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1.23〈永遠の少女〉
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まるで負荷のかかったゲームのように、背景の雲や風に揺れる木々を除いて、その場にいた全ての人が動きを止めていた。
「ボットや不死者が人間になれるかもしれない」
実験……とシユウが表現したその仮定は、あるものにはそれほど魅力的に、またあるものにはそれほど恐ろしい話に聞こえたのだ。
『……どういうー……ことかしらー』
『ヘンリエッタは黙るクマ! ボットの戯言なんか聞く必要ないクマ! ……ケンタ!』
あつもりに名前を呼ばれ、柄頭を押さえつけられていたケンタは咄嗟に半歩身を引く。
そこにできた僅か数十センチの隙間を利用して、ケンタは[レアリティ9]神威御剣カスミダチを垂直にカチ上げた。
「一三式昇竜! 瑞鶴の型!」
虹色の軌跡を空中に描き、ケンタは真っ直ぐに剣を伸ばす。
直径1mの床はえぐれ、危ういところでその範囲から飛びのいたシユウは、早苗の隣に着地した。
包囲している部隊は、萌花たちがしゃぼんから出てしまった事をあつもりに告げられ手が出せず、ケンタも周囲を巻き込むような大技を出すことができない。
その膠着した状況で、シユウだけが笑っていた。
「俺は早苗と言う現実世界とのインタフェースを得た。あとは運営さえ俺の邪魔をせずに協力してくれれば、数日のうちに現実の肉体を持たない精神体が人間になるプログラムを組み上げてみせる。そうすれば、ボットと同じく肉体を持たない不死者のお前らも、人間に戻せるようになることは自明だろう」
『……本当にー? そんなことがーできるのー?』
『そんなことは不可能だクマ!』
興味を禁じ得ないヘンリエッタをあつもりが一喝する。
面白そうにそのやり取りを聞いているシユウが「その根拠は?」と逆にあつもりに質問した。
『お前もさっきから結論を言ってるクマ。ボットや不死者には現実に肉体は無いクマ。こんなに科学が発展した現代でも、生命体をゼロから作り出すことは出来ないクマ。現実に蘇るには肉体が不可欠。そんなことこそ自明だクマ』
「おあつらえ向きに、肉体はあるのさ。大量にな」
『……そんなことは倫理的にやってはいけないクマ』
あつもりの結論を予期していたように、シユウは間髪を入れずに返事を返し、さらにその返答をも予期していたあつもりが、唸るように返事を返す。
シユウは楽しげに笑い、指先で自分の鼻を掻いた。
「面白いな、不死者のクマ。お前は面白いよ。……知っているんだな? お前も俺と同じ可能性を模索したことがあるんだろう?」
『……黙るクマ!』
「……使わない手はないだろう? あのGFO事件で現実の肉体が死に、精神体だけがこの世界に彷徨っているお前ら不死者とは逆に、この世界で精神体だけが死に絶え、現実世界に肉体だけが生かされ続けている――チューブをつなげられ、心臓を機械で動かされながら、自らの意思とは関係なく、周囲の者たちのエゴによってただ生命活動を続けているだけの――新鮮なGFO脳死者の肉体が3千個も……俺たちを待ってるんだぜ?」
『人間はアバターじゃないクマ。お前の言うように簡単にホイホイ移し替えることも、それに親族が納得することも絶対にありえないクマ』
「どうしてだ? 今どき臓器移植なんか珍しくないだろう? ただ全ての臓器を移植するだけだぜ? 物理的な肉体を全て同時に移植するんだ、拒否反応も出るわけがない。こんな簡単なことが出来ないわけあるかよ」
『……もともと肉体も大切な家族も持たないお前にはわからないクマ』
