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第四章
風呂掃除の虚しさ
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屋敷に入った途端、叔母さんが急に告げた。
「じゃあ皆さん、一段落したら早速作業に取り掛かってもらうわよ。自分で言うのも何だけど凄いお屋敷に泊めてもらえるんだから安いものでしょ」
きょとんとした顔で安部さんが尋ねた。
「作業って何のことですか」
僕も知らない。叔母さんは不思議そうに尋ねる。
「あらあなた達聞いてなかったの? 泊めてあげる代わりに掃除やら整理整頓してもらうっていう条件」
「そう言えば言ってなかったかしら。ごめんなさい」
先輩はちっとも申し訳無さそうな顔で頭を下げることもせず謝る。このとぼけ方は絶対にわざとだ。叔母さんが言う。
「まあ四人がかりなら一、二時間ぐらいあればすっきりするんじゃないかなあ。一部の部屋はある程度片付いてるからやってもらわなくて済むし」
「今さらおめおめ帰るわけにもいかないしやるしかないね」
部長が諦めるように言った。
まず最初に連れてこられたのは書斎だった。安部さんが羨ましげに言う。
「書斎があるなんてお金持ちですねえ」
そうはいっても僕の家にも書斎はある。なんでも家を建てる際に父が強く希望したという。まあでもせいぜい三畳ぐらいのささやかなものでいくつかの本棚と小さな机一つでほとんどのスペースが占められている。
ここの書斎は軽く見積もっても十畳はあるだろう。立派な背表紙をした分厚い本から、文庫本や雑誌まで多くの本がひしめている。叔母さんはまずここを全員で片付けることを要望した。
書斎の掃除が片付くと叔母さんの指示で一人ずつそれぞれの場所へと振り分けられた。僕はアトリエを担当させられた。叔母さんは絵を描いているのだ。
やはり絵に思い入れがあるのだろうか、結構やかましく注文を言ってきて大変だった。
必死になって作業を終わらせると、次は先輩の担当区分であるお風呂場を手伝うようにと命じられた。案外人使いが荒いんだなと思いながら移動する。
「入りますよ」
と声を掛けると返事が返ってきたので扉を開ける。先輩は汚れないようにという配慮からだろうショートパンツにTシャツという格好に着替えていた。
端的に言って露出度が高い。曝け出された柔らかそうな白い太ももに思わずどぎまぎしてしまう。
一方の先輩はそんな僕の様子など意に介さないようで浴槽に腰掛けてじっと鏡を見つめていた。そんな様子を見るとどうやって会話を始めたら良いのか分からない。
しばらく考えこんだが結局は月並みのことを言う。
「サボっちゃ駄目じゃないですか」
先輩は僕を見て疲れたように微笑む。
「結構このお風呂広いから時間が掛かっちゃってね。それになかなか汚れが落ちないし、思っていたよりずっとズボラなのね、うちの叔母さん」
確かにその通りお風呂場はとても広かった。面積でうちの風呂の四、五倍はあるのではないだろうか。一見するととても個人宅のものとは思えないだろう。
「なんかお風呂掃除みたいよね。人生って」
ゴム手袋をはめながら答える。
「どういう意味ですか」
「一生懸命目の前の課題をこなして、これで綺麗! 完璧! と満足感を得てもしばらくしたらまた別の問題が持ち上がってくる。このお風呂だって一、二ヶ月もしたらまた掃除の前みたいになるわよ」
スポンジでバスタイルの目地を必死に擦りながら答える。だいたいの汚れはちょっと拭いただけで取れるけれど完璧にするのは結構手間がかかる。
「なるほど」
「三万千七百」
唐突に訳の分からない数字を呟いたので聞き間違えたのかと思った。手を止めて何と言ったのか聞き返してしまう。
「三万千七百よ。何の数字だか分かる」
検討もつきませんと正直に答えると
「女性の平均寿命よ、日数換算でね。私の場合もう六千二百日ほど過ごした、いや浪費したわけだからあとえーっと二万五千五百日ほどね。そんなふうに毎日を過ごしておばちゃんになっておばあちゃんになって死ぬの。訳の分からないままにね」
先輩はちょっと黙ってから呟くように僕に問いかける。
「それってとっても虚しいじゃない」
「いつもそんなこと考えてるんですか」
先輩はなんでもないように答える。
