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蟹江 昴流(かにえ すばる)の場合(◇ホラー)
蟹江 昴流(かにえ すばる)の場合
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「ゾンビはどうして人肉を食べるんだと思います?」
蟹江 昴流にそう聞かれたとき、私はどう答えていいか分からずに口をつぐんだ。
彼は病的に痩せ細った長身の男で、体にぴったりと張り付くようなスーツを着ている。
つばの狭い帽子をかぶっているので良くわからないが、どうやら禿頭であるらしかった。
無精ひげの一本も見えないその肌は青白く、神経質そうな目はいつもぴくぴく蠢いている。
私の返事を待ってしばらく黙っていたが、我慢できなくなったのだろう、彼はまた勝手に話し出した。
「美味しいからですよ」
さもおかしそうに蟹江は笑った。
私は窓の外へ視線を向ける。
ここは、昭和の香りがまだ残る古い木造のアパートの2階。
外にはゾンビがうろうろしているのが見えた。
私がここにこうしているのは偶然だった。ゾンビから逃げ惑っている最中、近所のコンビニを襲撃して物資を調達してきた蟹江と鉢合わせし、このアパートに逃げ込んだのだ。
彼は錆びた鉄製の外階段に縦横に針金を張り巡らせ、知能のある人間には潜り抜けられるが、ゾンビには通り抜ける事の出来ないバリケードを形成していた。
「僕もね、一度食べたことがあるんですよ。内緒ですけどね。あれは旨かったなぁ」
「それは、人肉をと言う話か?」
「ええ、もちろんです。まぁかなりの大金を払う事にはなりましたけどね。でもあれはそれだけの価値はありますよ」
「……眉唾ものだ」
旨そうに魚肉ソーセージを齧っている蟹江を振り返り、私は立ち上がる。
大量のペットボトルの中から水のボトルを手に取ると、喉が詰まるような感覚を流すために、それをごくごくと飲んだ。
「あなたも、一度食べたら病み付きになります。まぁ、近いうちにご一緒できると思いますよ」
「残念だが、私にそんな趣味は無い」
「趣味?」
初めて、蟹江が不満げな表情を見せる。
ソーセージを完食した彼は、焼き鳥の缶詰のふたを開け、手に持ったバタフライナイフを突き立てた。
「人間の三大欲求、食欲、性欲、睡眠欲、それは生きるのに必要なものです。よく『寝るのが趣味』なんて言う人がいますが、あれは物事を知らない愚物の言葉ですよ」
「愚物で結構だ。私は人肉など食いたくない」
私は侮蔑を込めて彼を睨む。
こうしてゾンビから逃れ、命を繋げているのは全て彼のおかげだが、だからと言って無条件に彼の全てを肯定する気にはなれない。
ナイフで器用に缶詰の中身をほじくり出した蟹江は、窓から缶を投げ捨て、ことさら下品にげっぷをして見せた。
「まぁいいでしょう。でもどうします? 今日持ってきた食料など、一週間も持ちませんよ?」
「それまでには……救援も来るだろう」
「なるほどなるほど。そうかも知れませんね」
窓枠から身を乗り出し、蟹江はバカにしたように笑う。
窓から突き落としてやりたい衝動に駆られたが、それをやったら私は蟹江以下の人間に成り果ててしまう。
その私を無視して、窓から登山用のザイルをぶらぶらさせていた彼は、突然「ヒット!」と叫びをあげた。
窓枠に足をかけ、ぴんと張ったザイルを手繰り寄せる。
何か重い物を引きずる音と、例のゾンビの唸り声が少しずつ近づいて来るのが分かった。
「おい! 何をやっている!」
「もちろん、食料の……確保ですよ」
息を切らせながら、蟹江はザイルを引っ張る。
バタバタと暴れる血まみれの手足が窓から見える辺りまで引き上げると、彼は私にザイルの端を渡した。
「すみません、ちょっと持っていてもらえますか」
反論するまもなく、蟹江はザイルから手を放す。
私の手に数十キロの重さがかかってバランスを崩しそうになり、窓の外へ一緒に落ちてしまう恐怖から、思わず足を踏ん張った。
彼は窓枠へと走り寄ると、バタフライナイフを何度も振り下ろす。
唸り声とバタバタ暴れる音は止み、彼はザイルを握って、ゾンビを一気に引きずりあげた。
