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1巻

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   プロローグ


 何も見えず、音も聞こえない。
 真っ暗闇の中で、ナリーファは途方に暮れていた。
 一体、どうして自分がここにいるのか、まだ六歳の彼女にはまったくわからない。
 後宮の支配者である、父の正妃メフリズに突き飛ばされたのは覚えている。それから、ふと気づいたらここにいた。
 怖かったけれど、ナリーファは口を引き結んで嗚咽おえつを呑み込んだ。

(泣いちゃ駄目。もしメフリズ様に聞かれたら、また酷い目にあわされる……)

 ナリーファはミラブジャリード国王の正式な娘――第八王女だが、あまり恵まれた生活を送ってはいない。
 父王はすぐ新しい寵姫ちょうきに目移りする人で、踊り子だったナリーファの母を十何番目かの側妃にしたものの、彼女が産んだ娘ともどもかえりみる事はなかった。
 それでも、ナリーファを深く愛し育ててくれた母が存命の頃は、後宮のすみでひっそり暮らす生活ながらも幸せだった。
 けれど、母は半年前に急なやまいで亡くなり、以来ナリーファは、正妃メフリズにしいたげられる日々を過ごしている。
 メフリズは、踊り子など誰にでもびを売るいやしい女だと、母が生きている頃から何かと彼女を目のかたきにしていた。そしてナリーファについても、下賤げせんな血を引く娘であり王女の身分など似つかわしくないと、事あるごとになじるのだ。
 ミラブジャリードの後宮では、息子を王太子に定められたメフリズが絶対的な権力を有し、彼女に逆らえる者はいない。
 ナリーファにこっそり優しくしてくれる使用人も少しはいるけれど、大抵の者は正妃の機嫌を取ろうと、末席の王女へ冷たく当たる。
 だから、大声で助けを求めても無駄だと、子どもながら冷めた考えもあった。気絶している間に、メフリズの命令でどこかに閉じ込められていたのなら、誰も助けてはくれない。

(母様……お願い、どうか私の傍に帰ってきて……)

 無理は承知で、そう願わずにいられなかった。寂しさに耐え兼ね両目に涙が浮かんだ、その時。ナリーファのにじんだ視界の端にあざやかな緋色ひいろが映り込んだ。
 ――闇の中から、緋色ひいろの美しいちょうが一匹、ひらひらと飛んでくる。

(……母様?)

 なぜか自然とその言葉が浮かび、ナリーファは蝶へ駆け寄った。



   1 千夜のかた


 ――十二年後。
 岩山だらけの荒地と灼熱しゃくねつの砂丘がどこまでもつらなる、広大な砂漠地帯。
 この不毛の大地にも、オアシスに寄り添い、大小の国がいくつも点在している。
 厳しい環境下でも、人はわずかな耕地で作物を育て荒野のけものを狩り、砂漠を横断し交易を行い、たくましく生きるのだ。
 そんな国々の中で最も大きな国が、ウルジュラーン王国だった。
 砂漠地帯の国々はほとんどが一夫多妻制で、王宮には王のきさき寵姫ちょうきが住む場所――後宮がある。
 ウルジュラーンの王宮も、広大な敷地内に豪華絢爛ごうかけんらんな後宮を持ち、そこには王の寵愛ちょうあいを求める大勢の美女が住まわっていた。
 ある暑い夏の日。
 ウルジュラーンの後宮に、砂漠の東端にある小国ミラブジャリードより、第八王女のナリーファが寵姫ちょうきとして贈られてきた。


(なんて立派な後宮なの……)

 ナリーファは後宮の案内をする女官について歩きながら、無礼にならないようにそっと辺りを眺めた。
 ほんの少しだけ入った王宮の本殿も素晴らしかったが、後宮も言葉にし尽くせないほど美しい、ぜいらした建物だ。
 広い回廊の床は磨き抜かれた大理石で、壁やアーチ型の天井は優美なフレスコ画にいろどられている。
 回廊から見える中庭も見事だ。細い人工の小川が流れ、絶妙な配置で植えられたオリーブやナツメヤシの木がすずし気な木陰をつくり、花壇には手入れされた花があざやかに咲き誇っている。
 寵姫ちょうきらしき何人もの美女が庭を散策し、木陰のベンチで談笑するなど、楽しそうに過ごしていた。皆、十代から二十歳はたちそこそこの年齢だろう。丁寧に化粧をほどこした彼女達は一様に美しく、華やかな服装をしている。
 回廊のすぐ近くにあるベンチでおしゃべりをしていた三人の寵姫ちょうきが、ナリーファに気づき、近寄って来た。

