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あ、いた
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この休憩室で千晃に素性を明かしてから1週間後。店のマネージャーに辞職を申し入れた。小さな一歩だが、ここでしか生きていけないと思っていた場所を離れることにしたのだ。かなりびっくりされたが、マネージャーは誉を引き止めることなく、その申し入れを受けた。よくよく話を聞くと、嫁に浮気を疑われ出したらしく、誉との関係を精算する良いチャンスだと考えたらしい。
誉としても未練などあるわけもなかったので、特に何も思わなかった。ただ、最後の勤務日までは、辞職することを絶対に他のスタッフには言わないで欲しいと念を押した。特にあのホストには。ごねられたりしても面倒だからだ。
マンションもこれからのことを考えて、ランクの低い、質素なアパートへと引っ越しを決めた。
そうして少しずつ準備をする過程で、こんな自分でも、何か人の役に立てるようなことはできないだろうかと考え始めるようになった。今までは生きることに必死で、人のために何かしようなんて思いつきもしなかった。でも、変わりたい。千晃のように。人を救うなんて大層なことは無理かもしれないけど。そんな風に考え始めていたある日、千晃の勤める病院に出向いたことがあった。
会いに行ったというよりは、たまたま病院の前を通って、千晃の勤務する病院だと気づき、好奇心からどんな職場なのか見てみたくなっただけだった。
会えるとは期待していなかったのだが。
『九条せんせーい!!』
大きな玄関ロビーで、千晃を呼ぶ子供の大きな声が聞こえてきた。近くにいるのかと思わずきょろきょろと辺りを見回してみると。
あ、いた。
誉からがいる場所とは反対側のロビーの片隅で。勢いよく走ってきた子供にぶつかるように抱き付かれる千晃がいた。しゃがみこんで子供に視線を合わせ、優しい笑顔で話しかけている。そっと子供の頭を撫でていた。
なんか……いいな。
どこか緊張と慌ただしさが漂うロビーで、千晃とその子供の周りだけが温かい空気で覆われていた。子供が完全に千晃に心を許しているその姿に、千晃に対して尊敬にも似た感情が生まれた。きっと本当に頼りになる、良い先生なのだろうな、と思った。
傍にいた子供の母親が、何度もお辞儀をしながら挨拶をしていた。千晃は笑顔でそれに応えている。
自分も。あんな風にだれかを笑顔にできる仕事をしたい。そう思った。
『こんにちは』
突然に後ろから声をかけられて振り向くと、白衣とは別の制服を着た女性が立っていた。
『こちらは初めてですか? 何かお手伝いできることはありますか?』
そう言われて、自分がロビーに入ったところで、ぼけっと立っていたのを見られていたんだなと気づく。
『いや、大丈夫です。ありがとうございます』
『そうですか。何かありましたらお声をおかけくださいね』
笑顔で答えて、その女性は離れていった。診察受付のパネル操作に困っているお年寄りの元へと足早に近づいていく。
あれって……医療事務の人?
総合受付と書いてあるカウンターの中を眺める。さっきの女性と同じ制服を着たスタッフたちが忙しそうに動き回っている。女性がほとんどだったが、男性職員もちらほらといるようだった。医者になるのは無理だけど。医療事務員だったら、頑張ればなれるかもしれない。
それから、誉はすぐに医療事務について調べ、資格を取るための通信講座にも申し込んだ。病院に行ったことも、医療事務員を目指していることも千晃には黙っていた。単に恥ずかしかったのもあるし、話をしたら千晃が色々と手を貸してくれようとするだろうなと思ったからだった。自分の手で、自分の力でやれるところまで挑戦したかった。
誉としても未練などあるわけもなかったので、特に何も思わなかった。ただ、最後の勤務日までは、辞職することを絶対に他のスタッフには言わないで欲しいと念を押した。特にあのホストには。ごねられたりしても面倒だからだ。
マンションもこれからのことを考えて、ランクの低い、質素なアパートへと引っ越しを決めた。
そうして少しずつ準備をする過程で、こんな自分でも、何か人の役に立てるようなことはできないだろうかと考え始めるようになった。今までは生きることに必死で、人のために何かしようなんて思いつきもしなかった。でも、変わりたい。千晃のように。人を救うなんて大層なことは無理かもしれないけど。そんな風に考え始めていたある日、千晃の勤める病院に出向いたことがあった。
会いに行ったというよりは、たまたま病院の前を通って、千晃の勤務する病院だと気づき、好奇心からどんな職場なのか見てみたくなっただけだった。
会えるとは期待していなかったのだが。
『九条せんせーい!!』
大きな玄関ロビーで、千晃を呼ぶ子供の大きな声が聞こえてきた。近くにいるのかと思わずきょろきょろと辺りを見回してみると。
あ、いた。
誉からがいる場所とは反対側のロビーの片隅で。勢いよく走ってきた子供にぶつかるように抱き付かれる千晃がいた。しゃがみこんで子供に視線を合わせ、優しい笑顔で話しかけている。そっと子供の頭を撫でていた。
なんか……いいな。
どこか緊張と慌ただしさが漂うロビーで、千晃とその子供の周りだけが温かい空気で覆われていた。子供が完全に千晃に心を許しているその姿に、千晃に対して尊敬にも似た感情が生まれた。きっと本当に頼りになる、良い先生なのだろうな、と思った。
傍にいた子供の母親が、何度もお辞儀をしながら挨拶をしていた。千晃は笑顔でそれに応えている。
自分も。あんな風にだれかを笑顔にできる仕事をしたい。そう思った。
『こんにちは』
突然に後ろから声をかけられて振り向くと、白衣とは別の制服を着た女性が立っていた。
『こちらは初めてですか? 何かお手伝いできることはありますか?』
そう言われて、自分がロビーに入ったところで、ぼけっと立っていたのを見られていたんだなと気づく。
『いや、大丈夫です。ありがとうございます』
『そうですか。何かありましたらお声をおかけくださいね』
笑顔で答えて、その女性は離れていった。診察受付のパネル操作に困っているお年寄りの元へと足早に近づいていく。
あれって……医療事務の人?
総合受付と書いてあるカウンターの中を眺める。さっきの女性と同じ制服を着たスタッフたちが忙しそうに動き回っている。女性がほとんどだったが、男性職員もちらほらといるようだった。医者になるのは無理だけど。医療事務員だったら、頑張ればなれるかもしれない。
それから、誉はすぐに医療事務について調べ、資格を取るための通信講座にも申し込んだ。病院に行ったことも、医療事務員を目指していることも千晃には黙っていた。単に恥ずかしかったのもあるし、話をしたら千晃が色々と手を貸してくれようとするだろうなと思ったからだった。自分の手で、自分の力でやれるところまで挑戦したかった。
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