「ありがとうございます。一人じゃやっぱりキツイと思ってたんですよ」
念には念を入れたのだろう。
蟹江はセーラー服姿のゾンビの死体へ向けて何度もナイフを突き刺す。
汗を拭いてスポーツ飲料をごくごくと飲むと、彼は「やった……やった……」とブツブツつぶやいた。
頬肉の無い、目の濁った、血まみれで、歯茎を剥き出しにした……少女の死体。
動かなくなってしまえば、それはもう「生きている死体」ではない、ただの死体だ。
日本の法律上、死体損壊は罪にあたる。
私は目の前で犯罪が犯されようとしているのをただ見ているつもりは無かった。
「もしあんたがこの死体を食おうとするなら、私は全力で阻止するぞ」
「……なぜです?」
「死体損壊は罪だ。私は黙って見ていられない」
「ゾンビに日本の法律が適用されるとでも?」
「彼女はゾンビではない。日本人の……人間の死体だ」
「めんどくさい人ですねぇ」
「うるさい。異常なのはあんただ」
しばらくにらみ合いのような状況が続く。
蟹江は諦めたようにため息をつくと、バタフライナイフをチャカチャカ言わせて折りたたんだ。
「分かりましたよ。僕だってこんなところに一人だけで居たいと思うほど酔狂じゃない」
「……分かってもらえてうれしいよ」
仲直りのしるしにと、蟹江は冷凍のチャーハンをフライパンで炒め始めた。
電気や水道は止まっているが、ここのようにプロパンガスの設備がある家ではまだ火だけは使えるのだ。
戸棚から取り出した皿にそれを半分ずつ盛って、彼は一つを差し出す。
私は、一緒に渡されたスプーンで、暖かい米の飯を存分に味わった。
1時間ほど経って、私はどうも頭がくらくらするのを感じて壁にもたれかかった。
「どうしました?」
「……いや、わ……からない……」
「そろそろ効いてきましたか。睡眠薬」
「な……に……」
「まさか口論のあとに差し出された食べ物をなんの迷いもなく食べるとは思いませんでしたよ。推理小説とか読まない人ですか?」
蹴り飛ばされ、ザイルでぐるぐる巻きに縛られた私は、反論することも対抗する術もなく床に転がされた。
目の前では少女の死体が濁った目で私を睨んでいる。
蟹江はポケットからバタフライナイフを取り出して、ゆっくりと少女の胸の肉、腕の肉、脇腹の肉を少しずつそぎ落とし、フライパンで炒め始めた。
「知っていますか? 胸の肉が一番甘みがあって美味しいらしいんですよ。僕は手のひらの肉しか食べたことがないから、他の部位を食べるのがもう……楽しみで楽しみで」
鼻歌を歌いながらフライパンを振り、塩コショウで味をつけた彼は、戸棚から取り出した洋酒を振りかける。
心に満ちる嫌悪感とは裏腹に、私の鼻腔を香ばしい肉の焼ける臭いがくすぐった。
「ふぅー! はははっ! すごい! 良い香りだ!」
テンションの上がった蟹江が皿に盛ったその肉を私の目の前に誇示するように見せた。
ナイフの先をブラブラさせ、色々な部位の人肉を突いている。
やはりと言おうか、迷った末に彼は少女の胸の形を残している肉にナイフを突き立て、ゆっくりと口に運んだ。
「いただきまぁーす!」
ぐしゅっ……と、肉汁が溢れ、彼の唇を伝う。
私は嫌悪感と薬の作用で頭がくらくらするのを感じた。
もぐもぐ……と、蟹江は何度も口を動かす。
もう一口。
そして、もう一口。
握り拳ほどもあったその肉を食べ尽くした彼は、ちょっと頭をひねった。
「う~ん。期待が強すぎたかな……思ったより美味しくない」
皿を床に置き、蟹江はバタフライナイフを手に少女を値踏みするように眺める。
次に食べる場所を考えているのだろう。
「頬肉も食べてみたかったのになぁ。って言うか、一番おいしいって言う胸肉があれじゃなぁ……」
「おい……もう……やめろ……」
「うるさいなぁ。……うーん、やっぱり人間の肉とゾンビの肉は違うのかな……」
「やめろ……彼女は人間だ……」
「薬……少なすぎましたかね。少し黙っててもらえませんか?」
蟹江は私の腹を蹴り、少女の部位の選定に戻る。
しかし、ふと何かに気づいたようにこちらを向いて、彼はさも面白そうに笑った。
