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第四章
間接キスと先輩の過去
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「まず不登校になってたことは知ってるんでしょう。高橋先生に皆に告げるけど良いかって確認とられたから」
「でも原因は全然言ってませんでした」
「当然よ。先生は知らないから。いや誰も知らないか。いろんなことが重なったのよ。だからこれから話すことは初めて話すこと。聞きたい?」
僕は頷く。先輩は黙りこんでしまった。
「先輩?」
先輩は笑って答える。
「ごめんね。どこまで遡れば良いのか見当がつかなくなっちゃったのよ」
「好きなところからでいいですよ」
促すと先輩は昔話を語る口調で語りだした。
「じゃあ本当にむかーしむかーしの話から始めましょう。ある所に一人の女の子がいました」
「陰謀論が好きな女の子ですね」
先輩が突っ込みを入れる。
「茶々を入れないの。それにその頃は興味がなかったんだから」
そして告白が始まった。
「その女の子はお父さんとお母さんと年の離れたお兄ちゃんと一緒に四人家族で暮らしていました」
それからちょっと間があいて相手先輩の声が少しくぐもった。
「とりたてて書き立てるような特別なところはない家族だけれど少女は幸せでした。お父さんとお母さんは優しくて、少女は温かさに包まれていました。お兄ちゃんは頭が良くて運動もできました。お兄ちゃんは中学生の時にはサッカーをしていました。県大会の決勝で決定点となるシュートを格好良く入れた時には少女は周りから笑われるほど歓声を上げ、喜んでいました。少女はお兄ちゃんに憧れていました」
先輩は別の世界に入り込んでしまったようにすらすらと語る。僕はじっと黙って聞くしか無い。
「家族の一番の行事は親戚のいる北海道への家族旅行でした。そこで釣りをしたりバーベキューをしたりして過ごしていました。お兄ちゃんは器用に望遠鏡を操作して手取り足取り少女に操作法を教えてくれました。とは言え幸せなことばかりが続く世界はありません。きっかけは恐らくお兄ちゃんが地域で一番の進学校に受かったことでしょう。始まりは本当にほんの小さなことでした。ご近所の人達からそのことを褒められたお母さんはだんだんとお兄ちゃんの成績の上げることに固執するようになりました。舞い上がってしまったのでしょう。もともとお母さんは義理の妹、つもり少女の叔母さんと仲が良くなかったこともあり北海道への家族旅行は行われなくなりました。少女にも期待が向き始めました。少女はその期待に答えお兄ちゃんと同じ高校に合格しました」
先輩は僕の顔を覗き込んで尋ねる。
「此処から先は元カレが関わってくる話なんだけど聞きたい? それともうぶな君には刺激が強すぎるかな」
僕は逡巡した後に答えた。
「やっぱり聞きたいです」
「晴れて高校に入学した少女はある日突然告白されました。告白されたのはそれが初めてでした。少女は受けるかどうか迷って最初は保留しました。少女は悩みに悩みました。というのも少女はとってもうぶなことに人を明確に好きになったこともなかったのです。少女の悩みようは滑稽なほどでした。何と彼が夢にまで出来たのです。結局彼女は受け入れました」
先輩は突然素っ頓狂なほど明るい声で締めくくろうとした。
「こうして二人は付き合い始めました。めでたしめでたし、ちゃんちゃん」
そして先輩は押し黙った。
僕は言って良いものなのかどうか分からなかったが結局こう小さな声で尋ねた。
「あの、続きは」
「ごねんね。此処から先はちょっと辛いの」
先輩はなぜだか優しそうな声で答える。聞いてみたい気は山々だった。だけど憂いをたたえる先輩をこれ以上無理に促すことなどできやしない。
