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1巻
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「もしも許されましたら、お眠りになりやすいよう、寝物語をさせていただきたく存じます」
元踊り子だった母は、宴席で様々な客と話す機会があったため、面白い話をたくさん知っていたし、語り方も非常に上手だった。それらを聞かされて育ったナリーファは、全ての話を覚えている。
とはいえ、それを誰かに話して聞かせた事はない。まして、熱砂の凶王と呼ばれる恐ろしい彼を、寝物語を紡いで寝かしつけるなど無謀な賭けだ。しかし、他の手段は思いつかなかった。
「俺に、寝物語? 子ども扱いする気か」
「大人とて寝苦しい夜はございます。私の亡き母は寝物語を語るのが得意で、他の側妃様達もたびたび、母に寝物語を求めておりました」
鼻で笑われ、ひるみそうになったが、もう後がないと必死で申し立てる。
「どうかお試しいただけませんでしょうか。私は、語り手としては母に遠く及ばないでしょうが……数だけなら、千夜を超えても語ってご覧にいれます!」
言い終えたナリーファは深々と頭を垂れた。
数だけなら千夜でも語れると言ったのは嘘ではない。
ナリーファは本を読むのが好きだったので、幼い頃に母から聞いた物語以外にも、覚えている話はたくさんある。
さらに物語を読み聞きするだけでなく、自分で思い描くのも大好きだ。
勇敢な王子に悪辣な魔法使い、ランプの精に囚われの姫君、財宝を求めて船乗りになった商人……ナリーファの中で、物語はオアシスの水のように幾らでも湧いて出る。
そうして空想の物語に浸るのが、唯一の心の慰めだったのだ。
俯いたまま、冷や汗を滲ませて返答を待つと、シャラフが小さく息を吐くのが聞こえた。彼が無言でゆっくりと身を起こし、ナリーファの方へ近づく気配がする。
そして唐突に、砂色の頭部がポスンとナリーファの膝へ載せられた。
「えっ」
驚くナリーファを、膝に頭を載せたシャラフが鋭い瞳で見上げる。
「話してみろ。どうせお前が起きていようと眠っていようと、俺は眠れないのだから、たまには趣向の変わった茶番に付き合ってやる」
「あ、ありがとうございます。では……」
何を話そうかと一瞬悩んだが、ナリーファは幼い頃、母によくせがんだお気に入りの物語を話し始めた。
それは遠い西の国に昔から伝わるという、短くも楽しい話。
(……母様は私に、形はなくとも素晴らしいものを遺してくださいましたね)
母の形ある遺品は、ハンカチ一枚に至るまで全てメフリズに焼かれてしまった。けれど、ナリーファの記憶に残る幸せな思い出までは、誰も焼き尽くせない。
懐かしい思い出に勇気を貰えたのか、いつもは人の顔色を窺いおどおどした調子でしか喋れないのに、すらすらと物語が口から流れ出る。
シャラフは相変わらず険しい顔つきで、黙って物語を聞き、終わっても無言だ。駄目だったかと、ナリーファは胸中で息を吐いた。
「申し訳ございません。やはり、私ではお耳汚しだったようで……」
すると、シャラフが唐突に目を見開き、肩を震わせる。
「いや……」
低い、やや掠れた声でシャラフが呟いた。
「少し、考え事をしていた……もう一度、今の話をしてくれ」
「かしこまりました」
驚いたが、ナリーファは再び最初から話し始める。
ふと、膝に載せられたシャラフの顔に視線を向ければ、あの凶悪そうな鋭い双眸が、どこか遠くを見つめるようなものに変わっていた。
そして、次第にうつらうつらし出したかと思うと、二度目の物語を話し終えた頃には、シャラフは穏やかな寝息を立てて眠り込んでいた。
(え……眠ってしまったの? 本当に……?)
今更ながら緊張が舞い戻り、ナリーファは激しく動悸を打ち始めた胸を手で押さえる。
しばらく身じろぎもせずに様子を見ていたが、彼は一向に起きる気配がない。
初めて膝に載せた人の体温と、間近で聞く規則正しい寝息は意外にも心地良いけれど、相手が凶王様だと思うとどうしても緊張する。
その上、何時間も膝枕をしていると、流石に脚が痺れてきた。
ナリーファはプルプルしながら手を目いっぱい伸ばし、なんとかクッションを手繰り寄せて、慎重に自分の膝と入れ替える。
それでもシャラフはぐっすり眠ったままで、ナリーファはほっとして額の汗を拭った。
ミラブジャリードからここまで、駱駝の引く車で二週間の旅だ。疲れているはずなのに、緊張と思いがけず窮地を切り抜けられた高揚感に目がさえ、欠片も眠くない。
安堵の息を吐き、ナリーファは王の寝顔にそっと視線を向ける。
凶暴さや苛立ちの気配などない、心地良さそうな寝顔だった。
(……考えてみれば、陛下はご自分が疲れ切っているのに、押し付けられた私の体裁を繕おうとしてくださったから、ここにいらしたのよね)
穏やかに瞼を閉じているシャラフを眺め、ナリーファは考える。
無慈悲で残虐非道という悪評ばかり聞くし、初めて鋭い目つきで睨まれた瞬間は恐ろしくて本当に震え上がった。けれど、彼がそんなに酷い人物とは思えない。
(とにかく、無事に切り抜けられて良かったわ。陛下はこれでもう私のもとにはいらっしゃらないのだから……)
シャラフはナリーファが寵姫としての面子を保てるよう一晩だけ一緒に過ごすが、抱く気はまったくないと断言していた。
大勢の美しい寵姫がいるから自分は必要ないなんて、最初からわかっていた事だ。
それなのに、この穏やかな寝顔をこれきり見る事がないと思うと、なぜかほんの少し名残惜しい気がする。
