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2 帝都一の色男
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◇◇◇
――こんな白昼に外を歩くのは、久しぶりだ。
鷹保は、むしゃくしゃしながら銀座を歩いていた。
鷹保が街を歩くのは、大抵夜である。それも、どこかの令嬢とともに、蠱惑的な笑みを浮かべ歩くのが彼の常だ。
しかし今日は、昼間から馬車も出さずに歩いている。
時折鷹保がこうして昼の街を歩くのは、決まって兄からの手紙が来た時だ。
――駆け落ちなどしたくせに、どうして私に構うんだ。
鷹保は先程の、執務室での出来事を思い出していた。
鷹保は自らが主催する夜会の招待客リストとにらめっこしていた。
夜会といえば聞こえはいいが、その実、退屈な『政治的駆け引き』と『女遊び』だ。
だが、鷹保は誰とも恋に落ちるつもりはなかった。
――いずれ自分は決められた家の者と結婚し、父の跡を継ぐのだ。
しかし、帝都の令嬢たちは鷹保を放っておなかい。公爵という高い身分でありながら、中條家の子息である鷹保は珍しく容姿が整っていると、帝都中の淑女が騒ぎ立てるのだ。
実際、令嬢たちは鷹保に一夜の相手をしてもらおうと、彼の元にやって来る。鷹保は、それをうまく躱して飄々と生きてきたが、ある時それを新聞社が面白おかしく『一夜毎に乙女の願いを叶える色男』など報じ始めた。
すると、帝都中の淑女が鷹保に抱かれたいと殺到する。鷹保は、帝都が作り出した“中條鷹保“という人物を演じて生きているのだ。
――爵位など、なければいい。兄もまた、それを望んだだけなのに。
そう思いながら次回の夜会にはあそこの娘を入れてやろうとか、機会が均等になるように割り振っていた最中だった。
コンコン、と聞き慣れたノックの音がした。
「入れ」
鷹保が静かに言う。
「鷹保様、兄上様よりお手紙が――」
部屋に入ってきたのは18の頃から鷹保に従っている執事のじいやだ。
鷹保は『兄』という言葉が耳に入るやいなや、眉間に深い皺を寄せた。
「いらん。捨てておけ」
「しかし……」
じいやはためらうように手紙を胸元で握る。
「捨てろ」
鷹保は顔を上げ、じいやに刺すような視線を向けた。じいやは困惑したように、もごもごと口元を動かした。
「ですが……」
「捨てろと言っているんだ!」
鷹保は立ち上がり、じいやから手紙を奪い取る。そのまま、中身も読まずに封筒ごと丸めてくずかごへ放った。
「少し出てくる」
鷹保はそう言うと、そのまま執務室の扉を開く。
「ぼっちゃん……」
じいやの声が背後から聞こえたような気がしたが、鷹保は気にせず執務室の扉を大きな音を立てて閉めた。
今更、兄のことにどうこう言うつもりはない。
しかし、異国人と駆け落ちした上に自分に長男という座を押しつけ、放っておけばいいのにこうして手紙をよこしてくる。
その度に惨めな気持ちになり、腹が立つ。
昼の銀座は、夜のネオンの輝きはない。代わりに人々が忙しく歩き回っていて、馬車も車通りも多い。
――あまり好きではないな。
鷹保はそう思いながら、馴染みの店に向かう途中だった。
「もうこの店には来ないよっ!」
いつもは静かな客亭、宝華亭から男性の怒号が聞こえる。
――珍しいな。揉め事か?