「でも全部話したほうがいいのかもね。付き合い始めた最初の頃は本当に楽しかったわ。まるで世界の色が変わったみたいだった。いろんなアドバイスをしてくれてね。髪型はこうした方が良いよ。こういう服のほうが似合ってるよってね。私そういうのに全然気を遣ってなかったから。いや気を遣わせてもらえなかったというべきかな。なんたって高校に入学した頃は三つ編みだったんだから。受けるでしょ。で、実際にアドバイスどうりに変えたら、ちやほやしてくれるのよ。そんなこと言われたら嬉しいじゃない」
呆れながら答えた。
「先輩って意外と単純なんですね」
「そうかもね。で、ここからがお笑いなのよ。彼を好きだった子のグループに陰に陽に私は嫌がらせを受け始めた。自分が好きな男の子を横取りした女ってわけでね。その上さっき言ったようにお洒落し始めたじゃない。それも気に食わなかったんだと思う。まあ暴力を受けることもなかったし言ってしまえば些細なことよ。でも気づくと女子で誰も私にかまってくれてる人はいなくなっていた」
「酷いです、そんなの。嫌がらせをした人も放置した周りの人も」
「私の仲のいい子って皆おとなしい子だったからね。それに私があの子達の立場に置かれてたら同じ行動をとったと思うし。ほら罪を犯したことのないものだけ石を投げなさいってやつよ」
一見屈託のない顔が妙に怖い。
「それで彼との関係も女子の中でハブられてるのが影響してぎくしゃくし始めてね。結局二、三回デートに行ったっきりで別れちゃった。なんであんな奴に惚れちゃったのかな。まあ格好良かったからね。容姿だけじゃなく勉強もスポーツも出来たし、クラスの中心でいきいきして見えた。性格だって明るくて表面上は良さそうに見えた。ほら、君も体育祭の時に見たでしょう。リレーの時にゴールテープを切ったいけすかないあいつよ。格好良かったでしょう」
僕はどうやって慰めたらいいものなのかちっとも分からないで黙っていることしか出来ない。
「もっと笑えるのはここからでね。件のグループの子と付き合い始めたのよ。彼は知らんぷりをしてね」
「それって体育祭の時仲良さそうにしていた人ですか」
先輩を首を横に振る。それから呆れたような顔で突き放したように言う。
「今彼がどうしているのかは知らないけど、おおかたいろんな女の子をとっかえひっかえしてるんじゃないの」
「そ、そんな酷い奴」
殴ってやりますよ。とは言えなかった。暴力は好きじゃない。だいいちスポーツマンなら喧嘩も僕よりよほど強いだろう。物理的にも不可能だ。
しょうがなくこう言う。
「死んじゃえばいいんですよ」
先輩は笑って右腕を突き出して言う。
「そうだ、あんな奴死んじゃえ、死んじゃえ」
先輩をまねて右腕を突き出して叫ぶ。
「サッカーボールが顔面に当たって死んじゃえ」
先輩もこの遊びに興じ始めた。
「振った女に後ろからナイフで刺されて死んじゃえ」
こうして先輩の元カレは何十回も殺された。僕と先輩は共犯だ。死に方がネタ切れになり
「あいつだけ超新星爆発に巻き込まれて死んじゃえ」
などと叫んだあたりで先輩はつぶやくように言った。
「でもそれだけならなんとか堪え切れたかもしれない。悪いことって続くものなのよ。いや、悪いことが続いたからこんな風になって君に昔話をしているのかもね」
言い終わってから先輩は軽く笑う。
「一学期の期末試験の結果を母親に見せたのよ。そのごたごたでいつもよりはちょっと悪いけどそこまで悪い成績じゃなかったわ。そうしたら母親はこう言うの。この調子じゃあ危ないんじゃない。お兄ちゃんみたいに東大に現役で受かるにはってね。入学したばかりの高校一年生に言うセリフ?」
