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第三十四話 悪役令息が生まれた日(前編)

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 ──十年前。
 ──アヴァロン帝国帝都、バラン公爵家の敷地内。

「もう終わりか、愚弟」

 裂帛の声と共に、一人の少年が吹き飛ばされた。
 芝生を転がった少年は花壇に激突し、背中を打ちながら痛みに悶える。

「……ぐ、うぐ……」
「こんなものか、貴様の力は」
「が、は」

 そこに、鋭い蹴りがみぞおちに入った。
 口から唾を吐きだした少年の頭を上等な革靴が踏みつけた。

「いつも本ばかり読んでるからそうなるんだ、出来損ない」
「……っ」

 少年を踏みつけているのは、同じく黒髪短髪の青年だった。
 鋭い目つき。右眼には切られた跡が残っている。
 闇に紛れる黒い服を着た男は、少年と同じ蒼天色の眼差しで侮蔑の言葉を吐いた。

「身体を鍛えろ。バラン家の令息で居たいならば」
「うぐ、僕、は」
「黙れ。私が喋っていいと言ったか?」

 青年の足が再び弧を描いた。

「うわぁあああっ!」
「私の前で許可なく動くな。囀るな。生きていることが格別の褒美だと知れ」
「ダリウス兄上……どうして……」
「喋るなと言ったぞ、ジャック。次はない」

 青年──ダリウスの言葉に、ジャックは鉄の味がする口を閉ざした。
 朦朧とする視界の中、ダリウスは失望したように踵を返す。

「まったく。なぜ父上はこんな出来損ないを家に置いてるのか」
「……」

 ダリウスが遠ざかり、完全に見えなくなってもジャックは動けなかった。
 全身が悲鳴を上げている。腕も足も肘も膝も、蹴られていないところなどなかった。

 立ち上がろうとすると激痛が走り、ジャックは顔を歪めた。
 無造作に伸びた前髪で世界から目を逸らそうとしても、どこまでも続く大空色が目に焼き付いてしまう。

(あぁ……空が……青い……)

 鳥が自由に飛び回っているのを見て眩しさに目を細める。
 手を伸ばしても伸ばしても届かない、その自由な在り方が羨ましい。
 蒼く腫れあがった顔に手を当てて、唇を噛みしめたジャックは嗚咽を漏らしていた。

「──もう、退屈。退屈だわ! 早く家に帰りたいのに!」

 聞き慣れない声が、ジャックの耳朶を叩いた。

「ほんとにもう退屈。お爺様は私をこんなところに連れてきて何をさせたいのかしら。顔合わせなんて要らないでしょ。どうせ家が決めた人と結婚するんだし…………って、あら?」

 声が途切れて、足音が近づいてくる。
 ザ、と近くで止まった。手をどかし、薄く目を開けると、

「お前、傷だらけじゃない。何なの? 暗殺者にでも襲われた?」
「キミは……」

 黒髪緋目の少女だった。
 夜を秘めた若々しい黒髪は背中まで伸びていて、緋色の眼は無邪気に輝いている。大人びた、卸したてと見える朱色のドレスは少女の聡明な雰囲気を前面に押し出していた。

「ねぇ大丈夫? 待ってて、今、大人を呼んでくるから」
「待って……っ!」

 ジャックは慌てて少女の腕を掴もうとした。
 掴もうとして、激痛に身を悶えて、涙目で顔を上げた。

「お願い……言わないで……」
「……」

 少女はじっとジャックを見つめ、やがて頷いた。

「いいわ。でも治療しましょ」

 そう言うなり走り出し、少女は荷物を持って戻って来た。
 小さな鞄の中には包帯や薬瓶などが入っている。
 まるでままごとのようだが、その中にあるのはちゃんとした道具のようだった。

「身体、起こせる?」
「うん……」

 少女に介助されながらジャックは身体を起こし、花壇にもたれかかった。
 少女は手慣れた手つきで消毒を始め、包帯を巻きつけていく。
 どこからどう見てもお嬢様なのに、手付きはまるで──

「……お医者さんみたい」
「ふふん。そうでしょ」

 少女は胸を張った。

「お母様はすごい薬師でね。私も跡を継ぐために頑張ってるのよ」
「薬師……お医者さんと……どう違うの?」
「似てるけど、違うわ。薬師は薬を作る人。医者は病気を治す人よ」
「でも……キミは、僕を手当てしてくれてる」
「当然よ。一流の薬師ならどっちも出来なきゃダメってお母様が言ってたもの」
「……そうなんだ」

