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第五章
雷の中の雨宿り
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旅行から二週間あまり。先輩とはあれ以来会っていない。というのも僕は先輩と連絡先を交換していないからだ。連絡簿に電話番号があるから全く連絡が取れないわけではないけれど、特に用事もないのに突然家の電話にかけるというのも気が引ける。
それに自分から連絡先を渡していないということは僕と連絡を取ることを先輩が望んでいないのかもしれない。そんな風に思った。こういうことは考えても埒が明かないことなのだが悪い方に思考がいってしまう。
突然携帯が鳴った。安部さんからだった。
「打ち合わせの後遊ばない?」
予期せぬ誘いに口ごもっているとさらに続ける。
「今は夏休みなんだよ。だから遊ばないといけないんだよ」
訳の分からない理屈だけれどどうせ家にいてもダラダラとしているだけだ。小説の執筆も捗りやしない。那須は部活が忙しくて遊ぶ暇がない。宿題は最後にまとめてやる主義だ。
「二人で?」
ちょっと間が空いてから笑い声が聞こえた。
「そんなわけ無いじゃん。部長も一緒だよ。それに那須君や先輩を誘ってもいいんじゃない」
「那須は忙しいし先輩と連絡先交換したの」
「そっか。野球部なんだからそりゃ忙しいよね。あと先輩は携帯持ってないって。一回聞いたことあるから。だいたい連絡簿があるでしょ。忘れてるんだろうけど」
「じゃあ先輩には僕の方から連絡入れておくよ」
緊張しながら先輩の家に電話する。受け取った相手はどちら様ですかと聞いてきた。女の人の声だが先輩じゃない。母親だろうか。学校の同級生だと答える。
「申し訳ないですが娘は忙しいので」
それきりで切れてしまい、僕はちょっと呆然とした。いくら忙しいからって本人に取次もしないなんて。まあ年頃の娘に男から電話が掛かってきたらこういうふうに対応するのもそんなにおかしいことじゃないのかもしれない。
翌日学校に行くと、部長は顔を合わせるなり突然用事が出来たと言って謝ってきた。ということは二人で遊びに行くことになる。これじゃまるでデートみたいだ。安部さんを見ると笑っていた。
そういうわけでが身があまり入らなかった。合宿で指摘された点を各々修正し、加筆したものを見せ合うのだが。
部長に別れを告げた後、安部さんに聞く。
「で、どこに行くつもりなの」
「何も考えていなかった。杉山に任せるよ」
笑顔でそう言われても困る。
「ちょっと待ってね」
「杉山のセンスに期待してるよ」
うーんと唸りながら考えた。女の子と二人でどこへいったらいいものか。
遊園地、スポーツ観戦、公園、展望台、水族館、映画館、買い物、プール。僕にはごくありきたりな誰だって思いつくような選択肢しか浮かんでこない。
とはいえ結構遠出しないと行けない所も多い。まずスポーツ観戦と水族館が消える。遊園地はあるがろくなアトラクションのない子供だましのものだ。一年の入場者数がディズニーランド一日分といい勝負なのではないか。プールは予め水着を用意しておかないといけないからこれまた消える。
「悩み過ぎだよ」
安部さんが笑った。
「ご、ごめん。もうすぐ言うから」
ふと部長が味のある映画館の話をしていたのを思い出した。たしか学校の近くにあったはずだ。一緒に学校の近くを探すと意外と簡単に見つかった。古い映画のリバイバルだから料金も安いらしい。
薄汚れた白いビルで一見すると映画館が入っているようには見えない。だが確かに看板にキネマと書いてある。人によっては古ぼけたという印象を受けるかもしれないが、僕はいい印象を持った。
安部さんと一緒に扉をくぐる。安部さんが新聞を読んでいた館主に言った。
「落ち着いていい雰囲気なのにお客さん少ないですね」
確かに受付には僕達の他に誰もいなかった。不躾な質問に老人の館主が豪快に笑う。
「こんな田舎にもシネマコンプレックスなんていう代物ができたからねえ。結構前の話だけれど。まあ仕事というより年金暮らしの年寄りの趣味だよ。あんたたちみたいな学生さんに古い映画を見てもらえたらいいなって思ってな」