(……今夜はたまたま上手くいったけれど、次もこうなるとは限らない。陛下の訪れがないのは幸いよ)
そう自分に言い聞かせるナリーファは、起こしてしまうかもと思いつつ、またつい彼の寝顔を眺める。結局、シャラフはぐっすり眠ったままで、目を覚ます事はなかった。
翌朝。
「おはようございます、陛下」
扉の向こうから、昨日のスィルという文官の青年の声が聞こえた途端、シャラフの両目がバッと開いた。
「っ!?」
跳ね起きた彼は何度か瞬きをして、信じられないものを見るような目でナリーファを見た。
「俺は、眠っていたのか……?」
「は、はい……」
押し殺した低い呟きに、ナリーファは反射的に身を竦める。
「陛下、いらっしゃいますか?」
返事がないのを訝しんだのか、スィルが先ほどより少し大きな声をかけてきた。
「ああ、すぐに行く」
シャラフは扉に向けて答え、寝台から下りる。
身支度を手伝った方が良いのだろうかと、ナリーファも急いで寝台から下りたが、シャラフは上着と靴を自分で手早く身につけ、唐突にこちらを向いた。
「ナリーファ。お前の寝物語は見事だった。……ここに来るのは一晩だけというのは撤回する。今夜も必ずまた、俺に寝物語をしろ」
ナリーファは大きく目を見開いた。今聞いた言葉が信じられず、自分の耳を疑う。
声もなく立ち尽くしていると、シャラフが眉を軽く顰めた。
「お前は、千夜を超えても話せるのだろう?」
「っ! は、はいっ! かしこまりました!」
ナリーファの返事を聞くと、シャラフは満足そうに口の端を軽く上げ、部屋を出た。
扉が閉まった途端、足腰の力が抜けて、ナリーファは床にへたり込む。混乱する中、初めてシャラフからきちんと名前を呼ばれたのだと、ようやく気づいた。
「……っふ……ぅ……」
じわりと胸の奥から熱いものがこみ上げ、涙になって両目から溢れ出す。ポタポタと涙が頬を伝い落ち、ナリーファは両手を口に当てて嗚咽を堪えた。
傍で眠りたくない事情を抱えている以上、国王に寝物語をするのは昨夜限りにするのが最良だった。
でも、シャラフにまた今夜も話せと望まれ、ひたすら嬉しい。
母が亡くなって以来、誰かにきちんと褒められた事などなかった。
『卑しい身分の女から産まれた、政略結婚にも相応しくない無様な王女』と、嘲笑され続けひび割れていた心に、先ほどの不愛想ながらも率直な称賛が優しく沁み込んでいく。
「ナリーファ様、入っても宜しいでしょうか?」
パーリの声がして、居間に続く扉が叩かれる。
「っ……どうぞ」
ナリーファが慌てて涙を拭って返事をすると、着替えの籠を持ったパーリが入ってきた。
「おはようございます」
明るく言ったパーリは、ナリーファの顔を見て急に心配そうな表情になった。
「……?」
ナリーファは首を傾げかけてすぐ、強い眠気を感じてクラリと身体を揺らす。無理もない。昨夜は結局、一睡もしていないのだ。さぞ酷い顔色になっているだろう。
額を押さえて足を踏みしめたナリーファへ、パーリが籠を放り出して手を差し出す。
「大丈夫ですか!? お医者様をお呼びした方が良いようでしたら……」
そのまま寝台へ横たわらせようとしてくれた彼女を、ナリーファは慌てて押しとどめた。
今眠ったら、この親切な少女まで傷つけてしまいかねない。
「いえ、少し寝不足なだけで……陛下のお隣では、恐れ多くて眠る気になれなかったの」
「そうでしたか……では、このまま昼頃までお休みになられますか?」
「ええ。そうさせてもらえるかしら」
頷いたナリーファは、パーリが部屋を出ていくと、寝所の内から掛け金を厳重に締める。
そして寝台に横たわるが早いか、瞼を閉じて眠りに落ちていった……
(――あぁ……ここでもやっぱり……)
数時間後。昼の鐘で目を覚ましたナリーファは、寝台を見てガックリと肩を落とす。
敷布はグシャグシャ、掛け布とクッションは床に散らばり、寝衣と上着は帯が緩み肩から半分ずり落ちている有様だ。
――これが、ナリーファが夜伽を決して務められない理由だった。
高貴な姫君とは、優雅な寝台でおしとやかに眠るのが当然と認識されている。いや、身分や性別に関係なく、寝相が悪くても許されるのは、せいぜい子ども時代までだろう。
ところがナリーファはどうした事か、いまだに寝相が凄まじく悪い。
それどころか、眠っている間に他人が近づくと、なぜか無意識に猛攻撃してしまうのだ。
幸か不幸か、この寝相は故国にいた頃にナリーファの身を守ってもくれた。
ナリーファが年頃になったある日の晩、後宮の隅に与えられた彼女の小さな寝所へ、暴行目当てで一人の下男が忍び込んできた事がある。
しかし、男が熟睡しているナリーファに手をかけたところ、なんと眠ったままの王女が殴るわ蹴るわの猛反撃をした。男はしまいに盛大に投げ飛ばされて壁に叩きつけられ、物音で飛び起きた召使達に取り押さえられたのだ。
その数日後、再び別の男が忍び込んだが、まったく同じ目にあった。
『ナリーファ様にやられたんだ。大人しそうなそぶりで、獅子みたいに凶暴な姫様だった』
幾ら暴漢達にそう供述されても、ナリーファには一切の記憶がない。
武術の心得もないひ弱な王女が、力仕事を担う屈強な下男を眠りながら叩きのめしたなどと、一度目は誰も信じなかった。
だが二度目の暴行未遂の際に、決定的な証拠と証人が出た。
それは、メフリズに怯えながらも、ナリーファにこっそり親切にしてくれていた侍女である。
彼女が物音で真っ先に寝所へ駆け付けたところ、ナリーファがぐっすり眠りつつ、暴漢の股間を強烈に蹴り上げるところを目撃したらしい。
