異種間交際フィロソフィア

小桜けい

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本編

18 十字刻印の専属英雄

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 目を覚ましたジークは、自分が包帯グルグル巻きで寝ている事に気づくまで、少し時間がかかった。

「っ……!」

 起き上がろうとした途端、右肩から指先にかけて激痛が走った。

(…………痛い?)

 喰いちぎられたはずの右腕が、なぜか存在していた。
 包帯とギプスでがっちり固定されており、痛みが走るだけで、指一本も動かせなかったが、確かにくっついているようだ。
 呆然と包帯の塊を眺め、それからハッと辺りを見渡す
 どこかの病院らしい。白い個室に寝ており、クリーム色の病着を着せられていた。
 狭い壁際には医療機器や棚がいくつか並び、パイプ椅子が一つある。
 椅子には見知らぬ銀髪の青年が腰掛け、携帯用のショートブレッドをパクついていた。

 ――おい、ダース単位の空き箱が見えるんだが。その細身で全部食ったのか?

 盛大な食べっぷりを無言で眺めていると、青年はペットボトルの茶を口に流し込み、ようやくこちらを向いた。

「失礼。忙しくて、食事するヒマもろくに取れなかったのですよ」

 弁解するように言った彼は、仕立てのいい細身のスーツが良く似合う優男だった。

「ここは王立中央病院ですよ。今は貴方が怪我を負った夜から、二日後の夕方です」

 ジークが尋ねる前に、青年は疑問を先読みして答える。

「リハビリをきちんとすれば、右腕は元通りに動くそうですよ。あれだけ損傷の激しい傷口なのに、神経が全て順調に繋がったと、手術執刀医が驚いておりました」

 不意に整った口元へ、性格の悪そうな笑みが浮ぶ。

「さすがは人狼の回復力といったところですか。無自覚とはいえ、人狼の子孫が退魔士など、皮肉な話ですねぇ。エスカランテ一級退魔士殿」

「俺が人狼の子孫?」

 突拍子もないセリフに耳を疑った。腕だけでなく胸部の傷も酷く痛んだが、なんとか上体を起こす。

「あまり無理しない方が良いですよ。普通なら失血死していたそうです」

 澄まし顔で忠告する青年を睨みつけた。

「ふざけたこと抜かすな。お前は誰だ?」

「ああ、申し遅れました。こういう者です」

 裏道のチンピラも逃げ出す凶暴な視線を、線の細い青年は平然と受け止め、ソツない動作で名刺を差し出した。
 表面には、有名な大会社バーグレイ・カンパニーの社名と社章が印刷され、その下に青年の名と所属が載っている。

『イスパニラ支社 特殊・貴重品採集課 ウリセス・イスキェルド』

 ウリセスが何か言いたそうに、ニマニマと名刺を眺めているので、クルリと裏側をひっくリ返して見た。

『非常事態収拾員』

 白い長方形の中心に、ポツンと細かな文字でそれだけが印刷されていた。

「こういった非常事態の後始末をする役目ですよ。たまにとはいえ、なかなかの激務です。残業と休日出勤手当てはきっちり頂いておりますがね」

「それが、どうして俺と……」

「今回の件は、全てこちらで対処させて頂きました。その怪我は、たまたま公園に迷いこんだ魔獣の仕業ということになっています。」

「はぁ!?」

「貴方に個人情報やパスワードを漏洩したおバカさんは、都議員の親戚でしてね。身内の不祥事を表沙汰にしたくないそうですよ。教皇庁の方にも根回ししてくださるので、こちらの報告資料を元に、口裏を合わせてください」

「おい、ちょ……」

「職務中の怪我ということで、労災がおりますし、回復しだい復帰も可能です。なにしろ退魔士は深刻な人材不足ですからね」

 立て板に水とばかりにしゃべりたてる青年は、ジークに口を挟む隙も与えず、封筒を突きつける。
 中身を見ると、真っ赤な嘘を並べ立てた、呆れるほど完璧な事件報告書だった。

「貴方は狂犬のような問題児ですが、最年少記録で一級を取るほどの退魔士は、この都市に必要だそうですよ。はい、他に何か質問は?」

「……なるほどな、ドラゴン事件の捜査妨害してやがったのは、お前か」

 あの事件から、奇妙なほど立て続けに大衆の好きそうなニュースが沸き上がり、瞬く間に事件の噂が風化していたのも、こいつの仕業だと直感する。
 大々的な噂の風化を促したり教皇庁の上層部へ捜査中断を要請したりなど、とても個人のできる規模ではないと思っていたら、こんな大企業がバックについていたわけか。