「いつもじゃないわよ。一日にせいぜいニ、三回ぐらいね」
「そんなことしてたら頭がおかしくなっちゃいますよ」
先輩は答えずに黙って鏡を未だに見つめている。
「でも僕は楽しいですよ。このお風呂掃除」
ようやく僕のほうをちらりと笑って見る。
「掃除好きなの? いい旦那さんになれるわね」
「違いますよ。母親にはちゃんと掃除しろってよく言われます」
恥ずかしかったけれども口にする。
「先輩と一緒にしてるから楽しいんです。多分」
「やっぱり君は私のことが好きなのね」
先輩は僕の顔をじっと見つめてそんなことを言う。思わずスポンジの方に目線を落とす。
「そういう意味で言ったんじゃなくて」
一旦間を置いて続ける。
「安部さんや部長としても楽しいと思います」
これは事実だ。もっとも安部さんや部長とするよりも先輩とするほうがもっと楽しいという事実を隠した不親切な事実だが。
先輩はなおも本当かなと僕をからかったが,やがて自分に言い聞かせるように言った。
「そうかもね」
そして気を取り直すように言う。
「後輩君に任せてばかりじゃ悪いもんね。休憩終わりにするわ」
それきり先輩は黙りこんで浴槽内でスポンジをゴシゴシと動かし続けた。何も言うことが出来ずに僕もひたすらカビを落とし続ける。
お風呂掃除が終わった後に先輩は小さな声で言った。
「さっきの例え撤回するわ。お風呂掃除はあとで駄目になってもその時だけはたしかに成果が出る。でも現実はもっと惨い。前に進んでいる気が右に曲がっていたり、左に曲がっていたり、場合によっては後ろに進んでいたりする」
その瞳は本当に寂しそうで、何もかもを諦めたみたいだった。
その後僕と安部さんと部長の三人で話し合いがもたれた。叔母さんは大きな木目調のテーブルがずどんと中央を占めている部屋を使わせてくれた。僕達三人の話し合いの席にしては立派すぎ、広すぎる部屋だった。
まず文化祭をどうするかという話だ。部長が口火を切った。
「例年通りだと冊子を出すだけなんだけど他に何かやりたいことある?」
「それだけでいいんじゃないんですか」
安部さんが答える。僕も同意見だった。
「三人しかいないとやれることって限られてきますからね。先輩が手伝ってくれても四人だし」
部長が頷きながら言った。
「まあ文芸部なんだし変なことはせずに小説で勝負しよう」
安部さんが手に持った紙束をいじりながら口を挟む。
「そのことなんですけど入学式の時はプリンターで印刷した紙をホチキス留にするっていうやり方だったじゃないですか。今年は本屋さんで売ってるようなきちんとした形にしたいです」
「紙質とか大きさとかページ数によるから細かいことは言えないけど、一冊数百円はかかる。そんなものを百部も二百部も刷れるわけ無いよ」
「合宿せずに交通費をつぎ込めば良かったんじゃないですか」
安部さんの指摘に部長は何も言い返せずに黙った。図星みたいだ。安部さんが呆れるように言った。
「結構適当なんですね」
「うるさいなあ。そういうことは大学生になってからすればいいんだよ。だいたい大事なのは中身だろ、外面じゃない」
部長がムキになって反論し始めたので僕は笑ってしまった。その後肝心の中身の話になった。
結論から言うと安部さんと部長の作品の合評は喧々諤々の言い合いで終わった。
そもそも専門(という言葉は仰々しすぎるような気もする)が違うのだから当たり前かもしれない。部長が好きなのはSF。安部さんが好きなのはエンタメ小説だ。
議論が紛糾して疲れた。安部さんは大きく伸びをした。
だけど皆それぞれ異なった意見があるのは当然と言えば当然のことなのだけど面白い。いよいよ僕の番だ。初めての作品だから緊張する。
そこで叔母さんがやってきて誰か夕食の準備を手伝ってくれないかと頼んだ。安部さんが手伝うというので合評はそこで中断された。
手持ち無沙汰になった中島部長と僕は先輩と一緒に書斎で時間を潰した。先輩が読んでいた本の題名はホメオパシーがどうたらこうたらと書いてあった。ホメオパシー。全く聞いたことがない言葉で小難しそうだ。
僕たちは暇つぶしに各々本を読みふけった。
夕食は物々しい晩餐室で行われた。燭台が置いてあり古めかしい絵画がありまるで映画に出てきそうだ。なんでも絵画は複製画らしいが。安部さんがため息をつきながら感心するように言った。