色ごとはあっても揉め事はない。それが華宝亭の売りだったはずだ。
鷹保は気になって、宝華亭の引き戸をガラガラと開けた。
入り口には般若のような形相の財前侯爵と、涙目で縋る宝華亭の女将がいた。
二人は鷹保が来たことには気づいていないようで、「二度と来ない」「そんなこと言わないで」と押し問答をしている。失礼だなと鼻で笑った。
鷹保は女中の中に、他とは違う装いの女がいることに気づいた。
彼女は酸っぱいものを飲み込んだような顔をして、事の成り行きを見守っている。
「財前侯、どうした?」
自分の隣を財前が通りすぎようとして、流石に失礼だろうと声をかけた。
「た、鷹保様!」
財前はハッとすると、急に笑みを浮かべて両手でごまをする。
「この宿は泊まらない方がいいですよ」
耳元でそう囁かれた。心底気持ちが悪い。
「鷹保様、なんとお見苦しいところを、失礼いたしました。すぐに最上級のお部屋を――」
言いかけた女将を、鷹保が遮る。
「いや、いい。通りまで声が聞こえて、珍しいと思っただけだ。揉め事か?」
「ああ、鷹保様! 実はですね、あの女が私に手を上げまして、この客亭はどうなっているんだと――」
隣で財前がニヤニヤと喋る。気持ちが悪い。どっか行け。
そう思いながら財前が指差した方に視線をやる。先程の若い女性だ。顔が青ざめており、今にも倒れそうだ。
――財前に向かって、手を上げた、か。
「面白い」
自然と口角が上がった。この客亭は財前がいなければ経営が成り立たないという。財前は金に物を言わせ、裏では横暴なことを色々しているであろうことは見当が付く。
太口の客に手を上げた、彼女は強かだ。
もう一度彼女を見た。
――あの青い目。まさか……っ!
鷹保は一度目を見開き、それから女将に視線を移す。
「女将、その女、いくらだ」
途端に、女将が狼狽えた。
「鷹保様、そういうのはうちは――」
「では言い方を変えよう。その女、お給金はいくらだ?」
「ですから……」
煮えきらない女将にしびれを切らした鷹保は、「まあいい」と、懐に手をやる。
「その女、私に譲れ!」
鷹保がそう言うと同時に、手を掲げる。彼の手に握られていたのは、大量の札束だった。
天に向かって投げる。女将も財前も、それを見上げ――
「それはあたしんだ! 拾ったら持ってきな!」
「こ、これは……本物だ……」
宙を舞う札に紛れて、鷹保は財前を叩いたという強かな女に手を伸ばした。
「おいで、おひいさん」
◇◇◇
ハナは奥の座敷から、財前が去っていった後を追いかける。客亭の入口で追いつくと、財前のすぐ後ろに女将がいて、必死に彼を引き止めているところだった。
(どうしよう、私、本当にとんでもないことを――)
ハナは頭から血の気が引いていくのを感じながらも、謝らなくてはとその時を見計らう。
しかし、二人の押し問答は終わらない。もうダメだとハナは下唇を噛んだ。
その時、ガラガラと引き戸が開いた。新たな客だ。けれど、女将は財前の対処に必死で、気がついていない。
(どうしよう、お客様が……)
お客様に何か言わなくては。そう思い、扉の前に立つ人物を見て、目を見張った。
見たこともないような美男子だった。
細身の身体にぴったりとした、柔らかい輝きを放つ焦茶の背広。
頭に載せているものは”シルクハット”という帽子なのだと、聞いたことがある。
その下には、柔らかく癖のある黒髪。二重まぶたの奥には、色素の薄い澄んだ茶色い瞳。筋の通った鼻。柔らかく微笑む口元。
(恰好いい殿方……)
思わず見惚れてしまい、慌てて目を逸らした。財前と女将の方へ、視線を戻したのだ。
二人はまだ押し問答をしているが、やがて「帰る、二度と来ない」と一点張りの財前は戸口まで達した。
美男子の隣に並んだ財前は、冬に向けてずんぐりと脂肪を蓄えた熊のようだ。
「財前侯、どうした?」
美男子が野良熊に不愉快そうに声をかけた。
「た、鷹保様!」
財前が急に背筋をしゃんとして、手でごまをする。美男子の耳元で何かを言うと、その怜悧な顔が険しくなった。
するとすかさず、女将が先程までとは打って変わり笑顔で美男子に話しかける。
「鷹保様、なんとお見苦しいところを、失礼いたしました。すぐに最上級のお部屋を――」
「いや、いい。通りまで声が聞こえて、珍しいと思っただけだ。揉め事か?」
鷹保と呼ばれた美男子が、女将に意味深な笑みを向ける。すると鷹保の視界に全く入っていないにもかかわらず、財前が大きな声を上げた。
「ああ、鷹保様! 実はですね、あの女が私に手を上げまして、この客亭はどうなっているんだと――」
それで、また眉間に深く皺を刻んだ鷹保は、ちらりと財前を見る。それから、彼の指の先を視線で辿る。
目が合いそうになって、ハナはわざと視線を逸らした。けれど、鷹保の視線がチクチクと刺さる。取り返しのつかないことをしてしまったことを改めて思い知らされ、顔から血の気が引いていく。
けれど、鷹保が次に放った言葉は意外なものだった。
「面白い」
(え……?)
