キラキラ狼は偏食の吸血鬼に喰らわれたい

小桜けい

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シーズン2

1 一枚足りない

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 一面が薄雲に覆われた、灰色の朝空。
 野原にポツンと立つ古い一軒家の煙突は、今日はいつもより随分と早い時間から煙をゆらゆらと吐き出していた。

「ん?」

 食卓に座ったラクシュが、首をかしげて新聞の枚数を確認している。五枚組の両面印刷で来るはずの新聞に、一枚目がないのを不審に思っているのだろう。

「す、すいません。一枚目は、うっかり風に飛ばされちゃって……」

 アーウェンは盛大な冷や汗をかきながら、嘘の言い訳をした。
 皿をテーブルに並べると、ラクシュの目が新聞から離れて朝食へ釘付けになる。
 根菜の温野菜サラダに、オニオンスープ、ひよこ豆のフーマス、手作りジャムとピーナッツバターを沿えた豆乳パンケーキ、フルーツの盛り合わせ。どれもラクシュの好物ばかりだ。

(ラクシュさん……本っ当にすいません!)

 せめてもの罪滅ぼしに、普段より豪華につくった朝食をテーブルに並べて、アーウェンは心の中で改めて詫びた。

 十年前から住んでいるこのハーベルランド共和国は、首都と幾つかの街があるだけの小さな国だ。
 新聞は月に一度、主都で発行されてハーピー便で他の街にまとめて届けられる。
 追加料金はかかるが、ここのように街から離れた場所に住む家には個別で配達してくれた。
 ターコイズブルーの羽を持つ馴染みの青年ハーピーから、アーウェンはしっかりと五枚の新聞を受け取って読んだ。
 そして大事件を報じた一枚目の新聞は、うっかり風に飛ばされたのではなく、アーウェンが断固たる意思を持ってカマドで灰にしたのだ。

「ん、そっか……」

 残念そうに呟くラクシュの無表情に、罪悪感をチクチク刺激される。
 ラクシュは新聞が好きだ。極度の口下手で引き篭もりがちの彼女は、無言でも得られる情報が嬉しいのだろうか。
 読んでも表情一つ変えないし、特に感想も口にしないが、新聞の来る日はいつもより早起きをして、朝食前に必ず眺めている。

(うう……できれば裏面の愛読マンガだけでも読ませてあげたかったです。毎月、丁寧に切り抜くほど好きなのに……でも、俺は心を鬼にします!)

 アーウェンはこっそりと涙ぐみ、声に出さず硬い決意を叫んだ。

 先日、クロッカスからラクシュの故郷が壊滅させられたと聞き、そんな大事件ともなれば今月の新聞に必ず書きたてられると思っていた。
 だから今朝は早くから家の外をウロウロして、曇り空からハーピー青年が降りてくるやいな、飛びつく様に新聞を受け取ったのだ。

 最初に目に付く一面を飾っていたのは、キルラクルシュを討伐して勇者と称えられた青年が、一転して黒い森のあったラドベルジュ国の王家に反旗を翻したという、予想以上の大事件だった。
 ハーピーを伴った青年は王を殺し、以後は行方知れずらしい。

 ラドベルジュ国は王を無くした混乱に乗じて隣国に併合されたそうだ。
 青年と隣国の関与が疑われているとか、討伐の際に逃げた吸血鬼は、この国の付近に潜んでいる可能性が高いとか、もろもろの記載がギッシリと書き立てられていた。

 世界に吸血鬼たちの根城はいくつもあるが、保守的な吸血鬼は、基本的に他の根城からの者を受付はしない。
 故郷を失った黒い森の吸血鬼達は、生き残った僅かな者も苦労して彷徨う事になるだろう。

 人間の王国が滅ぼうと、恩知らずな吸血鬼たちが討伐されようと、アーウェンは何とも思わない。
 しかし、できればラクシュにはこの事件を知らせたくなかった。いずれ耳に入ってしまうとしても、少しでも先延ばしにしたかった。