それどころか、ナリーファは心配して駆け寄ってきたその侍女まで、あわや蹴り飛ばす寸前だった。彼女の悲鳴で目が覚めたら、床に尻もちをついているその顔面すれすれに、爪先を突きつけていたのだ。
それでようやく、眠っている己のとんでもない行動を信じられた。
……とはいえ、これが表沙汰になる事はなかった。
普通なら、後宮に男が忍び込んだだけで大事件だ。しかし、『後宮に忍び込む男などいるはずがないでしょう。馬鹿げた嘘を吹聴する事は禁じます』という、正妃メフリズの命令で事件は一切不問にされ、父王に報告すらされなかったのだ。
それで皆、暴漢を手引きしたのはメフリズだと薄々ながら気づいた。
人の口へ戸は立てられず、真相は正妃付きの侍女から召使達へこっそり広まった。
メフリズは、ナリーファを凌辱させてから、後宮へみだりに男を引き込んだふしだらな娘だと責めて処刑か追放するつもりだった。なのに、意外な展開になったために真相を追及されるのを避けて有耶無耶にしたのだ。
その結果、密かにナリーファへつけられたあだ名が『眠れる獅子姫』である。
そして、二度の失敗に業を煮やしたメフリズは、ウルジュラーンの悪名高い凶王シャラフが後宮の女を酷く扱うという噂を聞き、そこに目をつけたのだった。
ナリーファが夜伽の際に眠り込み、凶王を蹴飛ばして殺されれば良いと嘲笑うメフリズの恐ろしい声は、今もしっかり覚えている。
(……ここに来る途中で眠った時も、いつも通りだったものね)
眠る環境が変わったとしても、これは変わらない。ミラブジャリードまでの道中で宿に泊まった翌朝も、相変わらず寝台はグチャグチャだった。
――そして『あの夢』も、変わらなかった。
(母様……)
うっすらとした夢の残滓を思い出していたナリーファは、扉を叩く音に我に返る。
「ナリーファ様、お加減は如何でしょうか?」
パーリの声に、改めて部屋の惨状を目にしたナリーファは慌てふためく。
このとてつもない寝相の跡を誰かに見られたら大恥だ。それに、万が一シャラフの耳に入り、昨夜命令通りに眠ろうとしなかった理由や真相を問い詰められても困る。
ナリーファは黙っているのは得意でも、嘘を吐くのは全然得意ではないのだ。
もし相部屋に入れられていても困っていたはずだが、ナリーファはここに来たらすぐシャラフに夜伽を命じられ殺されると思い込んでいたので、その可能性を忘れていた。
「あっ、あと、三分だけ! すぐ開けるので、三分だけ待ってもらえるかしら!?」
上擦った声で返事をし、即座に部屋を整える。
ナリーファはミラブジャリードにいた頃、母が亡くなってすぐ部屋を移された。一応は王女という身分から個室だったが、鍵は外側にしかない牢獄のような粗末な部屋だった。
不規則な時間にメフリズ付きの意地悪な侍女の怒鳴り声で起こされ、扉を開けられてはグシャグシャの寝相の跡を嘲笑われたものだ。
掛け金がある扉と優しく待ってくれるこちらの侍女に感謝しながら、ナリーファは猛烈な勢いで敷布の端を引っ張って整える。そしてずれた寝衣の帯を直し、髪も簡単に手櫛で綺麗にした。
何とか形を取り繕った部屋を見渡し、ナリーファは深呼吸をして掛け金を外す。
「待たせてごめんなさい」
扉の前で待っていたパーリに謝ると、親切な少女はにこやかな笑顔でお辞儀をした。
「勿体ないお言葉です。私こそ、もう少しごゆっくりお休みになっていただければ良かったと……」
そこまで言ったところで、パーリはふと室内を見て円らな目を見開く。
「あの、何か……?」
クッションも全て元通りにしたはずだが……と、内心ビクビクしつつナリーファが尋ねると、パーリが遠慮がちに口を開いた。
「寝台でしたら、私が責任を持って敷布も毎日替えて整えますので、どうかそのままになさってくださいませ」
端をきっちり折り込み皺一つなくピンと伸ばした敷布を見て、ナリーファは己の失態に気づき、冷や汗を滲ませる。
敷布替えや部屋の掃除を、全て自分でやるのに慣れていたから手早く整えられたけれど、やり過ぎた。
ナリーファはこれまで冷遇されていたからそうせざるを得なかったが、普通は相部屋の寵姫の寝台だって侍女が整える。これではかえって、不思議に思われるはずだ。
「え、ええ……明日からは、お願いするわ」
今後は、適度に寝乱れた感じに整えようと、ナリーファは決意した。
そして、結局その日ナリーファは、部屋から一歩も出ずに過ごした。
『宜しければ、後宮のお庭や娯楽室を案内いたしましょうか?』と、パーリが申し出てくれたのだが、昨日の寵姫達の顔がちらつき、遠慮してしまったのだ。
なので夕刻まで、部屋にあった本を読んで過ごす事にした。
(好みでない寵姫にさえ、こんな二間続きの立派な部屋を惜しげもなく与えられるのは、陛下がそれだけ寵姫同士の諍いを嫌う故でしょうし……)
だったら、他の寵姫との接触は避けた方がいいだろう。
侍女が掃除をする時には、もう片方の部屋にいればいい。眺めの良い大きな窓は閉塞感を感じさせず、回廊側上部の小窓を開ければ、心地良い風が吹き抜ける。
しかも浴室と洗面所もあるので、寵姫は与えられた部屋から出ずとも快適に生活できるわけだ。寵愛を競う後宮の女性達も、顔を合わせる機会が少なければ諍いを起こす確率も自然と減る。
昨日の寵姫達のように、表面は友好的に交流しつつライバルを牽制する者もいるだろうが、ナリーファはそう器用ではない。
華やかで美しい寵姫達に馴染める自信がないなら、大人しく部屋に籠もるのが一番だ。
また、もう一つ重大な理由もあった。
ナリーファは寝台中を転げ回る寝相のせいか、起きた後は激しい運動を終えた後のごとく疲れているのだ。