ハナは思わず鷹保を見た。ニヤリと笑う彼と、一瞬目が合った。鷹保はすぐに女将の方に視線を戻す。
「女将、その女、いくらだ」
女将は狼狽えた。
「鷹保様、そういうのはうちは――」
「では言い方を変えよう。その女、お給金はいくらだ?」
「ですから……」
「まあいい」
鷹保はそう言うと、もう一度ハナの方を見た。今度はバッチリと視線が合い、合ったついでに彼の口元がかすかに弧を描く。
ハナは訳が分からず、首をかしげた。
「その女、私に譲れ!」
鷹保は声を張り上げた。同時に、手を掲げる。その手には、大量の札束が握られていた。鷹保はそれを一瞬たりとも躊躇わず、天に向かって投げる。
女将も財前も、それを見上げ――
「それはあたしんだ! 拾ったら持ってきな!」
「こ、これは……本物だ……」
宙を舞う札に紛れて、鷹保がハナの目の前に現れた。
「おいで、おひいさん」
ハナの前に伸ばされた手。それは当惑したハナの心に伸ばされた、唯一の答えのようだった。
(助けて、くれたの……?)
その手を取るのを躊躇っていると、鷹保は優しい笑みをハナに向けた。
「キミは私に買われたんだ。こっちだよ、おひいさん」
(おひいさん……私が?)
「ほら、おいで」
ハナは導かれるように、鷹保の手を取る。
鷹保は満足そうに微笑み、ちらりと財前の方を見た。
「財前侯。私はね、レディに対してはいかなる時も紳士的であるべきだと思うが」
「なっ……!」
財前が顔をしかめた。
すると鷹保はくるりと身体の向きを変え――
「走るよ!」
――そう言って、ハナの手をぎゅっと掴むと宝華亭から駆け出した。
どのくらい走ったのだろう。帝都のどこかの細い路地で、鷹保は急に速度を落とした。
「ここまで来れば、もう大丈夫だろう」
ハナは肩で息をしながら、繋がれたままの手を頼りにふらふらと鷹保について歩く。
「あの……ありがとう、ございました……」
息を切らしながら礼を伝えると、鷹保が立ち止まって振り返る。かなり走ったにも関わらず、彼はいたずらが成功したような、満足そうな笑みを浮かべていた。
「その履物で私と同じ速度で走れるなんて、おひいさんの脚は屈強だねえ」
ハナは自分の足元を見た。裸足に草履。帝都にそぐわない恰好に急に恥ずかしくなって、ハナはそのまま顔を上げられなくなった。
鷹保はククっと喉を鳴らして笑うと、それからどこかに向かって声を上げた。
「さて……じいや、いるんだろう?」
「ぼっちゃん、こちらに」
声の方を振り向くと、黒の洋装に白い手袋をはめた、年配の男性が立っていた。
「馬車は、あちらの通りに停めてあります」
「ああ」
それだけ言うと、鷹保はハナの手を引いて歩き出す。ハナはされるがまま、鷹保について歩いた。
帝都についた頃は怖いと思っていた馬車は、乗ってみると揺れが心地よかった。敷布団と掛け布団を10枚重ねたような柔らかい座席に腰を掛けると、カタカタという音と共に馬車が動き出す。
「わぁ……!」
思わず声が漏れた。田舎者であることが丸出しで恥ずかしい。ちらりと隣に座る鷹保を見ると、黙ったまま窓の外をじっと見ている。
ハナはほっと一息ついて、馬車の揺れに身を任せた。
馬車を降りたのは、立派なお屋敷の前だった。宝華亭とはまた違う、西洋風の作りにハナは立ち尽くした。
(帝都のお屋敷って、こんなに素敵なのね……)
「おひいさん、こっちだよ」
鷹保はハナの手を取った。その凄さに圧倒され言葉を失っていたハナは、屋敷の中へと導かれてゆく。
入り口を入ると、目の前に現れた大きな階段をどんどん上る。ハナは引かれるまま、鷹保の後に続いた。
赤い絨毯の敷かれた廊下を進み、西洋風の戸を開ける。ハナが入ったことを確認した鷹保は、ハナの背後でバタンと戸を閉めた。
「さて……」
ハナは部屋を見回した。
大きな机、立派な革張りの横長の腰掛け、それに壁は一面が全て書棚になっている。
唖然としていると、鷹保はもう一度ハナの手を引いた。そして、そのまま革張りの腰掛けにハナを誘う。
ハナが腰掛けたのを確認すると、鷹保は突然、ハナを押し倒した。
(え……?)