「ねぇ、そちらの方はどなた?」

 寵姫ちょうきの一人がナリーファを眺めつつ、先導する女官へ声をかけた。

「こちらはミラブジャリードよりお越しになった、第八王女のナリーファ様です。陛下の寵姫ちょうきとなられましたので、本日より後宮にお住まいになります」

 女官が足を止めて粛々しゅくしゅくと答え、ナリーファにも彼女達を紹介する。
 いずれもミラブジャリードよりはるかに裕福な国の王女や、ウルジュラーンの重臣の娘だった。

「宜しくお願いいたします」

 緊張しながらナリーファが挨拶あいさつをすると、寵姫ちょうき達は優しく微笑んだ……が、目は欠片かけらも笑っていない。

「ミラブジャリードなんて、随分と田舎いなか……いえ、遠くからいらっしゃったのね。お母様が辺境出身の貴女あなたなら、さぞお話が合うのではなくて? うらやましいこと」

 一人がかたわらの寵姫ちょうきに言うと、声をかけられた相手は口元に笑みを浮かべたまま眉をピクリと震わせた。

「残念ですけれど、母の生家へ行った事はございませんの。ですが、貴女あなたよりも言葉遣いに気をつけておりますから、どなたとも気持ち良く話せる自信がありますわ」
「お二人とも、それくらいになさいな。まるで争っているように見えますわよ」

 にこやかながらとげのある会話をする二人を、一番年長らしい寵姫ちょうきが苦笑してたしなめた。

「誰がシャラフ様の正妃の座を目当てにいらっしゃっても、わたくし達を含め、ここに住まう皆様は、優しく歓迎しますわ」

 向けられた声と表情は柔らかだが、彼女の目が一番残酷そうな光をたたえている。

「正妃など……私は、そんな大それた望みを抱いては……」

 ナリーファは背筋を震わせ、消え入りそうな声で返答した。
 後宮に入る寵姫ちょうきの身の上は、高貴な姫から、献上品の女奴隷おんなどれいまで様々だ。そして国王の代替わりと共に、後宮の女性達は一新される。
 現在のウルジュラーン国王は、シャラフという。年齢は確か二十二。十八歳のナリーファよりも四歳上だ。
 昨年に即位したばかりの彼は、苛烈かれつな『熱砂ねっさの凶王』として、砂漠にその勇猛さと残虐ざんぎゃくぶりをとどろかせていた。
 この国では長男が王位継承権を持つが、王の血を引く者ならそれに異議を唱え、長男に王座をけた真剣試合を挑む事ができるという。
 彼らは、大抵は部下を代理人に立てて戦わせる。それで代理人が勝てば、強靭きょうじんな勇者の忠誠を得る偉大な王と見なされるからだ。
 末子だったシャラフは、異母兄全員に決闘を申し込み、代理人すら立てず自力で勝ち抜いた。
 そのせいだろうか、玉座のために異母兄弟を皆殺しにし、即位後も自分の政策に逆らった家臣達を容赦なく処刑した残虐ざんぎゃく非道な男だといううわさがたちまち広がったのだ。
 強者は恐れられる反面、多くの者達にすり寄られるのが世の常だ。
 シャラフの即位祝いにと、家臣や近隣の王はこぞって娘を贈った。おかげで前王の崩御により一時期からになったウルジュラーンの後宮には、たちまち多くの美姫が揃ったのだとか。
 今も各地から美しい女性が贈られ続けているのだが、熱砂の凶王はいまだ誰一人として、正式なきさきにはしていないそうだ。
 事前に聞かされたシャラフのうわさを思い出していたナリーファは、心の中で呟く。

(……正妃など、本当に望むはずもないわ。そもそも私は、きっと陛下を怒らせて殺されてしまうからと、メフリズ様に無理やり寄越されただけだもの)