故郷のように毎日メフリズに呼び出されたりせず、ゆっくり休めるのは実にありがたい。
やがて日が暮れ、夕食を済ませると、パーリが昨日と同様に湯浴みの支度をしてくれた。
「陛下が今夜も参られるそうですね」
ナリーファの髪を拭いてジャスミンのかぐわしい香油を塗りながら、パーリが嬉しそうに言う。その声には、ほんの少し驚いた雰囲気も混じっていた。
昨夜の敷布は汚れていなかったから、ナリーファがシャラフと一夜を過ごしても夜伽をしなかった事は一目瞭然だ。それなのに今夜も王が部屋を訪れるのを、パーリが不思議に思っても無理はない。
しかし余計な詮索はせず、パーリは支度を終えると行儀良く退室していった。
(昨夜みたいに、上手くお話しできれば良いけれど……)
寝室に一人きりになると、急に不安が膨れ上がってきて、ナリーファは激しく動悸を打つ胸を衣服の上から手で押さえる。緊張からか、時間が過ぎるのがやけに遅く感じられた。
「ナリーファ様、陛下が参られました」
寝所の扉を叩く音と、昨日とは違う男性の声が聞こえた時、あやうくナリーファは悲鳴を上げそうになった。
「は、はいっ」
情けなく掠れた小声で返事をすると、昨日と同じようにシャラフが扉を開ける。
昨日の彼は今にも噛み殺しそうなくらいにナリーファを睨んでいたのに、今夜は鋭かった目つきが随分と柔らかくなっていた。
苛立ちの気配もない姿に、やはり昨夜の彼は疲労の極致にあったのだと感じた。
「お、お待ちしておりました、陛下」
「ああ。今夜も話を聞かせてくれ」
急いでお辞儀をしたナリーファにかける声も、昨夜とは比べ物にならないほど穏やかだ。
今夜のシャラフの後ろには、武官の装いをした筋骨逞しい青年がいた。
「ご苦労だったな、カルン。もう下がっていいぞ」
シャラフが肩越しに振り返り、武官の青年に声をかける。
「は。失礼します、陛下」
ピシッと敬礼をしたカルンは、その体躯に相応しい大きな剣を装着しており、随分と迫力があった。だが、短い黒髪の下に輝いている黒い瞳は、どこか愛嬌があり陽気そうな雰囲気に満ちている。
カルンが扉を閉めると、シャラフが真っ直ぐに近づいてきたので、ナリーファは反射的にギクリと身体を強張らせてしまった。
真正面に立ったシャラフが、鋭い瞳をナリーファへ向ける。
「今朝は、気づいてやれなくて悪かった」
「……?」
唐突に謝られ、ナリーファはポカンと口を開いてしまった。
「お前は昨夜、俺に遠慮して一睡もしていなかったそうだな? 酷く疲れていたようだとパーリから聞いた。俺が一番に気づいてやるべきだったのに、自分が眠れた驚きで手一杯になっていた」
「陛下がお気になさる事では……私は自分の望みで起きていただけですので……」
焦ってナリーファが首を横に振れば、シャラフが苦笑する。
「今夜は無理をせず、俺の隣で寝ろ」
「えっ!?」
たじろぐと、シャラフが訝しそうな表情で首を傾げた。
「遠慮はいらん。夜伽に抵抗があるなら、無理強いする気もないぞ」
「いっ、いえ、それは……」
本当の事はとても白状できないし、かといって、とっさに上手い嘘など思い浮かばない。なので、正直にお願いする事にした。
「陛下の寛容なお心に、深く感謝いたします。ですが……私は、陛下のお傍では一晩中でも起きていたいのです。どうかお許しいただけませんでしょうか?」
眠ったら大変な事になるという考えで頭が一杯のナリーファは、自分の言葉がまるで、シャラフを健気に恋慕っているように聞こえるのにも気づかない。
見上げて懇願すると、彼は唐突に顔をしかめて口元を片手で覆い、そっぽを向いた。
せっかくの厚意を断って気を悪くさせてしまったかと、血の気が引いたが……
「そ、そうか。好きにしろ。パーリには言っておくから、昼間にゆっくり休めば良い」
何度か咳払いをした後、不愛想な声で言われ、ナリーファは目を見開く。
「あ……ありがとうございます」
ややあって我に返り、精一杯の感謝を込めて礼を告げると、シャラフはそっぽを向いたまま無言で頷く。
上着と靴を脱ぎ捨てた彼は、腰の剣も外して脇に置き、寝台へ横たわった。そして手を伸ばし、片側に積まれたビロードのクッションから、適当なものを掴み取ってもたれる。
悠然と寝台に寝そべるシャラフは、砂色の毛並みをした大きな豹が、周りの動物など意にも介さずゆったり寛いでいる姿を思わせた。
鋭い緑色の双眸は、恐ろしいけれども綺麗で、自然と目が吸い寄せられる。
「ナリーファ、来い」
手招きされ、ナリーファが寝台に上がると、シャラフはその膝に頭を載せて目を瞑り、ゆっくりと喋り出す。
「昨夜、お前が話した物語を、俺も子どもの頃によく聞いた。いつの間にかすっかり忘れていたが……とても懐かしかった」
「陛下も、あの話をご存じだったのですか?」
ナリーファの驚いた声に、シャラフが薄く目を開けた。
「ああ。俺の母親の生まれ故郷に古くから伝わる物語らしい。乳兄弟達と一緒にたびたび聞かせてもらったものだ。お前は、どこであの話を知った?」
彼の緑色の瞳に見上げられ、不意にドキリと心臓が跳ねる。怖くてドキドキするのとは少し違う、なんだか不思議な感覚だった。
(そうだわ。陛下のお母君は、確か……)
シャラフの珍しい色をした髪と瞳は、母親譲りだという。彼女は既に故人だが、遠い西の国から売られてきた女奴隷だったと噂に聞いている。
昨夜、数ある物語からあの話を選んだのは、特に意図しての事ではなかった。だが、西の人間の特徴を持つ彼を見て、無意識に西の物語が喜ばれそうだと思ったのかもしれない。
「私も、幼い頃に母から教えてもらいました。母は……」