「ええ。役所のお偉方は、大半が道路工事の不正入札に関わっておりましたので、少し脅せば簡単でした」

 まるで悪びれない返答とともに、ウリセスは鞄から一枚の紙を取り出し、ジークに差し出した。

「それから、こちらが最初の質問への回答です」

「……なんだこりゃ?」

 意味不明な数字や医学用語らしい名前が並び、一番下の欄に『陽性』と赤でくっきり記されていた。

「当社の専門医療研究所で行った、貴方の血液検査の結果です。変身能力はなくとも、貴方は間違いなく人狼の子孫と診断結果が出ました」

 呆気にとられるジークを、ウリセスは愉快そうに眺めている。

「口外はいたしませんので、ご心配なく。残念ながら、貴方のご両親は調査できませんでしたので、どちらの血筋かはわかりかねますがね」

「そうだろうな。俺の母親はとっくにアル中で死んだし、親父が誰かなんて、あの女もわからなかったらしいぜ」

 場末の娼婦だった母親は、お前がいるせいで大変だと、いつもジークを罵っていた。
 機嫌が良いと弁当を買ってくれたが、与えられるのを待っていたら飢え死にするから、あちこちでよく盗みをした。
 家に出入りする母の情夫はしょっちゅう入れ替わったが、共通点はクズばかりだということ。
 なかでもジークが十歳くらいの頃の男は、とびきり変質者だった。
 母親の不在時、突然そいつに押し倒され、犯されそうになった。無我夢中で暴れ、気づいたらボクサー崩れの大男を半殺しにしていた。
 自分より優位で強そうな相手と戦い、ねじ伏せ勝つ快感を覚えたのは、あの時だ。
 倒れた男を眺め降ろし、ひどく気分が良かった。帰宅した母親が泣き喚き、悪魔と罵るのも気にならない。
 せいぜい、床に落ちて踏み潰された弁当が、勿体無いと思ったくらいだ。

 詳細をウリセスに語る気はなかったが、どうせ勝手に調べ上げたのだろう。知ったような顔で頷いている。

「随分と荒んだ家庭環境のようでしたね。素行不良も無理はないといった所でしょうか」

「こっちで殴られたくなきゃ、二度と言うな」

 無事に動く左腕を握って見せた。

「クズな親に腐った環境は確かだがな。俺の人生は俺が作ってるんだよ。他人のせいにして泣くような薄みっともない真似なんざ、死んでもするか」

「……大変失礼しました」

 ウリセスが表情を改め、深々と礼をした。混じり気のない真摯な謝罪に、思わず怒りを削がれる。

「こんなわけのわからない紙切れと、胡散臭い男を信じろって言うのか?」

 顔をしかめて話を逸らし、診断書を握りつぶした。

「信じるかどうかはご自由に」

 ウリセスは悠々と微笑む。しばらくその澄ました面を睨んだ後、溜め息をついた。

「……あの時、狼が見えた」

「ギルと戦った時でしょうか?」

 興味深げな声に頷く。

「ああ。いきなり辺りが雪景色になったと思ったら、バカでかい狼たちが俺たちを取り囲んで、大喜びで決闘しろとけしかけやがった」

 自分でも未だに信じがたい。他人が言ったら、確実に笑い飛ばすか病院に行けと言うだろう。
 あの時、狼達は確かにジークを純粋な子孫だと呼び、ジークもそれに違和感を持たなかった。
 人の姿をしていても、ギルベルトと同じ人狼だと、ジーク自身が認めていた。

「イかれてると思うなら、笑ってもいいぞ」

 しかしウリセスは笑わなかった。

「ギルも、貴方と同じものを見たそうです。もっともエメリナは、貴方達が夢中で戦っている姿しか見えなかったと言っておりますが」

「……ムカつくが、あいつが大好きな先生を引き戻したおかげで、俺は命拾いしたわけだ」

 ジークは顔を顰めた。
 エメリナがギルベルトを必死で止めたのを、既に意識はなく何も見聞きできなかったはずなのに不思議と覚えている。
 ウリセスが鞄を探り、見覚えのある携帯端末を取り出すと、電源を入れた。