「今日……コニーは?」

 何気ない調子でラクシュが放った質問に、後ろめたさ満載のアーウェンはビクッと身体を震わせた。
 遠くから新聞を運んでくるハーピー青年は、いつもこの家でお茶飲んで一休みして新聞記事を賑やかに喋りまくって行く。
 彼がいれば予備の新聞を購入できるのに、今日にかぎっていないのが不思議なのだろう。

「えっと、今日は忙しいらしくて……休憩しなくても大丈夫と言ってすぐに飛んでいっちゃったんです。だから、新聞を追加では買えなくて……」

 アーウェンは今朝で二つ目の大嘘をつく。
 キルラクルシュ事件を話したくてウズウズしていたハーピー青年には、竹筒の水筒に入れた茶を強引に渡して、さっさと飛び立ってもらったのだ。

「ん」

 幸いにもラクシュは特に不審がらずに頷き、新聞を傍らに置いてフォークを手に取った。

「新聞……心配ないよ……鈴猫屋で、見せて、もらう」


 ――きた、正念場。


「……ハハ……そーですねー。今日は街に行く日で、ほんとーに、良かったですね―」

 食卓の向かいに腰掛けたアーウェンは、ぎこちない棒読みで答える。

 ラクシュは今日、とても久しぶりに鈴猫屋へ行く予定になっていた。
 前から特注で頼まれていた魔道具も仕上がったし、他にも多数の作品ができたと言っていた。血飢えが解消されて、魔道具造りのスピードも格段に速まったそうだ。
 ここ数日は快晴かドシャブリ豪雨という妙な天気続きで、ラクシュはなかなか昼間の街へ、大荷物を抱えて行けなかったのだが、今日はほどよい薄曇りになるという。

「ラクシュさん……鈴猫屋に品物を届けるなら、俺が一人で行ってきましょうか?」

 ダメだろうなと思いつつ、アーウェンは打診してみた。しかし思ったとおり、ラクシュは白い髪をパサパサと横に揺らす。

「私、自分で、行く」

 確かにアーウェンがお使いに行き、言伝でやり取りするよりも、ラクシュが店に行ったほうがよほど正確で早い。
 だが本当の理由はきっと、この間クロッカスから『元気になったなら店にも顔を見せてくれ』と言われたのを、律儀に覚えているからだろう。
 ラクシュはこういう部分が、本当に生真面目だ。
 けっして多くの相手に関わろうとはしないけれど、その少ない相手を、とてもとても大事にする。

「そうですか……」

 アーウェンは引きつった笑みを顔にはり付けて、内心でガックリとうな垂れた。

 ――だがしかし! 俺は全力で、情報遮断に励ませてもらいます!!

「アーウェン?」

 青ざめたまま朝食を猛スピードで口に押し込むアーウェンを見て、ラクシュが小首をかしげた。
 大急ぎで食事を終えると、アーウェンは大きな音を立てて椅子から立ち上がり、空の食器を流しに放り込んで宣言した。

「ラクシュさん! 今日は俺、市場に大事な用があるんです! だから街には先に行かせてもらいます!」

 以前、ラクシュが鈴猫屋に毎回行っていた時は、アーウェンも必ず一緒に家を出た。
 町ではラクシュが特注品の打ち合わせをしている間に、アーウェンは市場を回るなど別行動もするが、行き帰りの道は必ず一緒だった。
 だだっ広い野原を二人で歩く時はいつも、ラクシュと出会ってからここに着くまでの旅路を思い出す。
 苦労も多い旅だったけれど、アーウェンにとって何にも替え難い、大切な思い出だ。

「ん?」

 ラクシュは必死の形相のアーウェンを見上げ、胡乱な目を少し見開いたが、すぐにコクンと頷いた。

「……そっか。台車は……私が、持ってく……魔道具、軽いけど、たくさん」

「はい。それじゃ、水瓶女神の噴水前で待ってますから!」

 アーウェンは洗面所に飛び込んで、手早く身支度を整えると、上着を引っつかんで飛び出す。

「行ってきます!」

「ん……」

 後ろから聞えた抑揚のない声が、少しだけ寂しそうな色を帯びていた事に、焦りまくっていた今日のアーウェンは気づかなかった。

***

 黄色レンガの敷かれた宿場街は、薄曇りでもあいかわらずの賑わいだった。
 門をくぐるとすぐに目に付くのは、水瓶を肩に担いだ女神像の飾られた噴水だ。
 ここは街の代表的な待ち合わせ場所になっており、円形の石縁には人待ち顔の男女が大勢腰掛けて、辺りを見渡していた。