一瞬『踊り子など誰にでも媚びを売る卑しい女』と罵るメフリズの声が耳の奥に響いたが、ナリーファは言葉を続けた。
元踊り子だった母は、宴席で様々な客と話す機会があったため、面白い話をたくさん知っていたし、語り方も非常に上手だった。それらを聞かされて育ったナリーファは、全ての話を覚えている。
とはいえ、それを誰かに話して聞かせた事はない。まして、熱砂の凶王と呼ばれる恐ろしい彼を、寝物語を紡いで寝かしつけるなど無謀な賭けだ。しかし、他の手段は思いつかなかった。
「俺に、寝物語? 子ども扱いする気か」
「大人とて寝苦しい夜はございます。私の亡き母は寝物語を語るのが得意で、他の側妃様達もたびたび、母に寝物語を求めておりました」
鼻で笑われ、ひるみそうになったが、もう後がないと必死で申し立てる。
「どうかお試しいただけませんでしょうか。私は、語り手としては母に遠く及ばないでしょうが……数だけなら、千夜を超えても語ってご覧にいれます!」
言い終えたナリーファは深々と頭を垂れた。
数だけなら千夜でも語れると言ったのは嘘ではない。
ナリーファは本を読むのが好きだったので、幼い頃に母から聞いた物語以外にも、覚えている話はたくさんある。
さらに物語を読み聞きするだけでなく、自分で思い描くのも大好きだ。
勇敢な王子に悪辣な魔法使い、ランプの精に囚われの姫君、財宝を求めて船乗りになった商人……ナリーファの中で、物語はオアシスの水のように幾らでも湧いて出る。
そうして空想の物語に浸るのが、唯一の心の慰めだったのだ。
俯いたまま、冷や汗を滲ませて返答を待つと、シャラフが小さく息を吐くのが聞こえた。彼が無言でゆっくりと身を起こし、ナリーファの方へ近づく気配がする。
そして唐突に、砂色の頭部がポスンとナリーファの膝へ載せられた。
「えっ」
驚くナリーファを、膝に頭を載せたシャラフが鋭い瞳で見上げる。
「話してみろ。どうせお前が起きていようと眠っていようと、俺は眠れないのだから、たまには趣向の変わった茶番に付き合ってやる」
「あ、ありがとうございます。では……」
何を話そうかと一瞬悩んだが、ナリーファは幼い頃、母によくせがんだお気に入りの物語を話し始めた。
それは遠い西の国に昔から伝わるという、短くも楽しい話。
(……母様は私に、形はなくとも素晴らしいものを遺してくださいましたね)
母の形ある遺品は、ハンカチ一枚に至るまで全てメフリズに焼かれてしまった。けれど、ナリーファの記憶に残る幸せな思い出までは、誰も焼き尽くせない。
懐かしい思い出に勇気を貰えたのか、いつもは人の顔色を窺いおどおどした調子でしか喋れないのに、すらすらと物語が口から流れ出る。
シャラフは相変わらず険しい顔つきで、黙って物語を聞き、終わっても無言だ。駄目だったかと、ナリーファは胸中で息を吐いた。
「申し訳ございません。やはり、私ではお耳汚しだったようで……」
すると、シャラフが唐突に目を見開き、肩を震わせる。
「いや……」
低い、やや掠れた声でシャラフが呟いた。
「少し、考え事をしていた……もう一度、今の話をしてくれ」
「かしこまりました」
驚いたが、ナリーファは再び最初から話し始める。
ふと、膝に載せられたシャラフの顔に視線を向ければ、あの凶悪そうな鋭い双眸が、どこか遠くを見つめるようなものに変わっていた。
そして、次第にうつらうつらし出したかと思うと、二度目の物語を話し終えた頃には、シャラフは穏やかな寝息を立てて眠り込んでいた。
(え……眠ってしまったの? 本当に……?)
今更ながら緊張が舞い戻り、ナリーファは激しく動悸を打ち始めた胸を手で押さえる。
しばらく身じろぎもせずに様子を見ていたが、彼は一向に起きる気配がない。
初めて膝に載せた人の体温と、間近で聞く規則正しい寝息は意外にも心地良いけれど、相手が凶王様だと思うとどうしても緊張する。
その上、何時間も膝枕をしていると、流石に脚が痺れてきた。
ナリーファはプルプルしながら手を目いっぱい伸ばし、なんとかクッションを手繰り寄せて、慎重に自分の膝と入れ替える。
それでもシャラフはぐっすり眠ったままで、ナリーファはほっとして額の汗を拭った。
ミラブジャリードからここまで、駱駝の引く車で二週間の旅だ。疲れているはずなのに、緊張と思いがけず窮地を切り抜けられた高揚感に目がさえ、欠片も眠くない。
安堵の息を吐き、ナリーファは王の寝顔にそっと視線を向ける。
凶暴さや苛立ちの気配などない、心地良さそうな寝顔だった。
(……考えてみれば、陛下はご自分が疲れ切っているのに、押し付けられた私の体裁を繕おうとしてくださったから、ここにいらしたのよね)
穏やかに瞼を閉じているシャラフを眺め、ナリーファは考える。
無慈悲で残虐非道という悪評ばかり聞くし、初めて鋭い目つきで睨まれた瞬間は恐ろしくて本当に震え上がった。けれど、彼がそんなに酷い人物とは思えない。
(とにかく、無事に切り抜けられて良かったわ。陛下はこれでもう私のもとにはいらっしゃらないのだから……)
シャラフはナリーファが寵姫としての面子を保てるよう一晩だけ一緒に過ごすが、抱く気はまったくないと断言していた。
大勢の美しい寵姫がいるから自分は必要ないなんて、最初からわかっていた事だ。
それなのに、この穏やかな寝顔をこれきり見る事がないと思うと、なぜかほんの少し名残惜しい気がする。
(……今夜はたまたま上手くいったけれど、次もこうなるとは限らない。陛下の訪れがないのは幸いよ)
そう自分に言い聞かせるナリーファは、起こしてしまうかもと思いつつ、またつい彼の寝顔を眺める。結局、シャラフはぐっすり眠ったままで、目を覚ます事はなかった。