「そうそう。彼女から伝言です。今後、貴方がギルに手出しをするなら、これを即座に全世界の動画サイトに投稿すると」

「――あ?」

 動画が再生され、薄暗い部屋にジークの顔がボンヤリと映っている。

『……退魔士は、皆の安全を守る立派な人達だと思ってたのに……女の部屋に無断侵入したあげく、縛り上げて脅すなんて、幻滅したわ』

 聞き覚えのある会話が、端末のスピーカーから流れ出た。

『退魔士は皆こうなの?それとも貴方だけ?中央西区署・第五部隊所属のジーク・エスカランテ一級退魔士さん』

『うちの隊長なら、死んでもやらないだろうさ。何しろ正義感の塊だ』

 ジークの自身の声も、はっきりと録音されている。

『だがな、俺は魔獣を殺すために退魔士をやってるだけだ。テメェらの英雄を気取った覚えはねーよ。都合の良い時だけ勝手に期待してすがるな』

 そこまでで、短い録音は終了していた。

「あ、あ、あの、腹黒電脳ハーフエルフ!!」

 ネット接続は切られていると、油断したのが間違いだった。
 おそらくは日記を見られたと憤慨して布団をひっかぶった際、素早く撮影機能を起動したのだろう。
 しかもこの会話では、ジークの名前と所属だけがはっきり出て、エメリナたちの情報は一切ない。
 これを世界中にバラまかれれば、教皇庁へは膨大な非難が集中するだろう。
 もちろん第五部隊は全員、酷い巻き添えを喰らうし、下手をすればジークに懐いていたことで、マルセラにまで影響があるかもしれない。

 単純な力技なら、ジークの方が絶対に強い。
 だが貧弱なハーフエルフの女は、自分の得意技を駆使し、密かに反撃の準備を整えていたわけだ。
 貧弱と非力は違うのだと、あの女に高笑いされた気がする。

「エメリナはあれで案外、抜け目がありませんよ。結果的に彼女は貴方を救いましたが、それに対するリスクと対処も心得ております。少々ぬるいですが上出来ですね」

 端末の電源を切り、ウリセスは満足そうに頷く。

「電信とは偉大ですねぇ。中世なら一般市民の告発など、役人が即座に握りつぶせましたが、今では一瞬で全世界に叫べるのですから。もちろん、危険な諸刃の剣ですがね」

「心配しなくても、もう手出ししねぇよ。そういう約束だ」

 ジークは呻く。悔しいが、あんな動画がなくても、手出しする気はない。
 ギルベルトは強く、完敗だった。
 満月夜の決闘では、万が一に敗者が命を取り留めても、勝者に以後は決して逆らえない。
 それが人狼の理だと、祖先の亡霊たちは消え去り間際に、それをジークへ深く刻み込んでいった。

「賢明なご判断を、感謝いたします。なにしろ僕の悪質さは、エメリナより数段上ですよ」

 ウリセスの秀麗な口元に、寒気のするような極悪の笑みが浮かぶ。

「貴方のように、都合の悪い過去も隠さないタイプは、少々追い詰めにくいのですが、攻めようはありますからね」

「まだなんかヤル気だったのかよ」

 嫌な予感に、ジークは顔を更に引きつらせた。

「ええ。これ以上、僕の残業を増やすのでしたら、王女誘拐容疑で、国際指名手配犯くらいにはなって頂きましたね」

「おいおいおい!?」

「何しろフロッケンベルクの王女さまは、先日のお忍びを中断されてカンカンでしてね。埋め合わせの冒険をさせろと煩いのですよ」

「……いやはや。バーグレイ・カンパニーってのは、とんだ悪魔の巣窟だな」

 顔をしかめて毒づいた。どうやら知らずに、世界規模の大企業と北国の王家まで敵に回していたようだ。

「滅相もない。当社員の98%は、ごく善良な一般市民ですよ」

 残り2%に該当するらしい悪魔青年は、ニコリと微笑む。
 そして鞄と大量の空箱を詰めたビニール袋を持って、病室を出て行った。


 一人残されたジークは、左手で短い金髪をガシガシ掻く。
 ベッド脇の小さなチェストを開くと、ポケットに入れていた財布や携帯の類が全て入っていた。
 ウリセスに寄越された書類を引き出しに放り込み、かわりにスマホをつかみ出す。電源は切られていたが、壊れてはいないようだ。ストラップも無事に着いている。
 他にも考えることはいっぱいあるべきなのに、なぜか最初に頭へ浮かんだのは、隣部屋に住むうっとうしい少女の顔だった。