先輩は微笑みながら尋ねた。僕はなんと言って良いのかわからない。
先輩は目を細めながら再び話し始める。
「そんなこんなで私はもう全てが嫌になった。それでここに逃げ出したってわけ。ちょうど去年の今頃のことよ。事情を説明したら、叔母さんは寛大な人だし夏休みだったから家に連絡も入れずに迎え入れてくれたわ。その時間で私は陰謀論の種本を貪るように読んだってわけ。他にすることもなかったからね。外に出て何かする気にもなれなかったから」
先輩が読みふけっていた本棚の膨大な雑誌、書籍類が蘇る。なるほどこういうことだったのか。
「だけれども結局夏休みが終わりに近づくにつれて叔母さんも見て見ぬふりはできなくなった。家に連絡を入れたのよ。そうしたら当然捜索願まで出していたお母さんはカンカンよ。私にも叔母さんにもね。未成年者誘拐だ! 告発してやる! って今考えると滑稽なぐらい息巻いてた。まあ親族だってのとお父さんがとりなしたのでなんとかなったけどね」
半ば呆れて半ば本心で言う。
「こんなこというのもなんですけどそれで済んでよかったですね」
「本当にね。お母さんはそういうわけで必死になって私を連れ戻したけどその後がっかりしたでしょうね。私はもうガタガタになっていたから。なんとか学校に行っても勉強に身を入れるどころじゃない。学校に行くのも嫌で嫌でしょうがなかったんだから。そのうち私は不登校になった。毎日学校に行く、行かないで大喧嘩よ」
先輩はここで一旦息を吸う。
「どう? 面白かった?」
先輩は笑って言うけれど、その顔はいつになく暗かった。
「先輩はどうして笑っていられるんですか」
「笑うしかないじゃない」
先輩の口調が急に悲壮になる。
そして突然大きな声で叫ぶように言った。
「笑わなかったら一体どうしたらいいのよ」
その時先輩の顔にはもう笑みがなくて、やがて体育座りのまま顔を膝のあたりに埋めた。嗚咽が聞こえた。
いつ声をかけたら良いのか分からなくて、目のやり場がなくて何分間も僕は黙っていた。
変わらないはずなのに話を聞く前と全然違う風に見える星を眺めたり、のんきに寝ている安部さんを見たりしていた。
僕も寝ていたらどれだけ気楽だったことか。だけれどもこれは聞かなければならない話だったような気もする。
やがてその声が治まってきた。先輩は顔を上げると入念にハンカチで拭う。それからビニール袋から缶を取り出して開ける。
暗くて見えないが、それは仕事から帰ってきた父親が愚痴を言いながら喉に流し込むもののようにに見えた。恐る恐る尋ねる。
「それってビールですか」
悪びれもせずに頷く先輩。
「叔母さんって甘いからね。酒やタバコぐらいで目くじら立てたりしないのよ」
いまさらこの人に説教をするつもりもない。
じっと飲酒している様子を見つめていると先輩は突然僕の方を向いた。
「君も飲んでみたらどう?」
思わぬ誘いにちょっと黙ってから返事をする。
「間接キスじゃないですか」
言った後にしまったと思ったがもう遅い。先輩は僕の失言を聞き逃さずに笑う。
「おかしいぐらい純情なのね」
こんなにおちょくられては飲まない訳にはいかない。先輩から缶ビールをひったくって一口飲む。先輩が僕の顔を覗き込んでくる。
「美味しい?」
「なんか薬品みたいな味がしますね」
恐らく僕は顔を歪めていただろう。これならコーラやメロンソーダを飲んだほうがよっぽど良い。タバコと同じだ。どうしてこんなものを大人は好むのだろうか。
嫌になった僕が缶ビールを渡すと、先輩は半ば無理やり残りを一気飲みした。お酒を飲むと陽気になると聞いたことがある。
だけど一杯ぐらいでは効果がないのだろうか、先輩は飲み終えた後に少し嗚咽していた。
それでも気を取り直すように
「もう帰りましょう。一緒に」