翌朝。
「おはようございます、陛下」
扉の向こうから、昨日のスィルという文官の青年の声が聞こえた途端、シャラフの両目がバッと開いた。
「っ!?」
跳ね起きた彼は何度か瞬きをして、信じられないものを見るような目でナリーファを見た。
「俺は、眠っていたのか……?」
「は、はい……」
押し殺した低い呟きに、ナリーファは反射的に身を竦める。
「陛下、いらっしゃいますか?」
返事がないのを訝しんだのか、スィルが先ほどより少し大きな声をかけてきた。
「ああ、すぐに行く」
シャラフは扉に向けて答え、寝台から下りる。
身支度を手伝った方が良いのだろうかと、ナリーファも急いで寝台から下りたが、シャラフは上着と靴を自分で手早く身につけ、唐突にこちらを向いた。
「ナリーファ。お前の寝物語は見事だった。……ここに来るのは一晩だけというのは撤回する。今夜も必ずまた、俺に寝物語をしろ」
ナリーファは大きく目を見開いた。今聞いた言葉が信じられず、自分の耳を疑う。
声もなく立ち尽くしていると、シャラフが眉を軽く顰めた。
「お前は、千夜を超えても話せるのだろう?」
「っ! は、はいっ! かしこまりました!」
ナリーファの返事を聞くと、シャラフは満足そうに口の端を軽く上げ、部屋を出た。
扉が閉まった途端、足腰の力が抜けて、ナリーファは床にへたり込む。混乱する中、初めてシャラフからきちんと名前を呼ばれたのだと、ようやく気づいた。
「……っふ……ぅ……」
じわりと胸の奥から熱いものがこみ上げ、涙になって両目から溢れ出す。ポタポタと涙が頬を伝い落ち、ナリーファは両手を口に当てて嗚咽を堪えた。
傍で眠りたくない事情を抱えている以上、国王に寝物語をするのは昨夜限りにするのが最良だった。
でも、シャラフにまた今夜も話せと望まれ、ひたすら嬉しい。
母が亡くなって以来、誰かにきちんと褒められた事などなかった。
『卑しい身分の女から産まれた、政略結婚にも相応しくない無様な王女』と、嘲笑され続けひび割れていた心に、先ほどの不愛想ながらも率直な称賛が優しく沁み込んでいく。
「ナリーファ様、入っても宜しいでしょうか?」
パーリの声がして、居間に続く扉が叩かれる。
「っ……どうぞ」
ナリーファが慌てて涙を拭って返事をすると、着替えの籠を持ったパーリが入ってきた。
「おはようございます」
明るく言ったパーリは、ナリーファの顔を見て急に心配そうな表情になった。
「……?」
ナリーファは首を傾げかけてすぐ、強い眠気を感じてクラリと身体を揺らす。無理もない。昨夜は結局、一睡もしていないのだ。さぞ酷い顔色になっているだろう。
額を押さえて足を踏みしめたナリーファへ、パーリが籠を放り出して手を差し出す。
「大丈夫ですか!? お医者様をお呼びした方が良いようでしたら……」
そのまま寝台へ横たわらせようとしてくれた彼女を、ナリーファは慌てて押しとどめた。
今眠ったら、この親切な少女まで傷つけてしまいかねない。
「いえ、少し寝不足なだけで……陛下のお隣では、恐れ多くて眠る気になれなかったの」
「そうでしたか……では、このまま昼頃までお休みになられますか?」
「ええ。そうさせてもらえるかしら」
頷いたナリーファは、パーリが部屋を出ていくと、寝所の内から掛け金を厳重に締める。
そして寝台に横たわるが早いか、瞼を閉じて眠りに落ちていった……
(――あぁ……ここでもやっぱり……)
数時間後。昼の鐘で目を覚ましたナリーファは、寝台を見てガックリと肩を落とす。
敷布はグシャグシャ、掛け布とクッションは床に散らばり、寝衣と上着は帯が緩み肩から半分ずり落ちている有様だ。
――これが、ナリーファが夜伽を決して務められない理由だった。
高貴な姫君とは、優雅な寝台でおしとやかに眠るのが当然と認識されている。いや、身分や性別に関係なく、寝相が悪くても許されるのは、せいぜい子ども時代までだろう。
ところがナリーファはどうした事か、いまだに寝相が凄まじく悪い。
それどころか、眠っている間に他人が近づくと、なぜか無意識に猛攻撃してしまうのだ。
幸か不幸か、この寝相は故国にいた頃にナリーファの身を守ってもくれた。
ナリーファが年頃になったある日の晩、後宮の隅に与えられた彼女の小さな寝所へ、暴行目当てで一人の下男が忍び込んできた事がある。
しかし、男が熟睡しているナリーファに手をかけたところ、なんと眠ったままの王女が殴るわ蹴るわの猛反撃をした。男はしまいに盛大に投げ飛ばされて壁に叩きつけられ、物音で飛び起きた召使達に取り押さえられたのだ。
その数日後、再び別の男が忍び込んだが、まったく同じ目にあった。
『ナリーファ様にやられたんだ。大人しそうなそぶりで、獅子みたいに凶暴な姫様だった』
幾ら暴漢達にそう供述されても、ナリーファには一切の記憶がない。
武術の心得もないひ弱な王女が、力仕事を担う屈強な下男を眠りながら叩きのめしたなどと、一度目は誰も信じなかった。
だが二度目の暴行未遂の際に、決定的な証拠と証人が出た。
それは、メフリズに怯えながらも、ナリーファにこっそり親切にしてくれていた侍女である。
彼女が物音で真っ先に寝所へ駆け付けたところ、ナリーファがぐっすり眠りつつ、暴漢の股間を強烈に蹴り上げるところを目撃したらしい。
それどころか、ナリーファは心配して駆け寄ってきたその侍女まで、あわや蹴り飛ばす寸前だった。彼女の悲鳴で目が覚めたら、床に尻もちをついているその顔面すれすれに、爪先を突きつけていたのだ。
それでようやく、眠っている己のとんでもない行動を信じられた。