 アーウェンは噴水の前を通りすぎ、新鮮な食物を満載にした市場を、足早に駆け抜ける。
 商店街の店は、やっと開店の札をかけはじめた頃合で、アーウェンが鈴猫屋にたどり着くと、ちょうどクロッカスは店先の花壇に水をやり終えて中に入る所だった。


「――は? なんでラクシュに事件を教えちゃダメなんだ?」

 店に飛び込むなり、ラクシュに討伐事件の記事を見せるなと要求したアーウェンに、クロッカスが思いっきり不審そうな視線を向けた。

「はっ……はぁ……なんでも、です! とにかく、その新聞を廃棄して余計なことは言わないでください!」

 アーウェンは大きく肩で何度か息をして、やっと答えた。
 家から街まで全力で駆け続けてきたせいで額には汗が光り、心臓は激しく鼓動している。
 木製のカウンターに乗っていた新聞をギロリと睨み、忌々しい紙束を掴もうとしたが、クロッカスの手が一瞬早くそれを取り上げた。

「っ!」

 必死で新聞を奪い取ろうとしても、九尾猫の腕はしなやかに動き、掴もうとした場所から、幻のように移動してしまう。

「クロッカスさん! 渡してくださいっ!」

「嫌だね。お前、破くだろ」

「だって、ラクシュさんに頼まれたら見せるでしょう!?」

「俺が自分で買った新聞を、誰に見せようと勝手だ。それなりの理由があるなら止めてやるけどな?」

「だ、だから、それはちょっと……っ!」

 こんなやりとりをしながら、店中を飛び回る。
 単純な腕力なら負けるはずもないが、九尾猫は人狼よりもはるかにすばやい。おまけにアーウェンは早朝から精神的にも肉体的にも疲れきっており、圧倒的に不利だった。
 しまいに息を切らしながら壁のネジマキ時計に視線をやれば、そろそろラクシュが街に着いてしまう頃だ。

「くぅ……わかりました。その代わり、絶対に内緒ですからね!」

「お、ようやく白状する気になったか」

 天井梁に飛び上がっていたクロッカスは、アーウェンを眺め下ろして片手の新聞を振る。

「壊滅した吸血鬼の根城は、ラクシュさんの出身地なんです……あまり良い思い出は無かったようですけど」

 アーウェンが当たり障りのない箇所を口にすると、クロッカスは梁の上で眉を潜めた。

「もしかして、同族の血を吸うから追い出されたってトコか?」

「ええ、まぁ。でも、さすがに壊滅なんて知ったら悲しむと思って……」

「なるほど。ラクシュは吸血鬼にしちゃ、妙にお人よしだからなぁ……」

 中年の九尾猫は、アーウェンをチロリと眺め降ろして、きちんと整えた短い顎先のひげを撫でて溜め息をつく。

「ふぅん。それで人狼ボウヤは、必死になって隠してるのか」

 そしてクロッカスは音もなく梁から飛び降りると、カウンター裏の引き出しから私物の魔道具を取り出した。
 赤い鉱石を組み込んだブレスレット型のそれを手首にはめて、新聞紙の一枚目だけを握り締める。
 真紅の炎が吹き上がり、見る見るうちに新聞紙を焼き尽くした。