「なんだよ不死者のクマ。お前なら分かってくれると思ったんだが、拍子抜けだぜ。やってみもしないうちからそんな――」
そこまで言いかけてシユウは片眉を上げる。腰に当てていた手で顎先をなで、思い至った結論に、腹の底から湧きあがる笑いをこらえきれずに吹き出した。
隣で一生懸命話について行こうと考え込んでいた早苗は、シユウと同時にたどり着いたその恐ろしい結論に衝撃を受け、両手で口を押えて立ちすくむ。
ふらりとよろめく早苗をシユウが抱き留めた。
「――そうかよ! そうか! 不死者! お前らやったんだな?!」
心底嬉しそうにシユウは笑い、早苗の肩をトントンとたたいてその場に立たせると、あつもりの声がする方の中空を見上げた。
「自分が人間に戻るためか? 自分の理論の正しさを証明するためか? どっちでもいいが、精神体のリンク付けを早苗も無しで人体実験するとはな! お前らの無能さには愛しさすら感じるぜ!」
あつもりは押し黙り、辺りにシユウの笑い声だけが響き渡る。
黙ってあつもりとシユウの会話を聞いていたケンタが、カスミダチを鞘に納める音が小さく響いた。
――どんっ
それは、ケンタが地面を蹴る音だったのか、それともケンタの体がシユウを押し倒した音だったのか。
萌花たちの耳にはその二つの音が同時に届いた。
侍特有の超加速歩法[縮地]
その一歩は10mを無拍子で進む。
何の反撃も受けないまま、ケンタはシユウを組み敷くと、腹の上に馬乗りになって、襟首を抑え込んだ。
「そろそろ黙るっすよ。……俺が怒らないうちに」
「……チートだろ、これ。[縮地]の論理限界速度を超えてるぜ」
「修行の成果っす」
足で体の自由を奪い、膝で両腕の動きを殺す。完全にシユウを死に体にしたケンタは、[レアリティ9]神威御剣カスミダチの鞘に仕込まれた小柄[レアリティ8]神伐丸を抜き放った。
「シユウ!」
悲鳴とも叫びともつかない早苗の声が響き、ケンタの神伐丸が最短距離を奔ってシユウの咽元へと滑る。
その美しい刃紋の小柄が咽を切り裂こうとしたまさにその刹那、ケンタを中心としたその城の一室は、巨大な炎の柱に包まれた。
背中に撃ち込まれた焼夷弾の衝撃で、ケンタは吹き飛ぶ。
消えない炎の中、萌花はシユウ72に、芽衣はエリックに、そして一瞬高温の炎に焼かれたものの、早苗もケンタの呪縛から逃げ出したシユウに救出されていた。
「不死者の大女! 早苗が死んだらどうするつもりだ! だがまぁ、今回は褒めてやる」
『ほんとうにー、プログラムはー、できるんでしょうねー?』
ケンタを介さず直接通信回線を開いたヘンリエッタは、[レアリティ9]強襲突撃銃グラン・ガーランドの排莢の音を響かせる。
湖を渡る風の煽りを受け、周囲の炎はますます盛んに燃え上がった。
『ヘンリエッタ! 自分が何をしてるのかわかってるクマか?!』
『あつもりこそー、分かってるのー? ボットが居ればー、こんどこそあれが上手くいくかもー、しれないのよー?』
『あれをやったのはボクの間違いだったクマ。あれはやっぱり人間が手を出しちゃいけない類の行為だったクマ!』
「肉体の無い人間が居るかよ」
『ボクは! 人間だクマ!』
「肉体が無くてもシユウも人間だわ!」
ヘンリエッタとあつもりの会話に、シユウがちゃちゃを入れる。
あつもりと早苗がそれに同時に答え、シユウは苦笑いを返した。
◇ ◇ ◇
視界の周囲が赤く明滅する。
HPが30%を切った証拠だ。
(ポーション飲まないと……)
ケンタはアイテムインベントリを開くために指を上げようとしたが、上手く体が動かせない。
背中から周囲の草花まで、纏わりつくような炎が広がり、ケンタの呼吸すらも妨げていた。
(復活のロザリオ付けといたけど、グラン・ガーランドの継続ダメージって、死亡でリセットされるんだっけ?)