うなじに革の冷たさを感じた。同時に、目の前に鷹保が影を落とす。
「楽しませてもらおうか、遊女とやら」
鷹保はハナの両手を右手一つででがっちり押さえた。野獣のような瞳で、ハナをじっと見つめる。その口元は、妖しく弧を描く。
ハナの背を、冷や汗が伝った。
(私、もしかして……騙されたの?)
左手で頬をなぞられ、ぞわりと鳥肌が立つ。しかし手は押さえつけられ、膝の上には鷹保が乗っている。動けない。
それでも、ハナは身を捩らせようとした。すると鷹保が色っぽく囁く。
「逃げられないよ、おひいさん」
恐怖に怯え、言葉が出ない。
鷹保は強引にハナの着物の襟元に手をかけた。鷹保の指が、するりとハナの肌を這う。
「嫌……」
ハナはぎゅっと目をつぶった。心臓がドクドクと嫌な音を立てる。涙がこぼれそうだ。
鷹保の手は、襟元を徐々に広げていく。
「やめて……」
蚊の鳴くような声しか出なかった。けれど鷹保はそこでぱっと手を離した。
驚き目を開くと、鷹保はククっと喉を鳴らして笑っていた。
「お戯れが過ぎたかな、おひいさん」
(え? ……私、からかわれただけ?)
「それとも、もっとして欲しかったのかい?」
鷹保は口角をニッと上げ、ハナの唇に人差し指でそっと触れる。
「そ、そんな訳、ありません!」
真っ赤になってふいっと顔を横に向けると、鷹保はまたククっと笑った。
「おひいさんは、面白いねえ」
鷹保はクスクス笑いながら、ハナの上から退き、横にある腰掛けに座った。ハナも乱れた着物を直しながら、身体を起こして立ち上がった。
「おっと、警戒してるのかい?」
ハナが鷹保から距離を取るとすぐに、鷹保は面白そうにそう言った。
「だって、――」
思わず言い訳しようとすると、鷹保がそれを遮る。
「寂しいねえ、おひいさん」
鷹保の上目使いに、ハナの心臓がドキリと高鳴った。
「も、もう、からかわないでください! それに、おひいさんって何なんですか?! 私には、ハナっていう名前が――」
「女性は皆、おひいさんだよ」
鷹保はどこか遠くの方を見てそう言う。その横顔に、ハナは言葉を失った。
(どうして、そんなに寂しそうな顔……)
すると突然、コンコンと扉をノックする音がする。
「ぼっちゃん。お部屋の準備ができました」
「分かった」
鷹保が答えると、ガチャリと扉が開いた。
「おひいさん、お前は今日からここの女中だ。いいね」
「え……?」
ハナの疑問は、目の前の老紳士によってかき消された。
「こちらへ。使用人の生活部屋に案内致します」
「あの、えっと……」
「行け。それとも、私と共に夜を過ごしたいか?」
振り返ったハナに、鷹保が色気をまとった笑みを向ける。
「い、いえ!」
ハナは慌てて前に向き直ると、老紳士について移動した。
――こんな白昼に外を歩くのは、久しぶりだ。
鷹保は、むしゃくしゃしながら銀座を歩いていた。