……とはいえ、これが表沙汰になる事はなかった。
普通なら、後宮に男が忍び込んだだけで大事件だ。しかし、『後宮に忍び込む男などいるはずがないでしょう。馬鹿げた嘘を吹聴する事は禁じます』という、正妃メフリズの命令で事件は一切不問にされ、父王に報告すらされなかったのだ。
それで皆、暴漢を手引きしたのはメフリズだと薄々ながら気づいた。
人の口へ戸は立てられず、真相は正妃付きの侍女から召使達へこっそり広まった。
メフリズは、ナリーファを凌辱させてから、後宮へみだりに男を引き込んだふしだらな娘だと責めて処刑か追放するつもりだった。なのに、意外な展開になったために真相を追及されるのを避けて有耶無耶にしたのだ。
その結果、密かにナリーファへつけられたあだ名が『眠れる獅子姫』である。
そして、二度の失敗に業を煮やしたメフリズは、ウルジュラーンの悪名高い凶王シャラフが後宮の女を酷く扱うという噂を聞き、そこに目をつけたのだった。
ナリーファが夜伽の際に眠り込み、凶王を蹴飛ばして殺されれば良いと嘲笑うメフリズの恐ろしい声は、今もしっかり覚えている。
(……ここに来る途中で眠った時も、いつも通りだったものね)
眠る環境が変わったとしても、これは変わらない。ミラブジャリードまでの道中で宿に泊まった翌朝も、相変わらず寝台はグチャグチャだった。
――そして『あの夢』も、変わらなかった。
(母様……)
うっすらとした夢の残滓を思い出していたナリーファは、扉を叩く音に我に返る。
「ナリーファ様、お加減は如何でしょうか?」
パーリの声に、改めて部屋の惨状を目にしたナリーファは慌てふためく。
このとてつもない寝相の跡を誰かに見られたら大恥だ。それに、万が一シャラフの耳に入り、昨夜命令通りに眠ろうとしなかった理由や真相を問い詰められても困る。
ナリーファは黙っているのは得意でも、嘘を吐くのは全然得意ではないのだ。
もし相部屋に入れられていても困っていたはずだが、ナリーファはここに来たらすぐシャラフに夜伽を命じられ殺されると思い込んでいたので、その可能性を忘れていた。
「あっ、あと、三分だけ! すぐ開けるので、三分だけ待ってもらえるかしら!?」
上擦った声で返事をし、即座に部屋を整える。
ナリーファはミラブジャリードにいた頃、母が亡くなってすぐ部屋を移された。一応は王女という身分から個室だったが、鍵は外側にしかない牢獄のような粗末な部屋だった。
不規則な時間にメフリズ付きの意地悪な侍女の怒鳴り声で起こされ、扉を開けられてはグシャグシャの寝相の跡を嘲笑われたものだ。
掛け金がある扉と優しく待ってくれるこちらの侍女に感謝しながら、ナリーファは猛烈な勢いで敷布の端を引っ張って整える。そしてずれた寝衣の帯を直し、髪も簡単に手櫛で綺麗にした。
何とか形を取り繕った部屋を見渡し、ナリーファは深呼吸をして掛け金を外す。
「待たせてごめんなさい」
扉の前で待っていたパーリに謝ると、親切な少女はにこやかな笑顔でお辞儀をした。
「勿体ないお言葉です。私こそ、もう少しごゆっくりお休みになっていただければ良かったと……」
そこまで言ったところで、パーリはふと室内を見て円らな目を見開く。
「あの、何か……?」
クッションも全て元通りにしたはずだが……と、内心ビクビクしつつナリーファが尋ねると、パーリが遠慮がちに口を開いた。
「寝台でしたら、私が責任を持って敷布も毎日替えて整えますので、どうかそのままになさってくださいませ」
端をきっちり折り込み皺一つなくピンと伸ばした敷布を見て、ナリーファは己の失態に気づき、冷や汗を滲ませる。
敷布替えや部屋の掃除を、全て自分でやるのに慣れていたから手早く整えられたけれど、やり過ぎた。
ナリーファはこれまで冷遇されていたからそうせざるを得なかったが、普通は相部屋の寵姫の寝台だって侍女が整える。これではかえって、不思議に思われるはずだ。
「え、ええ……明日からは、お願いするわ」
今後は、適度に寝乱れた感じに整えようと、ナリーファは決意した。
そして、結局その日ナリーファは、部屋から一歩も出ずに過ごした。
『宜しければ、後宮のお庭や娯楽室を案内いたしましょうか?』と、パーリが申し出てくれたのだが、昨日の寵姫達の顔がちらつき、遠慮してしまったのだ。
なので夕刻まで、部屋にあった本を読んで過ごす事にした。
(好みでない寵姫にさえ、こんな二間続きの立派な部屋を惜しげもなく与えられるのは、陛下がそれだけ寵姫同士の諍いを嫌う故でしょうし……)
だったら、他の寵姫との接触は避けた方がいいだろう。
侍女が掃除をする時には、もう片方の部屋にいればいい。眺めの良い大きな窓は閉塞感を感じさせず、回廊側上部の小窓を開ければ、心地良い風が吹き抜ける。
しかも浴室と洗面所もあるので、寵姫は与えられた部屋から出ずとも快適に生活できるわけだ。寵愛を競う後宮の女性達も、顔を合わせる機会が少なければ諍いを起こす確率も自然と減る。
昨日の寵姫達のように、表面は友好的に交流しつつライバルを牽制する者もいるだろうが、ナリーファはそう器用ではない。
華やかで美しい寵姫達に馴染める自信がないなら、大人しく部屋に籠もるのが一番だ。
また、もう一つ重大な理由もあった。
ナリーファは寝台中を転げ回る寝相のせいか、起きた後は激しい運動を終えた後のごとく疲れているのだ。
故郷のように毎日メフリズに呼び出されたりせず、ゆっくり休めるのは実にありがたい。
やがて日が暮れ、夕食を済ませると、パーリが昨日と同様に湯浴みの支度をしてくれた。
「陛下が今夜も参られるそうですね」