 ナリーファのおどおどした態度に、寵姫ちょうき達はそれ以上の牽制けんせいは必要ないと思ったのか、上品な笑い声を上げながらベンチに戻っていった。
 解放されたナリーファは、先をうながす女官の後についてまた歩き出したが、胸中で深々と安堵あんどの息を吐く。

(良かった……。あんなに綺麗な女性が大勢いるなら、陛下は私に夜伽よとぎを命じるどころか、顔を見ようともなさらないでしょうね)

 先ほど、本殿でシャラフに挨拶あいさつを述べたのは、ナリーファを連れて来たミラブジャリードの使節だけだった。ナリーファは控えの間で待ち、謁見えっけんが終わるとそのまま後宮へ案内されたのだ。
 もしシャラフが献上された女に興味があれば、その場で謁見えっけん室に呼んで顔を見たはず。
 特に美しいという評判もない小国の王女など興味はないが、とりあえず礼儀で受け取っただけといったところかもしれない。
 本人はちっとも自覚していないけれど、実際のところ、ナリーファは非常に美しい娘だ。
 目鼻立ちの整った卵型の顔に、上質な黒曜石こくようせきを思わせる綺麗な黒い瞳、腰まである真っ直ぐな髪は絹のようにつややか。肌はなめらかなたん褐色かっしょくで、薄紅色うすべにいろの衣装をまとった身体は、細身ながら女性らしい優美な曲線を描いている。
 とはいえ、冷笑と罵倒ばとうばかり受けて育った彼女は、自分の容姿は他人から高く評価されないと信じ切っていた。

(それにしても、後宮なのに男性の衛兵がいるのね)

 少しだけ気が楽になったナリーファは、各所に立っている筋骨たくましい衛兵をチラリと見た。
 王の寵姫ちょうきや、その娘である王女達が暮らす場所だけに、後宮は規律が厳しい。通常は衛兵も男性としての機能をなくした宦官かんがんになうものだが、いかつく真面目そうな衛兵はひげがあり、宦官かんがんには見えない。
 不思議に思い、先導する女官に尋ねかけたが、結局やめた。余計な事は言わず、ただ従うというのが、ナリーファの骨身に染みついた生き方だ。

(ここのやり方がどうであれ、私は息をひそめて生きるだけ……)

 そんな事を考えながら歩いていると、女官が足を止めてある部屋の扉を開いた。

「こちらがナリーファ様にお使いいただくお部屋になります」
「え……ここが……?」

 中に入ったナリーファは思わず声をらす。そこは、可愛らしい調度が整えられた居間だった。二間続きとなっており、室内の扉で隣の寝室とつながっているようだ。

「申し訳ございません。お気に召しませんでしょうか?」

 女官に心配そうに尋ねられ、ナリーファは急いで首を横に振る。

「いいえっ! まさか、このように立派なお部屋をいただけるとは思わなくて……」

 後宮では大抵、身分が高い者の部屋ほど建物の奥になり、最奥が正妃の部屋だ。
 その手前が、王の子を産むか、正式な求婚をされた側妃達の部屋となる。普通、入って間もない寵姫ちょうきはもっと小さな部屋か、数人の相部屋を与えられるものだ。

「ここで暮らされる以上、どうかナリーファ様も心にお留めおきください。陛下は後宮の女性が争うのを大変お嫌いになります。ですから過分に女性を集める事もなく、ここへおいでになった寵姫ちょうき様には、どなたにも同じ広さの部屋をご用意なさいます」

 周囲には誰もいなかったが、人の良さそうな女官は声をひそめて続けた。

「先代陛下の頃から後宮を取り仕切っていた宦官かんがん一同は、陛下が禁じたにもかかわらず、寵姫ちょうき様達から嫌がらせなどを金銭で引き受けていたので、残らず解雇されました」
「では、こちらの衛兵が男性なのは、そのためだったのですか」
左様さようにございます。陛下は信頼を置く兵に警備を任せ、寵姫ちょうき様達の世話役は侍女のみとし、目に余る争いを繰り返す寵姫ちょうき様は、どなたといえども後宮を出すと公言しておられます」
「……はい。心得ました」