鷹保が街を歩くのは、大抵夜である。それも、どこかの令嬢とともに、蠱惑的な笑みを浮かべ歩くのが彼の常だ。
しかし今日は、昼間から馬車も出さずに歩いている。
時折鷹保がこうして昼の街を歩くのは、決まって兄からの手紙が来た時だ。
――駆け落ちなどしたくせに、どうして私に構うんだ。
鷹保は先程の、執務室での出来事を思い出していた。
鷹保は自らが主催する夜会の招待客リストとにらめっこしていた。
夜会といえば聞こえはいいが、その実、退屈な『政治的駆け引き』と『女遊び』だ。
だが、鷹保は誰とも恋に落ちるつもりはなかった。
――いずれ自分は決められた家の者と結婚し、父の跡を継ぐのだ。
しかし、帝都の令嬢たちは鷹保を放っておなかい。公爵という高い身分でありながら、中條家の子息である鷹保は珍しく容姿が整っていると、帝都中の淑女が騒ぎ立てるのだ。
実際、令嬢たちは鷹保に一夜の相手をしてもらおうと、彼の元にやって来る。鷹保は、それをうまく躱して飄々と生きてきたが、ある時それを新聞社が面白おかしく『一夜毎に乙女の願いを叶える色男』など報じ始めた。
すると、帝都中の淑女が鷹保に抱かれたいと殺到する。鷹保は、帝都が作り出した“中條鷹保“という人物を演じて生きているのだ。
――爵位など、なければいい。兄もまた、それを望んだだけなのに。
そう思いながら次回の夜会にはあそこの娘を入れてやろうとか、機会が均等になるように割り振っていた最中だった。
コンコン、と聞き慣れたノックの音がした。
「入れ」
鷹保が静かに言う。
「鷹保様、兄上様よりお手紙が――」
部屋に入ってきたのは18の頃から鷹保に従っている執事のじいやだ。
鷹保は『兄』という言葉が耳に入るやいなや、眉間に深い皺を寄せた。
「いらん。捨てておけ」
「しかし……」
じいやはためらうように手紙を胸元で握る。
「捨てろ」
鷹保は顔を上げ、じいやに刺すような視線を向けた。じいやは困惑したように、もごもごと口元を動かした。
「ですが……」
「捨てろと言っているんだ!」
鷹保は立ち上がり、じいやから手紙を奪い取る。そのまま、中身も読まずに封筒ごと丸めてくずかごへ放った。
「少し出てくる」
鷹保はそう言うと、そのまま執務室の扉を開く。
「ぼっちゃん……」
じいやの声が背後から聞こえたような気がしたが、鷹保は気にせず執務室の扉を大きな音を立てて閉めた。
今更、兄のことにどうこう言うつもりはない。
しかし、異国人と駆け落ちした上に自分に長男という座を押しつけ、放っておけばいいのにこうして手紙をよこしてくる。
その度に惨めな気持ちになり、腹が立つ。
昼の銀座は、夜のネオンの輝きはない。代わりに人々が忙しく歩き回っていて、馬車も車通りも多い。
――あまり好きではないな。
鷹保はそう思いながら、馴染みの店に向かう途中だった。
「もうこの店には来ないよっ!」
いつもは静かな客亭、宝華亭から男性の怒号が聞こえる。
――珍しいな。揉め事か?