そして今日やる映画を教えてくれた。古ぼけたポスターを見ながら安部さんが言った。
「なんだかモノクロでいい感じだね。それにフランス映画ってお洒落で素敵」
館主がにやけて答える。
「ああ、本当にいい映画だよ。カップルにおすすめだし」
安部さんが慌てて否定する。
「カップルじゃないですよ」
「ふーん」
館主はにやつきながら答えた。
話題を変えて
「いつの映画なんですか」
と尋ねてみると館主はこう答えた。
「たしか一九六八年。五月革命のちょっと前だよ。映画史的に言うとヌーヴェルヴァーグの時代だし、カラーとモノクロの移行期でもあるな」
「ゴ、ゴガツカクメイ? ヌーヴェルヴァーグ?」
安部さんが呪文を唱えるように言った。館主がガハハという擬音が付きそうな笑い方をした後、答えた。
「学生さんには難しい話だったかな」
まだ上映には少しの時間があった。まばらな映画館の席に座りながら安部さんが尋ねてくる。
「ところでゴガツカクメイって何?」
「五月に起きた革命だよ」
即答するとちょっと間が空いた後に答えが帰ってくる。
「杉山、本当は知らないでしょ」
「うん」
映画のあらすじを乱暴に言ってしまうと主人公が放蕩の限りを尽くすというものだった。
元から付き合っていた彼女をほったらかしにして女遊びと賭博をするのだ。ロンシャン競馬場で凱旋門賞に大金を注ぎ込んだりしていた。もちろん外す。それどころか金の無心までする始末。如何にも二枚目な俳優が主人公役にピッタリだった。
最後に主人公はヒロインのところへと行く。ヒロインは当然こう言う。
「もうあなたにはうんざりよ」
「本当はお前のことが大事だったんだ。愛してる。許してくれるか」
なのに主人公がそう言ってヒロインを抱きしめる。するとヒロインが泣きながら叫ぶ。
「ええ!」
感動的な音楽が流れ始め映画は終わる。僕は呆気にとられた。ぞろぞろと僅かな観客達が立ち上がり、僕達もそれに続く。
安部さんがポップコーンをゴミ箱に捨てながらうんざりしたように呟いた。
「酷い映画だったね」
概ね同じ感想だったが自分の選択ミスを取り繕うようにこう指摘した。
「でも、安部さんが好きなハッピーエンドだったじゃないか」
すると彼女はむくれて答える。
「ハッピーエンドならなんでもかんでもいいってわけじゃないよ。特に作り物っぽいハッピーエンドは駄目」
「作り物っぽいハッピーエンドってどういうこと」
彼女は小難しそうな顔をしながら答える。
「なんていうのかな、さっきの映画みたいな結末のこと。何の伏線も脈絡もないのにいきなりめでたしめでたしって感情移入できないよ」
「安部さんって注文が多いよね」
わがままなところに思わず心のなかで笑ってしまった。
劇場の扉を開けると館主が声を掛けてきた。
「映画はどうだったかね」
安部さんがちょっと申し訳無さそうな顔で答える。
「正直言ってあまりおもしろくありませんでした」
「そりゃ残念。次は黒澤の『生きる』を上映するから見ていかないかい? これもカップルにおすすめの映画だぜ」
安部さんが顔を赤らめながら反論する。
「だからカップルじゃないですって。それにさっきもカップルにおすすめって言ってたじゃないですか」
映画館を出てちょっとすると雨が激しく降り始めた。慌てて雨宿りをする。安部さんが空模様を眺めながら言った。
「天気予報じゃ雨が降るなんて言ってなかったね。通り雨だと思うけど」
相槌を打つ。雑談をしているうちに止むだろうと思っていると、とうとう雷まで鳴り始めた。
このあたりの地域は夏の夕方に落雷が多発するというありがたくない特徴があるのだ。この時期になると週に一、ニ度は落雷しているのではないか。
安部さんは雷が鳴る度にびくりとしている。本人は本当に怖がっているのにこんなこと言ったら可哀想かもしれないが愛らしい仕草だ。いつもに比べて口数が少なくなっている。
普段は彼女の方から積極的に話をし始めるからだんまりというのは特別な感じがする。恐怖を紛らわせるためにこんな話題を振った。