 ナリーファは素直に頷いたものの、意外だった。
 何しろナリーファの聞いている、シャラフの女性に対する評判は酷いものだ。
 自分好みの女を次々と集めるわりには一晩で飽きてしまい、二度とねやを訪れない。それどころか、少しでも気に入らなければ容赦なく殺して楽しむ……。そんなうわさが、ミラブジャリードにまで流れている。
 だから、ここで生き残れる寵姫ちょうきなど、強力な後ろ盾のある姫君か、よほど魅力的な美女だけだと思っていた。
 でも、この女官の話では、シャラフはやたら女あさりをするわけでもなく、後宮で女が争わないようできるだけの措置そちをとっているわけだ。うわさとは違い、随分と寛大な人に感じられる。

(それに……まさか、こんな有難い事になるなんて!)

 熱砂の凶王のもとに送られると知った時は、自分の命運もこれまでと覚悟していたが、王から見向きもされそうもない上に個室を与えられるとは、最高に恵まれている。
 これなら『眠っても、誰にも迷惑をかけずに済む』ではないか!

「素敵なお部屋をいただきまして、陛下の御厚意には感謝の言葉もございません」

 パッと表情を明るくして丁重に礼を述べるナリーファに、女官が顔をほころばせた。

「それでは今夜、陛下が参られますので、後ほど、支度の侍女を寄越します」

 お辞儀と共に告げられた瞬間、ナリーファは足元の床がいきなり抜け落ちたような感覚におそわれる。

「へ、陛下、が、いらっしゃるのですか……? こ、今夜……?」

 よろめくのをこらえつつ強張った声を絞り出すと、女官が「はい」と答えた。

「こちらもお部屋と同じく、寵愛ちょうあいを巡っての争いが起きないようにとのご配慮です。新しい寵姫ちょうき様がいらっしゃった晩、陛下はその方の部屋を必ず訪れます」

 寵姫ちょうきとして後宮に贈られても、王の子さえ産んでいなければ、手柄を立てた臣下などに降嫁こうかさせられる事は珍しくない。
 それでも、王が一度でも寝所を訪れていれば随分とはくがつく。王に見初みそめられるだけの魅力がある女、という目に見えない紹介状になるからだ。逆に、後宮に残っていても、いつまでも王に寝所を訪れてもらえなければ、他の寵姫ちょうきから物笑いの種にされる。
 だから、寵姫ちょうきになってすぐに王が部屋を訪ねるというのは、普通ならばとても喜ばしい話だ。普通なら……
 ――笑い者で結構です。お気持ちだけ有難くいただきますので、どうかいらっしゃらないでくださいと、陛下にお願いできないでしょうか?
 そんな本音を口に出す勇気は、残念ながらナリーファにはない。
 呆然としたまま、退室する女官を見送るしかできなかった。


 残酷にも時間はどんどん過ぎていく。ナリーファがここに着いたのは昼過ぎだったのに、あっという間に夕方となってしまった。
 食べ物がのどを通る気がせず夕食を断ると、それなら湯浴ゆあみをとうながされた。
 部屋には小さな洗面所と浴室まであり、パーリというまだ十三歳の可愛らしい部屋付き侍女が、入浴を手伝ってくれた。くせの強い髪を二つのお団子にまとめた、元気な少女だ。
 人に身体を洗われるのは慣れていなくて恥ずかしかったが、ナリーファは湯浴ゆあみをし、丹念たんねんに身体を磨かれる。

「ナリーファ様、こちらのジャスミンの香油になさいますか?」

 仕上げに塗りこめる香油の瓶を何種類も出されても、今までそんな贅沢品ぜいたくひんをろくに与えられた事がなかったナリーファは選べず、パーリにおすすめを見繕みつくろってもらった。

「ええ。ありがとう……」

 パーリは明るく優しい子で、ナリーファはすぐに彼女が好きになった。
『これから精一杯お仕えしますので、宜しくお願いします』と、パーリが笑顔で言ってくれたものの、ナリーファは明日の朝まで生きている自信がない。
 気持ちを落ち着かせるというジャスミンの芳香も大して効果はなく、鬱々うつうつとした気持ちを抱えたまま、一人寝室に入る。
 小さなランプが室内をほんのり照らす中、回廊に面した扉ばかりに気がいってしまう。そこは国王が寵姫ちょうきを訪ねる時だけ使う扉だ。
 広い寝台と、着せられた肌の透ける薄絹の寝衣が、嫌でも夜伽よとぎを連想させる。幸いにも上着をもらえたので、ナリーファは帯をしっかり巻いて煽情的せんじょうてきな寝衣を隠した。