「本当に広いですよね、この家。掃除するの大変でした。この部屋も一人じゃ手広すぎじゃないですか」
「普段はこんな大仰な部屋で食べないわよ。それに住み始めた頃は夫と一緒だったから」
今、旦那さんはどうしているのか? という疑問が湧く。叔母さんはその疑問を先回りするように言った。
「死んじゃったのよ、癌で」
その口調には悲しみの響きは全然なくて僕はびっくりした。重い空気が流れる。料理をつつく手が止まる。叔母さんが笑ってナイフを動かしながら場の雰囲気を和ませようとしてくれた。
「いいのよ、もう昔のことだから。気に病んでもしょうがないことじゃない。それよりおいしい夕食を楽しみましょう。美味しいわよ。優秀な助手が手伝ってくれたし有機野菜だし」
それから叔母さんは思い出した様に先輩に話しかける。
「そういえば誕生日おめでとう。一七歳になったのよね。私はこんな適当な性格だからケーキもプレゼントも用意しなかったけど」
「どうせ適当なら覚えてくれなくていいのに」
先輩がフォークを突き刺しながらバツが悪そうに答える。隣りに座っている安部さんが驚いたような顔で先輩に不満を漏らす。
「なんで言ってくれなかったんですか。プレゼント用意したのに」
先輩は恥ずかしさを打ち消すように毒を吐く。
「誕生日なんて私が生まれてから地球が何回公転したかってことを表しているに過ぎないわ。ちっともおめでたくない」
「でもおめでとうございます」
僕に続いて部長と安部さんもお祝いの言葉を言ったけれど先輩は相手にしなかった。
その後二人分の小説の合評でもう疲れたから今日は休みたいという安部さんが要望した。僕の小説はさらに後回しにされることになった。気構えていた僕は肩透かしを食らった気分だ。だらだら四人で時間を潰した後寝室に入った。ベッドがフカフカで気持ちがいい。ちょっとウトウトした辺りで部長がポツリと呟いた。
「まるで夢みたいだよ」
突然の言葉に意味が分からなくて聞き返してしまう。
「何がですか」
「何ていうのかな。こういう風に同じ部活の皆と旅行して、小説のことについて話しあえていることが」
「意外と大げさなんですね」
僕はちょっと笑ってしまった。部長は笑い返しながら答える。
「確かにそうかもしれないな。だけれど去年のこの時期にはこんなことは考えられなかったから。ほら僕の他に文芸部には上級生の部員がいないだろう。僕が一年の頃には三年の先輩が二人いたんだけどね。一人は僕と同じでSFが好きな先輩。よく二人でSFマガジン片手に語り合っていたよ。もう一人は演劇が好きな先輩。文化祭の時にはクラスで劇をやってたなあ。大学に入学してもサークルに入ってやってるらしいよ」
先輩は懐かしそうに言った。
それからちょっと声を厳しくして続ける。
「で、その二人が卒業して新入生が入ってこなかったら僕一人だけの部活さ。笑えるだろ。一年の終わり頃は不安でしょうがなかったよ。でも一年の時の文化祭で声を掛けてきてくれた女の子がいた。なんでも小説が好きでこの学校に入ったら是非文芸部に入りたいって言うんだ」
「それって安部さんのことですよね」
部長は静かな声で返答した。
「うん。約束通り彼女は文芸部に入ってくれた。それどころか自分も新入生なのに勧誘の手伝いまでしてくれたんだ。合格発表があった後にわざわざ学校に来てくれてね。本当に嬉しかったよ。この一言じゃ表しきれないぐらいにね」
ちょっと間を開けてから僕は尋ねる。
「変なこと聞いていいですか」
「うん」
「部長にとって一番大切なことって何ですか」
部長は笑って答えた。
「ちっとも変なことじゃないよ」
「そうですかね」
部長は優しい声で答えてくれた。
「そういうことを考えること自体がとっても大切なことだと思うよ。僕は」
「それで部長の一番大切なことは何なんですか」
部長は即答した。
「僕は文芸部が一番大事かな。言葉にするとちょっと気恥ずかしいけど。別にバリバリやってる体育会系の部活でもないからね。でも同じ趣味を持ったもの同士わいわいがやがや言い合うことがとても面白い。そういう緩い活動が好きなんだ」
それから二人共かなりの時間黙っていた。そのうち僕は一つの疑問が頭に思い浮かんできたが、それを口にすることは躊躇われた。なぜならそのことを言うのは居心地の良い今の関係を破壊することだから。
でも僕はそれを聞かずにはいられなかった。ゆっくりとたどたどしく言う。
