  あのビデオ、見たでしょ?仕込みの男優だけでなく、行き当たりばったりのノンケ野郎までその気にさせちまうんだから全くたいしたタマですよ。あいつは本当に使えます。あいつだったら世界的ビップの相手も夢じゃない。あいつと寝た奴はみんなあいつに夢中になる。それは松岡さんもよくご存知の筈じゃないですか」

  品の無い薄ら笑いに虫酸が走る。
  それを引き金に、嫌悪感が背筋を駈け上がり、また、目の奥がギィィンと痺れ出した。

  限界点が低くなっているような気がする。前は我慢できた怒りが我慢できない。リミッターがことごとく外されていく。

  ダメだ。引きずり出されさる前に止めなければ。

  落ち着け。と、こめかみを押さえて息を整えた。
  内藤は、松岡の様子を楽しんでいるようだった。

  「あれ、俺、何か気に触ること言いました?すみませんね、色恋ごとにはめっきり弱いもので。それにしても、松岡さんまでもがこんなになるなんて、そんなにいいんですか、寺田の身体は。ケツの青いガキに興味はありませんが、そんなにいいなら一度くらい試してみようかな。自分とこの商品がどんな具合なのか社長としても気になるし…」

  心臓がドクドクと脈を打ち、頭の奥がギィィンと痺れる。
  限界だ。
  目の奥の、頭の一番奥から残忍なモノが引きずり出される。

  「てめぇ…」

  暴れ出ようとする感情を抑え、噛み付くように内藤を睨み付けた。しかし、内藤は少しも怯まず、逆に、松岡を見て笑った。

  「この目だ…。この目を待っていたんですよ、松岡さん」

  いつも表情の無い冷淡な顔が、嬉々とした躍動を貼り付ける。一言でいうなら狂気。不気味を通り越して戦慄を覚えるような笑い顔だった。

  「内藤、てめぇ、やっぱり…」

  「気付いてましたか。さすがに勘がいい。でも、これはあなたのためでもあるんです。なんでも屋なんて、あなたの力量には見合わない。あなたは冷酷非情に人を始末するのが一番性に合ってるんです。この、ゾクゾクするような目でさっくり息の根を止める。それでこそ、東の殺し屋、松岡吉祥でしょう?」

  「俺に何をしろって言うんだ…」

  宝箱を手に入れた子供のように、内藤は前のめりに松岡に迫った。

  「大物相手の仕事がしたいんです。あなたと寺田が組めば怖いもの無しだ」

  こんなにも不気味な笑い顔を松岡は初めて見た。
  内藤ははしゃいでいた。しかし、その瞳の奥には残虐な狂気が宿っていた。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


  内藤の条件は、殺し屋としての松岡と専属契約を結ぶことだった。契約期間は、松岡が亜也人の違約金2億を全納するまで。どれくらいの期間拘束されるのかを考えると気が遠くなるが、この条件を飲むことで取り敢えず亜也人のビデオ映像のマスターテープは回収し、内藤が代表を務めるモデルプロダクションとの契約は、違約金全納までは解除されないものの、ビデオ出演を始めその他の活動も休止状態にするという約束を取り付けた。
  
  これでもう亜也人のビデオがこの世に流通する事はない。
  しかし、内藤の依頼の内容を考えると、亜也人に色を売らせるのは明白で、それはそれで身を裂かれるほどの苦痛を松岡に与えた。納得したのは、ビデオ流通で後々の人生を左右されるよりその場限りの行為の方が影響が無いと割り切ったからだ。その時は苦痛でも、長い人生を考えたらその方が亜也人にとっては良いだろう。
  後は、亜也人にどう説明するかだ。

  亜也人が受けるであろうショックをあれこれと想像しているうちに、いつの間にか、松岡の車は自宅マンションに到着した。

  駐車場へ入ろうとハンドルを切ると、見覚えのある若い男が入り口をうろついているのが見えた。
  男は松岡の車を見ると、慌てて駆け寄り、窓を叩いた。

  「松岡さんですよね。俺、山下といいます。俺、亜也人に…亜也人に謝りたくて…」

  必死の形相の男を見て、松岡は、目の前にいる男が、ビデオで亜也人に覆い被さり一心不乱に腰を振っていた山下だと気が付いた。

  「どうしてここが解った!」

  「松岡さんのとこにいることは良二から聞いてたんで、内藤さんに住所を聞いて…」

  話す様子を見る限り、よからぬことを企んでいる印象は受けなかった。
  松岡は、「ここじゃなんだから」と山下を車に乗せ近くのファミレスに移動した。

  「亜也人に謝りたい、って言ったよな。だが、悪いが今は遠慮してくれ。お前はあの場にいたんだ。あいつがどんな状態かぐらい解るだろう」

  山下は、目の前の飲み物に口も付けずに、身体を硬直させたまま苦しそうに眉間を顰めた。

  「解ってます。でも俺、やりたくてやった訳じゃなくて、あの時はああでもしないとあいつがもっと酷い目にあうような気がして…」

  確かにあの場で染谷に逆らうことは至難の業だ。それにもし山下が断ったことで内藤に話が向けば亜也人はもっと酷い傷を負わされていただろう。そう考えると、山下の判断は正しかった。