ナリーファの髪を拭いてジャスミンのかぐわしい香油を塗りながら、パーリが嬉しそうに言う。その声には、ほんの少し驚いた雰囲気も混じっていた。
昨夜の敷布は汚れていなかったから、ナリーファがシャラフと一夜を過ごしても夜伽をしなかった事は一目瞭然だ。それなのに今夜も王が部屋を訪れるのを、パーリが不思議に思っても無理はない。
しかし余計な詮索はせず、パーリは支度を終えると行儀良く退室していった。
(昨夜みたいに、上手くお話しできれば良いけれど……)
寝室に一人きりになると、急に不安が膨れ上がってきて、ナリーファは激しく動悸を打つ胸を衣服の上から手で押さえる。緊張からか、時間が過ぎるのがやけに遅く感じられた。
「ナリーファ様、陛下が参られました」
寝所の扉を叩く音と、昨日とは違う男性の声が聞こえた時、あやうくナリーファは悲鳴を上げそうになった。
「は、はいっ」
情けなく掠れた小声で返事をすると、昨日と同じようにシャラフが扉を開ける。
昨日の彼は今にも噛み殺しそうなくらいにナリーファを睨んでいたのに、今夜は鋭かった目つきが随分と柔らかくなっていた。
苛立ちの気配もない姿に、やはり昨夜の彼は疲労の極致にあったのだと感じた。
「お、お待ちしておりました、陛下」
「ああ。今夜も話を聞かせてくれ」
急いでお辞儀をしたナリーファにかける声も、昨夜とは比べ物にならないほど穏やかだ。
今夜のシャラフの後ろには、武官の装いをした筋骨逞しい青年がいた。
「ご苦労だったな、カルン。もう下がっていいぞ」
シャラフが肩越しに振り返り、武官の青年に声をかける。
「は。失礼します、陛下」
ピシッと敬礼をしたカルンは、その体躯に相応しい大きな剣を装着しており、随分と迫力があった。だが、短い黒髪の下に輝いている黒い瞳は、どこか愛嬌があり陽気そうな雰囲気に満ちている。
カルンが扉を閉めると、シャラフが真っ直ぐに近づいてきたので、ナリーファは反射的にギクリと身体を強張らせてしまった。
真正面に立ったシャラフが、鋭い瞳をナリーファへ向ける。
「今朝は、気づいてやれなくて悪かった」
「……?」
唐突に謝られ、ナリーファはポカンと口を開いてしまった。
「お前は昨夜、俺に遠慮して一睡もしていなかったそうだな? 酷く疲れていたようだとパーリから聞いた。俺が一番に気づいてやるべきだったのに、自分が眠れた驚きで手一杯になっていた」
「陛下がお気になさる事では……私は自分の望みで起きていただけですので……」
焦ってナリーファが首を横に振れば、シャラフが苦笑する。
「今夜は無理をせず、俺の隣で寝ろ」
「えっ!?」
たじろぐと、シャラフが訝しそうな表情で首を傾げた。
「遠慮はいらん。夜伽に抵抗があるなら、無理強いする気もないぞ」
「いっ、いえ、それは……」
本当の事はとても白状できないし、かといって、とっさに上手い嘘など思い浮かばない。なので、正直にお願いする事にした。
「陛下の寛容なお心に、深く感謝いたします。ですが……私は、陛下のお傍では一晩中でも起きていたいのです。どうかお許しいただけませんでしょうか?」
眠ったら大変な事になるという考えで頭が一杯のナリーファは、自分の言葉がまるで、シャラフを健気に恋慕っているように聞こえるのにも気づかない。
見上げて懇願すると、彼は唐突に顔をしかめて口元を片手で覆い、そっぽを向いた。
せっかくの厚意を断って気を悪くさせてしまったかと、血の気が引いたが……
「そ、そうか。好きにしろ。パーリには言っておくから、昼間にゆっくり休めば良い」
何度か咳払いをした後、不愛想な声で言われ、ナリーファは目を見開く。
「あ……ありがとうございます」
ややあって我に返り、精一杯の感謝を込めて礼を告げると、シャラフはそっぽを向いたまま無言で頷く。
上着と靴を脱ぎ捨てた彼は、腰の剣も外して脇に置き、寝台へ横たわった。そして手を伸ばし、片側に積まれたビロードのクッションから、適当なものを掴み取ってもたれる。
悠然と寝台に寝そべるシャラフは、砂色の毛並みをした大きな豹が、周りの動物など意にも介さずゆったり寛いでいる姿を思わせた。
鋭い緑色の双眸は、恐ろしいけれども綺麗で、自然と目が吸い寄せられる。
「ナリーファ、来い」
手招きされ、ナリーファが寝台に上がると、シャラフはその膝に頭を載せて目を瞑り、ゆっくりと喋り出す。
「昨夜、お前が話した物語を、俺も子どもの頃によく聞いた。いつの間にかすっかり忘れていたが……とても懐かしかった」
「陛下も、あの話をご存じだったのですか?」
ナリーファの驚いた声に、シャラフが薄く目を開けた。
「ああ。俺の母親の生まれ故郷に古くから伝わる物語らしい。乳兄弟達と一緒にたびたび聞かせてもらったものだ。お前は、どこであの話を知った?」
彼の緑色の瞳に見上げられ、不意にドキリと心臓が跳ねる。怖くてドキドキするのとは少し違う、なんだか不思議な感覚だった。
(そうだわ。陛下のお母君は、確か……)
シャラフの珍しい色をした髪と瞳は、母親譲りだという。彼女は既に故人だが、遠い西の国から売られてきた女奴隷だったと噂に聞いている。
昨夜、数ある物語からあの話を選んだのは、特に意図しての事ではなかった。だが、西の人間の特徴を持つ彼を見て、無意識に西の物語が喜ばれそうだと思ったのかもしれない。
「私も、幼い頃に母から教えてもらいました。母は……」
一瞬『踊り子など誰にでも媚びを売る卑しい女』と罵るメフリズの声が耳の奥に響いたが、ナリーファは言葉を続けた。
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