確か、自分の体に直接受けている毒や魔法なんかはリセットされるはずだけど……周辺の炎くらいなら何とかなるか、とケンタは妙に冷静に分析する。
赤い明滅速度が速まり、ケンタは久々の「死」の感覚に身をゆだねた。
「――ケンタさん」
周囲の炎が一瞬で消え、焼けただれたケンタの背中に、ひんやりとした柔らかい掌がそっと当てられる。
手を中心に、波紋のように体に広がった金色の光に、ケンタの視界の赤い明滅は取り払われた。
湖面を滑るように流れ込む、湿気を含んだ冷たい空気を肺いっぱいに吸い込む。
文字通り生き返った思いのケンタは、ゆっくりと目を開いた。
初めに見えたのは、銀色の蝶。
ルビーとエメラルドが複雑な模様を形作るその髪留めに、ケンタは懐かしさを感じた。
蝶の止まっているのは射干玉の黒髪。
全てを呑み込むような漆黒の艶やかな髪が、黒と白の美しいコントラストを折りなし、透き通る白い肌を縁取っている。
ゴスロリ風だが丈の短い衣服からすらりと伸びる眩しい太ももが、ケンタの頭を支えていた。
「ケンタさん。もう大丈夫ですよ」
名前を呼ばれたケンタの双眸から、熱い涙が溢れ出る。
動かせるようになった両腕で、彼はその少女を力いっぱい抱きしめた。
「……もえさん!」
「はい」
「もえさん!」
「はい」
「……もえさ……ん!」
ケンタは何度も彼女の名前を呼ぶ。
おとなしく抱きしめられるままになっていた[創世の9英雄]の一人、GFO事件以来行方が分からなくなっていた[双銃士]もえは、その呼びかけに何度も優しく答え、震えるケンタの頭をよしよしと母親のように撫でた。
「さぁ、私はヘンリエッタさんとクマちゃんを助けに行かなきゃ」
ケンタの頭を撫でながら、もえは城郭を見上げる。
そこには未だにグラン・ガーランドの炎が渦巻いていた。
ゆっくりとケンタから身を離し、もえは立ち上がる。
その姿はケンタの記憶にあるもえの姿そのままだった。
「もえさん、ぜんぜん変わらないっすね」
もえを追いかけるようにケンタも涙を払って立ち上がる。彼女の姿は本当に可愛らしい昔のまま変わらない。いや……いくらなんでも変わらなすぎるんじゃないか?
もえが帰って来たという最初の喜びの衝撃から覚めつつあるケンタは違和感を感じた。
当時17歳だったはずのもえは、今は23歳。
いくらなんでも、当時そのままの姿と言うのはおかしい。
「……ケンタさんは大人になったのね」
ケンタの表情を見て、もえは悲しげに微笑む。
彼の返事を待たずに[レアリティ8]双機銃アイアン・メイデンを両手に構えたもえは、呪文によって高められた跳躍力を使って、苔むす城壁を駆け上がった。
「ボットや不死者が人間になれるかもしれない」
実験……とシユウが表現したその仮定は、あるものにはそれほど魅力的に、またあるものにはそれほど恐ろしい話に聞こえたのだ。
『……どういうー……ことかしらー』
『ヘンリエッタは黙るクマ! ボットの戯言なんか聞く必要ないクマ! ……ケンタ!』
あつもりに名前を呼ばれ、柄頭を押さえつけられていたケンタは咄嗟に半歩身を引く。
そこにできた僅か数十センチの隙間を利用して、ケンタは[レアリティ9]神威御剣カスミダチを垂直にカチ上げた。
「一三式昇竜! 瑞鶴の型!」
虹色の軌跡を空中に描き、ケンタは真っ直ぐに剣を伸ばす。
直径1mの床はえぐれ、危ういところでその範囲から飛びのいたシユウは、早苗の隣に着地した。
包囲している部隊は、萌花たちがしゃぼんから出てしまった事をあつもりに告げられ手が出せず、ケンタも周囲を巻き込むような大技を出すことができない。
その膠着した状況で、シユウだけが笑っていた。
「俺は早苗と言う現実世界とのインタフェースを得た。あとは運営さえ俺の邪魔をせずに協力してくれれば、数日のうちに現実の肉体を持たない精神体が人間になるプログラムを組み上げてみせる。そうすれば、ボットと同じく肉体を持たない不死者のお前らも、人間に戻せるようになることは自明だろう」
『……本当にー? そんなことがーできるのー?』
『そんなことは不可能だクマ!』
興味を禁じ得ないヘンリエッタをあつもりが一喝する。