「最近読んだ本でなんか面白いのあった」
彼女はちょっとぶっきらぼうに答える。
「一番面白かったのは『四畳半神話大系』っていう本かな。森見っていう人が書いた」
「どんな本?」
なんかいかにも時間つぶしみたいな会話の内容だなと内心思いつつ聞いた。
安部さんは少しだけ元気な口調で答える。
「京都の大学生のお話だよ。京大生が主人公なの」
「京都かあ、中学校の時の修学旅行が懐かしいなあ」
「私も修学旅行、京都。ひょっとしたらそこで杉山とすれ違ってたりして」
安部さんは口角を上げながら笑う。そもそも日程が被ってるかどうかも分からないし、地元ですれ違っている可能性のほうがずっと高いのではないか。そんな無粋な疑問は口にはしなかった。その代わりに相槌を打つ。
「そうかもね」
彼女は本題に戻る。
「それでね主人公は大学生活を何回もやり直すんだよ。やり直す度にいろんな別のサークルに入ったりしてね。もっとも主人公は最初の内気づいてないんだけど」
雷が遠くに落ちる。光速と音速の差で遅れて音が聞こえる。彼女はピクリとしてそこで会話が途切れた。
「タイムマシンの発明者が誰か知ってる?」
僕がそう言うと安部さんが不思議そうに尋ねる。
「からかってるの? 時間を操作することはできないんだよ。少なくとも現代の人類の科学技術ではね」
時間を操作、科学技術なんていう物々しい言葉が安部さんから飛び出してきたので笑ってしまう。何故笑ったのかが分からないのだろう、安部さんは不審がっていた。
笑いを抑えて聞く。
「タイムマシンっていう概念を考えついて広めたのは誰かっていう話だよ」
安部さんは首をひねって考えてから奇想天外な回答を弾き出す。
「藤子・F・不二雄とか?」
たしかにドラえもんにもタイムマシンは出てくるけどさ。内心そう思いながら答える。
「不正解。タイムマシンっていう概念を広めたのはH・Gウェルズらしいよ。ちなみにウェルズは『宇宙戦争』や『透明人間』の作者でもあるんだよ。もっともそれ以前にもタイムマシンが登場する作品はあったけど。タイムマシンっていう概念を世界中に広げたのはウェルズの『タイムマシン』っていう作品らしい。あとタイムトラベルはタイムマシンっていう概念が登場するかなり前から小説で描かれていたんだって」
我ながら滔々と語れたと思っていると安部さんが感心したように声を上げる。
「へえ、すごい。杉山って博識だね」
僕は苦笑いした。実を言うとこのトリビアは部長の受け売りだ。だけれども日常会話に出典を付けなければならないなどという決まりはない。
「タイムマシンがあったらいつの時代に行きたい」
そう尋ねると安部さんは素直に考え込み始めた。
先輩だったら現実にはありえない質問には答えないだとか言うのだろうなと思った。あるいはタイムマシンやタイムパラドックスの詳しい説明を求めるかもしれない。
「うーん、いろいろ考えたけど別にいらないかな。タイムマシン。今でも十分楽しいし」
とても安部さんらしい考えだ。安部さんは目論見通り怖さが薄れたらしく、饒舌になってきた。
「あと結構前に読んだんだけど、『アルジャーノンに花束を』っていう小説が面白かったな」
僕もその小説は読んだことがあった。だからこう言う。
「だけどあれハッピーエンドじゃないよね」
「うん。部長に勧められたんだよ。ハッピーエンドじゃないけれど面白い作品だって。とっても悲しかったけれど確かにすっごい面白かった」
「悲しいけれど綺麗な話だよね。タイトルとラストシーンががっちり決まってさ」
僕が言い終えたその時雷がものすごい音を立てて落ちた。おそらくかなり近くに落雷したのだろう。安部さんが盛大に驚きで体を揺らす。僕もびっくりして体が震えた。
二人で顔を見合わせて笑う。それから僕はあの質問を投げかける。
「安部さんにとって一番大切なことって何?」
僕がこう尋ねると
「何なの、急にそんなこと聞いて」
「笑わないで聞いてね」
彼女は僕を見つめて言った。ちょっとどきりとする。
「笑うわけ無いじゃん」
彼女は恥ずかしそうに小声で静かに答えた。
「恋かな」
予想外の返答に思わず笑ってしまった。それも盛大に。安部さんが恥ずかしそうに抗議する。