「あちっ、ち」

 クロッカスは小さな悲鳴をあげて、手から消し炭をパラパラと払い落とす。それから壁際の箒とチリトリを取って床を丁寧に掃いた。

「……ありがとうございます」

 拍子抜けした気分でアーウェンが呟くと、床を綺麗にし終わったクロッカスが、肩越しに振り返った。
 少し、呆れたような顔だった。

「まったくお前を見てると、失敗だらけの若かりし頃を思い出す。おじさん、黒歴史を見せつけられてる気分で、恥ずかしいったらないぜ。勘弁してくれ」

「な!?」

「こういうのは、他人が説教しても無駄だからな……せいぜい後で、自分の勝手さを反省しろ」

「どういう意味です?」

 目を見開くアーウェンの頭を、クロッカスは丸めた残りの新聞紙でポンポンと叩いた。

「ほら、どうせラクシュとどっかで待ち合わせしてんだろ? 早く連れてきてくれよ」

「は、はい!」

 ラクシュは街に来ても、何かよほどのことがなければ目的地以外には寄り道もせず、クロッカス以外に親しい相手もいない。
 万が一に売店で購入しようとも、大事件を書かれた今朝の新聞は売り切れだったのを確認済みだ。

――これでよし! ラクシュさんはあの新聞を目にしない!

 急いで扉を開いたアーウェンは、ちょうど店に入ろうとしていた客とぶつかりそうになった。

「わっ」

「っ、すまない」

 長身の客は一歩下がって通路を譲ってくれた。
 声と体格から若い男性らしく、暗い緑色がかった外套のフードをすっぽりと被り、大きな剣を腰に下げている。

「いえ、こっちこそ」

 アーウェンは軽く頭を下げて非礼を詫びたが、ふと違和感を覚え、さりげなく相手に目を走らせた。
 長剣で武装をした旅装の青年は、魔獣退治や遺跡の探索で生計をたてる冒険者のようだ。
 フードの奥に見えた顔は一見、二十代半ばの人間の青年だ。日焼けした顔はきつく引き締まり、夕陽色の鋭い目も、どこか暗い色に見えた。
 しかし人狼の鋭い嗅覚が、彼の匂いに違和感を覚えたのだ。
 彼からは人間のような匂がするのに、他の色んな種族の魔物の匂いもする。
 そのどれもが本当の匂いで、どれも本当の匂いでないような……色んな種族をすりつぶして混ぜ合わせたような、変な匂いがしたのだ。

――気持ち悪いな、こいつ。
 
 失礼だが、理屈抜きに一瞬そう思ってしまった。
 わざわざ曇り日にフードで顔を隠してもいるし、あまり真っ当な経歴ではないのかもしれない。

  ハーゼルランド共和国は魔物にも寛容で、世界一移り住むのが簡単な地だ。ある程度の金額を収めれば簡単に居住権を買えるので、逃亡犯罪者も多く流れ込む。
 アーウェンとて表向きには処刑されたことになっている身だから、他人をとやかく言えないし、ここが『犯罪者の幸せな流刑地』と呼ばれているのは確かだ。
 相手の素性をアレコレ詮索しないのは暗黙の了解。

 アーウェンは店を出た後、ふと気になって窓から店内を覗いたが、不気味な青年はカウンターでクロッカスと普通に話をしているようだった。

(大丈夫か……)

 変な男だし、愛想とは無縁の顔つきだったが、通路を譲ってくれた仕草は礼儀正しかった。
 クロッカスにしてもこの国で店を構えている以上、客を装って襲いかかる輩にはそれなりの出迎えを用意しているのだから、余計な心配は不要だ。
 アーウェンはきびすを返し、さらに賑わい始めた街の大通りを走りだした。

 ***

 水瓶女神の噴水前は、先ほど通った時よりも、更に人が増していた。
 黒いローブ姿を探してキョロキョロしていると、背後で突然、金切り声の悲鳴があがった。

「きゃああ!! 何すんのよ!!」

 若い女の子の悲鳴に、泉の周辺の視線がさっと集まる。

「ケンカか?」

「女同士のつかみ合いらしいぞ」

 アーウェンも目線を向け、驚愕の声をあげた。

「ラクシュさんっ!?」

 人々の注目が集まった先には、先日アーウェンが贈ったアップルグリーンの服を着たラクシュがいた。
 服より少し濃い目のケープを肩にかけて、被ったフードの端からは雪白の髪がチラリと覗く。
 傍らに置いたごつい台車の組み合わせが、お人形さながらの装いに、いかにも不似合いだ。