色ごとはあっても揉め事はない。それが華宝亭の売りだったはずだ。
鷹保は気になって、宝華亭の引き戸をガラガラと開けた。
入り口には般若のような形相の財前侯爵と、涙目で縋る宝華亭の女将がいた。
二人は鷹保が来たことには気づいていないようで、「二度と来ない」「そんなこと言わないで」と押し問答をしている。失礼だなと鼻で笑った。
鷹保は女中の中に、他とは違う装いの女がいることに気づいた。
彼女は酸っぱいものを飲み込んだような顔をして、事の成り行きを見守っている。
「財前侯、どうした?」
自分の隣を財前が通りすぎようとして、流石に失礼だろうと声をかけた。
「た、鷹保様!」
財前はハッとすると、急に笑みを浮かべて両手でごまをする。
「この宿は泊まらない方がいいですよ」
耳元でそう囁かれた。心底気持ちが悪い。
「鷹保様、なんとお見苦しいところを、失礼いたしました。すぐに最上級のお部屋を――」
言いかけた女将を、鷹保が遮る。
「いや、いい。通りまで声が聞こえて、珍しいと思っただけだ。揉め事か?」
「ああ、鷹保様! 実はですね、あの女が私に手を上げまして、この客亭はどうなっているんだと――」
隣で財前がニヤニヤと喋る。気持ちが悪い。どっか行け。
そう思いながら財前が指差した方に視線をやる。先程の若い女性だ。顔が青ざめており、今にも倒れそうだ。
――財前に向かって、手を上げた、か。
「面白い」
自然と口角が上がった。この客亭は財前がいなければ経営が成り立たないという。財前は金に物を言わせ、裏では横暴なことを色々しているであろうことは見当が付く。
太口の客に手を上げた、彼女は強かだ。
もう一度彼女を見た。
――あの青い目。まさか……っ!
鷹保は一度目を見開き、それから女将に視線を移す。
「女将、その女、いくらだ」
途端に、女将が狼狽えた。
「鷹保様、そういうのはうちは――」
「では言い方を変えよう。その女、お給金はいくらだ?」
「ですから……」
煮えきらない女将にしびれを切らした鷹保は、「まあいい」と、懐に手をやる。
「その女、私に譲れ!」
鷹保がそう言うと同時に、手を掲げる。彼の手に握られていたのは、大量の札束だった。
天に向かって投げる。女将も財前も、それを見上げ――
「それはあたしんだ! 拾ったら持ってきな!」
「こ、これは……本物だ……」
宙を舞う札に紛れて、鷹保は財前を叩いたという強かな女に手を伸ばした。
「おいで、おひいさん」
◇◇◇
ハナは奥の座敷から、財前が去っていった後を追いかける。客亭の入口で追いつくと、財前のすぐ後ろに女将がいて、必死に彼を引き止めているところだった。
(どうしよう、私、本当にとんでもないことを――)
ハナは頭から血の気が引いていくのを感じながらも、謝らなくてはとその時を見計らう。
しかし、二人の押し問答は終わらない。もうダメだとハナは下唇を噛んだ。
その時、ガラガラと引き戸が開いた。新たな客だ。けれど、女将は財前の対処に必死で、気がついていない。
(どうしよう、お客様が……)
お客様に何か言わなくては。そう思い、扉の前に立つ人物を見て、目を見張った。
見たこともないような美男子だった。
細身の身体にぴったりとした、柔らかい輝きを放つ焦茶の背広。
頭に載せているものは”シルクハット”という帽子なのだと、聞いたことがある。
その下には、柔らかく癖のある黒髪。二重まぶたの奥には、色素の薄い澄んだ茶色い瞳。筋の通った鼻。柔らかく微笑む口元。
(恰好いい殿方……)
思わず見惚れてしまい、慌てて目を逸らした。財前と女将の方へ、視線を戻したのだ。
二人はまだ押し問答をしているが、やがて「帰る、二度と来ない」と一点張りの財前は戸口まで達した。
美男子の隣に並んだ財前は、冬に向けてずんぐりと脂肪を蓄えた熊のようだ。
「財前侯、どうした?」
美男子が野良熊に不愉快そうに声をかけた。
「た、鷹保様!」
財前が急に背筋をしゃんとして、手でごまをする。美男子の耳元で何かを言うと、その怜悧な顔が険しくなった。
するとすかさず、女将が先程までとは打って変わり笑顔で美男子に話しかける。
「鷹保様、なんとお見苦しいところを、失礼いたしました。すぐに最上級のお部屋を――」
「いや、いい。通りまで声が聞こえて、珍しいと思っただけだ。揉め事か?」
鷹保と呼ばれた美男子が、女将に意味深な笑みを向ける。すると鷹保の視界に全く入っていないにもかかわらず、財前が大きな声を上げた。
「ああ、鷹保様! 実はですね、あの女が私に手を上げまして、この客亭はどうなっているんだと――」
それで、また眉間に深く皺を刻んだ鷹保は、ちらりと財前を見る。それから、彼の指の先を視線で辿る。
目が合いそうになって、ハナはわざと視線を逸らした。けれど、鷹保の視線がチクチクと刺さる。取り返しのつかないことをしてしまったことを改めて思い知らされ、顔から血の気が引いていく。
けれど、鷹保が次に放った言葉は意外なものだった。
「面白い」
(え……?)