 誇らしく母を語る少女がジャックには眩しかった。

「……愛されてるんだ。いいなぁ」
「なによ。家族なら当たり前でしょ」
「……家族。じゃあ僕の家は、家族じゃないのかな……」

 少女はそれで何かを悟ったようだった。

「これは、兄弟にやられたの?」

 少女とは会ったことがない。
 会ったことがないからこそ、少年は心情を吐き出していた。

「……僕、落ちこぼれなんだ」

『武』を司るバラン家は強さを至上主義としている。
 ジャックは生まれつき身体が弱く病気がちであったから、家で本を読む生活を好んでいた。人前に出るのも苦手だから、お披露目の時は恥ずかしい思いをしたことを覚えている。しかしそんな個性をバラン家が許してくれる訳もなく、ジャックは両親から見放され、一番上の兄ダリウスから苛めを受けていた。

 ここ数年は戦争もないから、余計に気が立っているのだろう。
 自分の暴力を示す場所がなく、バラン家の力を削ごうと各家が動いていると聞く。

「僕は、力もないし、ひ弱だし、痛いのはやだし……」

 ──なんで生まれて来たんだろう、とジャックは思う。

 朝起きて読書を出来ればいいほうで、使用人に無視されたり、護衛の騎士に訓練と称して虐められ、実の兄に袋叩きにされている。たとえ貴族院の学業成績で一番を収めたとしても、彼らは評価はしないだろう。彼らが評価するのは武力であり力であり、純然たる暴力だからだ。それこそがバラン公爵家に求められていたものだった。実際のところジャックにそこまでの才はなく、未だ貴族院に入学すらしていないのだが。

(僕の居場所なんて、どこにもないのかな……)

 あぁ、消えてしまいたい。
 女の子に涙を見られたくなくてジャックは膝に顔を埋めた。
 落ちこぼれの出来損ないに残された、それはちっぽけな男のプライドだった。

「お前、泣き虫ね。それに愚かだわ」
「うぐ……」

 ほら、やっぱり。
 こんなに綺麗な女の子もそう言うのだから、自分は消えたほうが──

「一番愚かなのは、泣いて俯いてることよ。そんなことして何になるの?」
「え……?」

 ジャックは顔をあげた。
 少女はただ前を向いて、淡々と語っていた。

「泣いてる暇があるなら身体を鍛えるなり頭を良くするなり、やりようはいくらでもあるでしょ。お母様が言ってたわ。泣いて時間を無駄にするのは一瞬で良い。どれだけ後ろ指を指されてもひたむきにやれば、いつか絶対に実を結ぶんだって」
「……そう、なの?」
「お前はバラン家の中で一番泣き虫で、弱いかもしれない。でも未来は分からないでしょ」
「未来……」

 ジャックにはその言葉が良く分からなかった。
 未だ七歳の彼にとって未来はどこまでも漠然としていて形のないものだった。
 見たところ少女も同じような年齢のはずだけれど、妙に大人びた雰囲気がある。

「そう、未来よ。だから、お母様のことも……決まったわけじゃない」

 あるいはそれは、どこか自分に言い聞かせる言葉でもあった。
 ただこの時のジャックはそんな機微に気付けなくて、ただ貰った言葉を反芻していた。

「未来……」

 喉の中で転がし、咀嚼し、顔を上げた。

「僕も……なれるかな」
「何になりたいの?」
「強い人……」
「お前がどういう意味で強さを語っているのか知らないけど」

 少女は膝を払って立ち上がり、背中で手を組んで振り返った。

「少なくとも、その可能性を否定する権利は誰にもないわ」
「……っ」

 輝かんばかりの笑みに、撃ち抜かれる。

「キミも……僕が、そういう人に……なれると思う?」
「その泣き虫を直せばね」

 ジャックは慌てて瞼をこすった。
 クスクス、と少女は笑う。

「泣いてべそべそしてるより、そっちのほうがいいわ」
「うん……」
「強い男になりたいなら、なりなさいよ。そしたら私みたいな良い女と結婚できるかもよ」
「キミも……強い男がいいの?」
「そうね……私は私より強くて頼り甲斐があって、私を世界で一番尊重してくれる人がいいかな」
「世界で、一番……」
「まぁ、どうせお父様が決めるから私に選択肢なんてないんだけど」

 少女は唇を尖らせ、軽く地面を蹴る。
 はぁ、と息をついた彼女は踵を返して、

「じゃあね。そろそろ行かなきゃ、キーラが怒られちゃう」
「あの……!」

 ジャックは再び呼び止めた。
 大事なことを、聞いていなかった。

「名前……」
「あぁ、言ってなかったっけ?」

 少女は笑い、年頃に似合わぬ完璧なカーテシーを披露する。

「私はラピス・ツァーリ。いずれ世界一の薬師になる女よ」
(……っ)

 ジャックは息を呑んだ。

(この子が、お披露目会で皇子に不敬を働いて許された、問題児にして天才令嬢……)

「……ラピス、さん。あの、僕の名前は」
「──お嬢様! どこにいらっしゃるのですか、お嬢様──!」

 どこからか声が聞こえてラピスが顔色を変えた。

「やば。じゃぁね! さようなら!」
「ぁ」

 ジャックが名乗る間もなくラピスは去って行った。
 裏庭に通じる廊下で侍女がくどくどとお説教をしているのが聞こえる。
 ジャックはしばらくの間、瞼に焼き付いた少女の笑顔を噛みしめていた。