「何やってるんですか!?」

 人ごみを掻き分けてアーウェンが駆け寄ると、ラクシュは黙って台車の荷台を指差した。
 魔道具を詰めた袋の合間に、灰色のマントに包まった小柄な身体がひっくり返っている。
『たった今、荷台へ投げ込まれました』といった様子だ。
 砂埃で汚れたマントの裾からは、褐色ののびやかな手足が覗き、目深に被ったフードの奥に、少女らしい口元が見えた。
 どうやらさっきの悲鳴は、彼女が上げたらしい。

「一体、この人と何が?」

 アーウェンが尋ねると、ラクシュは重々しく頷いた。

「迷子、拾った」

 途端に、少女が憤慨の声をあげた。

「迷子ぉ!? 拾ったぁ!? 人を無理やり荷台に放り込だクセに! あんた、変すぎ!」

 そして少女は、今度はアーウェンへ、キッと向き直った。

「この変人の知り合い!? わたしは道を聞いただけなんだけど!」

「え? はぁ……すみません」

 怒り心頭といった少女にタジタジとなりつつ、アーウェンは尋ねた。

「で、どこに行きたかったんですか?」

 少女は噴水の中央で、瓶から水を流している女神像を指差した。

「ここで大事な待ち合わせをしてたんだけど、ちっとも会えなくて……。ちょうど隣にいた彼女に、似たような場所がないか聞いたの。……そうしたらいきなり、この惨状よ」

「あ、なるほど……。女神の噴水は、水瓶と水樽の二つがあるんです。待ち合わせ相手は、もう一つの女神像の方にいるかもしれませんね」

 アーウェンは苦笑して、少女に説明する。
 二つの女神像はよく混同されて、少女のような待ち合わせの悲劇が起こりがちだった。

 よく見れば褐色の細い足は傷だらけで、随分と過酷な旅をしてきたようだ。それに全体的な雰囲気から、疲れ果てているようにも見える。
  ラクシュのことだからきっと、これで街の反対側にある噴水まで歩かせるのはキツイと、自分の頭の中だけで判断し、ろくに説明もしないで台車に放り込んだのだろう。

「驚かせてすみません。ラクシュさんは話すのが苦手で……貴女をただ、もう一つの噴水まで送りたかったんです。その足では大変そうですから」

「え……」

「良かったら、水樽の女神噴水まで送りましょうか? 大通りの反対側で、少し距離がありますから」

 突然の申し出に、少女は警戒心を露にして、身を包む灰色のマントを握り締めた。このまま売り飛ばされでもしないかと、心配しているのだろう。

 賢明な用心だ。
 そういう事を本気でする輩も、この国には履いて捨てるほどいる。

 彼女が断るなら、アーウェンは道だけ教えて降ろすつもりだった。
 多少は大変だろうが、行き倒れて死にそうなほどでもない。
 だが少女は、アーウェンたちと、傷だらけの自分の足を交互に眺めて溜め息をつき、ペコリと頭を下げた。

「……お願いします」

 事態が収拾すると、残っていた野次馬たちもつまらなそうに去り、アーウェンはラクシュから台車を受け取った。
 回復した今では、腕力もラクシュの方がはるかに強いのは千も承知だが、細身の彼女が街中で重そうな台車を軽々と引いていれば、大注目を浴びてしまう。

 黄色いレンガ道を、ガタゴトと台車を引いて歩き、鈴猫屋の前でアーウェンは立ち止まった。
 今朝の青年客はもう帰ったらしく、クロッカスが店の中から、大きな窓ごしに手を振っている。

「ラクシュさん。クロッカスさんが待っていますから、先に店へ行ってください」

「ん」

 アーウェンが言うと、ラクシュは頷き、魔道具の入った袋たちを台車から店に運ぶ。
 最後の袋を持ってスルスルと店に入っていくラクシュを、荷台の少女はじっと眺めていたが、ふいに腰を浮かせて何か言おうとするよう身を乗り出した。
 その拍子に灰色のフードがハラリと後ろに落ち、あどけなさの残る少女の顔立ちと、黄緑色に赤いメッシュの散った鮮やかな短髪が露になる。