(どうしよう……どうしよう……)

 うろうろと室内を歩き回るが、この場を逃れる名案など浮かばない。
 シャラフが寵姫ちょうきに対して、うわさに聞くような酷い振る舞いをしていなかったにしろ、ナリーファの欠点を知ればどんな男性だって激怒しないわけがない。『あれ』を王にやってしまったら、斬り殺されても文句は言えないと、我ながら思うくらいだ。
 凶王に斬り殺されるのも恐ろしいが、後宮からの脱走は極刑だ。どのみちナリーファには逃げ隠れする勇気すらなく、恐怖に震えるしかない。

「――ナリーファ様。陛下がいらっしゃいました」

 若い男性の声と共に扉が叩かれたのは、随分と夜も遅くなってからだった。

「は、はい……」

 上擦うわずった声で返事をすると扉が開かれる。現れた青年を見て、ナリーファは息を呑んだ。

(この方が……)

 一目で『熱砂の凶王』シャラフだとわかった。彼がうわさに聞く通りの姿だからだ。
 若き王は、いかにも砂漠のたみらしい褐色かっしょくの肌をしていた。ツンツンと逆立つほど短く刈った髪はサンディブロンドで、瞳は深緑色をしている。黒髪に黒目が一般的な砂漠地帯では珍しい色だ。
 精悍せいかんな顔立ちは整っていて、美形の部類と言えるが、剣呑けんのんな光を帯びた鋭すぎる目つきが、彼を酷く恐ろしい男に見せていた。
 ナリーファは、まるで怒りにたぎる手負いの猛獣を前にしたような錯覚におちいった。たちまち顔から血の気が引いていき、足がガクガクと震える。
 そんなナリーファを、シャラフはジロリと一瞥いちべつすると、回廊に控えているお付きの青年を肩越しに振り返った。

「ご苦労だったな、スィル」

 スィル、と呼ばれたのは、黒い長髪をゆるたばねた、線の細い生真面目そうな青年だ。文官用の丈長の衣服を身につけており、年頃はシャラフと同じ程度に見える。

「明朝七時にお迎えに上がります。お休みなさいませ、陛下」

 スィルがうやうやしく敬礼し、丁寧に扉を閉めたところで、恐怖で固まっていたナリーファはようやく我に返った。

「っ! も、申し訳ございません! ご無礼を!」

 寵姫ちょうきが国王の前で、挨拶あいさつもせずに突っ立っているなど無礼極まりない。急いで深く頭を下げる間も、頭上から伝わるビリビリと尖った気配に、全身が震え続ける。

「お前が、ミラブジャリードの第八王女か」
「ナ……ナリーファと申します。陛下にはご機嫌うるわしく……」

 低い不機嫌そうな声も恐ろしくてたまらず、うつむいたまま必死に挨拶あいさつを述べようとした。

「ああ、もういい。さっさと寝台に上がれ」

 ところが彼は鬱陶うっとうしそうにそれをさえぎり、スタスタと部屋に置かれた広い寝台へ向かった。彼は振り返りもせずに上着を脱いで椅子の背に放り、白い寝衣姿になる。
 まるで、ナリーファの顔など見たくないし、口もききたくないと言わんばかりの態度だ。
 小国の王女でも公平に扱おうとわざわざ訪れたのに、際立きわだった美貌もないつまらぬ女だったと、余計不機嫌になったのかもしれない。
 王の腰帯に差された剣の、使い込まれた風合いのつかを目にして、ナリーファの背筋を冷や汗が伝う。

「……かしこまりました」

 消え入りそうな声で返事をし、処刑台に上がる気分で寝台の端にそっと乗る。
 しかし予想に反して、シャラフはナリーファを組み敷こうとはしなかった。
 それどころか、ろくにこちらを見ないまま、広い寝台の端に横たわってしまう。