「もう一つ変なこと聞くんですけど、部長って安部さんのことどう思ってるんですか」
返事はいつまでたっても返ってこなかった。部長はもう寝てしまっていたようだった。僕は目を閉じる。
「じゃあ皆さん、一段落したら早速作業に取り掛かってもらうわよ。自分で言うのも何だけど凄いお屋敷に泊めてもらえるんだから安いものでしょ」
きょとんとした顔で安部さんが尋ねた。
「作業って何のことですか」
僕も知らない。叔母さんは不思議そうに尋ねる。
「あらあなた達聞いてなかったの? 泊めてあげる代わりに掃除やら整理整頓してもらうっていう条件」
「そう言えば言ってなかったかしら。ごめんなさい」
先輩はちっとも申し訳無さそうな顔で頭を下げることもせず謝る。このとぼけ方は絶対にわざとだ。叔母さんが言う。
「まあ四人がかりなら一、二時間ぐらいあればすっきりするんじゃないかなあ。一部の部屋はある程度片付いてるからやってもらわなくて済むし」
「今さらおめおめ帰るわけにもいかないしやるしかないね」
部長が諦めるように言った。
まず最初に連れてこられたのは書斎だった。安部さんが羨ましげに言う。
「書斎があるなんてお金持ちですねえ」
そうはいっても僕の家にも書斎はある。なんでも家を建てる際に父が強く希望したという。まあでもせいぜい三畳ぐらいのささやかなものでいくつかの本棚と小さな机一つでほとんどのスペースが占められている。
ここの書斎は軽く見積もっても十畳はあるだろう。立派な背表紙をした分厚い本から、文庫本や雑誌まで多くの本がひしめている。叔母さんはまずここを全員で片付けることを要望した。
書斎の掃除が片付くと叔母さんの指示で一人ずつそれぞれの場所へと振り分けられた。僕はアトリエを担当させられた。叔母さんは絵を描いているのだ。
やはり絵に思い入れがあるのだろうか、結構やかましく注文を言ってきて大変だった。
必死になって作業を終わらせると、次は先輩の担当区分であるお風呂場を手伝うようにと命じられた。案外人使いが荒いんだなと思いながら移動する。
「入りますよ」
と声を掛けると返事が返ってきたので扉を開ける。先輩は汚れないようにという配慮からだろうショートパンツにTシャツという格好に着替えていた。
端的に言って露出度が高い。曝け出された柔らかそうな白い太ももに思わずどぎまぎしてしまう。
一方の先輩はそんな僕の様子など意に介さないようで浴槽に腰掛けてじっと鏡を見つめていた。そんな様子を見るとどうやって会話を始めたら良いのか分からない。
しばらく考えこんだが結局は月並みのことを言う。
「サボっちゃ駄目じゃないですか」
先輩は僕を見て疲れたように微笑む。
「結構このお風呂広いから時間が掛かっちゃってね。それになかなか汚れが落ちないし、思っていたよりずっとズボラなのね、うちの叔母さん」
確かにその通りお風呂場はとても広かった。面積でうちの風呂の四、五倍はあるのではないだろうか。一見するととても個人宅のものとは思えないだろう。
「なんかお風呂掃除みたいよね。人生って」
ゴム手袋をはめながら答える。
「どういう意味ですか」
「一生懸命目の前の課題をこなして、これで綺麗! 完璧! と満足感を得てもしばらくしたらまた別の問題が持ち上がってくる。このお風呂だって一、二ヶ月もしたらまた掃除の前みたいになるわよ」
スポンジでバスタイルの目地を必死に擦りながら答える。だいたいの汚れはちょっと拭いただけで取れるけれど完璧にするのは結構手間がかかる。
「なるほど」
「三万千七百」
唐突に訳の分からない数字を呟いたので聞き間違えたのかと思った。手を止めて何と言ったのか聞き返してしまう。
「三万千七百よ。何の数字だか分かる」
検討もつきませんと正直に答えると
「女性の平均寿命よ、日数換算でね。私の場合もう六千二百日ほど過ごした、いや浪費したわけだからあとえーっと二万五千五百日ほどね。そんなふうに毎日を過ごしておばちゃんになっておばあちゃんになって死ぬの。訳の分からないままにね」
先輩はちょっと黙ってから呟くように僕に問いかける。
「それってとっても虚しいじゃない」
「いつもそんなこと考えてるんですか」
先輩はなんでもないように答える。
「いつもじゃないわよ。一日にせいぜいニ、三回ぐらいね」
「そんなことしてたら頭がおかしくなっちゃいますよ」