(俺が負けたのを知ったら、マルセラはどう思うだろうな……)

 そんな事をぼんやり考えていると、扉を遠慮がちにノックする音がした。
 返事をすると、そろそろと白い扉が開き、年老いた女性が姿を見せた。

「お怪我をなさったと聞きまして……」

 現れたマルセラの祖母に、ジークはポカンと口を開ける。
 マルセラがやたらとジークに懐くから、祖母とも顔見知りになっていた。物静かで穏やかな人で、賑やかな孫とは正反対だ。

「お加減はどうですか?」

「え?ああ……まぁ、その……別に……」

 心配そうな表情で尋ねられ、しどろもどろな小声で答えた。
 なにしろ負け知らずだったから、入院など初めてだ。それに子ども時代は、風邪を引いても怪我をしても、心配されたことなどなかった。

「ほら、マルセラ」

 祖母が呼ぶと、スカートの後ろに隠れていたマルセラが顔を出した。
 いつもならジークを見た途端、ニコニコと駆け寄ってくる少女は、しかめっ面で口元を硬く引き結んでいる。
 何か決心したように、つかつかと早足で病室に入り、小さな手を突き出した。

「……ストラップ、返して」

「え……」

 ジークが身動きできずにいると、マルセラは床を見たまま、硬く強張った声で繰り返した。

「英雄のストラップ、返して」

「……ああ」

 頷いた。
 チェストからスマホを取り上げる手が、どうしてかと思うほど震える。

「そうだな。負けちまったら、英雄失格だなぁ」

 くくっと、喉が引きつった。
 鬱陶しくてたまらなかったストラップを、ようやく外せるのに、なんだって、こんなに……。

「右手がこうじゃ、上手く外せねぇよ。お前がやってくれ」

 包帯で固定された手を軽くあげて見せ、小さな機械ごとマルセラに渡した。。
 イヤホンジャックにくっつけているそれを外すくらい、左手でも楽にできるはずだ。なのに、どうしても耐えられない。

「……もう絶対に、ジークお兄ちゃんを英雄なんて呼ばない」

 スマホを受けとったマルセラが、俯いたまま呟く。

「これ!なんてことを!」

 祖母が小声で叱責すると、マルセラが顔を上げた。真っ赤にした頬を膨らませ、怒ったように歯を食いしばっていた。大きな丸い瞳に、みるみるうちに涙が盛り上がる。

「だって!! 英雄になって魔物と戦ったから、ジークお兄ちゃんは大怪我したんでしょう!? 今度はパパとママみたいに、殺されちゃうかもしれない!!!」

 堰を切ったように、マルセラは大声をあげて泣き出した。

「だったら、英雄なんかいらない! ジークお兄ちゃんがいてくれるほうが良い!!!」

「お、おい……」

 思いがけない言葉と号泣に、ジークはおろおろとマルセラの背をさする。

「よしよし。わかったから、静かにしなさい」

 マルセラの祖母も必死で宥めるが、泣き出した少女は止まらなくなったらしい。


「英雄を辞めたって、大好きだよ!! 私をゾンビから助けてくれたこと、ちゃんと覚えてるもん!!」


 張り上げられた少女の声に、背をさする手がギクリと強張った。

 ウリセスはジークを、『都合の悪い過去も隠さないタイプ』と言ったが、とんだ間違いだ。
 逮捕暦を隠す気はなくても、ジークだって必死で隠していた過去がある。
 マルセラの祖母が、気遣わしそうな視線をジークに向けた。

「この子の様子から、そうではないかと思いましたが……あの時マルセラを助けてくれたのは、やっぱり貴方だったのですね」

「いや……あれは、別に……たまたまで……」

 冷や汗を浮べ、掠れた声で呟いた。

 ――3年近く前、とある新興宗教が起こしたおぞましい事件だ。
 ゾンビとなって自分達を苦しめた世の中に復讐をすれば、来世で救われる……なんて戯言を信じた狂信者たちが、大きなショッピングモールの地下階を乗っ取って封鎖し、毒薬で大量自殺からのゾンビ化を図った。 
 何十もの有名店がテナントに入っていた大型ショッピングモールの地下街は、休日の家族連れで賑わっていたところを、たちまち阿鼻叫喚の地獄絵図になったわけだ。
 当然ながら全ての退魔士がただちに現場へ向かい、まだ新人だったジークも参戦した。
 あの時は、まだ使用していた武器もただの斧で、強化されたゾンビにかなり手こずったが、死闘が楽しくてたまらなかった。