と僕を促す。頷き安部さんを起こそうとして体を優しく揺する。
「もう少し寝かせて~」
うつらうつらしながらこう言って抵抗した安部さんのお目出度さが今の僕と先輩にはたまらなく救いで、二人で思わず目を合わせて笑った。
「でも原因は全然言ってませんでした」
「当然よ。先生は知らないから。いや誰も知らないか。いろんなことが重なったのよ。だからこれから話すことは初めて話すこと。聞きたい?」
僕は頷く。先輩は黙りこんでしまった。
「先輩?」
先輩は笑って答える。
「ごめんね。どこまで遡れば良いのか見当がつかなくなっちゃったのよ」
「好きなところからでいいですよ」
促すと先輩は昔話を語る口調で語りだした。
「じゃあ本当にむかーしむかーしの話から始めましょう。ある所に一人の女の子がいました」
「陰謀論が好きな女の子ですね」
先輩が突っ込みを入れる。
「茶々を入れないの。それにその頃は興味がなかったんだから」
そして告白が始まった。
「その女の子はお父さんとお母さんと年の離れたお兄ちゃんと一緒に四人家族で暮らしていました」
それからちょっと間があいて相手先輩の声が少しくぐもった。
「とりたてて書き立てるような特別なところはない家族だけれど少女は幸せでした。お父さんとお母さんは優しくて、少女は温かさに包まれていました。お兄ちゃんは頭が良くて運動もできました。お兄ちゃんは中学生の時にはサッカーをしていました。県大会の決勝で決定点となるシュートを格好良く入れた時には少女は周りから笑われるほど歓声を上げ、喜んでいました。少女はお兄ちゃんに憧れていました」
先輩は別の世界に入り込んでしまったようにすらすらと語る。僕はじっと黙って聞くしか無い。
「家族の一番の行事は親戚のいる北海道への家族旅行でした。そこで釣りをしたりバーベキューをしたりして過ごしていました。お兄ちゃんは器用に望遠鏡を操作して手取り足取り少女に操作法を教えてくれました。とは言え幸せなことばかりが続く世界はありません。きっかけは恐らくお兄ちゃんが地域で一番の進学校に受かったことでしょう。始まりは本当にほんの小さなことでした。ご近所の人達からそのことを褒められたお母さんはだんだんとお兄ちゃんの成績の上げることに固執するようになりました。舞い上がってしまったのでしょう。もともとお母さんは義理の妹、つもり少女の叔母さんと仲が良くなかったこともあり北海道への家族旅行は行われなくなりました。少女にも期待が向き始めました。少女はその期待に答えお兄ちゃんと同じ高校に合格しました」
先輩は僕の顔を覗き込んで尋ねる。
「此処から先は元カレが関わってくる話なんだけど聞きたい? それともうぶな君には刺激が強すぎるかな」
僕は逡巡した後に答えた。
「やっぱり聞きたいです」
「晴れて高校に入学した少女はある日突然告白されました。告白されたのはそれが初めてでした。少女は受けるかどうか迷って最初は保留しました。少女は悩みに悩みました。というのも少女はとってもうぶなことに人を明確に好きになったこともなかったのです。少女の悩みようは滑稽なほどでした。何と彼が夢にまで出来たのです。結局彼女は受け入れました」
先輩は突然素っ頓狂なほど明るい声で締めくくろうとした。
「こうして二人は付き合い始めました。めでたしめでたし、ちゃんちゃん」
そして先輩は押し黙った。
僕は言って良いものなのかどうか分からなかったが結局こう小さな声で尋ねた。
「あの、続きは」
「ごねんね。此処から先はちょっと辛いの」
先輩はなぜだか優しそうな声で答える。聞いてみたい気は山々だった。だけど憂いをたたえる先輩をこれ以上無理に促すことなどできやしない。