先輩は答えずに黙って鏡を未だに見つめている。
「でも僕は楽しいですよ。このお風呂掃除」
ようやく僕のほうをちらりと笑って見る。
「掃除好きなの? いい旦那さんになれるわね」
「違いますよ。母親にはちゃんと掃除しろってよく言われます」
恥ずかしかったけれども口にする。
「先輩と一緒にしてるから楽しいんです。多分」
「やっぱり君は私のことが好きなのね」
先輩は僕の顔をじっと見つめてそんなことを言う。思わずスポンジの方に目線を落とす。
「そういう意味で言ったんじゃなくて」
一旦間を置いて続ける。
「安部さんや部長としても楽しいと思います」
これは事実だ。もっとも安部さんや部長とするよりも先輩とするほうがもっと楽しいという事実を隠した不親切な事実だが。
先輩はなおも本当かなと僕をからかったが,やがて自分に言い聞かせるように言った。
「そうかもね」
そして気を取り直すように言う。
「後輩君に任せてばかりじゃ悪いもんね。休憩終わりにするわ」
それきり先輩は黙りこんで浴槽内でスポンジをゴシゴシと動かし続けた。何も言うことが出来ずに僕もひたすらカビを落とし続ける。
お風呂掃除が終わった後に先輩は小さな声で言った。
「さっきの例え撤回するわ。お風呂掃除はあとで駄目になってもその時だけはたしかに成果が出る。でも現実はもっと惨い。前に進んでいる気が右に曲がっていたり、左に曲がっていたり、場合によっては後ろに進んでいたりする」
その瞳は本当に寂しそうで、何もかもを諦めたみたいだった。
その後僕と安部さんと部長の三人で話し合いがもたれた。叔母さんは大きな木目調のテーブルがずどんと中央を占めている部屋を使わせてくれた。僕達三人の話し合いの席にしては立派すぎ、広すぎる部屋だった。
まず文化祭をどうするかという話だ。部長が口火を切った。
「例年通りだと冊子を出すだけなんだけど他に何かやりたいことある?」
「それだけでいいんじゃないんですか」
安部さんが答える。僕も同意見だった。
「三人しかいないとやれることって限られてきますからね。先輩が手伝ってくれても四人だし」
部長が頷きながら言った。
「まあ文芸部なんだし変なことはせずに小説で勝負しよう」
安部さんが手に持った紙束をいじりながら口を挟む。
「そのことなんですけど入学式の時はプリンターで印刷した紙をホチキス留にするっていうやり方だったじゃないですか。今年は本屋さんで売ってるようなきちんとした形にしたいです」
「紙質とか大きさとかページ数によるから細かいことは言えないけど、一冊数百円はかかる。そんなものを百部も二百部も刷れるわけ無いよ」
「合宿せずに交通費をつぎ込めば良かったんじゃないですか」
安部さんの指摘に部長は何も言い返せずに黙った。図星みたいだ。安部さんが呆れるように言った。
「結構適当なんですね」
「うるさいなあ。そういうことは大学生になってからすればいいんだよ。だいたい大事なのは中身だろ、外面じゃない」
部長がムキになって反論し始めたので僕は笑ってしまった。その後肝心の中身の話になった。
結論から言うと安部さんと部長の作品の合評は喧々諤々の言い合いで終わった。
そもそも専門(という言葉は仰々しすぎるような気もする)が違うのだから当たり前かもしれない。部長が好きなのはSF。安部さんが好きなのはエンタメ小説だ。
議論が紛糾して疲れた。安部さんは大きく伸びをした。
だけど皆それぞれ異なった意見があるのは当然と言えば当然のことなのだけど面白い。いよいよ僕の番だ。初めての作品だから緊張する。
そこで叔母さんがやってきて誰か夕食の準備を手伝ってくれないかと頼んだ。安部さんが手伝うというので合評はそこで中断された。
手持ち無沙汰になった中島部長と僕は先輩と一緒に書斎で時間を潰した。先輩が読んでいた本の題名はホメオパシーがどうたらこうたらと書いてあった。ホメオパシー。全く聞いたことがない言葉で小難しそうだ。
僕たちは暇つぶしに各々本を読みふけった。
夕食は物々しい晩餐室で行われた。燭台が置いてあり古めかしい絵画がありまるで映画に出てきそうだ。なんでも絵画は複製画らしいが。安部さんがため息をつきながら感心するように言った。
「本当に広いですよね、この家。掃除するの大変でした。この部屋も一人じゃ手広すぎじゃないですか」
「普段はこんな大仰な部屋で食べないわよ。それに住み始めた頃は夫と一緒だったから」