「笑わないでねって言ったじゃん!」
笑うのをなんとか堪えて慌てて謝る。
「ごめん、ごめん」
雨粒の落ちる音が弱まってきた。雷もしばらく鳴っていない。雷雨はようやく収まろうとしている。
それに自分から連絡先を渡していないということは僕と連絡を取ることを先輩が望んでいないのかもしれない。そんな風に思った。こういうことは考えても埒が明かないことなのだが悪い方に思考がいってしまう。
突然携帯が鳴った。安部さんからだった。
「打ち合わせの後遊ばない?」
予期せぬ誘いに口ごもっているとさらに続ける。
「今は夏休みなんだよ。だから遊ばないといけないんだよ」
訳の分からない理屈だけれどどうせ家にいてもダラダラとしているだけだ。小説の執筆も捗りやしない。那須は部活が忙しくて遊ぶ暇がない。宿題は最後にまとめてやる主義だ。
「二人で?」
ちょっと間が空いてから笑い声が聞こえた。
「そんなわけ無いじゃん。部長も一緒だよ。それに那須君や先輩を誘ってもいいんじゃない」
「那須は忙しいし先輩と連絡先交換したの」
「そっか。野球部なんだからそりゃ忙しいよね。あと先輩は携帯持ってないって。一回聞いたことあるから。だいたい連絡簿があるでしょ。忘れてるんだろうけど」
「じゃあ先輩には僕の方から連絡入れておくよ」
緊張しながら先輩の家に電話する。受け取った相手はどちら様ですかと聞いてきた。女の人の声だが先輩じゃない。母親だろうか。学校の同級生だと答える。
「申し訳ないですが娘は忙しいので」
それきりで切れてしまい、僕はちょっと呆然とした。いくら忙しいからって本人に取次もしないなんて。まあ年頃の娘に男から電話が掛かってきたらこういうふうに対応するのもそんなにおかしいことじゃないのかもしれない。
翌日学校に行くと、部長は顔を合わせるなり突然用事が出来たと言って謝ってきた。ということは二人で遊びに行くことになる。これじゃまるでデートみたいだ。安部さんを見ると笑っていた。
そういうわけでが身があまり入らなかった。合宿で指摘された点を各々修正し、加筆したものを見せ合うのだが。
部長に別れを告げた後、安部さんに聞く。
「で、どこに行くつもりなの」
「何も考えていなかった。杉山に任せるよ」
笑顔でそう言われても困る。
「ちょっと待ってね」
「杉山のセンスに期待してるよ」
うーんと唸りながら考えた。女の子と二人でどこへいったらいいものか。
遊園地、スポーツ観戦、公園、展望台、水族館、映画館、買い物、プール。僕にはごくありきたりな誰だって思いつくような選択肢しか浮かんでこない。
とはいえ結構遠出しないと行けない所も多い。まずスポーツ観戦と水族館が消える。遊園地はあるがろくなアトラクションのない子供だましのものだ。一年の入場者数がディズニーランド一日分といい勝負なのではないか。プールは予め水着を用意しておかないといけないからこれまた消える。
「悩み過ぎだよ」
安部さんが笑った。
「ご、ごめん。もうすぐ言うから」
ふと部長が味のある映画館の話をしていたのを思い出した。たしか学校の近くにあったはずだ。一緒に学校の近くを探すと意外と簡単に見つかった。古い映画のリバイバルだから料金も安いらしい。
薄汚れた白いビルで一見すると映画館が入っているようには見えない。だが確かに看板にキネマと書いてある。人によっては古ぼけたという印象を受けるかもしれないが、僕はいい印象を持った。
安部さんと一緒に扉をくぐる。安部さんが新聞を読んでいた館主に言った。
「落ち着いていい雰囲気なのにお客さん少ないですね」
確かに受付には僕達の他に誰もいなかった。不躾な質問に老人の館主が豪快に笑う。
「こんな田舎にもシネマコンプレックスなんていう代物ができたからねえ。結構前の話だけれど。まあ仕事というより年金暮らしの年寄りの趣味だよ。あんたたちみたいな学生さんに古い映画を見てもらえたらいいなって思ってな」
そして今日やる映画を教えてくれた。古ぼけたポスターを見ながら安部さんが言った。
「なんだかモノクロでいい感じだね。それにフランス映画ってお洒落で素敵」