「っ!」

「ハーピーだったんですか」

 慌ててフードを被った少女を眺め、アーウェンは呟く。
 ハーピーの翼は体内へ自由に収納できるが、他の種族にはありえない色彩の髪と、特徴的な黄色く丸い瞳で、すぐに判別できる。

「え、えっと……うん……だけど、その、今はちょっと、飛ぶのは……」

「わざわざ説明しなくてもいいですよ。ワケありなんて、この国じゃ珍しくないし」

 しどろもどろで言い訳を始めた少女を、アーウェンは笑って押し留めた。
 あえて空を飛ばずに身を隠さなくてはいけないほど、どこかで何かを『やらかした』のだろう。

 道理でくたびれきっているはずだ。
 ハーピーは歩くより飛ぶほうが得意で、長距離を歩くのは苦手なのだから。
 彼女がラクシュと自分の身に降りかかる火の粉ならば払うけれど、そうでなければアーウェンのあずかり知らぬ事。
 クロッカスのようなお節介はともかく、他人の過去に深く突っ込まないのが、この国での流儀だ。

「……うん」

 少女は両手でしっかりとフードを押さえて頷き、アーウェンはまた黙って台車を引いて歩き出す。
 ガラガラと音をたてて石畳の道を進み、ほどなく水桶とひしゃくを持った女神像の噴水へたどりついた。
 

「待ち合わせの相手はいますか?」

 アーウェンは台車をとめて、こちらも賑やかな噴水前の広場を見渡す。少女は噴水の周りにいる人々を熱心に眺めていたが、唐突に喜びの声をあげて荷台から飛び降りた。

「ディキシス!」

 少女が駆け寄った相手を見て、アーウェンは少し驚いた。
 暗緑色の外套を着た長身の青年は、今朝クロッカスの店で会った奇妙な匂いのする不気味な青年だった。
 少女が青年へ何か話し、青年が大股で近づいてくる。

「連れが世話になったようで、大変申し訳なかった」

 そしてふと、アーウェンを思い出したらしい。

「確か今朝、魔道具屋で……」

「ええ。あの時は道を譲ってもらいましたから、これでオアイコですね」

 アーウェンは笑って答える。

「あ、あの……!」

 長身の青年の後ろから、ハーピー少女がちょこんと顔を突き出した。

「本当にありがとう。それから、あの白髪の子にも……変人なんて言って、ごめんなさい」

 おずおずとした様子に、アーウェンは噴出しそうになった。
 まるでラクシュと出会った時の自分を見ているようだ。自然と頬が緩み、深く頷く。

「俺も、ラクシュさんは変わってると思いますよ。……でも、世界一大好きなんです」

「レムナ、なんの話だ?」

 首を傾げるディキシス青年へ、レムナという名前だったらしいハーピー少女が、ラクシュとの経緯を説明しだす。
 待ち人を見つけた嬉しさで、疲れなどどこかに吹き飛んでしまったという様子だ。
 ハーピーは産まれて最初に見た相手に強烈な恋をするが、おそらくはあの青年が、彼女のお相手なのだろう。
 アーウェンは微笑ましい彼らに別れをつげ、鈴猫屋にむかうべく、来た道を戻り始めた。

 ***

 ラクシュは鈴猫屋での打ち合わせを終え、アーウェンも市場でおばちゃんたちと料理談義を交わしながら、食材を買い込んだ。

 以前に二人で食べた食堂で、ラクシュはまた野菜だけの特製定食を作ってもらい、薄曇に覆われた空の下、他に通る人もいない静かな野原を、二人で帰路につく。

 家に入って扉を閉めると、ラクシュはケープのフードを脱いだ。真っ白い髪がハラリと零れ出る。

(はぁ~……なんとか上手く行った)

 アーウェンは深く息をつき、ほっと胸を撫で下ろした。
 幸い、食堂でもラクシュが新聞を目にする機会はなかったし、これで彼女はまたしばらく家を出ない。

 しかし、気分は妙に沈むばかりで、ラクシュがせっかく可愛らしい装いをして、髪には鉱石の飾りまでつけているのに、浮かれる気にもなれない。
 彼女に散々嘘をついた最悪感のせいだろうか。