今、旦那さんはどうしているのか? という疑問が湧く。叔母さんはその疑問を先回りするように言った。
「死んじゃったのよ、癌で」
その口調には悲しみの響きは全然なくて僕はびっくりした。重い空気が流れる。料理をつつく手が止まる。叔母さんが笑ってナイフを動かしながら場の雰囲気を和ませようとしてくれた。
「いいのよ、もう昔のことだから。気に病んでもしょうがないことじゃない。それよりおいしい夕食を楽しみましょう。美味しいわよ。優秀な助手が手伝ってくれたし有機野菜だし」
それから叔母さんは思い出した様に先輩に話しかける。
「そういえば誕生日おめでとう。一七歳になったのよね。私はこんな適当な性格だからケーキもプレゼントも用意しなかったけど」
「どうせ適当なら覚えてくれなくていいのに」
先輩がフォークを突き刺しながらバツが悪そうに答える。隣りに座っている安部さんが驚いたような顔で先輩に不満を漏らす。
「なんで言ってくれなかったんですか。プレゼント用意したのに」
先輩は恥ずかしさを打ち消すように毒を吐く。
「誕生日なんて私が生まれてから地球が何回公転したかってことを表しているに過ぎないわ。ちっともおめでたくない」
「でもおめでとうございます」
僕に続いて部長と安部さんもお祝いの言葉を言ったけれど先輩は相手にしなかった。
その後二人分の小説の合評でもう疲れたから今日は休みたいという安部さんが要望した。僕の小説はさらに後回しにされることになった。気構えていた僕は肩透かしを食らった気分だ。だらだら四人で時間を潰した後寝室に入った。ベッドがフカフカで気持ちがいい。ちょっとウトウトした辺りで部長がポツリと呟いた。
「まるで夢みたいだよ」
突然の言葉に意味が分からなくて聞き返してしまう。
「何がですか」
「何ていうのかな。こういう風に同じ部活の皆と旅行して、小説のことについて話しあえていることが」
「意外と大げさなんですね」
僕はちょっと笑ってしまった。部長は笑い返しながら答える。
「確かにそうかもしれないな。だけれど去年のこの時期にはこんなことは考えられなかったから。ほら僕の他に文芸部には上級生の部員がいないだろう。僕が一年の頃には三年の先輩が二人いたんだけどね。一人は僕と同じでSFが好きな先輩。よく二人でSFマガジン片手に語り合っていたよ。もう一人は演劇が好きな先輩。文化祭の時にはクラスで劇をやってたなあ。大学に入学してもサークルに入ってやってるらしいよ」
先輩は懐かしそうに言った。
それからちょっと声を厳しくして続ける。
「で、その二人が卒業して新入生が入ってこなかったら僕一人だけの部活さ。笑えるだろ。一年の終わり頃は不安でしょうがなかったよ。でも一年の時の文化祭で声を掛けてきてくれた女の子がいた。なんでも小説が好きでこの学校に入ったら是非文芸部に入りたいって言うんだ」
「それって安部さんのことですよね」
部長は静かな声で返答した。
「うん。約束通り彼女は文芸部に入ってくれた。それどころか自分も新入生なのに勧誘の手伝いまでしてくれたんだ。合格発表があった後にわざわざ学校に来てくれてね。本当に嬉しかったよ。この一言じゃ表しきれないぐらいにね」
ちょっと間を開けてから僕は尋ねる。
「変なこと聞いていいですか」
「うん」
「部長にとって一番大切なことって何ですか」
部長は笑って答えた。
「ちっとも変なことじゃないよ」
「そうですかね」
部長は優しい声で答えてくれた。
「そういうことを考えること自体がとっても大切なことだと思うよ。僕は」
「それで部長の一番大切なことは何なんですか」
部長は即答した。
「僕は文芸部が一番大事かな。言葉にするとちょっと気恥ずかしいけど。別にバリバリやってる体育会系の部活でもないからね。でも同じ趣味を持ったもの同士わいわいがやがや言い合うことがとても面白い。そういう緩い活動が好きなんだ」
それから二人共かなりの時間黙っていた。そのうち僕は一つの疑問が頭に思い浮かんできたが、それを口にすることは躊躇われた。なぜならそのことを言うのは居心地の良い今の関係を破壊することだから。
でも僕はそれを聞かずにはいられなかった。ゆっくりとたどたどしく言う。
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