ハナは思わず鷹保を見た。ニヤリと笑う彼と、一瞬目が合った。鷹保はすぐに女将の方に視線を戻す。
「女将、その女、いくらだ」
女将は狼狽えた。
「鷹保様、そういうのはうちは――」
「では言い方を変えよう。その女、お給金はいくらだ?」
「ですから……」
「まあいい」
鷹保はそう言うと、もう一度ハナの方を見た。今度はバッチリと視線が合い、合ったついでに彼の口元がかすかに弧を描く。
ハナは訳が分からず、首をかしげた。
「その女、私に譲れ!」
鷹保は声を張り上げた。同時に、手を掲げる。その手には、大量の札束が握られていた。鷹保はそれを一瞬たりとも躊躇わず、天に向かって投げる。
女将も財前も、それを見上げ――
「それはあたしんだ! 拾ったら持ってきな!」
「こ、これは……本物だ……」
宙を舞う札に紛れて、鷹保がハナの目の前に現れた。
「おいで、おひいさん」
ハナの前に伸ばされた手。それは当惑したハナの心に伸ばされた、唯一の答えのようだった。
(助けて、くれたの……?)
その手を取るのを躊躇っていると、鷹保は優しい笑みをハナに向けた。
「キミは私に買われたんだ。こっちだよ、おひいさん」
(おひいさん……私が?)
「ほら、おいで」
ハナは導かれるように、鷹保の手を取る。
鷹保は満足そうに微笑み、ちらりと財前の方を見た。
「財前侯。私はね、レディに対してはいかなる時も紳士的であるべきだと思うが」
「なっ……!」
財前が顔をしかめた。
すると鷹保はくるりと身体の向きを変え――
「走るよ!」
――そう言って、ハナの手をぎゅっと掴むと宝華亭から駆け出した。
どのくらい走ったのだろう。帝都のどこかの細い路地で、鷹保は急に速度を落とした。
「ここまで来れば、もう大丈夫だろう」
ハナは肩で息をしながら、繋がれたままの手を頼りにふらふらと鷹保について歩く。
「あの……ありがとう、ございました……」
息を切らしながら礼を伝えると、鷹保が立ち止まって振り返る。かなり走ったにも関わらず、彼はいたずらが成功したような、満足そうな笑みを浮かべていた。
「その履物で私と同じ速度で走れるなんて、おひいさんの脚は屈強だねえ」
ハナは自分の足元を見た。裸足に草履。帝都にそぐわない恰好に急に恥ずかしくなって、ハナはそのまま顔を上げられなくなった。
鷹保はククっと喉を鳴らして笑うと、それからどこかに向かって声を上げた。
「さて……じいや、いるんだろう?」
「ぼっちゃん、こちらに」
声の方を振り向くと、黒の洋装に白い手袋をはめた、年配の男性が立っていた。
「馬車は、あちらの通りに停めてあります」
「ああ」
それだけ言うと、鷹保はハナの手を引いて歩き出す。ハナはされるがまま、鷹保について歩いた。
帝都についた頃は怖いと思っていた馬車は、乗ってみると揺れが心地よかった。敷布団と掛け布団を10枚重ねたような柔らかい座席に腰を掛けると、カタカタという音と共に馬車が動き出す。
「わぁ……!」
思わず声が漏れた。田舎者であることが丸出しで恥ずかしい。ちらりと隣に座る鷹保を見ると、黙ったまま窓の外をじっと見ている。
ハナはほっと一息ついて、馬車の揺れに身を任せた。
馬車を降りたのは、立派なお屋敷の前だった。宝華亭とはまた違う、西洋風の作りにハナは立ち尽くした。
(帝都のお屋敷って、こんなに素敵なのね……)
「おひいさん、こっちだよ」
鷹保はハナの手を取った。その凄さに圧倒され言葉を失っていたハナは、屋敷の中へと導かれてゆく。
入り口を入ると、目の前に現れた大きな階段をどんどん上る。ハナは引かれるまま、鷹保の後に続いた。
赤い絨毯の敷かれた廊下を進み、西洋風の戸を開ける。ハナが入ったことを確認した鷹保は、ハナの背後でバタンと戸を閉めた。
「さて……」
ハナは部屋を見回した。
大きな机、立派な革張りの横長の腰掛け、それに壁は一面が全て書棚になっている。
唖然としていると、鷹保はもう一度ハナの手を引いた。そして、そのまま革張りの腰掛けにハナを誘う。
ハナが腰掛けたのを確認すると、鷹保は突然、ハナを押し倒した。
(え……?)