「ラクシュさん、その服……着る気になってくれたんですね。すごく素敵です」

 落ち込みを誤魔化そうと、アーウェンはアップルグリーンの服を眺めて、ようやく簡素な褒め言葉を口にした。
 先日、アーウェンが贈ったこの服を、ラクシュは気に入ってくれたようだが、なぜかこれを着ての外出は無理だと言い、一度来ただけでずっと部屋に飾っておいたのに……。

「ん」

 ラクシュが小声で頷いた。
 気のせいか、いつにも増して無口だし、その声もなんとなく悲しそうだ。

「これ、着たら……きみの、キラキラ……戻ると思った」

「俺の、キラキラ……?」

 ラクシュの言葉を今ひとつ掴めずにアーウェンが尋ねると、赤い胡乱な瞳に、じっと見つめられた。

「アーウェン……きみは、嬉しい時はいつも……すごく綺麗に、キラキラしてる」

 抑揚のない声だけれど、とても大事な秘密を打ち明けるような、真剣な色だった。

「でも、今日は……きみの、キラキラが見えないんだ」

 ラクシュはポケットを探り、しわくちゃの紙を取り出す。

「悲しいのは……これ、見たから?」

「っ!?」

 アーウェンは大きく目を見開いたまま硬直する。
 差し出されたのは、キルラクルシュの討伐について書かれた、一枚目の紙面だった。

「ラクシュさ……これ、なんで……」

 喉が乾いてひりつき、うまく言葉が出ない。

「噴水前で、拾った」

 ラクシュは言い、しわくちゃの新聞紙をまたポケットに閉まった。
 そして黙って立ち尽くすアーウェンを見上げて、ボソリと呟く。

「私を……心配した?」

「……」

 アーウェンが無言で頷くと、ラクシュは小さく息を吐いた。

「皆のことは……悲しい。けど……私、大丈夫だよ。アーウェン、心配ない」

「……悲しい?」

 ようやく搾り出した声は、ひどく掠れていて、自分でも嫌になるほど嫉妬に澱んでいた。

「へぇ……自分を裏切った相手でも、ですか?」

「……ん」

 頷いたラクシュに、とても苛ついた。
 アーウェンの腕は反射的に、細い両肩を強すぎるほど掴んでいた。

「俺は心配です! ラクシュさんは、いつもそうやって大事にするから! 自分を傷つけた奴等さえも、大事にし続ける……っ!」

 犬歯が伸びて、瞳に虹彩が浮んで行くのがわかる。狼化してしまいそうなほど、どうしようもない憤りと不安が、腹の底からこみ上げてくる。

「貴女が不要になったら、簡単に手の平を返した連中だ! また必要になったら、平気で縋ってくる! だから……だから、俺は……っ! 何も知らせたくなかった!」

 みっともなく喚き、クロッカスに言われた意味をようやく思い知った。
 ラクシュがキルラクルシュだったと知らない彼でさえ解るほど、アーウェンの行動はあからさまに、自己中心的だったのだろう。
 故郷の壊滅を隠そうとしたのは思いやりなんかではなく、アーウェンの自分勝手な嫉妬だ。
 避けたかったのは、ラクシュの悲しむことではなく、彼女の関心が生き残った故郷の吸血鬼に向くことだ。

「ラクシュさんのために心配したんじゃありません! 俺が、怖くてたまらなかったんです!」

「アーウェン……?」

「あいつ等のもとに……キルラクルシュに戻ってしまうんじゃないかと……怖い……ラクシュさんが、いなくなるかもと考えたら……」

 ラクシュが、自分ではなく昔の仲間を選んで去ってしまうのではないかと思うと、不安に震えが止まらない。
 もうそれ以上の声も出せないでいると、ラクシュの白い指先が伸びてきた。

「そっか……」

 出会った十年前は、彼女の方が背が高かったけれど、今はもう頭一つ半もアーウェンが高い。
 それでもあの頃は、いつも躊躇うようにおずおずと伸ばされていた手が、今はいともたやすく触れる。
 アーウェンの前髪を撫でて、ラクシュがぼそぼそと呟いた。