 これほどまでの大事件は初めてで、ペット魔獣が逃げ出したのとはわけが違う。
 新人は無理せず一階付近にいろと、先輩退魔士が指示するのを無視し、夢中になって敵を求め奥まで突き進んだ。
 血がたぎるまま襲いくる魔物を刻みまくり、一番奥の階にたどり着いた時だ。
 薬品効果で異形の姿に膨れ上がったゾンビが、両親らしき亡骸の傍でヘタリこんでいる幼女に襲い掛かろうとしているのをみつけた。
 駆け寄って一撃で退治したが、幼女は怯えきっていてまともに口も聞けない様子だ。
 腰が抜けて立てないらしく、青ざめた顔で両親の遺体にすがりついている。

『そいつらはもう駄目だ。いくら泣いても、お前を助けちゃくれねーよ。それともだまって泣いてりゃ、英雄が助けにくるとでも思ってんのか?』
 
 なんとなく苛ついて、幼女に吐き捨てた。
 そうだ。この状況で、ただ泣いて死体に縋るなんて馬鹿だ。
 ジークは学校もろくに行かず教養なんか欠片もないが、この幼女と同じくらいの歳の頃には、生きる為に重要なことをもう知っていた。
 生きたいのなら、自力で立ち上がって行動しろ。たとえ死んだ両親の血肉をゾンビに放り、自分が逃げ延びる為の餌にしてでも。

 でも、大抵の人間は幸せで安全な環境でぬくぬく育ち、誰かが自分の理想通りに何とかしてくれるのを、ただ漠然と甘えて待っている。この幼女もその部類だ。
 そのまま見なかったことにして、見捨てようと思った。
 保護しようとしたところで、どうせ恐怖と混乱に泣きわめき、大好きな両親が死んだと頑なに認めず遺骸に縋りつこうとし、こちらの足を引っ張るだけ。
 隊長なら、そういう子どもを宥めて救うのに命と熱意を懸けるだろうが、ジークは違う。
 面倒くさそうなガキに構うより、もっと血のたぎる魔物退治を楽しみたい。
 きびすを返したところ、ふと上着を引っ張られた。足元を見ると、いつのまにか幼女が小さな手で上着の裾を固く握りしめている。

 蒼白で大きな目を見開いた幼女は口元を戦慄かせるだけで何も声を発さなかったけれど『たすけて』と、訴えられたきがした。
 馴れ馴れしく他人に触られるのは、大嫌いだ。
 反射的に、舌打ちして幼女を振り払おうとしたが、寸でのところで止めた。
 両親の死体にすがりつき泣いていたいなら、そのまま死ねばいい。でもコイツは、そうしなかった。何せず漠然と待つのをやめ、この地獄から生き残ろうと、ぬるいなりに足掻きはじめた。

 ジークがこの幼女よりももっと幼かった頃、助けを求めて伸ばした手は全て振り払われた。いつしか、それが当然だと思うようになっていた。
 だからいつだって、自分で戦って勝ち抜き生き残るしかなかった。
 けれど、もし、一度だけでも……伸ばした手を握ってもらえていたら……。

『……仕方ねぇな。しっかり掴まってろ』

 まだゾンビはうようよしており、途中で斧も駄目になったが、なんとか幼女を背負って救護所に着き、その場で別れた。
 幼女の名前も知らないし、自分も名乗らなかった。
 ふとウィンドウガラスに写った自分を見ると、返り血で髪も顔も真っ赤だった。これではもし再会しても、まずあの子は自分を判別できないだろう。
 ふと、そんな思いが頭をよぎり、同時にホッとした。
 あの時の自分は、やはりどう考えても、変だったと思う。

 そして数ヵ月後。
 隣り部屋に越してきた老婆が、幼い孫娘を伴って挨拶にきた。
 面倒くさいと不機嫌な面で玄関に出たが、虚ろな無表情をした幼女を見て、夜勤明けの眠気も吹き飛んだ。
 モールで救ったあの幼女だと、一目でわかった。

 祖母の話では、マルセラはあの事件以来、口も聞けず笑いもしなくなったらしい。
 ただ、街中で退魔士を見ると、夢中で追いかけていってしまうそうだ。
 玄関に置きっぱなしだった制服を、マルセラは食い入るように見つめ、それからジークの顔をジロジロと眺め回した。
 その様子はひどく不気味で、薄気味悪いとさえ思うほどだった。

