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第十六話 優しさの向ける場所
しおりを挟む子爵令嬢になる前の、平民だった頃は朝から忙しかった。
父が討ち取って来た魔獣の皮をなめし、家の裏にある野菜畑を耕す。
その頃になると父が起きてくるから、朝食の準備をしてみんなで食卓を囲む。
それなりに貧乏だったけど、それなりに幸せだった。
転機があったのはS級冒険者の父に叙爵の打診があった時だろう。
幼い頃に母を亡くして忙しい私のために、父は叙爵の打診を受けた。
冒険者の収入は非常に不安定で、S級といってもそれほど儲からなかったからだ。
報酬が高くても同じくらい装備の整備に金がかかる。叙爵されて貴族になれば安定した収入が入るし、父に何か会った時も後ろ盾があれば暮らしていけるようになると考えたらしい。
王子と婚約したと聞いた時は大層喜んでくれたものだ。
まさか、その裏で娘が嫌がらせを受けていたとは夢にも思うまい。
平民だった頃と比べても貧しい、腐った水とパンだけの食事。
なぜか王子と婚約しても変わらなかった寮母からの待遇。
ドレスだけは着飾っていたけれど……苦しい日々だったと思う。
「おはようございます、奥様♪ リーチェが起こしに来ましたよ!」
──まるで、生まれ変わったような気分だった。
ふかふかのお布団もそうだが、自分に侍女がいることもそうだ。
ちょっと毒舌なところがあるけれど、彼女のように底抜けに明るいメイドがいると、その場が華やぐ気がする。
旦那様がリーチェを大切にする理由が分かるわ。
「今日は何しますか? また野菜作りですか? それとも読書ですか?」
「そうね。何をしようかしら」
「どうせならリーチェにも手伝えることがいいですね! お世話のし甲斐があります♪」
朝から卵を使うなんて夢のような食事を終えて。
リーチェが言った言葉に、わたしは顎に指を当てて考える。
「んー。それじゃあ、この周辺の開拓とか」
「地味!! 奥様、もっと楽しいことしましょうよ!?」
「地味って」
思わず苦笑する。あれはあれで楽しいのよ?
「二人とも、楽しそうな話をしているな」
「ぶぶー! ガールズトークですぅ。旦那様はおとといきやがれ♪」
「それは困ったな」
まったく困っていない顔で旦那様は笑う。
腕を交差させて×印を作ったリーチェの頭を撫でて、玄関へ向かった。
わたしも慌ててそのあとを行く。
「今日のお帰りは遅くなりますか?」
「いや、直帰だ」
「なら夕方には帰ってきますね」
「あぁ」
「お気をつけて、旦那様。おかえりをお待ちしております」
マントを羽織った旦那様はぴたりと硬直して私を凝視する。
別に変なことを言ったつもりはないのだけど、なにかしら。
「あの……」
「あぁ、いや。すまん」
旦那様は苦笑して、
「君も、俺の帰りを待ってくれるんだな」
「当然です。命の恩人ですから」
「世間的には殺したようなものだがな」
くっく、と旦那様は肩を揺らす。
「では、行ってくる」
「「いってらっしゃいませ」」
私とリーチェが声を揃えて言うと、旦那様は家を出た。
さて、本当にやることがなくなってしまったわ。
掃除はやらなくていいと言われているし、普段からリーチェや他の侍女がやってくれている。
辺境伯夫人としての仕事はダンスや作法を覚えてから。
そのレッスンだって、もうすぐ卒業だと言われているから、今は本当に暇だ。
「とりあえず畑の様子でも見に行きましょうか」
「はいです♪ リーチェがお供しますよ!」
「頼もしいわね」
今のところ、野菜畑はすくすくと育っていた。
魔獣の糞を混ぜた結果、土地のマナが上手いこと循環しているのだろう。
最初は雑草まみれの荒れ放題だった裏庭も、今や私好みの野菜庭園に変貌していた。
ふふ。ラディッシュはもうすぐ二回目の収穫ができそうね。
トマトも育ってる。これでソースを作るのが楽しみだわ。
ピザでも作ったら旦那様は喜んでくれるかしら……って、あら?
「奥様、魔物です! 下がってください!」
リーチェが腰から短刀を抜き放って私の前に立つ。
見れば、野菜畑の向こうから大きな三又の狐がやってきた。
あ、あの子……以前、この畑に糞を落としてくれた子だわ。
また何か食べ物を探しに来たのかと訝しんだけど、どうやら違うみたい。
銀魔狐の身体からは、かなりの血が流れている。
「誰かにやられている……?」
「北部の冒険者でしょうか。あいつらほんと仕事が雑なのです」
リーチェが言った傍ら、銀魔狐はその場で動かなくなってしまった。
ふっと、リーチェの肩から力が抜ける。
もう大丈夫だと思ったのだろう。私はその横を通り抜けて魔物へ近づいた。
「奥様!?」
「……大丈夫?」
魔物に声をかけるけど、通じないことは分かっている。
銀魔狐は私のほうを片目で見て、目を閉じてしまった。
「リーチェ、止血剤と包帯を持ってきて」
「えぇ!? こいつ手当てするんですか!? 危ないですよ!?」
「大丈夫。私、S級冒険者の娘だもの。だから……お願い」
「~~~~っ、あとで旦那様に怒られてもらいますからね!」
怒られるだけで済めばいいけど、と私は苦笑する。
すぐにリーチェが道具を持ってきてくれたので、応急処置を始めた。
でも……。
「ダメ、ね」
血だらけでびしょ濡れになった包帯を見て私は目を伏せた。
私なりに頑張ってはみたけど、この子はもう……。
ぺろり。
死にかけの銀魔狐が、私の頬を舐めた。
ありがとう、と言われているようだった。
銀魔狐は息を引き取り、身体から力が抜けた。
「……」
「奥様、奥様はがんばったですよ」
「……うん」
「リーチェ、魔物にまで情をかける奥様の気持ちは、正直分かりませんけど……奥様の優しさは、きっと伝わったと思いますです」
「……ありがとう、リーチェ」
肩に手を置いてくれたリーチェと、手を重ねる。
今は少しでも、この温もりに触れていたい──
きゅう。
「え?」
声がした。
慌てて下を見れば、私の足元に小さな銀魔狐が座っていた。
私と同じ銀髪の体毛、そしてくるりと丸い黄金色の目。
まだ猫くらいの大きさで、親の狐にはほど遠いけど──
「もしかして、子供? 子供がいたですか?」
「きゅう!」
銀魔狐は三又の尾を揺らすと、私の膝の上に乗った。
指で顎を撫でてやると、気持ちよさそうに喉を鳴らす。
可愛い。
「きゅ、きゅー!」
「……奥様、もしかして懐かれてません?」
「もしかしなくても、そうかもね……?」
だってさっきから私の膝から退いてくれないし。
三又の尾はご機嫌に揺れていて、つぶらな瞳で私を見上げている。
……きゅん、と胸が疼いてしまった。
「ねぇリーチェ、この子飼ったらダメかしら?」
「はい?」
リーチェはポカンと口を開けた。
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