「私、これからも、ずっと……ラクシュさん、だよ。約束する……私、そうしたい」

「……」

 アーウェンが黙ったままでいると、ラクシュは目を伏せて、顔を背けた。

「きみの、キラキラ……大好きだけど……やっぱり、眩しい」

「……俺は、キラキラして見えるんですか?」


 ――とても自分勝手で、大事なのは貴女と自分だけで、他はどうなっても構わないようなヤツなのに。


 涙声で尋ねると、顔をそらしたまま、短く頷かれた。

「ん」

 どちらから近づけたのかも解らぬまま、いつの間にか唇が重なる。
 薄い皮膚を触れ合わせて、互いのぬくもりが交じり合うと、強張り冷え切っていた心が、ようやくほぐれていく。

「ラクシュさん……ラクシュさん……」
 
 愛しすぎて、何度呼んでも足りない名を、繰り返し呟き続けた。

 ***

 疲労しきっていたハーピー少女は、湯浴みをして宿の寝台に横たわると、死んだように眠りこけてしまった。
 ディキシスは用心深く部屋の戸締りを確認して、その傍らに腰掛ける。起こさないように気をつけて、鮮やかな黄緑の髪をそっと指先で撫でた。

 一ヶ月と少し前に、キルラクルシュを討伐したものの、それがそっくりな贋物だと気づいた時には落胆した。
 しかし吸血鬼たちへの供物という名目で、民から税を搾り取っていたダニのような王家を潰す足がかりにはできたのだ。

 当然ながら反逆者として追われる羽目になり、レムナにもかなりの苦労をかけさせた。
 彼女の翼の色はかなり独特だから、飛べばすぐに見つかってしまう。

 道中でディキシスは追っ手を引きつけるために、レムナと別行動をしたが、彼女は馬も途中で失い、徒歩で非常に苦労してここまで来たという。
 昼間の親切な青年と、風変わりな白髪の少女がいなければ、さらに苦労していただろうと、レムナは言っていた。

(それにしても、レムナが敵わないなんて……)

 ディキシスは、さり気なく告げられた事実に驚いた。
 疲弊しきっていたとはいえ、レムナを素早く捕らえて荷台へ放り込むなど、普通の人間ができる芸当ではない。
 しかも相手は、細身の少女だったらしい。
 赤い半眼の瞳で、可愛い顔立ちなのに、ちょっと不気味な無表情だと、レムナは言っていた。

(まさかな……)

 十二年前に一度だけ見た、本物のキルラクルシュの顔が、ディキシスの脳裏を過ぎる。
 赤い瞳はドロリとした沼のように澱み、感情というものがすっぽりと落ち抜けた無表情が、整いすぎているほどの顔立ちを、台無しにしていた。
 キルラクルシュは日光にすら耐性があり、薄陽の時でさえも怯まずに戦ったと伝えられている。今日の空模様なら、平気で出歩けるだろう。

 しかし、昼間の少女の髪は、雪を思わせる純白だったらしい。
 キルラクルシュは、闇を溶かして染め上げたような艶やかな黒髪だ。

 それに、無慈悲で残虐非道な女吸血鬼が、迷子のハーピーを助けたりするだろうか。……やり方はメチャクチャだったようだが。
 それにしても、有り得ない話だ。

(……偶然か)

 そう結論づけ、ディキシスはレムナの隣へ静かに身を横たえる。
 旅の疲労が堪えているのは、彼も同じだった。
 ともかく、もしもキルラクルシュが生き延びているとしたら、この国にいる可能性が最も高い。
 ディキシスの憎悪の根源にある女吸血鬼を、必ず見つけて殺す。
 復讐を成し遂げる。

(そのために、俺は……)

 人間であることを捨てた。身も心も。
 自分に懐くレムナの純真な心さえも無情に利用し、彼女を武器として酷使している。

 キルラクルシュを殺せないのならば、その全ては無駄となり、きっともう二度と、立ちあがれない。

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