  「だから、亜也人に、思い詰めないよう伝えたいんです。あれは俺が悪いんだから、あいつが変な責任を感じる必要は全然無いんだから…」

  「どうしてあいつが責任を感じるんだ。悪いのはお前だろう」

  「もちろんです。責任、っていうのは俺にじゃなくて、良二に…」

  「積川?」

  名前を聞いただけで松岡の背筋がゾクリと波立った。
  山下は、「はい」と答え、話を続けた。

  「あいつに、良二に悪いことしたとか思わないよう伝えたいんです。あいつ、全部自分が悪いと思ってしまうから。今回のことも、自分が良二を怒らせたから、責任感じて引き受けたんだと思うんです」

  「怒らせた?」

  「松岡さんには言いづらいんですけど、あいつ、松岡さんに囲われてることで良二を裏切ってると思ってるんです。もとはと言えば良二が悪いんですけど、あいつはそうは思わない。俺、あいつが中学の時から知ってますけど、あいつ、自分の周りの人間が不機嫌だったり落ち込んでたりすると全部自分が悪いと思ってしまうんです。
  相手を責めるより、自分が悪いと思ったほうが楽なんだそうです。特に良二にはそれが極端に出てしまうみたいで、…」

  初対面の男の話を真に受けるほど単純では無かったが、山下の話が真実だとすると、これまでの亜也人の行動も頷ける。
  自分のせいだと思うから相手を嫌いになれない。
  責任を感じるから無理難題も引き受ける。
  自分の苦しみより相手の苦しみを重く受け止める。
  自分よりも他人が優先、他人優位の人生。

  一体誰の人生だ。

  『相手を責めるより自分が悪いと思ったほうが楽』

  それで本当に楽になれたのか。
  周りに対する怒りや悲しみを全部自分に逆流させて、それで本当に楽になれたのか。

  なれはずがない、と松岡は思った。

  「だから今回、俺があんなことしたせいで、あいつがまた良二を裏切ったと思ってたらどうしようかと思って。
  あいつのことだから、こんな時に、良二のため、とか言われたら、またホイホイ話に乗っちゃうような気がして心配で」

  山下の不安はもっともだったが、松岡が内藤の申し出を受けたことでその心配は無くなった。松岡が、「大丈夫だ」と伝えると、山下は緊張していた頬をふと緩め、ようやく飲み物に手を付けた。

  さっきまでの畏まった表情から一転、山下の顔に若者らしい血色が戻る。
  胸のつかえが取れてホッとしたのか、グラスに入った炭酸飲料をストローを使わずに飲み干してテーブルの上に置き、ペーパーナフキンで濡れた指先を拭った。
  松岡は、暗に帰りたい空気を漂わせる山下を見ながら、気になっていたことを聞こうか思案していた。
  聞いたところで真実は解らないが、聞くなら今、この機会しかないと思った。

  「一つ聞いていいか?」

  テーブルに両肘をついて顎を支え、松岡は、向かいに合わせに座る山下に丁寧に切り出した。

   「亜也人はどうして積川のためにあそこまでするんだ。いくら惚れてるからって限度ってもんがある」

  山下も同じ気持ちでいるのだろう、松岡の問い掛けに大きく頷き、「亜也人にとって良二は特別ですから」と、溜め息混じりに呟いた。

  「積川の何が特別なんだ」

  「俺にもよく解りませんけど、多分良二は、亜也人にとって唯一幸せを感じられる相手なんだと思います。
  あいつ、小、中と結構大変だったみたいで、その当時のこと聞いてもろくな思い出が無いんです。でも良二といる時は凄く楽しそうで、あいつにしては珍しく、この前どこ行っただの何しただの、うんざりするくらい楽しそうに話すんです。
  俺からしたらそんなに喜ぶようなことじゃ無いんですけど、あいつ、凄く嬉しそうで、そういうの見てたら、ああこいつ、今まで楽しい思い出、全然無かったんだな、って思って。だから良二と付き合うようになって楽しい思い出がいっぱい出来て嬉しいんだろうな、って思うようになったんです…」

