水の流れるところ

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 それからというもの、時々男が現れるようになった。それは決まって水のある場所で、鏡の中だった。いつも現れるわけではなく、そのからくりはよくわからなかった。現実的にはあり得ないことだったが、不思議と千晃はこの現象を素直に受け入れた。謎も謎のまま、原因について特に追究することもなかった。

 色々と試した結果、声は届かないことがわかった。触れ合うこともできなかった。向こうが恐る恐る手を伸ばして鏡に触れてきたので、自分も同じことをしてみたのだが、冷たい鏡の感触に当たるだけで、何も変化はなかったのだ。

 しかも、鏡で向かい合う時間はいつも短かった。お互いの意志に関係なく、突然どちらかが消える。これは千晃の予想だが、第三者の介入や部屋の環境が変わると(水を止める、ドアが開く、電気が点くなど)、消えてしまうのではないかと思った。

 ある日、相手の男がいいことを思いついたとでも言いたそうな顔でその場を離れたことがあった。浴室のドアから出ていくのが見えた。消えてしまうのはないかと思ったが、なぜかその時はつながったままだった。無人になった浴室を眺めていると。しばらくして男が何かを手にして戻ってきた。手にしていたのはノートとペンだった。何かをサラサラと書いてこちらに見せた。

『九条さんだよね?』

 驚いた。なんで、自分の名前を知っているのか。病院の当直室に1人でいた千晃は、とっさにその辺にあった紙とペンをつかんで返事を書いた。

『なんで知ってる?』

 すると、男は笑って自分の胸元を指してから、千晃へと指を向けた。その仕草で、ああ、と納得する。千晃の胸元には白衣の上からネームプレートが付けてある。そこには千晃の顔写真と共に、九条千晃、と読みやすい大きな文字で名前が記載されていた。

 そこから少し筆談が続いた。この日は珍しくつながる時間が長かった。そのおかげで千晃は相手の男の素性を少しだが知ることができた。

 彼の名前が藍沢誉だということ。歳は千晃より2つ下の27歳。東京に住んでいること。一人暮らし。飲食業勤務だが夜のシフトが多い。店長を任されている。節約の目的もあって自炊している。筆談なので多くは語れなかったが、彼の基本的な情報を知るには十分だった。

 それからは、顔を合わせる際に筆談するのが当たり前になった。いつでも対応できるように、メモ帳とペンを常に持ち歩くようになった。2人が会えるタイミングや消えるタイミングは相変わらず不規則で、しかもほとんどが数分だった。そのため、いつも必ず筆談ができたわけではなかったし、どのくらいの時間2人が向き合えるのかもその時々で違った。

 会える回数が増えるにつれて、なんとなく気づいたのは。あの男、藍沢誉と会えるのは、例の千晃の発作が起きた時や、そこまではいかなくとも精神的に不安定な時が多かった。そして、そんな時に誉に会えて会話を交わした後は、いつも心が軽くなった。それに気づいてからは、自分の気分が落ちている時に、誉と会えることを自然に期待している自分がいた。

 こうして唐突に始まった非日常的な出来事は、時間が経つにつれ、日常的なものとして千晃の生活に完全に定着していった。
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