「でも全部話したほうがいいのかもね。付き合い始めた最初の頃は本当に楽しかったわ。まるで世界の色が変わったみたいだった。いろんなアドバイスをしてくれてね。髪型はこうした方が良いよ。こういう服のほうが似合ってるよってね。私そういうのに全然気を遣ってなかったから。いや気を遣わせてもらえなかったというべきかな。なんたって高校に入学した頃は三つ編みだったんだから。受けるでしょ。で、実際にアドバイスどうりに変えたら、ちやほやしてくれるのよ。そんなこと言われたら嬉しいじゃない」
呆れながら答えた。
「先輩って意外と単純なんですね」
「そうかもね。で、ここからがお笑いなのよ。彼を好きだった子のグループに陰に陽に私は嫌がらせを受け始めた。自分が好きな男の子を横取りした女ってわけでね。その上さっき言ったようにお洒落し始めたじゃない。それも気に食わなかったんだと思う。まあ暴力を受けることもなかったし言ってしまえば些細なことよ。でも気づくと女子で誰も私にかまってくれてる人はいなくなっていた」
「酷いです、そんなの。嫌がらせをした人も放置した周りの人も」
「私の仲のいい子って皆おとなしい子だったからね。それに私があの子達の立場に置かれてたら同じ行動をとったと思うし。ほら罪を犯したことのないものだけ石を投げなさいってやつよ」
一見屈託のない顔が妙に怖い。
「それで彼との関係も女子の中でハブられてるのが影響してぎくしゃくし始めてね。結局二、三回デートに行ったっきりで別れちゃった。なんであんな奴に惚れちゃったのかな。まあ格好良かったからね。容姿だけじゃなく勉強もスポーツも出来たし、クラスの中心でいきいきして見えた。性格だって明るくて表面上は良さそうに見えた。ほら、君も体育祭の時に見たでしょう。リレーの時にゴールテープを切ったいけすかないあいつよ。格好良かったでしょう」
僕はどうやって慰めたらいいものなのかちっとも分からないで黙っていることしか出来ない。
「もっと笑えるのはここからでね。件のグループの子と付き合い始めたのよ。彼は知らんぷりをしてね」
「それって体育祭の時仲良さそうにしていた人ですか」
先輩を首を横に振る。それから呆れたような顔で突き放したように言う。
「今彼がどうしているのかは知らないけど、おおかたいろんな女の子をとっかえひっかえしてるんじゃないの」
「そ、そんな酷い奴」
殴ってやりますよ。とは言えなかった。暴力は好きじゃない。だいいちスポーツマンなら喧嘩も僕よりよほど強いだろう。物理的にも不可能だ。
しょうがなくこう言う。
「死んじゃえばいいんですよ」
先輩は笑って右腕を突き出して言う。
「そうだ、あんな奴死んじゃえ、死んじゃえ」
先輩をまねて右腕を突き出して叫ぶ。
「サッカーボールが顔面に当たって死んじゃえ」
先輩もこの遊びに興じ始めた。
「振った女に後ろからナイフで刺されて死んじゃえ」
こうして先輩の元カレは何十回も殺された。僕と先輩は共犯だ。死に方がネタ切れになり
「あいつだけ超新星爆発に巻き込まれて死んじゃえ」
などと叫んだあたりで先輩はつぶやくように言った。
「でもそれだけならなんとか堪え切れたかもしれない。悪いことって続くものなのよ。いや、悪いことが続いたからこんな風になって君に昔話をしているのかもね」
言い終わってから先輩は軽く笑う。
「一学期の期末試験の結果を母親に見せたのよ。そのごたごたでいつもよりはちょっと悪いけどそこまで悪い成績じゃなかったわ。そうしたら母親はこう言うの。この調子じゃあ危ないんじゃない。お兄ちゃんみたいに東大に現役で受かるにはってね。入学したばかりの高校一年生に言うセリフ?」
先輩は微笑みながら尋ねた。僕はなんと言って良いのかわからない。
先輩は目を細めながら再び話し始める。