「あぁ、何もゾンビなんか食べなくても、生きてる人間が……」
蟹江の顔が私に近づく。
その異様な笑顔を最後に、私の意識はなくなった。
――蟹江 昴流(かにえ すばる)の場合(完)
蟹江 昴流にそう聞かれたとき、私はどう答えていいか分からずに口をつぐんだ。
彼は病的に痩せ細った長身の男で、体にぴったりと張り付くようなスーツを着ている。
つばの狭い帽子をかぶっているので良くわからないが、どうやら禿頭であるらしかった。
無精ひげの一本も見えないその肌は青白く、神経質そうな目はいつもぴくぴく蠢いている。
私の返事を待ってしばらく黙っていたが、我慢できなくなったのだろう、彼はまた勝手に話し出した。
「美味しいからですよ」
さもおかしそうに蟹江は笑った。
私は窓の外へ視線を向ける。
ここは、昭和の香りがまだ残る古い木造のアパートの2階。
外にはゾンビがうろうろしているのが見えた。
私がここにこうしているのは偶然だった。ゾンビから逃げ惑っている最中、近所のコンビニを襲撃して物資を調達してきた蟹江と鉢合わせし、このアパートに逃げ込んだのだ。
彼は錆びた鉄製の外階段に縦横に針金を張り巡らせ、知能のある人間には潜り抜けられるが、ゾンビには通り抜ける事の出来ないバリケードを形成していた。
「僕もね、一度食べたことがあるんですよ。内緒ですけどね。あれは旨かったなぁ」
「それは、人肉をと言う話か?」
「ええ、もちろんです。まぁかなりの大金を払う事にはなりましたけどね。でもあれはそれだけの価値はありますよ」
「……眉唾ものだ」
旨そうに魚肉ソーセージを齧っている蟹江を振り返り、私は立ち上がる。
大量のペットボトルの中から水のボトルを手に取ると、喉が詰まるような感覚を流すために、それをごくごくと飲んだ。
「あなたも、一度食べたら病み付きになります。まぁ、近いうちにご一緒できると思いますよ」
「残念だが、私にそんな趣味は無い」
「趣味?」
初めて、蟹江が不満げな表情を見せる。
ソーセージを完食した彼は、焼き鳥の缶詰のふたを開け、手に持ったバタフライナイフを突き立てた。
「人間の三大欲求、食欲、性欲、睡眠欲、それは生きるのに必要なものです。よく『寝るのが趣味』なんて言う人がいますが、あれは物事を知らない愚物の言葉ですよ」
「愚物で結構だ。私は人肉など食いたくない」
私は侮蔑を込めて彼を睨む。
こうしてゾンビから逃れ、命を繋げているのは全て彼のおかげだが、だからと言って無条件に彼の全てを肯定する気にはなれない。
ナイフで器用に缶詰の中身をほじくり出した蟹江は、窓から缶を投げ捨て、ことさら下品にげっぷをして見せた。
「まぁいいでしょう。でもどうします? 今日持ってきた食料など、一週間も持ちませんよ?」
「それまでには……救援も来るだろう」
「なるほどなるほど。そうかも知れませんね」
窓枠から身を乗り出し、蟹江はバカにしたように笑う。
窓から突き落としてやりたい衝動に駆られたが、それをやったら私は蟹江以下の人間に成り果ててしまう。
その私を無視して、窓から登山用のザイルをぶらぶらさせていた彼は、突然「ヒット!」と叫びをあげた。
窓枠に足をかけ、ぴんと張ったザイルを手繰り寄せる。
何か重い物を引きずる音と、例のゾンビの唸り声が少しずつ近づいて来るのが分かった。
「おい! 何をやっている!」
「もちろん、食料の……確保ですよ」
息を切らせながら、蟹江はザイルを引っ張る。
バタバタと暴れる血まみれの手足が窓から見える辺りまで引き上げると、彼は私にザイルの端を渡した。
「すみません、ちょっと持っていてもらえますか」
反論するまもなく、蟹江はザイルから手を放す。
私の手に数十キロの重さがかかってバランスを崩しそうになり、窓の外へ一緒に落ちてしまう恐怖から、思わず足を踏ん張った。
彼は窓枠へと走り寄ると、バタフライナイフを何度も振り下ろす。
唸り声とバタバタ暴れる音は止み、彼はザイルを握って、ゾンビを一気に引きずりあげた。
「ありがとうございます。一人じゃやっぱりキツイと思ってたんですよ」
念には念を入れたのだろう。
蟹江はセーラー服姿のゾンビの死体へ向けて何度もナイフを突き刺す。