「俺は眠るから、お前も余計な事をしようとはせず大人しく寝ろ」

 不愛想に言い放たれ、ナリーファは目を丸くした。彼は、片手で広い寝台の反対側を示し、ナリーファをそちらへ追い払うみたいに手を振る。
 ――余計な事とは、まさか夜伽よとぎの事?
 ナリーファのその考えは、どうやら当たりだったらしく、シャラフが言葉を続けた。

「何も馬鹿正直に夜伽よとぎをしなくても、俺と一晩過ごしたという事実さえあれば良い。家臣への降嫁こうかを前提にした寵姫ちょうきによく使われた手口だ。こうすれば純潔のまま好きな相手へ降嫁こうかできる上に、王に見向きされなかった寵姫ちょうきと、それをめとった男などと後ろ指を差されずに済むからな」
「え……」

 唖然あぜんとしたまま寝台に座り込んでいるナリーファを、シャラフはいっそう顔をしかめてにらんだ。

「だから俺は今夜はお前と過ごすが、それだけだ。気の進まない女を抱くほどえてはいないし、お前だって義理で抱かれたくなどあるまい?」
「は、はい」

 ナリーファが戸惑いながらもぎこちなく頷くと、シャラフは「寝るぞ」と素っ気なく言い、目をつぶった。
 だが、彼はまぶたを閉じたものの、眉根をきつく寄せ、苛立いらだたし気な溜め息を繰り返している。その様子は、安らかな眠りに誘われているようにはとても見えなかった。

(お加減でも悪いのかしら?)

 ナリーファが困惑して彼を眺めていると、その視線を感じたのかシャラフが目を薄く開き、いっそう苛立いらだたしそうににらんでくる。

「じろじろ見ていないで早く寝ろ。俺は寝つきが悪いんだ。近くで他の奴に起きていられると余計に眠れない」
「も、申し訳ございません」

 慌てて謝罪したが、困り果ててしまった。シャラフがゆっくり眠りたいと言うのなら、ナリーファは同じ寝台で眠れという命令には従う事ができないからだ。
 眠ったらきっと、王を酷く不愉快な目にあわせてしまう。形だけ横たわり、眠ったふりをするという選択も無理だ。
 ナリーファは横たわって目をつぶると、どんなに起きていようと頑張ってもすぐ眠ってしまう。
 また、寝台ではない場所で眠るにしても、同じ部屋にいるだけでも危険だ。

「それが……ご命令に従いたくは存じますが……」

 こんな突拍子もない話を、やすやすと信じてもらえるとは思えない。ナリーファ自身ですら、最初は信じられなかったのだ。
 ナリーファをここに寄越したメフリズの真意まですっかり話せば、もしかしたら信じてもらえるかもしれないが……

『つまりお前は、俺を怒らせるためにわざわざ贈られたわけだな? ミラブジャリード国王は、俺に喧嘩けんかを売っているのか』

 こんな風に、余計に怒らせてしまう可能性もある。
 シャラフは気に入らない寵姫ちょうきを容赦なく殺すといううわさはあるが、その寵姫ちょうきを贈った国へ攻め込んだとは聞かない。だからメフリズは、単に女を殺すのを楽しんでいるのだと考えてナリーファを寄越したのだろう。
 父王は新しい寵姫ちょうきを見つける事ばかりに夢中で、政治はメフリズと息子の王太子のやりたい放題だ。外交にかこつけ、ナリーファをここに送るのは簡単だったはず。

(万が一、いくさにでもなってしまったら……)

 ハッと思いつき、青褪あおざめて口をつぐむ。
 ナリーファが個人的に粗相そそうをしただけならともかく、怒らせるのを期待して送り込まれたと知れば、シャラフの怒りはミラブジャリードに向くかもしれない。
 そうなった時に、メフリズや父は自業自得としても、罪もない国民にまでとばっちりが行くのは絶対にけねば。

「なんだ? 言いたい事があるのならはっきり言え」
「い、いえ……それが……」

 まごついて視線を彷徨さまよわせたナリーファは、こちらをにらむシャラフの鋭い両目を、くまが濃く縁取ふちどっているのに気づいた。
 もしや、この恐ろしそうな王は、酷く疲労しているのでは……?
 そんな突拍子もない考えが浮かび、ナリーファはとっさに姿勢を正して座り直し、両手を敷布に揃えてつく。

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