面白そうにそのやり取りを聞いているシユウが「その根拠は?」と逆にあつもりに質問した。
『お前もさっきから結論を言ってるクマ。ボットや不死者には現実に肉体は無いクマ。こんなに科学が発展した現代でも、生命体をゼロから作り出すことは出来ないクマ。現実に蘇るには肉体が不可欠。そんなことこそ自明だクマ』
「おあつらえ向きに、肉体はあるのさ。大量にな」
『……そんなことは倫理的にやってはいけないクマ』
あつもりの結論を予期していたように、シユウは間髪を入れずに返事を返し、さらにその返答をも予期していたあつもりが、唸るように返事を返す。
シユウは楽しげに笑い、指先で自分の鼻を掻いた。
「面白いな、不死者のクマ。お前は面白いよ。……知っているんだな? お前も俺と同じ可能性を模索したことがあるんだろう?」
『……黙るクマ!』
「……使わない手はないだろう? あのGFO事件で現実の肉体が死に、精神体だけがこの世界に彷徨っているお前ら不死者とは逆に、この世界で精神体だけが死に絶え、現実世界に肉体だけが生かされ続けている――チューブをつなげられ、心臓を機械で動かされながら、自らの意思とは関係なく、周囲の者たちのエゴによってただ生命活動を続けているだけの――新鮮なGFO脳死者の肉体が3千個も……俺たちを待ってるんだぜ?」
『人間はアバターじゃないクマ。お前の言うように簡単にホイホイ移し替えることも、それに親族が納得することも絶対にありえないクマ』
「どうしてだ? 今どき臓器移植なんか珍しくないだろう? ただ全ての臓器を移植するだけだぜ? 物理的な肉体を全て同時に移植するんだ、拒否反応も出るわけがない。こんな簡単なことが出来ないわけあるかよ」
『……もともと肉体も大切な家族も持たないお前にはわからないクマ』
「なんだよ不死者のクマ。お前なら分かってくれると思ったんだが、拍子抜けだぜ。やってみもしないうちからそんな――」
そこまで言いかけてシユウは片眉を上げる。腰に当てていた手で顎先をなで、思い至った結論に、腹の底から湧きあがる笑いをこらえきれずに吹き出した。
隣で一生懸命話について行こうと考え込んでいた早苗は、シユウと同時にたどり着いたその恐ろしい結論に衝撃を受け、両手で口を押えて立ちすくむ。
ふらりとよろめく早苗をシユウが抱き留めた。
「――そうかよ! そうか! 不死者! お前らやったんだな?!」
心底嬉しそうにシユウは笑い、早苗の肩をトントンとたたいてその場に立たせると、あつもりの声がする方の中空を見上げた。
「自分が人間に戻るためか? 自分の理論の正しさを証明するためか? どっちでもいいが、精神体のリンク付けを早苗も無しで人体実験するとはな! お前らの無能さには愛しさすら感じるぜ!」
あつもりは押し黙り、辺りにシユウの笑い声だけが響き渡る。
黙ってあつもりとシユウの会話を聞いていたケンタが、カスミダチを鞘に納める音が小さく響いた。
――どんっ
それは、ケンタが地面を蹴る音だったのか、それともケンタの体がシユウを押し倒した音だったのか。
萌花たちの耳にはその二つの音が同時に届いた。
侍特有の超加速歩法[縮地]
その一歩は10mを無拍子で進む。
何の反撃も受けないまま、ケンタはシユウを組み敷くと、腹の上に馬乗りになって、襟首を抑え込んだ。
「そろそろ黙るっすよ。……俺が怒らないうちに」
「……チートだろ、これ。[縮地]の論理限界速度を超えてるぜ」
「修行の成果っす」
足で体の自由を奪い、膝で両腕の動きを殺す。完全にシユウを死に体にしたケンタは、[レアリティ9]神威御剣カスミダチの鞘に仕込まれた小柄[レアリティ8]神伐丸を抜き放った。
「シユウ!」
悲鳴とも叫びともつかない早苗の声が響き、ケンタの神伐丸が最短距離を奔ってシユウの咽元へと滑る。
その美しい刃紋の小柄が咽を切り裂こうとしたまさにその刹那、ケンタを中心としたその城の一室は、巨大な炎の柱に包まれた。
背中に撃ち込まれた焼夷弾の衝撃で、ケンタは吹き飛ぶ。
消えない炎の中、萌花はシユウ72に、芽衣はエリックに、そして一瞬高温の炎に焼かれたものの、早苗もケンタの呪縛から逃げ出したシユウに救出されていた。