館主がにやけて答える。
「ああ、本当にいい映画だよ。カップルにおすすめだし」
安部さんが慌てて否定する。
「カップルじゃないですよ」
「ふーん」
館主はにやつきながら答えた。
話題を変えて
「いつの映画なんですか」
と尋ねてみると館主はこう答えた。
「たしか一九六八年。五月革命のちょっと前だよ。映画史的に言うとヌーヴェルヴァーグの時代だし、カラーとモノクロの移行期でもあるな」
「ゴ、ゴガツカクメイ? ヌーヴェルヴァーグ?」
安部さんが呪文を唱えるように言った。館主がガハハという擬音が付きそうな笑い方をした後、答えた。
「学生さんには難しい話だったかな」
まだ上映には少しの時間があった。まばらな映画館の席に座りながら安部さんが尋ねてくる。
「ところでゴガツカクメイって何?」
「五月に起きた革命だよ」
即答するとちょっと間が空いた後に答えが帰ってくる。
「杉山、本当は知らないでしょ」
「うん」
映画のあらすじを乱暴に言ってしまうと主人公が放蕩の限りを尽くすというものだった。
元から付き合っていた彼女をほったらかしにして女遊びと賭博をするのだ。ロンシャン競馬場で凱旋門賞に大金を注ぎ込んだりしていた。もちろん外す。それどころか金の無心までする始末。如何にも二枚目な俳優が主人公役にピッタリだった。
最後に主人公はヒロインのところへと行く。ヒロインは当然こう言う。
「もうあなたにはうんざりよ」
「本当はお前のことが大事だったんだ。愛してる。許してくれるか」
なのに主人公がそう言ってヒロインを抱きしめる。するとヒロインが泣きながら叫ぶ。
「ええ!」
感動的な音楽が流れ始め映画は終わる。僕は呆気にとられた。ぞろぞろと僅かな観客達が立ち上がり、僕達もそれに続く。
安部さんがポップコーンをゴミ箱に捨てながらうんざりしたように呟いた。
「酷い映画だったね」
概ね同じ感想だったが自分の選択ミスを取り繕うようにこう指摘した。
「でも、安部さんが好きなハッピーエンドだったじゃないか」
すると彼女はむくれて答える。
「ハッピーエンドならなんでもかんでもいいってわけじゃないよ。特に作り物っぽいハッピーエンドは駄目」
「作り物っぽいハッピーエンドってどういうこと」
彼女は小難しそうな顔をしながら答える。
「なんていうのかな、さっきの映画みたいな結末のこと。何の伏線も脈絡もないのにいきなりめでたしめでたしって感情移入できないよ」
「安部さんって注文が多いよね」
わがままなところに思わず心のなかで笑ってしまった。
劇場の扉を開けると館主が声を掛けてきた。
「映画はどうだったかね」
安部さんがちょっと申し訳無さそうな顔で答える。
「正直言ってあまりおもしろくありませんでした」
「そりゃ残念。次は黒澤の『生きる』を上映するから見ていかないかい? これもカップルにおすすめの映画だぜ」
安部さんが顔を赤らめながら反論する。
「だからカップルじゃないですって。それにさっきもカップルにおすすめって言ってたじゃないですか」
映画館を出てちょっとすると雨が激しく降り始めた。慌てて雨宿りをする。安部さんが空模様を眺めながら言った。
「天気予報じゃ雨が降るなんて言ってなかったね。通り雨だと思うけど」
相槌を打つ。雑談をしているうちに止むだろうと思っていると、とうとう雷まで鳴り始めた。
このあたりの地域は夏の夕方に落雷が多発するというありがたくない特徴があるのだ。この時期になると週に一、ニ度は落雷しているのではないか。
安部さんは雷が鳴る度にびくりとしている。本人は本当に怖がっているのにこんなこと言ったら可哀想かもしれないが愛らしい仕草だ。いつもに比べて口数が少なくなっている。
普段は彼女の方から積極的に話をし始めるからだんまりというのは特別な感じがする。恐怖を紛らわせるためにこんな話題を振った。
「最近読んだ本でなんか面白いのあった」
彼女はちょっとぶっきらぼうに答える。
「一番面白かったのは『四畳半神話大系』っていう本かな。森見っていう人が書いた」
「どんな本?」
なんかいかにも時間つぶしみたいな会話の内容だなと内心思いつつ聞いた。