 心臓がどくんどくんと跳ねている。
 顔が火照って、もっとあの人の声を聞いていてたかった悔恨に襲われる。
 だから、その声が聞こえるまでジャックは近付いてくる人間に気付けなかった。

「──ジャック!」

 金髪碧眼の大柄な男はジャックに近寄りギョッとする。

「こんなところに居たのか……ってなんだそれ! またダリウス兄にやられたのか!?」
「アラン兄様……」

 バラン家の二番目の兄であるアランだ。放蕩息子である彼はバラン家を出て探索者業に専念している。今では幻級にも近い実力を持つ凄腕だ。ジャックが生まれた時には既に家を出ていて、帰って来た時はこうして世話を焼いてくれる。

「もう手当はされてる……みたいだな。ふむ。誰にやってもらった?」
「ツァーリの……ラピス様……」
「あぁ。今、ジジイを訪ねて来てるアレか」
「アラン兄様」

 ジャックは二番目の兄を見上げて言った。
 その目にもう涙はなかった。

「僕、強くなりたい」
「……」

 真剣な瞳に、アランも表情を引き締めた。

「それは、どういう意味で?」
「全部。心も体も強くなりたい。ダリウス兄様に負けないくらい」
「大陸一の剣士に負けないくらいか。無理があんじゃねぇの」
「『少なくとも、その可能性を否定する権利は誰にもない』」
「……なんでそこまで」

 だってもう、出逢ってしまった。
 だってもう、救われてしまった。

 ほんの少し、風がそよぐ間しか話せなかったけど。
 ラピスの一挙一動が目に焼き付いて離れなかった。

 きっとこの出来事を、自分は一生忘れない。
 あの光を追いかけるためならどんなことだって出来る。

 ──お前でも出来るって、彼女が言ってくれたから。

「隣に、立ちたい」
「……」
「僕は弱虫で、泣き虫で、勉強も半端で、何をやらせても才能がないって言われるけど」

 それでも・・・・

 蒼天色の眼差しに力を込め、ジャックは年の離れた兄に叫んだ。

「あの人の隣に立てるくらい、強くなりたいんだ」

 風が吹き抜けた。
 泣き虫な少年の瞼からぽろぽろと涙がこぼれて。

「……っ、やっぱりいだい……」

 身体を丸めて痛みに悶えるジャックに、アランは「ふ」と笑った。

「漢上げたじゃねぇか、ジャック」
「ほんと……?」
「あぁ、痛みを知ってなお前に進みたい奴ってのは強いからな」

 アランは笑った。

「いいぜ。ならとびっきりの修業場をくれてやる。ついて来な」
「え、今から?」
「漢は思い立ったが吉日ってな」

 アランに連れられてやってきたのは要塞じみた建物だ。
 堅固な石壁は大戦時代に兵士の詰所として使われていた名残りだという。
 物々しい鎧を着た者達が大勢行き交っていた。

「ここは……」
「探索者ギルドだ」

 アランはジャックの背中を叩いた。

「ここで幻級にでもなりゃ、ツァーリの嬢ちゃんも振り向くんじゃねぇの?」
「幻級……って、一番高いやつ」
「ま、そこまで至れるのは百万人に一人だがな。お前が本気で強くなりたいと思うなら目指して損はない」

 バラン家の令息には十三歳から十五歳まで探索者になることが慣例となっていた。己の心身を鍛え、武を極めるのに実戦ほど良い修業場は他にない。アランやダリウスもここを通って来たのだが、ジャックはまだ七歳。

 本来子供の身で探索者になるのは出来ないが、バラン家の力を使えば話は別だ。
 異例中の異例。元より向いていない身体。気弱な精神。
 これからのすべてはジャックの向かい風となって吹き付けてくるだろう。

「死んだらそれまでだ。やれるか」
「……うん」

 半ば脅すような物言いにも、ジャックは挫けなかった。

「やるよ、

 決意を込め、アランを見上げる。

「幻級になって、あの人の隣に立てるように」
「その時はもう嬢ちゃんの隣には誰かいるかもしれねぇぞ」
「……うん。もうそうなったら、騎士になる」

 ずっと生まれた意味が分からなかった。
 バラン家で育った日々は辛いことばかりで、死んでしまいたいとすら思っていた。来る日も来る日も、生きることが苦痛で仕方がなかった。

 でも違った。
 今までの全部は、あの光に出逢うためにあったのだ。

「騎士になって、ずっと守る」

 たとえ自分が愛されなくても。
 たとえ彼女が他の男と結ばれてしまったとしても。
 いつか自分の名を呼んでくれる日を目指して歩き続ける。

「それが、俺の生まれた意味だ」

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