「不死者の大女! 早苗が死んだらどうするつもりだ! だがまぁ、今回は褒めてやる」
『ほんとうにー、プログラムはー、できるんでしょうねー?』
ケンタを介さず直接通信回線を開いたヘンリエッタは、[レアリティ9]強襲突撃銃グラン・ガーランドの排莢の音を響かせる。
湖を渡る風の煽りを受け、周囲の炎はますます盛んに燃え上がった。
『ヘンリエッタ! 自分が何をしてるのかわかってるクマか?!』
『あつもりこそー、分かってるのー? ボットが居ればー、こんどこそあれが上手くいくかもー、しれないのよー?』
『あれをやったのはボクの間違いだったクマ。あれはやっぱり人間が手を出しちゃいけない類の行為だったクマ!』
「肉体の無い人間が居るかよ」
『ボクは! 人間だクマ!』
「肉体が無くてもシユウも人間だわ!」
ヘンリエッタとあつもりの会話に、シユウがちゃちゃを入れる。
あつもりと早苗がそれに同時に答え、シユウは苦笑いを返した。
◇ ◇ ◇
視界の周囲が赤く明滅する。
HPが30%を切った証拠だ。
(ポーション飲まないと……)
ケンタはアイテムインベントリを開くために指を上げようとしたが、上手く体が動かせない。
背中から周囲の草花まで、纏わりつくような炎が広がり、ケンタの呼吸すらも妨げていた。
(復活のロザリオ付けといたけど、グラン・ガーランドの継続ダメージって、死亡でリセットされるんだっけ?)
確か、自分の体に直接受けている毒や魔法なんかはリセットされるはずだけど……周辺の炎くらいなら何とかなるか、とケンタは妙に冷静に分析する。
赤い明滅速度が速まり、ケンタは久々の「死」の感覚に身をゆだねた。
「――ケンタさん」
周囲の炎が一瞬で消え、焼けただれたケンタの背中に、ひんやりとした柔らかい掌がそっと当てられる。
手を中心に、波紋のように体に広がった金色の光に、ケンタの視界の赤い明滅は取り払われた。
湖面を滑るように流れ込む、湿気を含んだ冷たい空気を肺いっぱいに吸い込む。
文字通り生き返った思いのケンタは、ゆっくりと目を開いた。
初めに見えたのは、銀色の蝶。
ルビーとエメラルドが複雑な模様を形作るその髪留めに、ケンタは懐かしさを感じた。
蝶の止まっているのは射干玉の黒髪。
全てを呑み込むような漆黒の艶やかな髪が、黒と白の美しいコントラストを折りなし、透き通る白い肌を縁取っている。
ゴスロリ風だが丈の短い衣服からすらりと伸びる眩しい太ももが、ケンタの頭を支えていた。
「ケンタさん。もう大丈夫ですよ」
名前を呼ばれたケンタの双眸から、熱い涙が溢れ出る。
動かせるようになった両腕で、彼はその少女を力いっぱい抱きしめた。
「……もえさん!」
「はい」
「もえさん!」
「はい」
「……もえさ……ん!」
ケンタは何度も彼女の名前を呼ぶ。
おとなしく抱きしめられるままになっていた[創世の9英雄]の一人、GFO事件以来行方が分からなくなっていた[双銃士]もえは、その呼びかけに何度も優しく答え、震えるケンタの頭をよしよしと母親のように撫でた。
「さぁ、私はヘンリエッタさんとクマちゃんを助けに行かなきゃ」
ケンタの頭を撫でながら、もえは城郭を見上げる。
そこには未だにグラン・ガーランドの炎が渦巻いていた。
ゆっくりとケンタから身を離し、もえは立ち上がる。
その姿はケンタの記憶にあるもえの姿そのままだった。
「もえさん、ぜんぜん変わらないっすね」
もえを追いかけるようにケンタも涙を払って立ち上がる。彼女の姿は本当に可愛らしい昔のまま変わらない。いや……いくらなんでも変わらなすぎるんじゃないか?
もえが帰って来たという最初の喜びの衝撃から覚めつつあるケンタは違和感を感じた。
当時17歳だったはずのもえは、今は23歳。
いくらなんでも、当時そのままの姿と言うのはおかしい。
「……ケンタさんは大人になったのね」
ケンタの表情を見て、もえは悲しげに微笑む。
彼の返事を待たずに[レアリティ8]双機銃アイアン・メイデンを両手に構えたもえは、呪文によって高められた跳躍力を使って、苔むす城壁を駆け上がった。
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