「そんなこんなで私はもう全てが嫌になった。それでここに逃げ出したってわけ。ちょうど去年の今頃のことよ。事情を説明したら、叔母さんは寛大な人だし夏休みだったから家に連絡も入れずに迎え入れてくれたわ。その時間で私は陰謀論の種本を貪るように読んだってわけ。他にすることもなかったからね。外に出て何かする気にもなれなかったから」
先輩が読みふけっていた本棚の膨大な雑誌、書籍類が蘇る。なるほどこういうことだったのか。
「だけれども結局夏休みが終わりに近づくにつれて叔母さんも見て見ぬふりはできなくなった。家に連絡を入れたのよ。そうしたら当然捜索願まで出していたお母さんはカンカンよ。私にも叔母さんにもね。未成年者誘拐だ! 告発してやる! って今考えると滑稽なぐらい息巻いてた。まあ親族だってのとお父さんがとりなしたのでなんとかなったけどね」
半ば呆れて半ば本心で言う。
「こんなこというのもなんですけどそれで済んでよかったですね」
「本当にね。お母さんはそういうわけで必死になって私を連れ戻したけどその後がっかりしたでしょうね。私はもうガタガタになっていたから。なんとか学校に行っても勉強に身を入れるどころじゃない。学校に行くのも嫌で嫌でしょうがなかったんだから。そのうち私は不登校になった。毎日学校に行く、行かないで大喧嘩よ」
先輩はここで一旦息を吸う。
「どう? 面白かった?」
先輩は笑って言うけれど、その顔はいつになく暗かった。
「先輩はどうして笑っていられるんですか」
「笑うしかないじゃない」
先輩の口調が急に悲壮になる。
そして突然大きな声で叫ぶように言った。
「笑わなかったら一体どうしたらいいのよ」
その時先輩の顔にはもう笑みがなくて、やがて体育座りのまま顔を膝のあたりに埋めた。嗚咽が聞こえた。
いつ声をかけたら良いのか分からなくて、目のやり場がなくて何分間も僕は黙っていた。
変わらないはずなのに話を聞く前と全然違う風に見える星を眺めたり、のんきに寝ている安部さんを見たりしていた。
僕も寝ていたらどれだけ気楽だったことか。だけれどもこれは聞かなければならない話だったような気もする。
やがてその声が治まってきた。先輩は顔を上げると入念にハンカチで拭う。それからビニール袋から缶を取り出して開ける。
暗くて見えないが、それは仕事から帰ってきた父親が愚痴を言いながら喉に流し込むもののようにに見えた。恐る恐る尋ねる。
「それってビールですか」
悪びれもせずに頷く先輩。
「叔母さんって甘いからね。酒やタバコぐらいで目くじら立てたりしないのよ」
いまさらこの人に説教をするつもりもない。
じっと飲酒している様子を見つめていると先輩は突然僕の方を向いた。
「君も飲んでみたらどう?」
思わぬ誘いにちょっと黙ってから返事をする。
「間接キスじゃないですか」
言った後にしまったと思ったがもう遅い。先輩は僕の失言を聞き逃さずに笑う。
「おかしいぐらい純情なのね」
こんなにおちょくられては飲まない訳にはいかない。先輩から缶ビールをひったくって一口飲む。先輩が僕の顔を覗き込んでくる。
「美味しい?」
「なんか薬品みたいな味がしますね」
恐らく僕は顔を歪めていただろう。これならコーラやメロンソーダを飲んだほうがよっぽど良い。タバコと同じだ。どうしてこんなものを大人は好むのだろうか。
嫌になった僕が缶ビールを渡すと、先輩は半ば無理やり残りを一気飲みした。お酒を飲むと陽気になると聞いたことがある。
だけど一杯ぐらいでは効果がないのだろうか、先輩は飲み終えた後に少し嗚咽していた。
それでも気を取り直すように
「もう帰りましょう。一緒に」
と僕を促す。頷き安部さんを起こそうとして体を優しく揺する。
「もう少し寝かせて~」
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