汗を拭いてスポーツ飲料をごくごくと飲むと、彼は「やった……やった……」とブツブツつぶやいた。
頬肉の無い、目の濁った、血まみれで、歯茎を剥き出しにした……少女の死体。
動かなくなってしまえば、それはもう「生きている死体」ではない、ただの死体だ。
日本の法律上、死体損壊は罪にあたる。
私は目の前で犯罪が犯されようとしているのをただ見ているつもりは無かった。
「もしあんたがこの死体を食おうとするなら、私は全力で阻止するぞ」
「……なぜです?」
「死体損壊は罪だ。私は黙って見ていられない」
「ゾンビに日本の法律が適用されるとでも?」
「彼女はゾンビではない。日本人の……人間の死体だ」
「めんどくさい人ですねぇ」
「うるさい。異常なのはあんただ」
しばらくにらみ合いのような状況が続く。
蟹江は諦めたようにため息をつくと、バタフライナイフをチャカチャカ言わせて折りたたんだ。
「分かりましたよ。僕だってこんなところに一人だけで居たいと思うほど酔狂じゃない」
「……分かってもらえてうれしいよ」
仲直りのしるしにと、蟹江は冷凍のチャーハンをフライパンで炒め始めた。
電気や水道は止まっているが、ここのようにプロパンガスの設備がある家ではまだ火だけは使えるのだ。
戸棚から取り出した皿にそれを半分ずつ盛って、彼は一つを差し出す。
私は、一緒に渡されたスプーンで、暖かい米の飯を存分に味わった。
1時間ほど経って、私はどうも頭がくらくらするのを感じて壁にもたれかかった。
「どうしました?」
「……いや、わ……からない……」
「そろそろ効いてきましたか。睡眠薬」
「な……に……」
「まさか口論のあとに差し出された食べ物をなんの迷いもなく食べるとは思いませんでしたよ。推理小説とか読まない人ですか?」
蹴り飛ばされ、ザイルでぐるぐる巻きに縛られた私は、反論することも対抗する術もなく床に転がされた。
目の前では少女の死体が濁った目で私を睨んでいる。
蟹江はポケットからバタフライナイフを取り出して、ゆっくりと少女の胸の肉、腕の肉、脇腹の肉を少しずつそぎ落とし、フライパンで炒め始めた。
「知っていますか? 胸の肉が一番甘みがあって美味しいらしいんですよ。僕は手のひらの肉しか食べたことがないから、他の部位を食べるのがもう……楽しみで楽しみで」
鼻歌を歌いながらフライパンを振り、塩コショウで味をつけた彼は、戸棚から取り出した洋酒を振りかける。
心に満ちる嫌悪感とは裏腹に、私の鼻腔を香ばしい肉の焼ける臭いがくすぐった。
「ふぅー! はははっ! すごい! 良い香りだ!」
テンションの上がった蟹江が皿に盛ったその肉を私の目の前に誇示するように見せた。
ナイフの先をブラブラさせ、色々な部位の人肉を突いている。
やはりと言おうか、迷った末に彼は少女の胸の形を残している肉にナイフを突き立て、ゆっくりと口に運んだ。
「いただきまぁーす!」
ぐしゅっ……と、肉汁が溢れ、彼の唇を伝う。
私は嫌悪感と薬の作用で頭がくらくらするのを感じた。
もぐもぐ……と、蟹江は何度も口を動かす。
もう一口。
そして、もう一口。
握り拳ほどもあったその肉を食べ尽くした彼は、ちょっと頭をひねった。
「う~ん。期待が強すぎたかな……思ったより美味しくない」
皿を床に置き、蟹江はバタフライナイフを手に少女を値踏みするように眺める。
次に食べる場所を考えているのだろう。
「頬肉も食べてみたかったのになぁ。って言うか、一番おいしいって言う胸肉があれじゃなぁ……」
「おい……もう……やめろ……」
「うるさいなぁ。……うーん、やっぱり人間の肉とゾンビの肉は違うのかな……」
「やめろ……彼女は人間だ……」
「薬……少なすぎましたかね。少し黙っててもらえませんか?」
蟹江は私の腹を蹴り、少女の部位の選定に戻る。
しかし、ふと何かに気づいたようにこちらを向いて、彼はさも面白そうに笑った。
「あぁ、何もゾンビなんか食べなくても、生きてる人間が……」
蟹江の顔が私に近づく。
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