『この子は命の恩人を探しているのです。ご迷惑をおかけするかもしれません』

 深々と頭を下げる老婆に曖昧な返事をして、動揺をひた隠した。
 隣りに住み始めたマルセラは、ジークを見つけるたび、無言で後ろにピタリとくっついてきた。制服を着ていないと、少しだけ離れるが、それでも後ろから歩いてくる。
 鬱陶しいが振り払う気にもなれず、好きにさせているうちに、一年が経った。

 ある日、帰宅途中で道端に座り込んでいるマルセラを見つけた。泣きもせず黙って口を閉じているが、足首が腫れている。どうやら転んでくじいたらしい。
 放っておこうか迷ったが、結局、マルセラを背負って帰る事にした。
 彼女を祖母に引き渡し、さっさときびすを返した時、後ろから聞きなれない声がした。

『ありがとう。十字架の英雄さん』

 しわがれた聞きづらい声に振り向くと、マルセラの祖母が驚愕の顔で孫を見下ろし、続いて大泣きして喜んだ。
 祖母から何度も礼を言われるのに閉口し、自室に飛び込んで制服を脱ぐと、背中に刺繍された銀十字架が見えた。

 ――なるほど、これか。

 それからマルセラは、急速な勢いで言葉と表情を取り戻していった。
 むしろ明るすぎる程になったが、時おり泣きそうな顔をして、近所の家族連れを眺めているのを知っていた。
 それなのに、誰かが気付いて声をかけると、慌てて笑顔を作り、自分には『十字架の英雄』がいるから良いのだと、虚勢を張る姿が痛々しい。

 ジークは家族の味を最初から知らないが、マルセラは知っているのだ。与えられて当然と甘受していたそれを、突然に奪い取られた痛みは、どんなに酷いだろう。
『英雄』そう言われるたび、心臓がギリギリと痛んだ。

 お前の両親は救えなかったのに!
 お前だって、本当は見殺しにする寸前だったんだ!
 俺なんかを、記憶の中で美化するな!!


「―――――いつ、俺だって気がついたんだ?」

 苦い思いを抑え、泣きじゃくるマルセラに尋ねた。

「ひっく……ぅ……前に、転んでおんぶしてもらった時……襟の中が見えて……首の後ろに、十字架が……」

「っ!!」

 首元を指差され、思わずうなじの下に手を当てた。
 十字架型の火傷痕は、子どもの頃に酔った母親と情夫からつけられたものだ。
 昔から、大抵の傷はすぐ治ったのに、皮細工用の焼き鏝を強く押されたそれは、未だに消えない。
 それでも、自分では見えない部分だけに、今では殆ど忘れていたのに……。

「助けてくれた人の顔は、血だらけでわからなかったけど、あの印はよく見えたの。……だから、ちゃんと覚えてるって言いたかったけど……」

 消えいりそうな小声で、マルセラは訴えた。

「ジークお兄ちゃん……あの時の話をしようとすると、怒った顔して行っちゃうから……」

 しばらく声もでなかった。
 マルセラは何度か、自分を助けてくれた退魔士の話をしようとしていた。
 だけど、ジークはその度にいつも逃げて、まともに聞かなかったのだ。

『あの人が、パパとママも助けてくれれば良かったのに』

 そう言われるのではないかと、無意識のうちに怖れていた。

「…………仕方ねぇな」

 溜め息をつき、マルセラからスマホを取り返す。

「あっ!」

「コイツはまだ預かっておく」

 左手を上に伸ばし、似顔絵つきの勲章ストラップを、マルセラの手が届かない場所まで取り上げた。

「ガキに心配されるほど、俺は弱くねぇんだよ。お前は昔、よく見たんだろ?」

「でも……」

「腕もすぐ治る。安心しろ」

 両手が使えないから、涙でグシャグシャの顔にほお擦りした。
 頬を濡らすのが、自分とマルセラの、どちらの涙なのかわからない。

(俺みたいな男が、無数の民を救う英雄になんか、なれるはずないだろ……お前一人で精一杯だ)

 本当は魔物の血を引いていたくせに、今でも魔物と戦おうと思えば、やはり血がたぎる。民の安全なんて二の次にしか思えない。

「仕方ねぇ。……泣き虫のガキが、もう少し強くなるまで、お前の専属英雄を続けるさ」
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