  「楽しい思い出…」

  「もちろん良二本人のことも好きなんだろうけど、良二との楽しい思い出も大好きなんだと思うんです。だからあそこまで耐えられるのかなと。
  なんて言うか、別れる寸前のカップルが昔の楽しかった時のことを思い出して別れを思い止まる、みたいな」

  思い出、と松岡は心の中で繰り返した。

  思い出は、その人間が生きてきた道そのものだ。
  亜也人の17年間の人生において、楽しかった思い出がそれだけなのかと思うと胸が痛む。
  その数少ない思い出が積川との思い出しかないのだとしたら、松岡は、自分の入る余地など到底無いと思った。

  積川と、積川との思い出。
  人は、思い出の中の幸せだけでも充分生きていける。
  亜也人が積川との思い出だけでも充分幸せに生きていけるなら、自分の出る幕など無いのではないか。

  「松岡さん?」

  山下の声が、遠い過去から響いているように耳を通り抜ける。
  胸の奥にズキズキとした熱を抱えながら、松岡は、自分の呼吸の音を聞いて気持ちを落ち着けた。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



  全てが計画通りに進んでいた。

  積川良二から寺田亜也人を切り離し、松岡吉祥を手に入れる。
  寺田亜也人を使った買収工作も順調に進み、上部団体への有力なコネも作った。
  後は、寺田と松岡を上手く使って邪魔者を始末する。
  寺田亜也人という有望な資金源を手放すのは惜しいが、男相手の色要員は寺田以外にも何人か抱えているので大きな損失はない。目先の利益よりも将来の長きに渡って得る利益を考えれば、寺田は松岡の下で働いてこそ本領を発揮する。 
  部屋住み修行中の積川良二にとっても、寺田が松岡に囲われていたほうが、余計な誘惑に合わず、若衆としての本分を全うできるというものだ。

  冷静に考えて、落胆する理由は何も無い。

  なのに、この胸の奥にくすぶるものは何だ。
  
  射し込む西日をブラインドで遮りながら、内藤圭吾は、電子タバコを一口吸い込んだ。

  松岡と対峙していた疲れだろう、軽い睡魔に襲われ、応接用のソファーに仰向けに寝転がった。

  「何が、マスターテープを寄こせ、だ…」

  意識の真ん中に、松岡の真剣な瞳と亜也人の顔が浮かんだ。
  
  寺田亜也人。

  己の価値も解らない、絵に描いたように不幸なヤツ。

  先日の染谷の性接待で、内藤は初めて亜也人を隅々までじっくりと眺めた。
  松岡吉祥と積川良二。女には不自由しそうもない風貌の屈強な野郎二人を、男の分際で骨抜きにするだけあって、目の前で喘ぎ苦しむ亜也人は確かに美しかった。
  貧相に見えた身体も、裸になってみると、骨格が華奢なだけで、肉付きは薄いが骨が浮くほど痩せてもいない。肌は陽に当たったことが無いように白く、質感も男の肌とは到底思えない、見るからに柔らかそうなきめ細やかな肌だった。
  だが、それだけ。
  内藤はもともと人には興味が無い。セックスも快楽さえ得られれば生身の人間で無くとも構わない。とくに自分の性癖を受け入れてからは好んでセックスしようとは思わなくなった。
  内藤にとってセックスは一番の性的快楽では無い。内藤にとっての一番の性的快楽は暴力だ。
  暴力を振るっている時が一番興奮する。相手を痛めつけることに興奮する。相手が苦しみ泣き叫ぶ姿に興奮する。
  暴力が一番。最初に暴力があって、それにセックスが付随する。望むのは暴力。内藤にとってセックスは暴力の延長でしかない。
  だから、艶めかしく誘惑されても暴力がなければ身体が反応しない。要するに勃起しないのだ。

  それが…。

  ふいに、あの時の光景が脳裏に蘇った。

  「たすけて」

  両手首をベッドに縛り付けられ、首輪で繋がれた顔を力なく捻り、泣きすぎて腫れ上がった目を虚ろに開いて亜也人は内藤に訴えた。

  「たすけて」

  その時の動揺をどう説明すれば良いか。内藤は自分の身に沸き起こった感情でありながら、自分自身でもそれが何なのか全く理解出来なかった。
  実際、今でさえ良く解らない。正直思い出せもしない。
  ただ、あの時の亜也人の溶けたビー玉のような瞳を思い出すと、内藤は、自分の思考が止まるのを感じる。
  脳が考えるのをやめ、脳裏に浮かび上がった亜也人の瞳だけをじっと見る。

  それに何の意味があるというのか。
  この、胸の奥のモヤモヤしたものと何か関係しているのか。

  消化しきれない思い抱えながら、内藤は、脳裏に浮かぶ亜也人の顔を振り払った。

  

  

  
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