うなじに革の冷たさを感じた。同時に、目の前に鷹保が影を落とす。
「楽しませてもらおうか、遊女とやら」
鷹保はハナの両手を右手一つででがっちり押さえた。野獣のような瞳で、ハナをじっと見つめる。その口元は、妖しく弧を描く。
ハナの背を、冷や汗が伝った。
(私、もしかして……騙されたの?)
左手で頬をなぞられ、ぞわりと鳥肌が立つ。しかし手は押さえつけられ、膝の上には鷹保が乗っている。動けない。
それでも、ハナは身を捩らせようとした。すると鷹保が色っぽく囁く。
「逃げられないよ、おひいさん」
恐怖に怯え、言葉が出ない。
鷹保は強引にハナの着物の襟元に手をかけた。鷹保の指が、するりとハナの肌を這う。
「嫌……」
ハナはぎゅっと目をつぶった。心臓がドクドクと嫌な音を立てる。涙がこぼれそうだ。
鷹保の手は、襟元を徐々に広げていく。
「やめて……」
蚊の鳴くような声しか出なかった。けれど鷹保はそこでぱっと手を離した。
驚き目を開くと、鷹保はククっと喉を鳴らして笑っていた。
「お戯れが過ぎたかな、おひいさん」
(え? ……私、からかわれただけ?)
「それとも、もっとして欲しかったのかい?」
鷹保は口角をニッと上げ、ハナの唇に人差し指でそっと触れる。
「そ、そんな訳、ありません!」
真っ赤になってふいっと顔を横に向けると、鷹保はまたククっと笑った。
「おひいさんは、面白いねえ」
鷹保はクスクス笑いながら、ハナの上から退き、横にある腰掛けに座った。ハナも乱れた着物を直しながら、身体を起こして立ち上がった。
「おっと、警戒してるのかい?」
ハナが鷹保から距離を取るとすぐに、鷹保は面白そうにそう言った。
「だって、――」
思わず言い訳しようとすると、鷹保がそれを遮る。
「寂しいねえ、おひいさん」
鷹保の上目使いに、ハナの心臓がドキリと高鳴った。
「も、もう、からかわないでください! それに、おひいさんって何なんですか?! 私には、ハナっていう名前が――」
「女性は皆、おひいさんだよ」
鷹保はどこか遠くの方を見てそう言う。その横顔に、ハナは言葉を失った。
(どうして、そんなに寂しそうな顔……)
すると突然、コンコンと扉をノックする音がする。
「ぼっちゃん。お部屋の準備ができました」
「分かった」
鷹保が答えると、ガチャリと扉が開いた。
「おひいさん、お前は今日からここの女中だ。いいね」
「え……?」
ハナの疑問は、目の前の老紳士によってかき消された。
「こちらへ。使用人の生活部屋に案内致します」
「あの、えっと……」
「行け。それとも、私と共に夜を過ごしたいか?」
振り返ったハナに、鷹保が色気をまとった笑みを向ける。
「い、いえ!」
ハナは慌てて前に向き直ると、老紳士について移動した。
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