安部さんは少しだけ元気な口調で答える。
「京都の大学生のお話だよ。京大生が主人公なの」
「京都かあ、中学校の時の修学旅行が懐かしいなあ」
「私も修学旅行、京都。ひょっとしたらそこで杉山とすれ違ってたりして」
安部さんは口角を上げながら笑う。そもそも日程が被ってるかどうかも分からないし、地元ですれ違っている可能性のほうがずっと高いのではないか。そんな無粋な疑問は口にはしなかった。その代わりに相槌を打つ。
「そうかもね」
彼女は本題に戻る。
「それでね主人公は大学生活を何回もやり直すんだよ。やり直す度にいろんな別のサークルに入ったりしてね。もっとも主人公は最初の内気づいてないんだけど」
雷が遠くに落ちる。光速と音速の差で遅れて音が聞こえる。彼女はピクリとしてそこで会話が途切れた。
「タイムマシンの発明者が誰か知ってる?」
僕がそう言うと安部さんが不思議そうに尋ねる。
「からかってるの? 時間を操作することはできないんだよ。少なくとも現代の人類の科学技術ではね」
時間を操作、科学技術なんていう物々しい言葉が安部さんから飛び出してきたので笑ってしまう。何故笑ったのかが分からないのだろう、安部さんは不審がっていた。
笑いを抑えて聞く。
「タイムマシンっていう概念を考えついて広めたのは誰かっていう話だよ」
安部さんは首をひねって考えてから奇想天外な回答を弾き出す。
「藤子・F・不二雄とか?」
たしかにドラえもんにもタイムマシンは出てくるけどさ。内心そう思いながら答える。
「不正解。タイムマシンっていう概念を広めたのはH・Gウェルズらしいよ。ちなみにウェルズは『宇宙戦争』や『透明人間』の作者でもあるんだよ。もっともそれ以前にもタイムマシンが登場する作品はあったけど。タイムマシンっていう概念を世界中に広げたのはウェルズの『タイムマシン』っていう作品らしい。あとタイムトラベルはタイムマシンっていう概念が登場するかなり前から小説で描かれていたんだって」
我ながら滔々と語れたと思っていると安部さんが感心したように声を上げる。
「へえ、すごい。杉山って博識だね」
僕は苦笑いした。実を言うとこのトリビアは部長の受け売りだ。だけれども日常会話に出典を付けなければならないなどという決まりはない。
「タイムマシンがあったらいつの時代に行きたい」
そう尋ねると安部さんは素直に考え込み始めた。
先輩だったら現実にはありえない質問には答えないだとか言うのだろうなと思った。あるいはタイムマシンやタイムパラドックスの詳しい説明を求めるかもしれない。
「うーん、いろいろ考えたけど別にいらないかな。タイムマシン。今でも十分楽しいし」
とても安部さんらしい考えだ。安部さんは目論見通り怖さが薄れたらしく、饒舌になってきた。
「あと結構前に読んだんだけど、『アルジャーノンに花束を』っていう小説が面白かったな」
僕もその小説は読んだことがあった。だからこう言う。
「だけどあれハッピーエンドじゃないよね」
「うん。部長に勧められたんだよ。ハッピーエンドじゃないけれど面白い作品だって。とっても悲しかったけれど確かにすっごい面白かった」
「悲しいけれど綺麗な話だよね。タイトルとラストシーンががっちり決まってさ」
僕が言い終えたその時雷がものすごい音を立てて落ちた。おそらくかなり近くに落雷したのだろう。安部さんが盛大に驚きで体を揺らす。僕もびっくりして体が震えた。
二人で顔を見合わせて笑う。それから僕はあの質問を投げかける。
「安部さんにとって一番大切なことって何?」
僕がこう尋ねると
「何なの、急にそんなこと聞いて」
「笑わないで聞いてね」
彼女は僕を見つめて言った。ちょっとどきりとする。
「笑うわけ無いじゃん」
彼女は恥ずかしそうに小声で静かに答えた。
「恋かな」
予想外の返答に思わず笑ってしまった。それも盛大に。安部さんが恥ずかしそうに抗議する。
「笑わないでねって言ったじゃん!」
笑うのをなんとか堪えて慌てて謝る。
「ごめん、ごめん」
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